(やってしまった……!)
 恭介は先程の結里の表情を見て深く後悔した。
 愛娘の結里にはなるべく笑っていて欲しい。それなのに、自分がその笑顔を奪ってしまった。
 その事実が恭介の胸に深く刺さったのだ。
(俺は駄目な父親だな。家事、育児、仕事、どれもあまり上手く回らないのは結里のせいじゃないのに……。原因は俺にあるっていうのに……)
 はあっと長大息をつく恭介。
 落ち込んでいてもやることはまだまだ残っている。恭介はゆっくりと立ち上がりキッチンに向かい、夕食の準備を始めた。

 サラダには結里が好きなトマトを入れる。メインは豚肉、キャベツ、にんじんを炒めたもの。味は薄めに調整する。
(栄養バランスを考えて作るって結構難しいな……)
 恭介は全く料理をしないわけではない。しかし雪乃と結婚して以降、料理をする割合は雪乃の方が多かった。もちろん、雪乃が妊娠中や出産直後は恭介が料理をしていた。しかし、結里が一歳になる頃には料理は以前の割合に戻っていたのだ。
 雪乃が亡くなって一ヶ月。ようやく恭介は料理に少し慣れて来た。

 料理が完成し、恭介は二階に上がった結里を呼びに行く。
 しかし結里は泣き疲れた影響なのか、寝室の床でスヤスヤと眠っていた。結里の頬には乾いた涙の跡がある。
「結里……こんなパパでごめんな」
 恭介はそっと結里の頭を撫でる。その後、布団を敷いて結里を寝かせた。
 起こそうかと迷ったが、気持ちよさそうに眠っているのでそのままにしておくことにしたのだ。

「雪乃……」
 恭介は雪乃の仏壇の前でため息をつく。
 遺影の雪乃は生前と変わらない溌剌とした笑みだ。
「俺だって……雪乃に会いたい。もっと側にいて欲しかったよ」
 恭介の目からは一筋の涙が流れた。





ฅ^•ω•^ฅ ฅ^•ω•^ฅ ฅ^•ω•^ฅ





 翌朝。
 どんなに大変で苦しくて(つら)くても、朝はやって来る。
 恭介は隣でスヤスヤと気持ち良さそうな寝息を立てる結里の頭を優しく撫でた。
 結局結里は昨日あのまま眠っていたのだ。

 恭介は身支度をし、一階にある雪乃の仏壇がある部屋へ向かった。
 雪乃が亡くなって以降、恭介は毎朝起きたら雪乃の仏壇に手を合わせているのだ。
 この日もいつもと同じように仏壇のある部屋に入る恭介。
 しかし、部屋に入った瞬間恭介の目は点になった。

 雪乃の仏壇に三毛猫が居座っていたのだ。

「は……!? 猫……!? どこから入って来た!?」
 昨晩、家の戸締りはしっかりした記憶が恭介にははっきりとある。
 どこかのドアや窓が開いていたとは考えにくい。
 一体この三毛猫はどこから入って来たのだろうか。恭介の脳内はその疑問が占めていた。
 三毛猫は恭介を気にした様子はなく、ただ「にゃあ」と鳴いているだけ。
 その後三毛猫は仏壇から下り、恭介の足元に体を擦り付ける。
「お……おう」
 着替えたばかりの恭介のスラックスには三毛猫の毛が付着する。
 その後三毛猫はダイニングへ駆け出した。
「おい、どこに行くんだ?」
 恭介は戸惑いながら三毛猫を追いかける。

 三毛猫はダイニングのテーブルにあったチラシを前足でガシガシと叩いていた。
 三毛猫が叩いている部分にはちょうどスライスチーズが載っている。
 その後三毛猫は冷蔵庫へ向かい「うみゃあ」と鳴く。
 三毛猫はチラシのスライスチーズの部分を叩く動作と冷蔵庫前で「うみゃあ」と鳴くことを繰り返している。
 まるで恭介に何かを要求しているようだ。
「一体何だ?」
 疑問に思ったその時、恭介はハッとする。
(そういや、冷蔵庫にスライスチーズがあったな。雪乃が調子良い時に買ってた残りが)
 恭介は冷蔵庫を開けてスライスチーズを取り出した。
「うわ! 賞味期限今日までだ!」
 すると恭介の隣で三毛猫は「みゃあ」と満足そうに鳴いた。
「まさか……それを教えてくれたのか?」
 恭介は戸惑いつつも恐る恐る三毛猫に問いかけた。
 三毛猫は「にゃあ」と鳴く。頷いたように見えた。
「頷いた……。いやいや、まさか。俺も疲れてるんだな。まるで猫が人の言葉を理解しているみたいじゃないか。そんなことあるわけ……」
 恭介は再び恐る恐る三毛猫に目を向ける。
「なあ、お前……俺が言ってることが分かるのか?」
 すると三毛猫は再び「にゃあ」と鳴き、頷いたように見えた。というか、完全に頷いている。
「右手、いや右前足を挙げてみろ」
 すると三毛猫は右前足を挙げる。
「えっと……ゴロンと一回転」
 三毛猫はゴロンと一回転して「にゃあ」と鳴く。どことなくしたり顔のような気がした。
 その後も恭介はいくつか三毛猫に動作の指示を出す。三毛猫は恭介の指示通りの動作をするのであった。
「やっぱりお前、俺の言葉が分かるのか……!」
 恭介は信じられないものを見るかのように目を見開く。
 猫はしたり顔で「みゃあ」と鳴き、頷いた。

 その時、恭介のスマートフォンのアラームが鳴る。
 画面には、「結里を起こす時間」と表示されていた。
「まずい、もうこんな時間! 結里を起こさないと!」
 そう言った瞬間、三毛猫が二階へ駆け出した。
「いや待ってくれって!」
 恭介は三毛猫を追いかけると同時に結里の元へも向かう。

 三毛猫は恭介と結里の寝室のドアを開けようとしていた。
「何? お前も結里を起こすの手伝ってくれるのか?」
 恭介が冗談っぽく笑うと、三毛猫は「にゃあ」と頷いた。

「結里、朝だぞ。保育園遅れちゃうぞー」
 恭介は優しく結里の体をゆする。
 その隣で三毛猫が「にゃあ」と優しく鳴き、結里の体をポンと叩く。
 そんな三毛猫を見て、恭介は表情を綻ばせた。
 三毛猫は何度か自身の前足で耳を擦るような動作をする。
 その動作に恭介は何となく既視感を抱いた。
(何だろうな、この感覚……? ……って、今は結里を起こすことが優先だ)
 ハッとし、恭介は再び結里に「起きろー」と声をかける。
 すると結里は寝ぼけ眼を擦るながらゆっくりと起き上がった。
「パパー」
 甘えた舌足らずな声の結里。
「おはよう、結里。昨日は怒鳴ってごめんな」
 恭介は結里の頭を撫でた。
「んん……」
 結里はまだ寝ぼけているようだ。
 愛娘のその姿を見て、やはり自分がしっかりしてこの子を守らないとという気持ちになる恭介。
 結里がぼんやりと目を開けた瞬間、彼女は元気な声を出す。
「猫ちゃん!」
 三毛猫の姿に気付いたのだ。
 結里は表情をパアッと明るくして三毛猫に触れる。
 まだ三歳の結里は三毛猫を毛並みとは逆方向に撫で始めた。
 三毛猫は「うみゃあ」とやや複雑そうに鳴いている。
「結里、猫ちゃんも良いけど、朝起きたら何て言うんだ?」
 三毛猫に夢中な結里に恭介は苦笑し、そう話しかける。
「あ……えっと、おはよう!」
「はい、おはよう。よく出来ました」
 恭介は優しく微笑み結里の頭を撫でる。
「で、結里、昨日お風呂に入ってないから、今からお風呂行くぞ。シャワー浴びよう」
「えー! 嫌だ! 結里猫ちゃんと遊びたい!」
 相変わらず三毛猫の毛並みとは真逆に撫でながら抗議する結里。
「お風呂入ったら猫ちゃんいっぱい触って良いから。入ろうな」
「はーい!」
 恭介の提案に結里は表情を輝かせて元気良く手を挙げて返事をしたのである。
 三毛猫は結里から解放され毛繕いをした。
 その際も、前足で耳に触れるような動作を何回かするのであった。





ฅ^•ω•^ฅ ฅ^•ω•^ฅ ฅ^•ω•^ฅ





 結里にシャワーを浴びさせた恭介。
 浴室から出ると、結里の着替えが置いてあった。
(そういや急いでたから結里の着替え、持って来るの忘れてた。でも、一体誰が……?)
 そう思った恭介だが、足元から「にゃあ」という声が聞こえた。
 どうやら三毛猫が結里の着替えを持って来てくれたようだ。
「まさかお前がやってくれたのか……!?」
 恭介が驚いて目を見開くと、三毛猫はしたり顔で「みゃあ」と鳴いて頷いた。
「ありがとう」
 恭介は濡れた手を拭き、三毛猫の頭を撫でた。
「それにしても、よく結里の着替えの場所分かったよな……」
 恭介にとってそれが不思議でならなかった。
 三毛猫は再び前足で耳に触れるような動作をしていた。

 恭介はシャワーから出た結里を着替えさせた後、結里の髪をドライヤーで乾かしていた。
「パパ……」
 髪が乾いた結里は遠慮がちな声だ。
「ん? 結里、どうした?」
「パパ大っ嫌いって言ってごめんなさい」
 結里はシュンとした様子だ。
 恭介は穏やかな表情で結里の頭を撫でる。
「パパも、怒鳴ってごめん。これからは仲良し家族だ」
「うん!」
 結里は満面の笑みで頷いた。
「でもパパ、ママみたいに髪やってくれないの?」
 しかしそこは不満そうな結里だ。
「うーん。パパはやり方分かんないんだよ」
「えー……」
 結里はむくれていた。
 困ったなあと苦笑する恭介。
 その時、三毛猫がヘアゴムを咥えて現れた。
 三毛猫は恭介に椅子を持って来るよう「うみゃあ」と鳴いて要求した。
 恭介がそれを理解するまでには数分かかった。
 三毛猫は椅子に飛び乗り、結里の髪の毛を弄り始める。
「まさか……お前が結里の髪をやるのか?」
 恭介は唖然としている。
 三毛猫は、恭介の言葉に「にゃあ」と鳴いて頷いた。
 三毛猫は結里の髪を器用に編み込んでいる。みるみるうちに、結里がよく雪乃にやってもらっていた髪型になる。

 賞味期限間近のチーズ、結里の着替え、現在の結里の髪型、全てを照らし合わせると、恭介の中にある予想が生まれる。
(まさか……この三毛猫は雪乃……!?)
 目の前にいる三毛猫を凝視する。顔、お腹、足は白く、背中の一部は黒、そして後頭部から首にかけてオレンジっぽい茶色の毛並みの三毛猫だ。
 遺影の雪乃の髪は、オレンジっぽい茶色のショートボブ。三毛猫の頭部の毛色とリンクする。
(それに、この三毛猫、前足で耳を触るような動作をしていた。……雪乃も髪をかき上げる際、耳に触れていたな。雪乃の癖と一致する。雪乃の生まれ変わりってことか……!?)
 恭介の中に期待が生まれた。

「まさか……雪乃なのか……?」
 恭介は恐る恐る、そうであって欲しいと願いを込めて三毛猫に聞いた。
 すると三毛猫は「みゃあ」と満足そうに鳴き、コクリと頷いた。

 恭介の妻、雪乃はフルタイムの猫になったのである。