斉藤恭介、三十二歳。三歳の娘結里と二人暮らし。
「雪乃、俺、結里の父親としてやっていけるか不安だよ……」
恭介は亡き妻、雪乃の仏壇の前で弱音を吐露する。
遺影の雪乃はオレンジっぽい茶髪のショートヘア。溌剌とした笑みを浮かべている。
恭介はふと今までのことを思い出した。
ฅ^•ω•^ฅ ฅ^•ω•^ฅ ฅ^•ω•^ฅ
雪乃は元々恭介や結里同様黒髪だった。しかし結里を妊娠中に髪を染めたのだ。
雪乃曰く、「妊婦や子連れの女性は舐められて、ぶつかりおじさんみたいな変な男性に絡まれやすい。だから少しでも舐められにくそうな髪色に染めた」とのこと。
それを聞いた恭介は、心配になると同時にやはり男女で見えているものは違うと感じた。
恭介は少しでも雪乃の安全を守れるよう努めるのであった。
結里が生まれて以降は、今までに感じたことがない大変だった。
まだ体が回復しておらず動けない雪乃の担当分まで家事をする恭介。それだけでなく、予想外の動きをする結里の対応もしないといけない。
授乳以外のことは男の自分にも出来るのだ。
「雪乃、結里寝たか?」
皿洗いを終えた恭介は、そっと寝室のドアを開ける。
「うん。さっきようやく寝たところ。恭介、お皿洗いありがとね」
すやすやと眠る一歳になった結里の頭を撫でながら、雪乃は優しい目で恭介を見た。
その目には疲れが見える。
育休期間を終えた恭介が仕事をしている間、雪乃は一人で結里の面倒を見ている。当然疲れるだろうなと恭介は思った。
「このくらいどんと来いだ。こういうのはチームプレイだろう。まあ俺は昼間会社だけど」
恭介は最後、少し申し訳ないなと思ってしまった。
「恭介は私が頼んだこと嫌がらずにやってくれるし、夜泣きの時も次の日仕事があるのに結里のことあやしてくれたじゃん。ほんと、ありがとね」
「雪乃……!」
そう言われて恭介は表情を綻ばせる。胸の中には温かい感情がじんわりとあふれ出す。自分がやっていることは雪乃の為になっていると実感出来たのだ。
「結里が二歳になって、保育園に入れることが出来たら私も職場復帰しようと思う。時短勤務にはなるけど」
「そっか。雪乃、仕事好きだもんな。ごめんな。男にも子供を生む機能があれば雪乃ばっかりに負担かけることはなかっただろうし、キャリアも中断させることがなかったのに」
恭介は少し目を伏せる。
今まで仕事をバリバリやっていた雪乃を隣でずっと見ていたのだ。彼女のやりたいこと、好きなことを奪ってしまったことに申し訳なさを感じていた。
「子供は恭介も私も欲しかったじゃん。全部納得した上だよ」
雪乃は恭介の肩をポンと軽く叩く。恭介に優しい笑みを向けてくれていた。
その言葉に、恭介は少しだけ救われた。
雪乃は「だけど」と言葉を続ける。
「結里の子育てが落ち着いたら、またフルタイムで仕事したいな」
「うん。雪乃の希望が叶うように俺も頑張る」
何としてでも雪乃の望みを叶えようと決意する恭介だった。
その後も、恭介にとって目まぐるしい日々が続く。
大変だが、雪乃との時間や結里の成長を見ることが出来て非常に充実していた。
しかし、その時間は長く続かなかった。
結里が二歳になった時、雪乃の病気が発覚したのだ。
医師から妻の余命宣告をされた時、恭介は頭の中が真っ白になった。
大切な妻がいなくなってしまう。この先結里を一人で育てることが出来るのか。
恐怖と不安が恭介の心を占めていた。
「そんな……先生、何とかならないんですか!? お願いです! 娘もまだ三歳なんですよ!」
恭介は医師に縋る。今の自分の姿はきっとみっともないだろうと思った。しかし、そんなことは気にしていられない。恭介にとって雪乃は最愛の存在。彼女が生きられるのならば、何でもするつもりだ。
「恭介、もう良いから。……きっと仕方のないことなんだよ。私の為にありがとね」
隣で医師から余命宣告を受けた雪乃は、悲しそうに目を伏せていた。
雪乃以上に取り乱した恭介を見て、少し冷静になれたらしい。
それ以降、恭介は気持ちの整理はまだ出来ていないが雪乃と結里、家族三人の時間を大切に過ごした。
今まで以上に写真を撮ることが増え、スマートフォンの容量はあっという間に一杯になってしまう程。
家族三人で笑い合っている時、恭介は時が止まって欲しいと願った。
しかし現実は残酷だ。病気は進行して雪乃はどんどん衰弱し、あっという間に亡くなってしまう。享年三十一である。
「雪乃……」
雪乃が亡くなった直後、恭介は放心状態だった。
葬儀や行政関連の手続きが終わった後、こうして雪乃の仏壇前で呆然としている恭介。
しかし、結里がいるのでそんな暇もすぐになくなる。
毎日の結里の世話に恭介は追われることになるのだ。
雪乃亡き今、全て恭介がやらないといけない。
実家、義実家も少し距離があるので頻繁に助けを求めることが出来るわけではない。
恭介のワンオペ育児の開始である。
結里を保育園に預けて出社したある日の昼下がり。
恭介のスマートフォンに保育園から電話が入る。
『あ、斉藤さんですね。結里ちゃん、熱を出してしまいまして、今からお迎えに来てください』
今月何回目だろうか。結里が熱を出したことにより、恭介は会社を早退しなければならなくなる。
「斉藤くん、早く娘さんを迎えに行ってあげなさい」
「そうよ。娘さんにとって父親の代わりはいないのだから」
「斉藤さん、後は僕がやっておきますから。その代わり、僕も子供が生まれた場合、斉藤さんみたいに早退することが多くなると思います。その時は斉藤さんにカバーをお願いしますね」
幸い、恭介の職場は男性の育休などを推奨しており、子供が熱を出した際の早退にも理解がある。それは恭介にとって幸いだった。
「何度もすみません。ありがとうございます」
恭介は頭を下げ、職場を後にする。
(職場からの理解、俺は恵まれてる方だ。弱音を吐いたらいけない……)
毎日の家事育児と仕事、決して両立出来ているとは言い難い状況。しかし恭介は歯を食いしばって生きていた。
ฅ^•ω•^ฅ ฅ^•ω•^ฅ ฅ^•ω•^ฅ
この日は雪乃が亡くなって丁度一ヶ月だった。
恭介が結里を保育園に迎えに行き、帰宅した後のこと。
「パパー」
結里がちょこちょこと恭介の元へやって来た。
「結里、どうした?」
「ママがやってくれたみたいな髪にしてー」
「え……?」
どうやら結里は雪乃がやってくれていたヘアアレンジを希望しているようだ。
しかし恭介はそのやり方を知らない。
(雪乃がやってたみたいな髪型? どんな髪型かは分かるけど、雪乃は結里の髪型どうやってたんだ?)
戸惑うが、結里の期待に満ちた目を見ると断れない恭介だ。
「分かった。でもパパはママみたいに上手く出来ないぞ」
苦笑しながらも恭介は結里の髪をセットし始めた。
しかし案の定上手く行かない。
「これじゃない! これじゃ嫌ー!」
結里は思い通りの髪型にならないので泣き喚く。
「ああ、ごめんって結里。パパは結里の髪のやり方よく分からないんだ」
ややげんなりしながら恭介は苦笑する。
しかし結里が泣き止まない。
「やっぱりママが良いー! パパ嫌ー! ママに会いたい! どうしてママいないのー!?」
結里はまだ三歳。死の概念が分からないのだ。
「ママに会いたいのー!」
ギャンギャン泣き喚くその姿はまるで怪獣だ。
散らかったまの部屋、まだ準備できていない食事、仕事も結里の体調次第で抜けることが増えている。
恭介はもう限界だった。
「ねえママみたいにやってよー!」
「煩い! 良い加減黙れ!」
泣き喚く結里に対して恭介はそう怒鳴ってしまった。
すると結里はショックを受けたような表情になる。そして、鳴き声は更に大きくなる。
「パパなんか大嫌い!」
結里は大声でそう言い、泣きながら二階の部屋に行ってしまった。
「雪乃、俺、結里の父親としてやっていけるか不安だよ……」
恭介は亡き妻、雪乃の仏壇の前で弱音を吐露する。
遺影の雪乃はオレンジっぽい茶髪のショートヘア。溌剌とした笑みを浮かべている。
恭介はふと今までのことを思い出した。
ฅ^•ω•^ฅ ฅ^•ω•^ฅ ฅ^•ω•^ฅ
雪乃は元々恭介や結里同様黒髪だった。しかし結里を妊娠中に髪を染めたのだ。
雪乃曰く、「妊婦や子連れの女性は舐められて、ぶつかりおじさんみたいな変な男性に絡まれやすい。だから少しでも舐められにくそうな髪色に染めた」とのこと。
それを聞いた恭介は、心配になると同時にやはり男女で見えているものは違うと感じた。
恭介は少しでも雪乃の安全を守れるよう努めるのであった。
結里が生まれて以降は、今までに感じたことがない大変だった。
まだ体が回復しておらず動けない雪乃の担当分まで家事をする恭介。それだけでなく、予想外の動きをする結里の対応もしないといけない。
授乳以外のことは男の自分にも出来るのだ。
「雪乃、結里寝たか?」
皿洗いを終えた恭介は、そっと寝室のドアを開ける。
「うん。さっきようやく寝たところ。恭介、お皿洗いありがとね」
すやすやと眠る一歳になった結里の頭を撫でながら、雪乃は優しい目で恭介を見た。
その目には疲れが見える。
育休期間を終えた恭介が仕事をしている間、雪乃は一人で結里の面倒を見ている。当然疲れるだろうなと恭介は思った。
「このくらいどんと来いだ。こういうのはチームプレイだろう。まあ俺は昼間会社だけど」
恭介は最後、少し申し訳ないなと思ってしまった。
「恭介は私が頼んだこと嫌がらずにやってくれるし、夜泣きの時も次の日仕事があるのに結里のことあやしてくれたじゃん。ほんと、ありがとね」
「雪乃……!」
そう言われて恭介は表情を綻ばせる。胸の中には温かい感情がじんわりとあふれ出す。自分がやっていることは雪乃の為になっていると実感出来たのだ。
「結里が二歳になって、保育園に入れることが出来たら私も職場復帰しようと思う。時短勤務にはなるけど」
「そっか。雪乃、仕事好きだもんな。ごめんな。男にも子供を生む機能があれば雪乃ばっかりに負担かけることはなかっただろうし、キャリアも中断させることがなかったのに」
恭介は少し目を伏せる。
今まで仕事をバリバリやっていた雪乃を隣でずっと見ていたのだ。彼女のやりたいこと、好きなことを奪ってしまったことに申し訳なさを感じていた。
「子供は恭介も私も欲しかったじゃん。全部納得した上だよ」
雪乃は恭介の肩をポンと軽く叩く。恭介に優しい笑みを向けてくれていた。
その言葉に、恭介は少しだけ救われた。
雪乃は「だけど」と言葉を続ける。
「結里の子育てが落ち着いたら、またフルタイムで仕事したいな」
「うん。雪乃の希望が叶うように俺も頑張る」
何としてでも雪乃の望みを叶えようと決意する恭介だった。
その後も、恭介にとって目まぐるしい日々が続く。
大変だが、雪乃との時間や結里の成長を見ることが出来て非常に充実していた。
しかし、その時間は長く続かなかった。
結里が二歳になった時、雪乃の病気が発覚したのだ。
医師から妻の余命宣告をされた時、恭介は頭の中が真っ白になった。
大切な妻がいなくなってしまう。この先結里を一人で育てることが出来るのか。
恐怖と不安が恭介の心を占めていた。
「そんな……先生、何とかならないんですか!? お願いです! 娘もまだ三歳なんですよ!」
恭介は医師に縋る。今の自分の姿はきっとみっともないだろうと思った。しかし、そんなことは気にしていられない。恭介にとって雪乃は最愛の存在。彼女が生きられるのならば、何でもするつもりだ。
「恭介、もう良いから。……きっと仕方のないことなんだよ。私の為にありがとね」
隣で医師から余命宣告を受けた雪乃は、悲しそうに目を伏せていた。
雪乃以上に取り乱した恭介を見て、少し冷静になれたらしい。
それ以降、恭介は気持ちの整理はまだ出来ていないが雪乃と結里、家族三人の時間を大切に過ごした。
今まで以上に写真を撮ることが増え、スマートフォンの容量はあっという間に一杯になってしまう程。
家族三人で笑い合っている時、恭介は時が止まって欲しいと願った。
しかし現実は残酷だ。病気は進行して雪乃はどんどん衰弱し、あっという間に亡くなってしまう。享年三十一である。
「雪乃……」
雪乃が亡くなった直後、恭介は放心状態だった。
葬儀や行政関連の手続きが終わった後、こうして雪乃の仏壇前で呆然としている恭介。
しかし、結里がいるのでそんな暇もすぐになくなる。
毎日の結里の世話に恭介は追われることになるのだ。
雪乃亡き今、全て恭介がやらないといけない。
実家、義実家も少し距離があるので頻繁に助けを求めることが出来るわけではない。
恭介のワンオペ育児の開始である。
結里を保育園に預けて出社したある日の昼下がり。
恭介のスマートフォンに保育園から電話が入る。
『あ、斉藤さんですね。結里ちゃん、熱を出してしまいまして、今からお迎えに来てください』
今月何回目だろうか。結里が熱を出したことにより、恭介は会社を早退しなければならなくなる。
「斉藤くん、早く娘さんを迎えに行ってあげなさい」
「そうよ。娘さんにとって父親の代わりはいないのだから」
「斉藤さん、後は僕がやっておきますから。その代わり、僕も子供が生まれた場合、斉藤さんみたいに早退することが多くなると思います。その時は斉藤さんにカバーをお願いしますね」
幸い、恭介の職場は男性の育休などを推奨しており、子供が熱を出した際の早退にも理解がある。それは恭介にとって幸いだった。
「何度もすみません。ありがとうございます」
恭介は頭を下げ、職場を後にする。
(職場からの理解、俺は恵まれてる方だ。弱音を吐いたらいけない……)
毎日の家事育児と仕事、決して両立出来ているとは言い難い状況。しかし恭介は歯を食いしばって生きていた。
ฅ^•ω•^ฅ ฅ^•ω•^ฅ ฅ^•ω•^ฅ
この日は雪乃が亡くなって丁度一ヶ月だった。
恭介が結里を保育園に迎えに行き、帰宅した後のこと。
「パパー」
結里がちょこちょこと恭介の元へやって来た。
「結里、どうした?」
「ママがやってくれたみたいな髪にしてー」
「え……?」
どうやら結里は雪乃がやってくれていたヘアアレンジを希望しているようだ。
しかし恭介はそのやり方を知らない。
(雪乃がやってたみたいな髪型? どんな髪型かは分かるけど、雪乃は結里の髪型どうやってたんだ?)
戸惑うが、結里の期待に満ちた目を見ると断れない恭介だ。
「分かった。でもパパはママみたいに上手く出来ないぞ」
苦笑しながらも恭介は結里の髪をセットし始めた。
しかし案の定上手く行かない。
「これじゃない! これじゃ嫌ー!」
結里は思い通りの髪型にならないので泣き喚く。
「ああ、ごめんって結里。パパは結里の髪のやり方よく分からないんだ」
ややげんなりしながら恭介は苦笑する。
しかし結里が泣き止まない。
「やっぱりママが良いー! パパ嫌ー! ママに会いたい! どうしてママいないのー!?」
結里はまだ三歳。死の概念が分からないのだ。
「ママに会いたいのー!」
ギャンギャン泣き喚くその姿はまるで怪獣だ。
散らかったまの部屋、まだ準備できていない食事、仕事も結里の体調次第で抜けることが増えている。
恭介はもう限界だった。
「ねえママみたいにやってよー!」
「煩い! 良い加減黙れ!」
泣き喚く結里に対して恭介はそう怒鳴ってしまった。
すると結里はショックを受けたような表情になる。そして、鳴き声は更に大きくなる。
「パパなんか大嫌い!」
結里は大声でそう言い、泣きながら二階の部屋に行ってしまった。



