今日は鋳物ホーロー鍋でふっくらと炊き上がった白米に、肉じゃが。
さばの塩焼きに揚げ出し豆腐と僕が家から持ってきた自作のきゅうりと白菜の漬物、そして長ネギと豆腐の味噌汁。
とんでもなく普通の夕食。

それを綺麗にトレイに並べて、お兄さんの前に置いた。

「おおっ、美味しそうだな!!」

目を輝かせて喜んでくれてホッとした。

炊き立てのご飯を美味しそうに口に運び、おかずを食べるたびに美味しいと言ってくれる。
なんだか見ているこっちが幸せな気持ちになる。

お兄さんはあっという間に食事を済ませた。

「家で毎日こんな食事が食べられたら仕事も頑張れそうだ。ぜひ、君にうちの家事をお願いしたい!! 頼む」

両手を顔の前に合わせて懇願するように言ってきた。

「食事の好みが合うか心配だったんですけど美味しく食べてくれたので、僕もお願いしたいです」

「じゃあ早速明日からでも頼むよ」

すぐに契約書を交わそうと言って、お兄さんはパソコンであっという間に書類を仕上げてしまった。
と言っても、契約書には時間と給料が書かれているだけ。

「あの、これって……」

「時間は君の好きにきてくれたらいい。大学の終わり時間はまちまちだろうから毎日同じ時間に拘束するのも悪いしね。洗濯物が溜まれば洗濯をしてもらって、掃除も君が汚いと思ったらしてくれたらいい。ただ、夕食だけは毎日お願いしたいんだが、それでいいかな?」

こんな破格の待遇いいのか?
それに給料が……

「あの、こんなに好きにさせてもらえて月に二十万なんて高すぎます」

「そうか? 毎日ここに来て栄養のある食事を作ってもらえて、部屋も綺麗にしてくれて洗濯もしてもらえて安すぎるくらいだと思うが……」

至極当然のように言われて困ってしまうが、

「私は経営者として身体が資本なんだ。私が倒れたら社員が路頭に迷うんだからね。私の健康管理をしてもらえるんだからこれくらい貰ってほしい」

そう言われたらこれ以上断ることもできない。

「あ、必要な材料費や買ったものは別で渡すからね」

ゔぅ。この給料で良い食材買って還元しようと思ってたのにそれも先に釘を刺されてしまった。
本当にこんなに貰っちゃっていいのかな?

「早速明日から頼むよ」

「わかりました。あの、明日は大学休みなので、朝から来てもいいですか?」

あんなにお給料いただくんだから、それ以上の働きはしないとね。

「えっ? ああ、もちろんだよ。それなら、ひとつお願いがあるんだが……」

申し訳なさそうに見つめられて、何を言われるのかとちょっと身構えてしまった。

「なんですか?」

「早くて申し訳ないんだが、明日七時に起こしてほしいんだ。いつもなら目覚ましで起きるんだが、最近疲れが溜まっていて起きれそうになくて……明日は重要な会議があるから遅れるわけには行かないんだ」

意外だな、朝弱いんだ……
完璧に見えるお兄さんのそんなところを知って思わず笑ってしまいそうになる。

「わかりました。じゃあ、朝食も用意しますね」

「えっ? いいのか? 助かるよ。鍵は君の指紋認証で開けられるように登録しておこう」

「指紋認証ですか? すごいですね! あ、じゃあ、僕今日はそろそろ失礼します」

「私も一緒に下まで行くよ。登録は下でしかできないからね」

直己さんはさっとジャケットを羽織り、僕の肩を抱いて玄関に向かった。

ち、近いな……
なんだろう、この距離感。
なんかいい匂いもするし、どきどきする。

広いエレベーターなのになぜか近い距離感のままだ。
これが大人の世界では常識なんだろうか?

不思議に思いながら上を見上げると、にこりと笑顔が降ってくる。
直己さんの笑顔に何故かドキドキしながら、エレベーターはあっという間に一階に到着した。

「田之上くん、ちょっと」

直己さんは慣れた様子でコンシェルジュデスクにいたあの彼を呼ぶ。

「はい。綾城さま」

「彼の指紋登録を頼む」

「畏まりました。どうぞこちらへ」

コンシェルジュデスクに案内され、機械に手をかざすように言われた。
ものの数秒で僕の指紋が登録され、最後に直己さんが暗証番号を入れると機械がピピっと音を立てて登録を完了した。

「これでいい。田之上くん、明日から彼がうちに通うから来たらすぐに案内してくれ。大切な子(・・・・)だから丁寧に対応を頼むぞ」

「畏まりました」

田之上さんににっこりと微笑みかけられ、なんだか少し気恥ずかしい。
だって大切な子だなんて……
食事も洗濯も掃除もしてもらうからといってそんなに気遣ってもらうとなんだか来にくくなっちゃうな。

そのままロビーで挨拶をして帰ろうとすると直己さんがコンビニに行くと言ったので途中まで一緒にいくことになった。
直己さんが行く予定のコンビニは僕のアパートの先にあって、結局僕のアパートまで送ってもらうことになってしまった。

「ここか、佳都くんのアパートは。うちからそんなに離れていないんだな」

「はい。そうなんです。だから七海ちゃんからお家の場所を聞いた時に驚いちゃって」

「それなら必要なものはうちに置いて、好きに使ってくれて構わないよ。食事を作りがてらレポート書くのにも使ってくれてもいいし、朝早くから来てもらう日なんかは泊まってくれてもいい。どうせエアコンは二十四時間つけっぱなしだから人がいてくれた方がありがたいんだ」

「えっ……でも、それは……」

まるで自分の家みたいに扱うなんてそんな厚かましいことできないけど……

「行き来する時間を考えたらそのままうちにいてくれた方が楽じゃないか?」

「それはそうですけど……ご迷惑じゃないですか?」

「ははっ。迷惑なら最初からこんな提案なんてしないさ。そうだ、明日も朝から起こしに来てもらうんだし、このまま荷物を持ってうちに泊まりに来ないか? 掃除してもらう部屋のこともまだ話をしていなかったし、朝話すとバタバタするだろう?」

確かにそうだ。
明日は朝から行ってたっぷり掃除と洗濯をしようと思っていた。
寝起きで色々説明するのは大変かもしれない。

「わかりました。じゃあ、今日はお邪魔します。すぐに荷物をまとめるので、その間コーヒーでも飲んでいきませんか?」

「ありがとう。いただくよ」

僕はにこやかな笑顔を浮かべる直己さんと一緒に自分の部屋に向かった。

こんな古いアパートの小さな部屋に直己さんが座っているのがどうも似合わない。
そこだけ異次元に見えるなぁ。
そう思いつつ直己さんにコーヒーを出し、僕は急いで荷物をまとめた。

荷物と言っても大したものは入っていない。
着替えと少しレポートでも書かせてもらおうと勉強道具を入れたくらい。

それを鞄に詰め込んで直己さんの元へ戻ると、直己さんは物珍しそうに僕の本棚を見ていた。

「ああ、ごめん。やけに難しい本があるなと気になって見させてもらってたよ」

直己さんは丁寧に本棚から本を取り出し、僕にタイトルを見せた。

「いえ、気にしないでください。そんな大したものではないので。僕の父はもう亡くなっちゃいましたけど、大学で経営学の教授をしてたんです。その父が生前出してた本を形見分けにもらったので、せっかくなので並べてたんですよ。直己さんが今持っているものも父の本です」

「えっ? もしかして、佳都くんのお父さんはあの(・・)佐倉教授?」

「はい。直己さんが知っていてくださるなんて嬉しいです」

IT関連の会社だと聞いていたから、経営学とは無縁だと思っていた。

「知ってるなんてもんじゃないよ。佐倉教授には大学時代、本当にお世話になったんだ。家庭のことをあまり話される方じゃなかったから、まさかこんなに大きな息子さんがいたなんて思わなかったな。教授が急逝された時はアメリカにいて、すぐに駆けつけられなくて……不義理なことをしたと思っていたんだ」

本当に残念そうに呟く直己さんを見て、本当にお父さんのことを慕ってくれていたんだと思うとすごく嬉しかった。

「そうか、佳都くんは教授の息子さんだったのか。これはすごい偶然だな」

「もう母もとっくに亡くなりましたし、こうやって父の話をすることなんて最近はほとんどありませんでしたから、直己さんと父の話ができて嬉しいです。父もきっと喜んでくれていると思います」

「そうか、お母さまもいらっしゃらないのか……。それは寂しかっただろう。よく頑張ったな」

久しぶりにお父さんの話ができて嬉しかったせいか、思わず涙ぐんでしまった。
そんな僕に気づいたのか、直己さんがそっと抱き寄せてくれて、頭を優しく撫でてくれた。

久しぶりに感じる人の優しさが嬉しくて、僕は我慢できずに声を上げて泣いてしまった。

直己さんは急に泣き出した僕をそっと抱きしめながら、背中をさすってくれる。

「泣きたい時は泣けばいいんだ。私がそばにいるから」

そんな優しい声をかけられて、感情のままに泣いてしまった。

それからどれくらい泣いていたんだろう。
急に自分のしたことが恥ずかしくなってきて、慌てて直己さんから離れた。

「ご、ごめんなさい。急に泣いたりして……。もう大丈夫ですから」

「元気になったみたいでよかったよ。夜も遅くなったら危ないし、そろそろ行こうか」

そう言われて、今日直己さんちに泊まるんだと思い出した。

さっきあんな恥ずかしいところを見られたのにこのまま一緒に泊まるなんて恥ずかしすぎる。
だけど、直己さんはもう僕の荷物を持って玄関で待っている。
今更止めることもできず、僕は慌てて直己さんを追いかけた。

鍵をかけ、直己さんのマンションへの道を戻っていく。

「あ、そういえばコンビニ行くんじゃなかったですか?」

「ああ、でももう荷物がいっぱいだし、今日はいいかな」

そういうと笑顔で空いている方の手で僕の手を引いてマンションに連れ帰ってくれた。

荷物持たせてよかったのかな?
そう思ったけれど俺の手は直己さんに繋がれていてどうすることもできなかった。

マンションの下で田之上さんに会って、帰ったはずの僕が戻ってきていることを変に思われないかなとちょっとビクビクしてしまった。
けれど最初に会った時と同じ笑顔で、普通におかえりなさいませと声をかけてもらえてホッとした。