「佳都くん、そろそろ寝ようか?」

仕事が終わったらしい直己さんが僕を洗面所まで連れて行ってくれた。
歯磨きを済ませそのまま寝室に連れて行かれる。

「私に寄りかかっていいから、できるだけ仰向けにならないようにな」

「でも、それだと直己さんが眠れないんじゃ……?」

「大丈夫。佳都くんはそんなこと気にしなくていいから。君に今必要なのはちゃんと身体を休ませて気持ちを落ち着かせることだからな」

「はい。ありがとうございます」

本当に優しいな、直己さん。

「それから、これだけは約束してくれ。夜中に何か恐怖を感じたらすぐに私を起こしてくれていいから、1人で我慢したりしないように。いいかい?」

「わかりました」

「よし、じゃあ寝ようか」

直己さんは背中をつけることができない僕が眠りやすいように寄りかからせてくれた。

腕枕されながらすっぽりと直己さんの胸元に顔を寄せていると、直己さんの安心する匂いに包まれて心地よい眠りに(いざな)われていく。

僕はスーッと深い眠りに落ちていった。



――佐倉くん、俺が君の恋人になってやるよ。

嫌だっ! 離してっ!!

そんなに暴れても誰も来ないよ。ほら、こっちに来るんだ!!

嫌だっ! 助けて――っ!



「うわぁーーっ! 助けてっ! 直己さんっ!!」

「佳都くん!! 佳都くん!!」

呼びかけられる声に目を覚ますと、心配そうな表情で僕を見つめている直己さんと目が合った。

「えっ……あれ、僕……」

「酷く魘されていた。大丈夫か?」

直己さんの優しい声にホッとするけれど、まだ心臓がバクバクしてる。

「あ、僕……夢を……」

あの時の平野さんのギラギラとした目とニヤついた顔が僕の身体を震わせる。

「もう大丈夫だ、心配いらない」

そっと抱きしめながら、直己さんが僕の落ち着く言葉を耳元で囁いてくれているおかげで少しずつ気持ちが落ち着いていくのがわかる。

「起こしてしまってごめんなさい」

「いいんだよ、君の恐怖を一緒に分かち合えた方が安心なんだ。佳都くん、せっかくだからこれからのことを少し話さないか?」

「これからのこと?」

「ああ。君はしばらくの間ひとりにならない方がいい。何かのきっかけでこうやって嫌な出来事を思い出すこともある。だから、このまま君が落ち着くまでうちに住まないか?」

「えっ……」

このまま直己さんの家に……?
確かに今、一人でアパートで生活するのは……正直怖い。
さっきの夢みたいに1人でいるといつでもあの時の平野さんの顔を思い出しちゃうかもしれない。
でも……

「どうした? 何か困ることがあるか?」

「いえ……直己さんに迷惑かけるのが申し訳なくて……今日だって、散々――」
「迷惑なんて思うわけないだろう!」

突然の大声に身体がビクリと震えた。

「怖がらせてごめん。だが、本当に迷惑とかそんなこと気にしなくていいんだ。私は佳都くんが心配なんだ あのアパートで君が恐怖に震えている方がよっぽど気になって仕事が手に付かない。私に迷惑をかけて申し訳ないと思うなら、ここにいてくれないか? なっ、頼む」

僕を見つめながら必死に懇願してくる直己さんを見たら、もう断ることなんてできなかった。

「……正直にいうと、僕もこれから一人でアパートに戻るのは怖いなと思ってたんです……。僕、今まで以上に掃除も洗濯も食事作りも頑張るので、よろしくお願いします。あ、あの……ここでお世話になる間はお給料もいらないので!」

「いや、佳都くんがいてくれれば別に家事はどうでもいいんだが……」

「えっ? なんて言ったんですか?」

家事がどうとかってことしか聞こえなかった。

「いや、なんでもない。とにかく、ここにいてくれるんだな」

「はい。よろしくお願いします」

「わかった。よかったよ。これで私も安心できる。じゃあ明日、早速君のアパートから荷物を運ばせるから」

えっ? ここに住むのは僕が落ち着くまでの少しの間だけだよね?

「直己さん、あの……荷物って?」

「これから必要なものも出てくるかもしれないし、その時にいちいち取りに行くのは大変だろう? それならさっさとこっちに荷物を運んでおいた方がいい。また戻るならその時に荷物を持って帰ればいいんだからな。戻ることがあれば(・・・・・・・・)だけどな」

あれ? そういうものなのかな……?

直己さんに、何かおかしいところがあるか? とでもいうような普通の表情でそう言われたらそうかもしれないと思ってしまう。

「そう、ですね……じゃあ、お願いします」

「佳都くんに笑顔が出てきたならよかった。じゃあ、そろそろ寝ようか」

僕の笑顔に直己さんはホッとしたように笑って僕を腕の中にすっぽりと包み込んでくれた。

これからここでしばらくお世話になる……そう決まったことが僕の気持ちを落ち着かせてくれたのか、その後は嫌な夢を見ることなく、朝までぐっすりと眠ることができた。




目を覚ますと隣にいるはずの直己さんの姿はなく、代わりに大きな抱き枕を抱きしめていた。

「あれ? 直己さんはどこだろう? ――った!」

いつも通り起きあがろうとして背中にビリビリと痛みが走った。
ああ、そうだ。背中打ってたんだっけ。

ゆっくりと起き上がると、なんだか微かに部屋の外から話し声が聞こえてくる。

んっ? 誰かお客さん?

あっ、そういえば今日僕の荷物が届くって言ってたな。それかな?

僕は話の邪魔にならないようにそっと寝室を出て、声の聞こえるリビングに向かうと、どうやら会話の相手は七海ちゃんのようだった。なんだ、荷物じゃなかった。
兄妹の話の邪魔はしちゃいけないよね。

そっと寝室へ戻ろうとすると、「それで、佳都くんにはちゃんと伝えてるの?」と僕の名前が聞こえて思わず立ち止まってしまった。

えっ? 僕? なんだろう?

「それが……なかなか難しいんだ。俺もいい加減我慢できないかもしれないな……一緒にいるのが辛い時もある」

「はぁーっ。お兄ちゃん、しっかりしてよ。佳都くん、ちょっと鈍感なところがあるからちゃんとはっきりと言ったほうがいいって」

「そうなんだが……傷つくだろう? 俺が最初からそんなふうに思っていたなんて知ったら……。ただでさえ今は奴のことで傷ついてるのに俺までそんな……」

そうか……
直己さんは本当は僕に出て行って欲しかったんだ。
でも優しいから言い出せなくて……。
我慢できないくらい、僕がここにいるのがやっぱり迷惑だったんだな。

僕、馬鹿だ。
直己さんの優しさに甘えてばっかりで……

これ以上、直己さんに甘えるわけにはいかない。

僕は急いで自分の部屋に戻り、背中の痛みに耐えながら服を着替えた。
そして目の前にあった財布だけを手に取り、

<直己さんの気持ちに気づかなくてごめんなさい、今までありがとうございました>

とメモを残して玄関からそっと家を出た。

エレベーターを降りると、いつもいるコンシェルジュデスクに田之上さんの姿がなかった。
きっと他の住民のお世話をしているのだろう。
少しホッとしつつ、僕はマンションを出て自分のアパートへと向かおうとしたけれどそういえば荷物を運び出すことになっていたはずだと思い出した。

直己さん、本当は僕のこと出て行って欲しいと思っていたのに僕があんな目にあったから助けずにはいられなかったんだろうな。
本当、優しすぎるよ……

でも、どうしよう。どこに行ったら……。

「ねぇ、こんなところで何やってんの?」

「ひぃ――っ!」

誰か見知らぬ声が聞こえたと思ったら、肩をポンと叩かれて全身にゾワゾワと悪寒が走った。
足に力が入らなくて、その場にへたりこむ。

「なんだよ、その態度。せっかく声かけてやってるのに気に障るなぁ」

知らない男がしゃがみ込んで僕の目の前に顔を近づけてきた。

あまりの恐怖にガタガタと身体を震えて怖くて声を出せない。

「なんだ、結構可愛い顔してんじゃん。なぁ、せっかくだし遊びに行こうぜ」

腕を引っ張られて痛みが全身に走る。

「――った! 止め――っ」

「おいっ何やってるんだ! 嫌がってるだろう! 手を離せ!」

必死に抵抗していると、大きな声をあげながら駆け寄ってくる人の姿が見えた。

「うわっ、やべっ」

僕の目の前にいた男はそういうと、すぐに僕の腕を掴んでいた手を離して、バタバタと逃げていった。

「なんだ、あいつ。君、大丈夫か? あ、あれ? 佳都くんだろ? どうしたんだ、こんなところで」

怖くてその場から動けずにいた僕に声をかけてくれたのは意外な人だった。