私を選べばよかったのに

 それから、俺が当番の日に図書室へ行くと、そこにはいつも彼女――白柳(ゆず)がいた。

 貸し出しカウンターの中にちょこんと座って、真面目に仕事をこなしている。本を借りにきた生徒に対応したり、返却された本を棚に戻したり。

 といっても図書室の利用者は基本多くないので、なにも仕事がない時間は本を読んでいて、そちらの時間のほうが圧倒的に長そうだった。

 「お疲れ」

 声をかけると、白柳はやっぱり肩を震わせたけれど、俺の顔を見たあとに小さく笑みを浮かべてもくれた。

 何日か仕事をしてみてわかったのだけれど、カウンターには図書委員がひとりいれば充分だ。ここ最近は、当番の日に限らず毎日白柳が来ることがわかったからだろう、図書委員はほとんど誰も顔を出さない。昼休みも放課後も、いつもカウンターには白柳が座っていることが当たり前になっていた。決められたことは守らないとなんとなく落ち着かない性分の俺は、いちおう毎週きっちり顔を出しているけれど。

 「白柳さ、当番の日以外は他のやつらにまかせれば? 毎日来るの大変だろ」

 白柳の隣に座り、持ってきた数学のノートを広げながら俺が言うと、彼女は「いえ」とすぐに首を横に振った。

 「大変じゃないです。あの、わたし、好きなんです、こうしてるの。図書室、落ち着くし……」

 白柳の言葉は、そこで途切れた。突然、「(なお)()だーっ」と高い声が俺を呼んだから。

 はっとしたように白柳は口をつぐんで、俺といっしょにその声の主へと顔を向ける。

 俺を呼んだ彼女の声は、普段から少し大きい。いつもはさほど気にならないけれど、静かな図書室にはやたらと大きく響いて、俺はあわてて「しーっ」というジェスチャーを声の主へと向ける。

 確認するまでもなく、それが誰なのかはわかっていた。直紀、と俺の名前を呼び捨てる女子の知り合いなんて、ひとりしかいない。

 「みな、声でかいって」

 ショートボブの明るい茶髪を揺らしながら駆け寄ってくる彼女に、俺はいちおう注意しておく。だけど彼女の耳に届いた様子はなかった。

 「え、なになに!?」

 俺の言葉も人差し指も無視して、彼女は面白そうな顔でカウンターの前に立つと、

 「びっくりした! 直紀ってばこんなところでなにしてるの?」

 「図書委員だから。みな、もうちょい声小さく」

 「うそ、直紀図書委員なんだ! めっちゃ似合わないね!」

 (その)(やま)みなは、あっけらかんと失礼なことを言ってけらけら笑う。その声量をふたたび注意しようとしたとき、「あっ、そうだ」と彼女は思い出したようにカウンターに腕を載せた。「直紀」とあらためて口を開いたその表情が、ふっと真面目なものになる。

 「制服のシミ、ちゃんととれた?」

 「ああ、うん」

 心配そうに訊ねてくるみなに、「ばっちり」と俺は頷いてシャツのお腹あたりを彼女に見せてやる。

 一週間前。食堂でトレイを抱えたみなとぶつかり、彼女の持っていたうどんの汁がかかってしまったそこ。今はすっかり真っ白に戻ったシャツを見て、「ああ、よかったあ」とみなは心底ほっとしたように表情をゆるませると。

 「もしシミがとれなかったら、みな、直紀にどうやってお詫びすればいいのかわかんなかったよ。最近はそれが心配で、もう夜も眠れなくて……」

 「大袈裟だって、シャツのシミぐらいで」

 ちなみにそれが、俺とみなの初対面だった。ぶつかったのはみながよそ見をしていたせいだったらしく、それから彼女は俺の制服のシミがとれたかどうかを気にしてしょっちゅう声をかけてきた。みなの明るく人懐こい性格のためだろう、そのあいだに気づけば仲良くなっていた。

 みなの殊勝な言葉に、俺が笑ったときだった。

 「嘘つけ。昨日十時には寝てただろ、おまえ」

 ふとみなの後ろから、そんな声が飛んできた。目をやると、彼女の肩越しに、あきれたような顔でこちらへ歩いてくる男子生徒が見えた。

 「駿(しゅん)

 今日もいっしょだったのか。ほんと仲良いな。そんなことを思いながら、みなといっしょに来ていたらしい彼の名前を呼ぶ。すると横から、「もー、駿」とみなも重なるように口を開いた。

 「そういうよけいなことは言わないでよー」

 「だっておまえ、俺が十時過ぎに送ったラインに、寝てたっつって今日の朝返してきたし」

 「べつに駿のラインなんて返信がめんどくさいから無視してただけだし!」

 (たか)()()駿。みなの友だちで、先日食堂で俺がみなとぶつかったときもいっしょにいたので、なんとなく流れで彼とも親しくなった。

 みなの苦しい反論に、「はあ?」と駿が顔をしかめる。それからまたなにか言いかけたようだったけれど、それより先に、「ねえねえ直紀っ」とみなはさっさと俺のほうを向き直って、

 「直紀、今日当番って何時まで?」

 「五時。あ、いや、今日は火曜だから五時半までだっけ?」

 ふと自信がなくなり、俺は隣に座る白柳に訊ねようと横を向いた。だけど、なあ白柳、と開きかけた口はそのまま固まる。そこには、誰もいなかった。

 「あれ? 白柳?」

 きょろきょろと辺りを見回していると、「ここに座ってた一年生?」とみなが訊いてきた。

 「どっか行っちゃったよー。みながここに来たらすぐ」

 「あ、そうなんだ……」

 「ね、五時までなら、みなたち待ってるから三人でいっしょに帰ろ?」

 「あー、うん」

 まだ白柳の姿を捜して図書室を見渡しながら、俺がみなの誘いにぼんやりと頷いていたとき。「いや」とふいに横から駿の声がした。

 「俺は用事あるから、先に帰る」

 「へ、用事? なんの?」

 「ちょっと」

 きょとんとして訊ねるみなにそれだけ答えてから、「じゃあ」と駿はさっさと(きびす)を返す。そうしてそのまま図書室を出ていった駿の背中を、みなはまだきょとんとした表情で見送りながら。

 「変なのー。駿、今日はなんにもないって言ってたのに」

 不思議そうに呟かれた彼女の言葉に、え、もしかして、と俺はふと頭の隅で思う。駿、俺もいっしょに帰るのが嫌だったとかじゃないよな、と。

 「……なあ、みなと駿ってさ」

 「うん?」

 「付き合ってる、とかじゃないんだよな?」

 そういえば以前からうっすら気になっていたけれど、訊きそびれていたことだった。出会ったときからふたりのあいだの空気に甘さはなく、恋人同士という感じではなかったけれど。それでもただの友だちにしては親密すぎる気もして、どっちなのだろう、とずっと計りかねていた。

 「え、まさかあ。違うよ」

 俺の質問に、みなはちょっと噴き出すようにして返す。とんでもない、と言いたげな口調だった。「だって」それから笑いをにじませた声で、さらりと続ける。

 「駿は家族だし」

 「へ?」

 「家族なんだ。みなの」

 繰り返された単語に、きょとんとしてみなのほうを見る。するとまっすぐにこちらを見つめる彼女と目が合って、訊き返しかけた言葉が喉に詰まった。

 え、実はふたり血がつながってたのか、とか。ふいに浮かんだ疑問が、だけどそういう意味ではないのは、なぜか妙にはっきりと察しがついたから。

 「あ……そう、なんだ?」

 「うん」

 だからなんとなくそれ以上は訊けずに、俺が曖昧な相槌だけ打ったとき。ふと、ブラインドの隙間から差し込む光が、彼女の髪をやわらかく照らしているのを見て、

 「……なあ、みなの髪って」

 「うん?」

 もうひとつ、気になっていたけれど訊きそびれていたことを思い出した。

 「染めてんの?」

 彼女に出会ったとき真っ先に目についた、その明るい茶色の髪。日本人にしてはめずらしいほどの髪色は、彼女のはっきりとした目鼻立ちや(はつ)(らつ)とした明るい笑顔には、とてもよく馴染んでいた。

 「え、違うよー」

 俺の質問に、みなは指先で自分の前髪に触れながら、

 「もともとこういう色なのー。染めるのは校則で禁止されてるでしょ。みなはいい子だから、校則破ったりしないもーん」

 そう言う彼女の爪には、淡いピンク色が塗られている。たしかネイルも校則違反のはずだけど、と俺は心の中でだけ呟いてから、

 「でもバイトはしてるんだろ。駅前の喫茶店だっけ」

 「みなはね、学校からバイトしてもいいですよって許可もらってるのー。校則違反はしてないよ」

 「え、許可?」

 今までそんな話は聞いたことがなかった。知り合いにも何人かバイトをしているやつは知っているが、みんな学校から離れた場所で隠れるように働いている。

 「なんだそれ、許可とかもらえんの?」

 「そうだよ。たぶんみなは、ひとり暮らしだから大目に見てもらえたんだと思うな」

 「ひとり暮らし?」

 これも初耳だった。驚いて訊き返す。

 「なに、みなって今ひとり暮らししてんの?」

 「うん、近くのアパートで。いいでしょー。直紀も今度遊びにきてね」

 あっけらかんと笑うみなに、え、でもなんで、と続けかけた質問は、また喉の途中で詰まった。

 みなと駿が、(ひろ)(はら)中学校出身だというのは以前ふたりから聞いていた。この高校からは、電車で二駅ほどの距離にある中学校だ。中学校がそこだったのなら、当然、みなの実家もそのあたりにあるはずで。

 それほど実家が高校から離れているわけではないのに、わざわざみながひとり暮らしをしている理由。なんとなく、それを気安く訊くのは(はばか)られた。

 「へえ、そうなんだ。いいな」

 だからとっさにそんな相槌だけ打って、話題を変えようとしたとき。ふいにまた、陽の光を吸い込んだような彼女の髪が目に入って、

 「……きれいだよな」

 ほとんど無意識のうちに、俺はそう呟いていた。

 みながきょとんとして「え?」と訊き返す。

 「あ、いや、その髪。きれいな色だよな。いいよな、染めてなくてもそんな色って」

 軽い調子で口にしてみた言葉だったけれど、みなの反応は予想外のものだった。真顔で俺の顔を見つめたまま、彼女はしばし固まっていた。

 え、もしかしてなんか悪いこと言ったのか、と俺が焦りかけたとき、彼女はようやく顔をほころばせた。

 「ありがとう」

 そっと自分の髪に触れながら、みなは弾んだ声で笑う。そうしてそのまま指先で髪を少しつまむと、横目で眺めながら、

 「みなは、あんまり好きじゃないんだー、この色。黒く染めよっかなあって考えてたくらいで」

 「え、そうなん? いい色なのに。俺は好きだけど」

 うん、と独り言のように呟いたみなの笑顔は、なんだかいつもより大人びて見えた。「ありがとう」と繰り返したあとで、彼女はふいに俺の髪を指して、

 「直紀の髪も、ちょっと茶色っぽいよね」

 「あー、そうだな。微妙に茶色がかってるんだよな」

 「みなも直紀の髪、好きだよ」

 みなはそう言って、屈託なく笑った。だから俺も彼女と同じように、「ありがとう」と返しておいた。