私を選べばよかったのに

 「(えい)()ちゃんと、連絡先の交換をしたんです」

 放課後。図書室で白柳と顔を合わせるなり、彼女は顔を輝かせてそう告げた。

 いきなり耳慣れない名前が出てきたことに俺がきょとんとしてしまうと、白柳が「あ」と思い出したようにあわてて説明を始める。

 「新井さんの、下の名前。瑛子ちゃんっていうんです。昨日、瑛子ちゃんがわたしのこと、柚ちゃんって呼んでくれて。それでわたしに、瑛子って呼んでいいよって」

 白柳は、白いカバーをつけたスマホを宝物のように握りしめたまま、心底うれしそうに笑っていた。思いがけない進歩に俺が驚いているあいだに、「あの、それで」と彼女は早口に言葉を続ける。

 「今日、いっしょにお昼ごはん食べたんです、瑛子ちゃんと。明日もいっしょに食べようねって、約束までしちゃいました」

 「マジで?」

 さらに重ねられた進歩報告に、思わず「やるじゃねえか」と大きな声が出ていた。

 「はい!」と頷いた白柳の顔はどこか誇らしげで、自然と頬がゆるむ。白柳が明日からひとりで昼ごはんを食べることがなくなったのなら、それだけでも充分だ。

 そんな喜びを噛みしめていたとき、白柳が小さな声でなにか呟いた。

 「え?」と訊き返すと、「友だち」とさっきより少しだけ大きめの声で、躊躇うように白柳は言った。

 「友だちに、なれたんですかね……わたしたち」

 不安げに俺を見上げる白柳に、俺は大袈裟なほど大きく頷いてやった。

 それからいつものようにカウンターに座り、鞄から英語の教科書とノートを取り出していたときだった。図書室の扉が開く音がして顔を上げると、めずらしい人物が入ってきたところだった。「あれ」と声をこぼす。

 「粟生野?」

 「あ、桐原いた」

 粟生野は俺を見つけると、にこっと笑って片手を上げた。それからこちらへ歩いてきた彼女に、

 「めずらしくない? 粟生野が図書室来るの」

 「うん、いつもはめったに来ないかも。今日、部活が休みなんだ。生徒会の仕事もないし」

 ああ、そうか、と思った。めずらしいのは当たり前だ。部活に生徒会にと、粟生野ほど放課後を忙しく過ごしている生徒はそうそういないだろうし。

 「こんな日めったにないから、今日はチャンスかなって思ってさ」

 「チャンス?」

 訊き返すと、粟生野は「あ、や、なんでも」とひらひらと顔の前で手を振った。それから、

 「私、向こうの机で勉強してるね。桐原は、五時までしっかりお仕事頑張るように」

 真面目な顔を作り、びしっと人差し指を立てたあとで、机のほうへ歩いていった。

 ふと白柳へ視線を戻すと、じっとこちらを見ていた彼女と目が合って、

 「あ、同じクラスのやつ……」

 なにか訊きたげなその目に、粟生野の紹介をしようとしたときだった。ふいに白柳が、あ、と声を上げた。彼女の視線が俺を通り抜けた背後へ向く。

 それを追うように後ろを振り返ると、今度は、ひとりの一年生が図書室の扉をくぐるところだった。「瑛子ちゃん」と呟くように白柳が彼女の名前を口にする。

 「あ、柚ちゃん」

 新井さんは白柳を見つけると、ぱっと笑顔になった。白柳も、ぎこちないがうれしそうに笑みを返す。それだけで本当にふたりの距離が縮まっていることがわかり、横で俺がほっこりしていると、

 「ああ、新井さん、ちょうどよかった!」

 白柳のほうへ歩いてこようとしていた新井さんを、途中で司書の先生が呼び止めていた。「これ」と先生は軽く十冊はあろうかという本の山を新井さんへ差し出しながら。

 「書庫に運んで、整理してきてくれる?」

 先生の頼みに新井さんは快く頷くと、本を受け取り踵を返す。そんな彼女を見た俺は、「よし、白柳」と言いながらすぐに立ち上がった。

 「手伝いに行こう」

 「へ? あ、瑛子ちゃんをですか?」

 「そう」

 「でも、カウンター……」ともごもご返す白柳に、「大丈夫だろ。今、人いないし」と、粟生野が奥の机に座っているだけの図書室を見渡して言う。その粟生野はしばらく勉強をすると言っていた。

 「さ、行くぞ」と俺はやや強引に白柳を連れて、下の書庫へ向かった。

 書庫では、新井さんが渡された本を手に本棚を睨んでいて、

 「手伝うよ」

 そう声をかけると、新井さんは驚いたように振り向いたあと、「あ、ありがとうございます!」とうれしそうに笑った。

 新井さんから本を半分ほど受け取り、そのさらに半分を白柳に渡す。すると俺の手には三冊の本しか残らなかった。それを見て、あー、と俺はわざとらしく声を漏らすと。

 「なんか、これぐらいならふたりとも手伝いにくることなかったかもな」

 「わたしも、そう思います……」

 おずおずと同意した白柳に、「じゃあ」と俺は手にしていた本を渡しながら言う。

 「まかせていい? 俺、やっぱりカウンターに戻るよ」

 「はい」

 そうして書庫を出ようとしたとき、「ありがとう、柚ちゃん」という新井さんの声が聞こえた。柚ちゃん、というその親しげな響きと、白柳の「ううんっ」という高い声が続いて聞こえたことに、思わず口もとがゆるむ。よしよし、と心の中で呟く。

 いいぞ。本当に仲良くなってる。

 お見合いおばさんのようなことができて勝手にほくほくしながら図書室に戻ると、カウンターの前にひとりの女子生徒がいるのを見つけた。

 やべ。口の中で呟いて、急いでカウンターへ向かう。けれど足音に気づいて振り向いたその生徒の顔を見て、すぐに力が抜けた。

 「あ、直紀ー。どこ行ってたのー?」

 みなだった。めずらしくひとりのようだが、彼女の手に本はない。また、暇だったためふらりと遊びにきただけのようだ。

 「ごめん、ちょっと下の書庫行ってた」

 「今日、直紀いないのかと思っちゃったよー」

 そう言って笑うみなの向こうに、粟生野が見えた。粟生野も、こちらを見ていた。

 「あれ? 今日はあのかわいい子いないの?」

 「かわいい子?」

 「ほら、いつも直紀の隣に座ってる一年生」

 「あー、いるよ。書庫で本の整理してる」

 みなの質問に答えたとき、粟生野が握っていたシャーペンを机に置くのが見えた。立ち上がり、こちらへ歩いてくる。早くも遅くもないその足取りは、しかしひどく重たく感じた。当然ながら、こちらを向いているみなは気づいていない。

 「え、じゃあ手伝わなくて」

 いいの、というみなの言葉の後半部分は、「ね、桐原」という粟生野の声とかぶっていた。いやに強い口調だった。その声には、はっきりと、みなの言葉をさえぎろうとする意志を感じた。

 「ちょっといい?」

 俺の右側に立った粟生野は、不自然なほどに俺の顔だけを見ながら、だけどなにげない口調でそう言った。

 え、と俺が声を漏らせば、

 「桐原に訊きたいことがあって。こっち来てくれない?」

 明らかにみなからは目を逸らしながら、粟生野は笑顔で言葉を継ぐ。思わずみなのほうへ目をやると、彼女もちょっと驚いたような顔で粟生野を見ていた。

 「あー……」

 粟生野のあからさまな不自然さは、みなにも伝わったのだろう。みなの表情が少し強張っているのを見て、どうしたものか、と俺は迷う。

 「ていうか」

 そのあいだに、粟生野は答えを急くようにまた言葉を継いだ。

 「せっかくならゆっくり話したいし、桐原の当番が終わるまで待っとこうかな。五時までだよね? いっしょに帰ろうよ」