朝、目を覚ますと、彼がまだ眠たくないかと聞いてきて、私は首を横に振った。なんだか少し体を動かしたくて、部屋の片付けを始める。こんな感じで、何事もなく動ける日もあれば、びっくりするほど動けなくなる日がある。自分でもコントロールすることが出来ずに困っている。きつい思いをするのが私だけならまだいいが、彼を振り回してしまって申し訳がない気持ちでいっぱいだ。そんなことを思いながら、テーブルの輪染みを拭き、床に落ちたパンくずを集めていると、ソファの下に何かが落ちていることに気づき、手を伸ばす。指先に紙のようなものの角っこが触れた気がした。取り出すと、薄い灰色のノートだった。表紙は無地で何も書かれていない。そう。これはこの前テーブルの上に置いてあったノートだ。
「それ、何?」
背後から彼が聞いてくる。私は笑ってみせる。
「ソファの下にあった。なんでこんなとこにあるんだろう......」
「さあ、なんだろうね」
そう言いながら、彼は一瞬だけ目を伏せて、すぐに笑った。明らかに普通の表情でないことは私にでもわかった。
驚きでも疑問でも怒りでもなく、どこか吹っ切れたような笑いだった。眺めるだけでノートには触れてこない。
私は埃を払って、ページをめくる。
最初の数枚は何も書かれていない、ただの白紙だった。めくっていくたびに、なにか空気を少しだけ動かすような、そんな音がした。十ページ目あたりで、文字が出てきた。
〈俺だけのものでいい〉
一行だけ。次のページにも、同じ言葉。さらにその次も。赤いペンで、少し力が強い筆跡。ページの裏に、微かな滲みが透けている。視界が狭まっていく。私は勢いを落として、まためくる。
「......これ、あなたの?」
「そうだよ。自分のその時の気持ちとかを書いてると落ち着くんだよね。癖みたいなもんだよ」
彼は少しだけ眉を寄せたが、すぐに笑った。
「そう、......なんだ」
私は頷いたつもりだったが、体のどこかが遅れてついてくる。
車輪が床を転がるような音が遠くに流れ、廊下の方から足音も混ざっていたが、確かめに行ける状況でもなかった。
ページの端に、日付のような数字が小さく並んでいた。同じ文字が日をまたいで繰り返されている。漢字が混じっている行、平仮名だけの行、少し震えた行。
私はノートを閉じようとしたが、閉じる直前に、なにか別の言葉が見えた。
〈彼女には、他は何もいらない、邪魔だから、殺すしかない〉

――刑事(インタビュー)
「現場からは、ノートが一冊押収されています。表紙は無地で、中面には同じ文言が複数ページにわたって繰り返し記載されていました。」

「ねえ」
私はページをもう一度開き、閉じる直前に見えた言葉を指さした。
「これもあなたが書いたんだよね?これって、......どういう意味?」
そう聞いた瞬間、私は全てがわかった気がした。
「......まさか」
彼は私を見た。長い瞬きの後、やわらかく笑い、目の端に少し皺が寄る。
「そうだよ、俺がやった」
「......そっか」

そう、私には家族がいない。両親も兄弟も祖父母も。いないというか、いなくなったの方が正しいかな。
まだ家族がいた時から彼とは付き合っていた。私は厳しい家庭で両親も口うるさく、できないことも多かったが、それでも彼は私と付き合ってくれていた。厳しい環境で育つ私にとって、彼の存在は救いだった。家族がいなくなってからもそうだ。私をずっと支えてくれていた。
家族がいなくなってから、体も心も思うように動かなくなった。精神的なものから来ているかもわからなかったが、おそらくそうだと思う。いくら家庭が厳しかったとは言え、ショックが大きかったのかもしれない。
そうだね。家族がいない、いなくなった、どっちの言い方も正解で、正解ではないような気がする。

“私の家族は全員、殺された”

殺した犯人はまだわかっていない。動機も、どこにいるのかもわかっていない。
そんな出来事が降りかかった私だったが、彼がいてくれたおかげで幸せな日常を送れていた。
でも、私の家族を殺したのが誰なのか、今わかった気がする。

私はもう一度確認するように聞いてみる。
「私の家族を殺したのは、あなた?」
「そうだよ。だって、そうしたら君を独り占めできるでしょ?」
その言い方は、まるで当たり前のことを言っているみたいだった。部屋の空気がさらに重くなる。
私は自分の喉から出る音を整え、ゆっくり口を開いた。
「......そうなんだね」
答えた瞬間、何かがおかしいことに気づく。今、私が抱いているこの感情は、絶対にこの状況に適してないものだった。
「んふっ、んふふふ」
自分でもなんでなのか分からなかった。何も可笑しくないはずなのに、笑いが止まらなかった。
「......嬉しい、すっごく嬉しい」
気づいたら、声が出ていた。
「怖くない?」
彼は、そう言いながら私の隣に腰を下ろし、手の甲が、そっと私の膝に触れる。
「ううん」
私は首を横に振る。その瞬間、自分の体が少し他人のものみたいに感じた。
「あなたがずっと一緒にいてくれるなら、私は何をされてもいい」
さっきからおかしなことばかり言っているかもしれないが、それすらもわからなくなるくらい“嬉しい“という感情が大きかった。

私はもう一度ノートを見る。〈俺だけのものでいい〉その文字の途中に、細い余白がある。文字も、筆圧が強いところがあったり、弱いところがあったり、大きさも違ったりしている。その時に書いていた彼の感情が、紙の上に残っているみたいだった。
私はノートを閉じ、机の上にそっと置いた。
「これ、しまっておこうか」
彼が言う。ノートが彼の手に渡って、一番上の引き出しに入った。
「今日は、出かけるのやめよう」
「うん」
「ここで、一緒にいよう」
彼の言い方はお願いにも命令にも聞こえなかった。私は一度、目を閉じた。瞼の裏には、まだ赤い文字が見えた気がした。ゆっくり開いて頷くと、彼は安心した顔で聞いてくる。
「お腹、空いた?」
「少し」
「簡単なものでいい?」
「うん、ありがとう」
彼はキッチンへ向かう。私は引き出しを横目に見て、興奮している気持ちを落ち着かせる。

湯気が流れて、視界の端がやわらかく曇る。私は毛布の端を指で結び、ほどいて、また結んでいると、彼が戻ってくる。
「とりあえずスープ、熱いから気をつけて」
「ありがとう」
スプーンと皿の触れる音が、静かな部屋に響く。
「これからのこと、ゆっくり決めていこうね」
私は「うん」と答えながら、思う。これからは、今までより幸せな日々を送っていけそうだと。

――近所の人(インタビュー)
少し間が空いて、話し出す。
「......家族が殺されたそうですね。しかも、恋人に。
最初聞いた時は、何かの間違いかと思いましたよ。本人は相当ショックだったでしょうね、恋人に殺されるなんて。理由が、“他の人たちが邪魔だったから”だそうです。“自分だけのものでいい”って言っていたとか。好きも、行きすぎると怖いものですね。
結局、そのあとは上手くいかなかったそうですね。“捨てられた”って言うとちょっと言葉が悪いですけど、そういうことです。
まあ、当然のことですよね。」