朝、窓の外が薄く明るい。目を開けると、彼が私より早く先に起きていた。スープの匂いがして、小さな鍋から音がこぼれる。一口食べるたびに、喉の通りがよくなっていく。食べ終わると、彼が顔を上げて言う。
「少しだけ外の空気でも吸いにいく?」
「......あとででもいい?」
「いいよ。行きたくなったら行こっか」
ベランダの手すりが、朝の光を受けて白く光っている。風が抜けて、カーテンの裾がふわっと揺れた。遠くで、ガラガラと車輪の音がして、一定の速さで近づいては、やがて遠ざかっていった。
「引っ越し?」
「さあ。そうかも?」
彼は食器を流しに運んで、汚れていたテーブルの上を布で拭いた。整っていく様子を見ていると、不思議と心が落ち着く。
流しで水を出して、スポンジに泡を含ませる。泡立つ音とともに、今日の食事の跡が少しずつ消えていく。
洗い終わった皿を水切りに立てて、水を止める。
――文房具店の店員(インタビュー)
「よくノートを買いに来ていた子がいましたね。表紙が無地で、同じサイズばかり。線のないやつを好んでいたように見えました。“こういうノートありますか”と聞かれたときに、あの子、筆圧が強かったのか、ページが少し波打ってたのを覚えてます。」
食器を洗い終えると、昼が近づいていた。
洗濯機の音が静かになっているのに気づき、洗濯物を取り出して、ベランダに運ぶ。日の光を受けたシャツは少し温かくて、シワを伸ばしながらハンガーにかけていく。
シャツのボタンを留め直すと、風に揺れて形が落ち着いた。
部屋に戻ると、窓際の観葉植物が少し乾いていた。
ジョウロで水を注いでやると、土が静かにしみ込んでいく音が聞こえたような気がした。
昼、彼が昔の映画を見ていた。色あせた映像、ゆっくりとした台詞回し。最初は物語が入ってこなかったが、登場人物が不器用に笑う場面で、つられて笑ってしまった。横で彼が、私よりわずかに遅れて笑う。その遅れが、不思議と安心をくれる。
彼が気にかけてくれたのか「大丈夫?」と聞いてくれる。
「うん。ちゃんと面白いよ」
「よかった」
彼は安心したようにつぶやく。
画面の外からは「ピッ」と短く高い音が鳴る。私は反射的に目をやった。彼はリモコンを手に取り、音量を一つ下げた。音の正体は、それなのか、他なのか分からないまま、その音は消えた。
――担任の先生(インタビュー)
担任だったという男性が、机の上の書類をそろえながら言う。
「控えめな子でした。必要なことはするけれど、それ以外はしようとする気持ちが無いように感じられましたね。ときどき、手元の紙に同じ線を何度もなぞっていました。意味があるのかないのか、よく分かりませんでした。」
午後、彼は書きかけのメモを折って引き出しにしまった。私はその引き出しの上で、買い物リストを書こうとしたが手が止まる。何か書こうとしたときに、急にわからなくなって書けなくなることがある。牛乳、食パン、洗剤。書き出してみると簡単なものなのに、最初の一文字が紙の上で迷子になった。
「一緒に書こうか」
「うん、お願い」
彼は椅子を寄せ、ペンを握る私の手をそっと支えた。いつもの感覚が戻ってきた私を見て彼は手を離した。そして、表紙が無地のノートを鞄から取り出し、少し離れたところで何かを書いている。
それから少し時間が経ち、夕方、部屋の光が強くなった。外はまだ暗くはないけど、照明をつけたほうが落ち着くくらいだ。彼はフライパンを火からおろして、油の音がしずまるのを待っていた。できあがった夜ご飯にラップをかけながら彼は言う。
「外に出て、少し歩こうか」
「......少しだけなら」
ドアを開けると、夜の静けさを壊すかのように、遠くで金属のぶつかる軽い音がした。誰かの足音が、規則正しく一定の距離で往復している。私たちは同じ方向を見て、同時に歩き出した。歩幅を合わせるのが苦手な私に、彼が合わせてくれる。それから少し歩いて、折り返して家に戻った。
部屋に戻ると、頭とか心が軽くなっているような気がした。短い距離でも、外に出て散歩をできたことが嬉しい。彼は何も言わず、ドアの鍵を閉めた。
――近所の人(インタビュー)
近所に住んでいたという女性が、視線を宙に置いたまま話す。
「夕方、あの家の前を通るといつも静かでした。声がしないというのもそうなんですけど、というか、ほんとに何も聞こえない感じです。生活している気配はあるんですけどね。」
帰ってきてから、彼はフライパンに火をつけて夕食の支度をしてくれていた。油の弾ける音と、野菜の香りが部屋に広がった。食卓に並んだ皿から湯気が上がり、顔に触れる。温かいものを口にすると、自分がちゃんと存在しているんだなって感じる。少し大げさかもしれないけど。
彼は私の向かいに座り、食べるのが遅い私を何も急かすことなくいてくれる。
「明日も、君が少しでも楽しいと思える瞬間があったらいいな」
「うん、ありがとう」
その言い方は簡単なようで、難しいことを含んでいる。私はただうなずいた。言葉は少ないほど、意味をこぼさずに持てると知っていたからだ。彼は静かに笑い、椅子の背にもたれ直した。
寝る前に、もう一度だけ廊下に出る。誰かが通り過ぎる音、遠くで短く鳴るチャイムのような音、車輪のような音。説明のつきそうなものも、つかないものも、全部まとめて「見えない音」と呼ぶことにして、私は部屋に戻った。
「おやすみ」
「おやすみ」
目を閉じると、電気の白い光の余韻が瞼の裏に残った。私は、毛布の端を指に巻き付け、呼吸を整えた。音は減っていくが、彼の気配はそばにある。その事実だけを枕の下にしまって、ゆっくりと沈み込む。
――刑事(インタビュー)
短い沈黙のあと、低い男の声が続く。
「目撃情報は少ないです。通報も一件だけ。室内も整っていて、何か音を聞いた人もいませんでしたね」
部屋は静かだ。ベランダの手すりは、夜という暗くて不安定な中でもまっすぐだ。私は目を閉じたまま、その直線を思い描く。どこにも曲がらない線。折れない線。そういう複雑なものではなく、単純でぶれないものに寄りかかりたい。そう思うと、明日もまた頑張ろうと思えた。
「少しだけ外の空気でも吸いにいく?」
「......あとででもいい?」
「いいよ。行きたくなったら行こっか」
ベランダの手すりが、朝の光を受けて白く光っている。風が抜けて、カーテンの裾がふわっと揺れた。遠くで、ガラガラと車輪の音がして、一定の速さで近づいては、やがて遠ざかっていった。
「引っ越し?」
「さあ。そうかも?」
彼は食器を流しに運んで、汚れていたテーブルの上を布で拭いた。整っていく様子を見ていると、不思議と心が落ち着く。
流しで水を出して、スポンジに泡を含ませる。泡立つ音とともに、今日の食事の跡が少しずつ消えていく。
洗い終わった皿を水切りに立てて、水を止める。
――文房具店の店員(インタビュー)
「よくノートを買いに来ていた子がいましたね。表紙が無地で、同じサイズばかり。線のないやつを好んでいたように見えました。“こういうノートありますか”と聞かれたときに、あの子、筆圧が強かったのか、ページが少し波打ってたのを覚えてます。」
食器を洗い終えると、昼が近づいていた。
洗濯機の音が静かになっているのに気づき、洗濯物を取り出して、ベランダに運ぶ。日の光を受けたシャツは少し温かくて、シワを伸ばしながらハンガーにかけていく。
シャツのボタンを留め直すと、風に揺れて形が落ち着いた。
部屋に戻ると、窓際の観葉植物が少し乾いていた。
ジョウロで水を注いでやると、土が静かにしみ込んでいく音が聞こえたような気がした。
昼、彼が昔の映画を見ていた。色あせた映像、ゆっくりとした台詞回し。最初は物語が入ってこなかったが、登場人物が不器用に笑う場面で、つられて笑ってしまった。横で彼が、私よりわずかに遅れて笑う。その遅れが、不思議と安心をくれる。
彼が気にかけてくれたのか「大丈夫?」と聞いてくれる。
「うん。ちゃんと面白いよ」
「よかった」
彼は安心したようにつぶやく。
画面の外からは「ピッ」と短く高い音が鳴る。私は反射的に目をやった。彼はリモコンを手に取り、音量を一つ下げた。音の正体は、それなのか、他なのか分からないまま、その音は消えた。
――担任の先生(インタビュー)
担任だったという男性が、机の上の書類をそろえながら言う。
「控えめな子でした。必要なことはするけれど、それ以外はしようとする気持ちが無いように感じられましたね。ときどき、手元の紙に同じ線を何度もなぞっていました。意味があるのかないのか、よく分かりませんでした。」
午後、彼は書きかけのメモを折って引き出しにしまった。私はその引き出しの上で、買い物リストを書こうとしたが手が止まる。何か書こうとしたときに、急にわからなくなって書けなくなることがある。牛乳、食パン、洗剤。書き出してみると簡単なものなのに、最初の一文字が紙の上で迷子になった。
「一緒に書こうか」
「うん、お願い」
彼は椅子を寄せ、ペンを握る私の手をそっと支えた。いつもの感覚が戻ってきた私を見て彼は手を離した。そして、表紙が無地のノートを鞄から取り出し、少し離れたところで何かを書いている。
それから少し時間が経ち、夕方、部屋の光が強くなった。外はまだ暗くはないけど、照明をつけたほうが落ち着くくらいだ。彼はフライパンを火からおろして、油の音がしずまるのを待っていた。できあがった夜ご飯にラップをかけながら彼は言う。
「外に出て、少し歩こうか」
「......少しだけなら」
ドアを開けると、夜の静けさを壊すかのように、遠くで金属のぶつかる軽い音がした。誰かの足音が、規則正しく一定の距離で往復している。私たちは同じ方向を見て、同時に歩き出した。歩幅を合わせるのが苦手な私に、彼が合わせてくれる。それから少し歩いて、折り返して家に戻った。
部屋に戻ると、頭とか心が軽くなっているような気がした。短い距離でも、外に出て散歩をできたことが嬉しい。彼は何も言わず、ドアの鍵を閉めた。
――近所の人(インタビュー)
近所に住んでいたという女性が、視線を宙に置いたまま話す。
「夕方、あの家の前を通るといつも静かでした。声がしないというのもそうなんですけど、というか、ほんとに何も聞こえない感じです。生活している気配はあるんですけどね。」
帰ってきてから、彼はフライパンに火をつけて夕食の支度をしてくれていた。油の弾ける音と、野菜の香りが部屋に広がった。食卓に並んだ皿から湯気が上がり、顔に触れる。温かいものを口にすると、自分がちゃんと存在しているんだなって感じる。少し大げさかもしれないけど。
彼は私の向かいに座り、食べるのが遅い私を何も急かすことなくいてくれる。
「明日も、君が少しでも楽しいと思える瞬間があったらいいな」
「うん、ありがとう」
その言い方は簡単なようで、難しいことを含んでいる。私はただうなずいた。言葉は少ないほど、意味をこぼさずに持てると知っていたからだ。彼は静かに笑い、椅子の背にもたれ直した。
寝る前に、もう一度だけ廊下に出る。誰かが通り過ぎる音、遠くで短く鳴るチャイムのような音、車輪のような音。説明のつきそうなものも、つかないものも、全部まとめて「見えない音」と呼ぶことにして、私は部屋に戻った。
「おやすみ」
「おやすみ」
目を閉じると、電気の白い光の余韻が瞼の裏に残った。私は、毛布の端を指に巻き付け、呼吸を整えた。音は減っていくが、彼の気配はそばにある。その事実だけを枕の下にしまって、ゆっくりと沈み込む。
――刑事(インタビュー)
短い沈黙のあと、低い男の声が続く。
「目撃情報は少ないです。通報も一件だけ。室内も整っていて、何か音を聞いた人もいませんでしたね」
部屋は静かだ。ベランダの手すりは、夜という暗くて不安定な中でもまっすぐだ。私は目を閉じたまま、その直線を思い描く。どこにも曲がらない線。折れない線。そういう複雑なものではなく、単純でぶれないものに寄りかかりたい。そう思うと、明日もまた頑張ろうと思えた。

