警察(インタビュー)
「〇〇件で発生した一家殺害事件です。深夜、住宅内で複数の遺体が見つかりました。騒音の通報はなく、周辺住民の目撃情報も限られていました」

映像が切り替わるみたいに、場面は日常に滑り込む。

「こっち向いて」
呼ばれて顔を上げると、彼はマグカップを両手に包んでいた。窓の外は、夕暮れがゆっくりと色を落としている。
「まだあったかいよ」
受け取ると、指先から体の芯まで熱が移っていく。息を吸うと少し楽になり、胸の奥で固まっていたものがほどけていくような気がした。湯気には薄い紅茶の匂いが混じり、落ち着きを連れてくる。

「無理に気持ちを抑え込もうとしなくていいからね。泣きたいときは思う存分泣いていいから」
「.......うん、ありがとう」
彼の声は棘が無く柔らかい。だけど、胸の奥深くまで届く。余計な強さが無く、ただ支えるためだけに置かれた言葉のようだった。言葉の後に残る静けさも、嫌じゃなかった。
テーブルの隅にノートが一冊、裏返しで置かれていた。私がそのノートを気にするように見ていると、彼は、そっと手に取った。
「ただのメモ帳だよ。すぐ忘れちゃうからさ」
「えらいね」
彼は肩をすくめて笑う。その笑い方が好きだと、言葉にするまでもなく分かってしまう。私は同じ笑い方を真似しようとしたけど、うまくできず、息だけが抜けた。

――近所の人(インタビュー)
「夜中に救急車の音が聞こえましてね。この辺りは静かな住宅地なのでよく聞こえるんですよ。家族仲は良く分かりませんね。門には高い柵があって、いつもきれいにしてましたよ。玄関先の鉢植えも季節ごとに変わっていたようでしたし」

玄関の向こうで、硬い床を踏むような小さな足音がした。隣の部屋の人だろうか。夜の廊下は音がよく通る。彼が「宅配かな」と耳を澄ます。だがインターホンは鳴らない。私はスリッパの音を重ねないように、確かめに行こうと足でそっと床を押しながら動いた。やがて、足音は遠ざかっていった。今度は、耳を澄ますと水が一滴、落ちるような音。どこから聞こえるのかは分からなかった。少しの間を空けて同じ音が続く。
「どうかした?」
「.......なんでもない」
そう答えると、彼は表情を緩めた。

――同級生に女の子(インタビュー)
「彼女、昔は放課後にまっすぐ帰っていたんです。家が厳しいって言ってました。そういえば、ある時期から人前で泣かなくなって......あ、彼女よく泣く子だったんですよ。でも、泣かなくなって、強くなったというか。その時期、誰かと会ってるって噂はありました。」

彼はキッチンに立ち、マグカップに追加でお湯を注ぐ。湯気が白く上に伸びていき、照明の光に溶ける。私は椅子の背もたれに体重を預け、肩の力を抜いた。
「最近、また笑うようになったね」
「そうかな」
「うん。君が笑ってると、何でもできるような気がするよ」
思わず笑ってしまう。大げさに聞こえるのに、彼が言うと冗談みたいに軽くなる。笑った拍子に思わず涙が出そうになる。

窓の外に目をやる。ベランダの手すりが街灯の光を浴びていた。その瞬間、部屋の光が一段と強く感じられた。カーテンは薄く、外の光をよく通すからだろうか。すると、窓ガラスの向こうに影の動きが見えたような気がした。
「寒くない?」
「平気だよ」
そう言いながら、指先の温度を確かめるようにマグカップを握り直す。

――同級生の男の子(インタビュー)
同級生の男の子が、視線を落としたまま答える。
「事件の少し前、彼女、“彼と一緒に居ると安心する”って言ってました。普段はあんまり笑う子じゃなかったのに、そのときだけは明るくて。ちょっと意外でした。」

カリ、カリ、と隣の部屋で鉛筆が紙を削るような音がする。気のせいだと思って、呼吸を整える。やがて、音は薄れていった。
彼はミトンを外し、小皿にクッキーを並べた。
「甘いの、少しなら食べれる?」
「うん、ありがとう」
噛むと、ざく、と食感が鳴る。胸の重さが少しだけ軽くなる。甘さが舌に残り、口の中から水分を奪っていく。

それから少し時間が経って、「少し外に出よっか」と彼が提案してくるが、私は首を横に振った。
「もう少し、ここがいい」
「わかった。じゃあ、もう少しゆっくりしよっか」
彼は椅子を私の方へ引き寄せ、目線の高さを合わせた。その距離は近いのに、押しつけがましさはない。必要な分だけそばにいるって感じ。それ以上は踏み込まず、だけど離れはしない。私はそれがすごくありがたかった。

遠くで金属が触れ合う乾いた音がした。何の音だろう、と考える前に消える。彼は気づかなかったのか、気づいていて触れないのか、どちらとも取れる顔でマグカップのふちを指でなぞっている。

「君がここに居てくれるならそれでいい」
彼が急につぶやく。その言葉は、柔らかいのに輪郭がはっきりしているようだった。掴めば、手を切りそうなほどに。私はうなずいた。うなずく他に、正しい返し方を知らない。
「......うん」

部屋の時計が一度だけ音を立てて、それきり黙った。
秒針は動いているのに、音だけが戻ってこない。
その違和感を考えるより先に、湯気が私の視界を曇らせる。
彼は変わらず微笑んでいた。まっすぐな視線のまま、何事もないように。
「明日は、もっと楽しくなるといいね」
「うん、そうだね」
言葉を交わすたび、胸の底の重石が少しずつ小さくなる。そこに空いた隙間を、彼の声と言葉がゆっくり埋めていく。

――近所の人(インタビュー)
カメラの枠の外で、質問者が短く息を吸う気配がする。
「......家庭内のことはよく分かりません。ただ、あの家の前を通る時は、いつも異常なほど静かで。朝も夜も静かでした。それを考えると、あまり家庭内の環境も良くなかったのかもしれませんね。」

テーブルの端を指でなぞる。木目の溝に、爪がやわらかく引っかかる。私はマグカップを置き、深呼吸をした。ここにいると、世界の音が少なくなる。彼といると、言葉の数も減っていく。それは不便なことではなく、むしろ救いに近かった。
「ねえ」
と呼びかけると、彼は「ん?」と目だけで答えた。
「ここにいてくれて、ありがとう」
彼は小さく笑い、うなずいた。

外で、誰かの足音がして通り過ぎる。床を伝って、音の余韻だけが薄く残る。私はそれを聞きながら、カーテンの隙間から漏れる光に目をやる。白くて、やわらかくて、均一な明るさ。
夜のはずなのに、光のせいで、いつもの夜の暗さとはどこか違っていた。
それでも、気にならない。今はこの静けさで十分だと思えた。彼がここにいて、私がここにいる。それ以上の説明は、たぶんいらない。

――刑事(インタビュー)
「通報は近隣住民から一件だけ。室内は整頓され、窓の施錠も確認されています。音を聞いた者は、いませんでした。」
低い男の声が、記録の奥で短く途切れた。

私たちは寝室に移動した。湯の入ったポットが、コポ、と小さく鳴る。部屋の電気がわずかに明滅して、すぐに安定する。私は首元まで毛布を引き寄せ、彼の横顔を見た。穏やかで、表情は変わらない。
「大丈夫。ここにいるから」
その言葉が、遅れて心に届く。波が足に触れて、静かに引いていくときの感覚に似ている。
私は、そんな感覚に浸りながら、目を閉じる。