嘘つけよ。誰に笑顔見せてんだよ。
嘘つけよ。あと二ヶ月でその日だったのに。
嘘つけよ。私の存在なんて二番手以下なのかよ。
二十五歳、二十五歳になったら一緒に死のう。
あんたの言葉は空気に触れていつの間にか風化してしまっていたらしい。
*
今年は蝉の声すら聞こえない。むせ返るほどの暑さは湿気と日差しとのトリオで手を繋いで仲良くやって来ていたせいか、蝉すら引きこもっているようであった。
蝉の声が聞こえない代わりに多目的ホールには進路担当の先生の声が響いていた。「この夏、最後の進路選択をするように。一度きりの人生、自分のためによく考えてください」と無難な言葉。そんな言葉に響いた生徒はいるのだろうか、いやいない。辛うじて楽しく勉強できていた時代の知識を活用して脳内で皮肉を言いながら視線を動かして辺りを見渡してみた。
進路担当の先生の言葉はエアコンのぬるい風に溶け合って、生徒たちの頭上で散りじりになっているようであった。その様子は微睡の中にいる生徒や参考書を持参して瞳に写している生徒、天井を眺めている生徒と様々だった。グォンと音を立てながらエアコンが風向きを変える。その音と冷気がなぜか私に直撃して少し身を縮こまらせた。
一度きりの人生、自分のためによく考えてください。
その言葉がエアコンの風と一緒になって私に直撃する。うるさい。分かっている。そう思いながら、慌てて視線をステージ上に戻す。締め括った進路担当の先生は学年主任と進行を交代しており、いつの間にかステージの上から降りていた。
そろそろ集会も終わる。大人にとっては、先生にとっては毎年恒例の行事なんだろう。淡々となれた段取りで進められていく集会。前期生徒会長が挨拶をして、私たちはいつものようにいつもの段取りで自分たちのクラスに戻るのだ。
分かってるよ。人生一度きりしかないことは。分かってるから、集会中に課題プリントを添削する先生がいると冷めるんだよ。分かっているから、集会中に先輩やインターネットで聞いたような見たような言葉を言われると冷めるんだよ。
そう思っていると私たちのクラスが多目的ホールから退場する番になる。ふと、二階席を見上げてみた。なんとなく、本当になんとなくだった。
梅雨も終わりがけだというのに長袖の女の子。初めて見る顔。いや、入学式の時見たことある顔だった。私はなんとなく前の友だちに後ろから「ねぇ」と話しかけた。
友だちは先生に見つかって怒られるのが嫌なのだろう。これでもかと眉を顰めながら正直な声色で「んだよ、みのり」と視線だけ振り返った。
私は小声で「二階席、あれ誰」と聞くと、友だちはそっと顔を上げて確認をしてくれたようで面白くなさそうに私を見下ろした。なんでもないかのように「ハルカワ、ハルカワマナミだよ。喘息ひどいらしくて殆ど教室にいない奴」と前を向いてしまった。律儀に教えてくれた友達にお礼の蹴りを軽く入れつつ、私はもう一度ハルカワマナミを見た。
ハルカワマナミは、凛と背筋を伸ばしてそこに存在していた。彼女だけが一度きりを体現している。しっかりと左手にはシャープペン、右手にはメモ帳と真剣にそこに存在していた。羨ましさまで感じてしまうような真っ直ぐさ。私には持ちえない懸命さ。その全てに言いようもないほどの喉の渇きを覚える。
その渇きを早く潤してしまいたい。私はそう思ってはみ出しの無い列の流れに従ってクラスに戻る。
「つうかさ進路どうすんの。俺ら同じ看護学科志望だからオーキャンの情報共有しろよ」
「まって今喉乾きすぎて無理。それどころじゃない」
友だちの声を制して私は手持ちの水筒の残りを一気に飲み干す。多目的ホールで感じた渇き。ハルカワマナミを見て感じた渇き。それらは適切な水分補給によって対処された。
私の一気飲みを見て友だちは大きく笑い、その笑いに誘われて近くにいた他のた友だちも笑ってくれていた。いつも通りだ。みんなと笑ってなんでもない日を過ごして、なんでも無い進路を選べばありふれた毎日だ。
私は水筒をカバンに戻しながら「水分補給しただけでウケるなんてさ。私芸人なれちゃうかも」と適当を言えば、またみんなが「寒い寒い。ジョークが滑ってる」と笑ってくれた。私にとってこれが私の人生なのだ。
エアコンがその場を適切な温度にするために稼働するように、私は周りの空気に合わせて私を動かす。私という媒体が、誰かにとっての潤滑油になるように私は動く。
「今確認してきたら集会終わったらすぐ部活行っていいって」
その声を聞いてすぐさまロッカーから持ち帰るべきものを取りだす。「明日、英語小テストだからな」隣からそんな声が聞こえて来たので、「分かってる」と言いつつ机の中に置き去りにしようとしていた英語の参考書を出した。乱雑にリュックの中に振り込んで、一目散にクラスから飛び出す。
来週末の地区大会予選。それに負けたら私たち三年は引退だ。私たちのチームはよくて二回戦行きが関の山だろう。ただそれを私がいうのは違う。私は一生懸命に取り組む姿勢を見せなければいけない。そういう役割だから。そう思いながら廊下を走った。走る道中、他学年の先生から「走るな」と注意されたり他学年の子から「遅刻ですか」と話しかけられたりした。
廊下にも階段にも人、人、人。人も数だけ視線があり、二つの瞳が向けられる。瞳の中に映る私が実像だ。私自身は虚像であり、何者でも無い。
廊下の窓をチラリと見やる。薄い水色の空。薄い水色の空の上には薄い白色の雲が小さくまばらに浮かんでいる。風が強いのか薄い雲たちは何秒か後にはばらけて水色の空に吸収されていく。少し遠くに視線を移す。遠くの空には濃い灰色の大きな雲。一雨きそうだ。そう思いながら視線を前に戻した。
今日の天気予報は晴れだったんだけど。そう思いながら階弾を駆け降りて、残すところあと四段で飛び降りてみた。小学生の時と比べてやっぱり身体が重い。なんなら一ヶ月前の自分と比べても身体が重たい。こんな些細な変化でさえ痛感するのだ。例えジャージのズボンを履いていたとしても、例え髪がどんなに短くとも。痛感させられるのだ。女性だということを。
「わっ」
声が聞こえた。着地点で声が聞こえた。多目的ホールで見たボブの女の子。線が細くて華奢な女の子。思っていたより高身長なようで平均身長の私を軽く見下ろしている女の子。
そんなハルカワマナミがいた。
ハルカワマナミは私をじっと見ている。彼女の大きな瞳には膝の擦り切れたジャージと、たくさんのキーホルダーがついたリュック、眉上の前髪のベリーショートの髪型。そんな人物がはっきりと映り込んでいた。
ざわめきが遠のく。ゴールデンウィークに友達の家で見た初代ウェストサイドストーリーのヒロインとヒーローの初対面のように、周囲の輪郭が朧げになって、私は彼女を見るしかなかった。
「知ってるの。私のこと」
嬉しそうに彼女は尋ねる。私は押される形で「噂で」と答えた。すると彼女は分かりやすく肩を落として「だよね」と呟いた。意味が分からず私は彼女を見つめる。
少し見上げる形で彼女を見上げると分かったことがある。ワイシャツのボタンを第一ボタンまでキチンと閉め、そしてスカートの長さも膝より少し長め。髪の毛は手入れされているが、一本一本が細いのか少し痛んだ様子が伺える。
「体調、いいの」
私がそう聞けば彼女は食い気味に「うん」と言った。思っていたより大きな声が出たのだろう。彼女は驚いたように口を押さえ、変なところに唾でも入ったのかむせ込んでいた。
喘息。その単語を聞いていたので思わず駆け寄って気休めに水筒を取り出して彼女の隣に立った。
「優しいね。根本さんは」
「自己紹介したっけ」
思わず聞き返すと彼女は首元から徐々に赤くなっていく。笑っていた彼女はいつの間にか泣きそうな顔をしながら視線を右往左往。既に彼女の瞳には私なんて映っていなくて天井の模様が映り込んでいた。
あんなところにシミなんてあったんだ。彼女の瞳に映り込む天井を見ながら次の言葉を待つ。黒くて太めの髪の毛がさらりと頬に落ちて影を落とす。
「い、一年の頃からずっと体育大会とか、頑張ってたでしょ。私、遠くから見てて」
「なるほど」
私の相槌を合図に彼女はパッと顔を上げた。隠れ始めていた瞳がきらりと光っている。ああ、この輝きを知っている。川の水面だ。部活で外周をするときに走る河川敷から見える水面だ。太陽の日差しを受けて爛々と生命の輝きを放つ光に似ていた。何者にも縛られることのない光に似ていた。自然だった、全てが自然だった。
「ごめん気持ち悪いよね」
その光が、自由が陰るとことなんて見たくない。私は食い気味に「そんなことない」と大きく声をあげて彼女の頬に手を当てて下を向かないようにした。
なるほど、彼女の瞳は茶色いのだ。だから光を受けてキラキラと輝きを放っているかのように一層思うのだろう。
「根本さん、君は何をやっているんだい」
現実。現実が声をかけた。その声に彼女は肩をびくりと震わせてから、大きく一歩、小さく二歩後退り。手のひらから離れていく熱がじんわりと冷たさに変化していく。冷たさは胸の中に起きはじめていたあたたかさを冷やすには充分だった。
「私のこと知っているって言ってくれたので嬉しくて」
「折角の友だちを怯えさせないように」
「はぁい。先生」
私は適当に返事をした。その適当さを先生も気がついたようで、「まったく根本さんは調子がいい。部活頑張るんだよ」と別れの言葉をかけてくれた。そろそろ部活に行けという合図だろう。その合図通りに私はこの場から離れることにした。
「ともだち」
離れる前に声がした。その声の方に視線をやると眩しさ。先ほど感じた輝きがあった。
「私たち、ともだちなの」
そんな大きな声出せるんだとか、自分より背が高い人が近くで見下げてくると威圧感あるなとか、そんなどうでもいい感情を抱きながら目の前の彼女を見た。先ほどより顔を赤くして、先ほどより早く肩が上下している。彼女は今、私に何を思っているのだろう。多分、私が予想できるくらいの可愛い事を思っているのだろう。
私は笑いながら彼女を見た。震えている手をそっと握って私は微笑む。
「聞かないでよ。そういうことは」
「で、でもさ」
「いいんじゃない。そういうことにして」
そう言いながら私は彼女の手を離す。今離さないと、いつまで経っても部活にいけない気がしたから手を離す。
「話に来なよ。待ってるから」
駆け出した足はいつもより軽かった。彼女の視線を受けながら走る背中は晴れやかだった。なんだか色々な煩わしさが吹っ切れそうな風が吹いた気がする。確信も確証もない。ただその風が、新しさが、私の中で絡まりに絡まった玉を解いてくれそうな気がした。
空が鳴る。ゴロゴロと音を立てて空がなった。ドラムロールのようにも感じるその音を感じながら私は足早に部活へ向かう。
雨だ。それも土砂降りの雨。降り頻る雨は天井や地面に殴り捨てられている。バチバチと音を立てながら、雲の中で鈍く音を響かせながら、雨は暴れ回っている。
「みのり、あんた傘は」
「職員室で借りてくるわ」
「待った方がいいかな」
「先帰ってて、待ってる間にもっと酷くなったら申し訳ないし」
チームメイトとそんな話をして分かれる。心配そうな視線を多々感じつつ、私は気がつかないフリをして校内に戻った。
家に帰りたくないな。ぼんやりと思いながら廊下を歩く。既に廊下の電気は必要最低限の灯りのみで暗さが際立つ。時折空が光るので瞬間的に明るくはなるが、持続性はなく暗さが続く。
ジー、ジー。胸ポケットに入れていたスマホが鳴る。バイブレーションの振動が鼓膜まで揺さぶってきた。嫌な予感がしながら持ち上げて表示名を見ると『お母さん』という文字が浮かんでいる。深呼吸をして私は応答ボタンをタップした。
「もしもしみのり。今、まだ学校かな。悪いんだけど、学校から帰ったらおばあちゃんのお風呂とご飯のお手伝いお願いしてもいいかな。お母さん今、ひいおばあちゃんの付き添いで病院にいてね。ごめんね、ちょっと、今みのりに説明してるから。ごめんね、ひいばあちゃん、ばあちゃんがしてたトイレ介護の途中で転倒しちゃったらしくて、それ以来ずっと痛い言ってるって、ばあちゃんが教えてくれてね。仕事早退して病院きたんだけど、なんか思っていたより怪我もなんだけど、病気も、悪いみたいで。その、また話すんけど、もしかしたらひいおばあちゃんの容態的に来週厳しいかもしれなくて。それとおばあちゃんひいおばあちゃんを転ばせたことがショックだったみたいで、ちょっと様子おかしいから、みのりしっかりしてるし見てほしくて。とにかく、それだけは伝えておかなきゃと思って電話した。おばあちゃんをよろしくね」
弾丸。とりつく島もない。そんな言葉がよく似合う電話だった。要件だけ、大事なところだけを取り留めなくお母さんは私に伝えて電話を切った。余裕のない声だった。後ろで誰かに話しかけられていて急いでいる様子だった。多分、お母さんにとっても予想外のことだったのだろう。だから理解しようと思う。理解はしたいと思う。
私はスマホの電源を切ろうとして、でも切れなくてせめてもの抵抗でリュックの奥にしまい込んだ。片腕をリュック紐に通し直して、そして深呼吸をして真っ直ぐに窓を見た。
黒々とした雲が目の前を覆っている。いつの間にか目の前も遠くもめ見えないようにするかのような、まるで簾のように縦に落ちていく雨。
私は職員室に向かう。日常はそんな暗闇にも適応してくれるようで、意識せずとも電灯のつく職員室にたどり着くことができた。本来は手荷物を置いて職員室に入室しなければいけないのだが、今はそういうことを守れないと思った。せめてそういう些細なこと位は抵抗させて欲しいと思いながら「失礼します」と大きな声で職員室に入室した。
「根本さん、リュック」
タイミングよく顧問だ。私はヘラヘラ笑いながら顧問に走り寄った。
「傘貸してください。あと、来週の大会なんですけど」
「あぁ根本さん、この間の練習試合みたくユニホーム忘れないでね。根本さんがエースなんだから」
「すみません、なんか、ひいばあちゃん病院で長くないかも言われたみたいで、来週の大会補欠にしてもらえませんか」
一瞬。ほんの一瞬。職員室の音が止まった気がする。けれどすぐにコピー機に吸い込まれる用紙の音、パソコンのキーボードを叩く音、採点をするマーカーの擦れる音が響き渡る。
「そう、もしかしたら大事ないかもしれないから、根本さんがレギュラーのままでいくのは変わらないけど、もしかしたらがあると心に留めておくね。傘、だよね。先生のカッパもあるけど、どっちがいいかな」
「傘でいいです」
顧問は背を向けて駆け足で傘を取りに行く。そして柔らかく眉を下げて、柔らかい声で「困ったことがあったら相談してね」と言いながら傘を差し出す。傘だけ受け取ろうとしたら、手を握られて「大丈夫だよ」と言われた。何がという言葉が喉から出かかったが、「リュックも濡れそうだし、特別に先生が濡れないようにゴミ袋をかけたあげよう」という言葉が先に聞こえたので引っ込めた。どうにか笑顔で「ありがとうございます」と言って、ゴミ袋でガードされたリュックが出来上がるまでその場に立っていた。
「できたよ」と言う優しい声が聞こえたとき、私は足早に職員室から退出することを優先した。暗い廊下に出たと思ったら、急に電気がついた。何となく電気のスイッチがあったはずの後方を振り返ると担任が「雨、気をつけて帰りなさいよ」と大きな声で言っていた。私は会釈だけして走る。
いつもなら「走るな」と声がかかる廊下を私は走った。だが今日は声がかからない。
かけろよ。いつも通りに。困ってよ。私を気にせず。怒ってよ。私の代わりに。
飲み込んだ言葉が胃から逆流して吐き出しそうになる。乱暴に階段を駆け降りて、そして最後四段飛ばしで飛び降りてみた。馬鹿なことして私も怪我をしたらいい。そうしたら全て諦められる。でも、最後四段なんて怪我をする高さではない。運動している人間からすると、そんなにハードルの高くない飛び降りだ。
勇気のない自殺。私はいつもこの飛び降りをするたびにそう思う。勇気がない。家族を見捨てる勇気がない。先生に無茶を言う勇気がない。友達に打ち明ける勇気がない。
ただ自分のやりたいことを、言いたいことを押し殺すために行うルーティン。そんな勇気のない自殺。それが最後四段残して階段を飛び降りる理由だった。
「すごいね」
着地と同時に明るい声が響く。
「ハルカワマナミ」
彼女だった。部活に行く前にあった時より、うんと明るい声で明るい表情で彼女は私に話しかけた。能天気なほど明るくて楽しげな声。彼女は「えっと、ママが仕事終わりなら迎えに行けるって連絡くれて、それで今まで自習していたの」と照れながら私に語りかけてきた。
彼女は聞いてもいないのに私に現状を説明してくる。頼んでもいないのに私の後をついて来る。眩しい笑顔を浮かべながら、彼女はとうとう生徒玄関の屋根ギリギリまでついてきた。
「来週大会なんだってね。もしよかったら応援しに行ってもいいかな。私、友達の大会応援するとかやってみたくて」
限界だと思った。打ち付ける雨が痛いくらい鼓膜に響く。うるさい。全てがうるさくて堪らない。
「うるさいな」
耳鳴りがする。自分から諦めるのと急に取り上げられて諦めなくてはいけない状況は全く違う。もう、全て煩わしい。
「こっちは疲れてんだよ」
声を荒らげ初めて誰かに言ってしまった。はたと気がついて彼女を見る。彼女はまんまるに目を見開いて、そして間抜けな私を瞳に映していた。そして戸惑いがちに「ごめん、疲れてるよね、部活終わりだもん」と震える声で彼女は私を理解しようとした。
あんたに私が分かるかよ。迫り上がった言葉が喉を焼く。熱くて熱すぎる言葉が喉元から顔まで焼いていく。
「ごめんね、分かってあげられなくて」
彼女の言葉で限界だった。私は思わず傘を彼女に押し付けて走り出した。ここから逃げたい。その一心で走り出した。
なぜか後ろで鈍臭い足音を立てながら追い変えかけてくる彼女の声が聞こえたが、振り返らなかった。振り返れなかった。
なんで、被害者面しないんだ。なんで八つ当たりされているのに受け入れられるんだ。そんな矛盾だらけの感情を抱えながら私は走った。
水たまりも上から振り下ろされる強い雨も何もかも気にならなかった。ただ焼けた喉を身体をどうにかして冷やすことだけ考えた。
そこからどう帰ったのか覚えていない。ただ玄関を開ける音におばあちゃんが「おかえり」と出てきてくれて、ずぶ濡れの私を見るなり悲鳴のような声をあげてタオルで拭いてくれたことだけは覚えている。
優しく私を抱きしめながら濡れるのも構わないで「みのりは優しい子だもんね」と言ってくれた。小さい子をあやすみたいに背中を一定のリズムで叩くおばあちゃん。抱きしめられておばあちゃんの心臓の音がどくどくと耳に響く。その全ての音に包まれながら私は思う。
優しくなんてない。優しかったら私は彼女に八つ当たりなんてしていないはずだ。優しかったら先生の思いやりにもっといい態度でいたはずだ。優しかったらお母さんからの電話で直ぐに家に向かっていたはずだ。優しかったらなんでとなんて思うことなんてないはずだ。
おばあちゃんは「ごめんね。全部ごめんね」と優しい声で言う。
なんだかそれだけで、許してしまえる自分がひどく情けなかった。
情けない、ついでの話。
週末、ひいおばあちゃんのお見舞いに行った。怪我をしてから生気が抜けたようで痩せ痩けたひいおばあちゃんがいた。驚きながら入り口で立ち尽くしていたら、ひいおばあちゃんが私を手招きした。枝みたいに細くて、皮が骨にくっついているだけの肉体。その肉体の持ち主が私を手招きした。
お母さんがひいおばあちゃんのそばで私を呼びかけるけれど、思うように足が動かない。多分始まろうとしている流れに抗っているつもりだろう。でも痺れを切らしたお母さんに手を引かれ、ひいおばあちゃんのそばの椅子に座らせられる。ひいおばあちゃんの口元がよく見える距離で、表情がわかる位置で私は座った。
「ありがとうね、きてくれて」
「うん」
返事をするのがやっとで私はぎこちない笑顔を浮かべた。後ろで扉が開く音が聞こえた。おばあちゃんがトイレから戻ってきたようだった。
「ばぁばの骨、拾ってね」
息を呑んだ。私はこの時、人でなしになるか、人で居るかで選択を迫られていたのだ。事前にひいおばあちゃんは多分、火曜か水曜には危ないだろうと教えられていた。と言うことは葬儀が週末に行われる可能性が高い。この約束をしてしまえば、高校最後の大会に参加することすら叶わない。そう理解して私はどちらを選択するか迫られた。
お母さんは「もちろん」と「みのり約束してあげて」と私の肩を震える手で支える。お母さんはひいおばあちゃんと仲良しだったから、私よりひいおばあちゃんの味方をするようだ。
「ちょっと」
低い声がした。おばあちゃんが眉を顰めながらお母さんとひいおばあちゃんを睨みつけている。その燃えるような感情。このまま家族の繋ぎになることを選択するには十分な感情だった。だからその姿に思わず私は「分かった」と大声で叫んだ。
「ひいおばあちゃんの骨、拾うよ」
「ありがと」
「でも、死なないで」
「ありがと」
ひいおばあちゃんは泣いた。お母さんも泣いた。一人だけ怒っているおばあちゃんのことに気が付かず泣いた。
私はおばあちゃんのためにこの状況を受け入れた。自分の母親の死に際に、娘と喧嘩する姿を見せるなんて悲しすぎる。おばあちゃんの優しさに報いるために、私は人であることを選んだ。
ただ、そんなつまらない話。
結局ひいおばあちゃんは予告通り死んだ。だから高校最後の大会は葬式で飛んだ。チームメイトにばあちゃんが死んだ日に、「ひいばあちゃんの骨拾う約束しちゃったから、葬儀行かなきゃなんだ。大会、勝っておいてよ」と明るく言ったつもりが同じ三年に泣かれてしまった。
粉になる前に白く上がる煙を見てお母さんは泣いていた。おばあちゃんは喪主なのでその場にはいなかったが、別れる前に私にだけ「ごめんね、ありがとうね」と泣いてくれた。それだけで少しだけ救われた気がして私は笑った。
ひいおばあちゃんの骨は塵みたいに軽くて、ほとんど粉だった。私との約束はこんなに軽かったのかと肩透かしをくらってしまった。
高校最後の大会はどうやら私が出るまでもなく敗退したらしい。葬儀が終わった三日後、引退式の紅白戦をして私たちは引退をした。チームメイトたちが、後輩が泣くからなんだか笑うしかなくて私は「ありがとう」とみんなに伝えた。
「根本さん」
引退式の次の日、なんとなく帰りたくなくて図書館で時間を潰していた。おばあちゃんがお母さんに対して怒ることが増えていた。お母さんはひいおばあちゃんに影響を受けているので結構な古風な考え方をするのだ。
最近揉めているのが私の進路だ。ひいおばあちゃんは常々「女の子は手に職になる学問以外は進学しなくていい」と言っていた。更に「うちは女が強い家系だから、みのりちゃんが介護士か看護師になってくれたら皆んな安心だね」と言っていた。それもあってお母さんは、私を介護士に促したいみたいだった。介護がちゃんとできていたら、ひいおばあちゃんがもう少し長く生きていたんじゃないかと思っているのだろう。だからもう存在しないひいおばあちゃんに報いるために、介護士を勧めてくる。
私はその二つなら看護師が良かった。この地元から出られる口実が看護師の方が多かったから。ちょっとで良い。看護学部がある大学の近くに下宿するだけでもいい。介護士は実家から通える距離に専門学校も大学もある。看護学科の大学は実家から距離が遠いのだ。だからせめてもの抵抗で看護師を選びたかった。
それをばおばあちゃんは汲んでくれたのだろう。家に帰るとお母さんから進路の話になって、そしておばあちゃんが「みのりの好きにさせなさい」と止めるのだ。
その攻防がキツい。キツいから帰りたくない。
「根本さん」
「ハルカワマナミ」
「良かったら、河川敷で話さない」
柔らかい笑顔を浮かべて彼女は尋ねてきた。
「風邪、大丈夫なの」
「知ってたんだ」
彼女はクスクス笑う。彼女に八つ当たりをした次の日、どうやら彼女は風邪を引いて一週間ほど欠席していたらしい。そう、先生に聞いた。
「悪いと思ってるんなら来て欲しいな」
「あんた、結構性格悪くないか」
そう言うと彼女は声をあげて笑った。楽しそうに私に笑顔を浮かべて笑っている。その彼女に呆気に取られていると、彼女は私の手を引いて図書館から連れ出してしまう。下駄箱、生徒玄関、河川敷。あっという間に目的地に来た。
「私、結構性格悪いんだよ」
やっと返事が返ってきた。夕焼けに照らされる彼女を見ながら私は困惑するばかりだった。彼女が何を求めているのか分からない。流れに合わせてきた私は彼女の流れが一つも読めず混乱するばかりだった。
そんな私を見つめて彼女は笑う。この間初めて会った時とはお互い逆のような態度。彼女は「思ったんだ。風邪で寝込んでいる時」と柔らかく呟く。
河川敷で川の水面が光を反射して視界の端に煌めきがちらつく。その煌めきが視界の端にチラつくのが眩しくて視線を逸らす。
黒と白、長袖を着た野球部の集団走りこみの掛け声。灰と茶、夏至が過ぎ梅雨前線が消え去った河川敷で焼けこげるミミズの姿。赤と橙、河原で沈む夕焼け。緑と青、梅雨を経てたんと栄養を吸収したどこにでもある背の高い雑草。紫と桃、夕焼けに照らされて見えた乾燥して皮がむけている唇。
視線を逸らした代わりに色々な色が見えてくる。最後見えた色がそっと大きくなる。
「なんで、私だけって思うよね」
歌うように彼女はいう。
「特別不幸なわけじゃないよ。でもちょっとした嫌なことが積み重なってなんで私だけって思うよね」
そうなのだ。特別不幸ではない。だから逃げ場がないのだ。私は彼女の言葉に思わず強く頷いてしまう。ありふれた嫌なことはタイミング悪く私に降りかかっているが、特別に不幸なわけではない。これくらいで不幸ぶっていると世の中のもっと不幸な人に申し訳がない。だから私は笑うしかなかった。
笑うしかなかった私は初めて顔が熱くなるのを感じた。初めて飲み込んでいた言葉が喉からでる。
私が我慢すれば多分、外から見たら幸せなんだよ。
そう言いたかったのに空気が喉でつっかえて上手く言葉にできない。ひゅうひゅうと喉に渇いた空気が通る。目尻は生暖かい水分が伝って気持ちが悪かった。
そんな情けない私の隣で柔らかく笑いながら背中をさする彼女。一言文句でも言ってやりたい。そう思って顔を見やる。見つめていると彼女ははらりと頬に輝きを一滴、二滴と零しながら言葉も零した。
二十五歳、二十五歳になったら一緒に死のう。
あんたの声が言葉がずっと、ずっと鼓膜を揺らしている。未だに、揺らしている。揺らした言葉はいつの間にか身体の中に入り込み、内側から私を再構築する。構築していく道中、言葉は分解され身体の管という管を通っていろんな場所を巡った。そんなお守り、信仰が胸を詰まらせるには充分過ぎるものだった。
それが私のお守り。
*
「それでは新郎新婦の新たな門出に盛大な拍手をお願いします」
真っ白で純白をもした裾の長い衣装を見に纏い、あんたは隣のよく分からない男と歩き出した。笑顔で両側の列席者に感謝を述べながらあんたは歩き出した。その笑顔は私ではなく、よく分からない隣の男向けられていた。
誰だよ。そいつは。あんたが電話で、一年に一回二人で小旅行するときに話してた奴かよ。嘘つけよ。私との約束は覚えてないのかよ。
手には生花がいつの間にか握られている。遠くで司会が「お幸せに」と掛け声をマイクに通していた。フラワーシャワーの順番が次、次と回ってくる。その順番はあっけなくやって来て、せめてやるなら私が一番の笑顔にさせてやりたい。そう思って力一杯に宙に舞わせてやった。大きく生花は弧を描きながらゆっくりと地面に落ちる。白、黄、桃。色彩が空をゆっくりと舞う。
あんたの言葉は空気に触れていつの間にか風化してしまっていたらしい。私だけ、私だけ、丁寧に丁寧に丁寧に手入れを重ねて大切にしていた言葉が風化していく。
フラワーシャワーで舞った花びらは列席者の移動と共に踏まれて蹴られて、あっという間にボロボロになっていた。私はその花びらたちを見てほくそ笑む。
二十五歳、二十五歳になったら一緒に死のう。
嘘つきの愛すべき親友に送る言葉は何が適切なんだろう。恋愛で片付けるならこの信仰は信仰とは言わない。そんな薄汚い人間のレベルに価値観を合わせて欲しくない。愛だの恋だのみんな、みんな、みんな鬱陶しい。
なぜ私のお守りをみんなで取り上げていくんだ。みんなで、みんなで、みんなで。
私に信仰させた教祖でさえ、無邪気に無意識に無自覚にお守りを取り上げていった。どうしてなんだろう。
私はどうにもその場に居ることができなくて喫煙所に向かった。急いで小さな小さなカバンからタバコとライターを取り出す。
煙が上がる。一生、あんたのいる空間では上がるはずのなかった煙が上がる。大学の大学の友だちに「ふかし」と揶揄われたやり方で煙を上げる。青い、雲一つ無い快晴。その余白ばかりの空に煙を上げる。
あんたにとっては思い出に成り下がってしまったお守りを思いながら、私はありふれた日常を過ごしてく。
特別ではなくなったお守りと共に。
嘘つけよ。あと二ヶ月でその日だったのに。
嘘つけよ。私の存在なんて二番手以下なのかよ。
二十五歳、二十五歳になったら一緒に死のう。
あんたの言葉は空気に触れていつの間にか風化してしまっていたらしい。
*
今年は蝉の声すら聞こえない。むせ返るほどの暑さは湿気と日差しとのトリオで手を繋いで仲良くやって来ていたせいか、蝉すら引きこもっているようであった。
蝉の声が聞こえない代わりに多目的ホールには進路担当の先生の声が響いていた。「この夏、最後の進路選択をするように。一度きりの人生、自分のためによく考えてください」と無難な言葉。そんな言葉に響いた生徒はいるのだろうか、いやいない。辛うじて楽しく勉強できていた時代の知識を活用して脳内で皮肉を言いながら視線を動かして辺りを見渡してみた。
進路担当の先生の言葉はエアコンのぬるい風に溶け合って、生徒たちの頭上で散りじりになっているようであった。その様子は微睡の中にいる生徒や参考書を持参して瞳に写している生徒、天井を眺めている生徒と様々だった。グォンと音を立てながらエアコンが風向きを変える。その音と冷気がなぜか私に直撃して少し身を縮こまらせた。
一度きりの人生、自分のためによく考えてください。
その言葉がエアコンの風と一緒になって私に直撃する。うるさい。分かっている。そう思いながら、慌てて視線をステージ上に戻す。締め括った進路担当の先生は学年主任と進行を交代しており、いつの間にかステージの上から降りていた。
そろそろ集会も終わる。大人にとっては、先生にとっては毎年恒例の行事なんだろう。淡々となれた段取りで進められていく集会。前期生徒会長が挨拶をして、私たちはいつものようにいつもの段取りで自分たちのクラスに戻るのだ。
分かってるよ。人生一度きりしかないことは。分かってるから、集会中に課題プリントを添削する先生がいると冷めるんだよ。分かっているから、集会中に先輩やインターネットで聞いたような見たような言葉を言われると冷めるんだよ。
そう思っていると私たちのクラスが多目的ホールから退場する番になる。ふと、二階席を見上げてみた。なんとなく、本当になんとなくだった。
梅雨も終わりがけだというのに長袖の女の子。初めて見る顔。いや、入学式の時見たことある顔だった。私はなんとなく前の友だちに後ろから「ねぇ」と話しかけた。
友だちは先生に見つかって怒られるのが嫌なのだろう。これでもかと眉を顰めながら正直な声色で「んだよ、みのり」と視線だけ振り返った。
私は小声で「二階席、あれ誰」と聞くと、友だちはそっと顔を上げて確認をしてくれたようで面白くなさそうに私を見下ろした。なんでもないかのように「ハルカワ、ハルカワマナミだよ。喘息ひどいらしくて殆ど教室にいない奴」と前を向いてしまった。律儀に教えてくれた友達にお礼の蹴りを軽く入れつつ、私はもう一度ハルカワマナミを見た。
ハルカワマナミは、凛と背筋を伸ばしてそこに存在していた。彼女だけが一度きりを体現している。しっかりと左手にはシャープペン、右手にはメモ帳と真剣にそこに存在していた。羨ましさまで感じてしまうような真っ直ぐさ。私には持ちえない懸命さ。その全てに言いようもないほどの喉の渇きを覚える。
その渇きを早く潤してしまいたい。私はそう思ってはみ出しの無い列の流れに従ってクラスに戻る。
「つうかさ進路どうすんの。俺ら同じ看護学科志望だからオーキャンの情報共有しろよ」
「まって今喉乾きすぎて無理。それどころじゃない」
友だちの声を制して私は手持ちの水筒の残りを一気に飲み干す。多目的ホールで感じた渇き。ハルカワマナミを見て感じた渇き。それらは適切な水分補給によって対処された。
私の一気飲みを見て友だちは大きく笑い、その笑いに誘われて近くにいた他のた友だちも笑ってくれていた。いつも通りだ。みんなと笑ってなんでもない日を過ごして、なんでも無い進路を選べばありふれた毎日だ。
私は水筒をカバンに戻しながら「水分補給しただけでウケるなんてさ。私芸人なれちゃうかも」と適当を言えば、またみんなが「寒い寒い。ジョークが滑ってる」と笑ってくれた。私にとってこれが私の人生なのだ。
エアコンがその場を適切な温度にするために稼働するように、私は周りの空気に合わせて私を動かす。私という媒体が、誰かにとっての潤滑油になるように私は動く。
「今確認してきたら集会終わったらすぐ部活行っていいって」
その声を聞いてすぐさまロッカーから持ち帰るべきものを取りだす。「明日、英語小テストだからな」隣からそんな声が聞こえて来たので、「分かってる」と言いつつ机の中に置き去りにしようとしていた英語の参考書を出した。乱雑にリュックの中に振り込んで、一目散にクラスから飛び出す。
来週末の地区大会予選。それに負けたら私たち三年は引退だ。私たちのチームはよくて二回戦行きが関の山だろう。ただそれを私がいうのは違う。私は一生懸命に取り組む姿勢を見せなければいけない。そういう役割だから。そう思いながら廊下を走った。走る道中、他学年の先生から「走るな」と注意されたり他学年の子から「遅刻ですか」と話しかけられたりした。
廊下にも階段にも人、人、人。人も数だけ視線があり、二つの瞳が向けられる。瞳の中に映る私が実像だ。私自身は虚像であり、何者でも無い。
廊下の窓をチラリと見やる。薄い水色の空。薄い水色の空の上には薄い白色の雲が小さくまばらに浮かんでいる。風が強いのか薄い雲たちは何秒か後にはばらけて水色の空に吸収されていく。少し遠くに視線を移す。遠くの空には濃い灰色の大きな雲。一雨きそうだ。そう思いながら視線を前に戻した。
今日の天気予報は晴れだったんだけど。そう思いながら階弾を駆け降りて、残すところあと四段で飛び降りてみた。小学生の時と比べてやっぱり身体が重い。なんなら一ヶ月前の自分と比べても身体が重たい。こんな些細な変化でさえ痛感するのだ。例えジャージのズボンを履いていたとしても、例え髪がどんなに短くとも。痛感させられるのだ。女性だということを。
「わっ」
声が聞こえた。着地点で声が聞こえた。多目的ホールで見たボブの女の子。線が細くて華奢な女の子。思っていたより高身長なようで平均身長の私を軽く見下ろしている女の子。
そんなハルカワマナミがいた。
ハルカワマナミは私をじっと見ている。彼女の大きな瞳には膝の擦り切れたジャージと、たくさんのキーホルダーがついたリュック、眉上の前髪のベリーショートの髪型。そんな人物がはっきりと映り込んでいた。
ざわめきが遠のく。ゴールデンウィークに友達の家で見た初代ウェストサイドストーリーのヒロインとヒーローの初対面のように、周囲の輪郭が朧げになって、私は彼女を見るしかなかった。
「知ってるの。私のこと」
嬉しそうに彼女は尋ねる。私は押される形で「噂で」と答えた。すると彼女は分かりやすく肩を落として「だよね」と呟いた。意味が分からず私は彼女を見つめる。
少し見上げる形で彼女を見上げると分かったことがある。ワイシャツのボタンを第一ボタンまでキチンと閉め、そしてスカートの長さも膝より少し長め。髪の毛は手入れされているが、一本一本が細いのか少し痛んだ様子が伺える。
「体調、いいの」
私がそう聞けば彼女は食い気味に「うん」と言った。思っていたより大きな声が出たのだろう。彼女は驚いたように口を押さえ、変なところに唾でも入ったのかむせ込んでいた。
喘息。その単語を聞いていたので思わず駆け寄って気休めに水筒を取り出して彼女の隣に立った。
「優しいね。根本さんは」
「自己紹介したっけ」
思わず聞き返すと彼女は首元から徐々に赤くなっていく。笑っていた彼女はいつの間にか泣きそうな顔をしながら視線を右往左往。既に彼女の瞳には私なんて映っていなくて天井の模様が映り込んでいた。
あんなところにシミなんてあったんだ。彼女の瞳に映り込む天井を見ながら次の言葉を待つ。黒くて太めの髪の毛がさらりと頬に落ちて影を落とす。
「い、一年の頃からずっと体育大会とか、頑張ってたでしょ。私、遠くから見てて」
「なるほど」
私の相槌を合図に彼女はパッと顔を上げた。隠れ始めていた瞳がきらりと光っている。ああ、この輝きを知っている。川の水面だ。部活で外周をするときに走る河川敷から見える水面だ。太陽の日差しを受けて爛々と生命の輝きを放つ光に似ていた。何者にも縛られることのない光に似ていた。自然だった、全てが自然だった。
「ごめん気持ち悪いよね」
その光が、自由が陰るとことなんて見たくない。私は食い気味に「そんなことない」と大きく声をあげて彼女の頬に手を当てて下を向かないようにした。
なるほど、彼女の瞳は茶色いのだ。だから光を受けてキラキラと輝きを放っているかのように一層思うのだろう。
「根本さん、君は何をやっているんだい」
現実。現実が声をかけた。その声に彼女は肩をびくりと震わせてから、大きく一歩、小さく二歩後退り。手のひらから離れていく熱がじんわりと冷たさに変化していく。冷たさは胸の中に起きはじめていたあたたかさを冷やすには充分だった。
「私のこと知っているって言ってくれたので嬉しくて」
「折角の友だちを怯えさせないように」
「はぁい。先生」
私は適当に返事をした。その適当さを先生も気がついたようで、「まったく根本さんは調子がいい。部活頑張るんだよ」と別れの言葉をかけてくれた。そろそろ部活に行けという合図だろう。その合図通りに私はこの場から離れることにした。
「ともだち」
離れる前に声がした。その声の方に視線をやると眩しさ。先ほど感じた輝きがあった。
「私たち、ともだちなの」
そんな大きな声出せるんだとか、自分より背が高い人が近くで見下げてくると威圧感あるなとか、そんなどうでもいい感情を抱きながら目の前の彼女を見た。先ほどより顔を赤くして、先ほどより早く肩が上下している。彼女は今、私に何を思っているのだろう。多分、私が予想できるくらいの可愛い事を思っているのだろう。
私は笑いながら彼女を見た。震えている手をそっと握って私は微笑む。
「聞かないでよ。そういうことは」
「で、でもさ」
「いいんじゃない。そういうことにして」
そう言いながら私は彼女の手を離す。今離さないと、いつまで経っても部活にいけない気がしたから手を離す。
「話に来なよ。待ってるから」
駆け出した足はいつもより軽かった。彼女の視線を受けながら走る背中は晴れやかだった。なんだか色々な煩わしさが吹っ切れそうな風が吹いた気がする。確信も確証もない。ただその風が、新しさが、私の中で絡まりに絡まった玉を解いてくれそうな気がした。
空が鳴る。ゴロゴロと音を立てて空がなった。ドラムロールのようにも感じるその音を感じながら私は足早に部活へ向かう。
雨だ。それも土砂降りの雨。降り頻る雨は天井や地面に殴り捨てられている。バチバチと音を立てながら、雲の中で鈍く音を響かせながら、雨は暴れ回っている。
「みのり、あんた傘は」
「職員室で借りてくるわ」
「待った方がいいかな」
「先帰ってて、待ってる間にもっと酷くなったら申し訳ないし」
チームメイトとそんな話をして分かれる。心配そうな視線を多々感じつつ、私は気がつかないフリをして校内に戻った。
家に帰りたくないな。ぼんやりと思いながら廊下を歩く。既に廊下の電気は必要最低限の灯りのみで暗さが際立つ。時折空が光るので瞬間的に明るくはなるが、持続性はなく暗さが続く。
ジー、ジー。胸ポケットに入れていたスマホが鳴る。バイブレーションの振動が鼓膜まで揺さぶってきた。嫌な予感がしながら持ち上げて表示名を見ると『お母さん』という文字が浮かんでいる。深呼吸をして私は応答ボタンをタップした。
「もしもしみのり。今、まだ学校かな。悪いんだけど、学校から帰ったらおばあちゃんのお風呂とご飯のお手伝いお願いしてもいいかな。お母さん今、ひいおばあちゃんの付き添いで病院にいてね。ごめんね、ちょっと、今みのりに説明してるから。ごめんね、ひいばあちゃん、ばあちゃんがしてたトイレ介護の途中で転倒しちゃったらしくて、それ以来ずっと痛い言ってるって、ばあちゃんが教えてくれてね。仕事早退して病院きたんだけど、なんか思っていたより怪我もなんだけど、病気も、悪いみたいで。その、また話すんけど、もしかしたらひいおばあちゃんの容態的に来週厳しいかもしれなくて。それとおばあちゃんひいおばあちゃんを転ばせたことがショックだったみたいで、ちょっと様子おかしいから、みのりしっかりしてるし見てほしくて。とにかく、それだけは伝えておかなきゃと思って電話した。おばあちゃんをよろしくね」
弾丸。とりつく島もない。そんな言葉がよく似合う電話だった。要件だけ、大事なところだけを取り留めなくお母さんは私に伝えて電話を切った。余裕のない声だった。後ろで誰かに話しかけられていて急いでいる様子だった。多分、お母さんにとっても予想外のことだったのだろう。だから理解しようと思う。理解はしたいと思う。
私はスマホの電源を切ろうとして、でも切れなくてせめてもの抵抗でリュックの奥にしまい込んだ。片腕をリュック紐に通し直して、そして深呼吸をして真っ直ぐに窓を見た。
黒々とした雲が目の前を覆っている。いつの間にか目の前も遠くもめ見えないようにするかのような、まるで簾のように縦に落ちていく雨。
私は職員室に向かう。日常はそんな暗闇にも適応してくれるようで、意識せずとも電灯のつく職員室にたどり着くことができた。本来は手荷物を置いて職員室に入室しなければいけないのだが、今はそういうことを守れないと思った。せめてそういう些細なこと位は抵抗させて欲しいと思いながら「失礼します」と大きな声で職員室に入室した。
「根本さん、リュック」
タイミングよく顧問だ。私はヘラヘラ笑いながら顧問に走り寄った。
「傘貸してください。あと、来週の大会なんですけど」
「あぁ根本さん、この間の練習試合みたくユニホーム忘れないでね。根本さんがエースなんだから」
「すみません、なんか、ひいばあちゃん病院で長くないかも言われたみたいで、来週の大会補欠にしてもらえませんか」
一瞬。ほんの一瞬。職員室の音が止まった気がする。けれどすぐにコピー機に吸い込まれる用紙の音、パソコンのキーボードを叩く音、採点をするマーカーの擦れる音が響き渡る。
「そう、もしかしたら大事ないかもしれないから、根本さんがレギュラーのままでいくのは変わらないけど、もしかしたらがあると心に留めておくね。傘、だよね。先生のカッパもあるけど、どっちがいいかな」
「傘でいいです」
顧問は背を向けて駆け足で傘を取りに行く。そして柔らかく眉を下げて、柔らかい声で「困ったことがあったら相談してね」と言いながら傘を差し出す。傘だけ受け取ろうとしたら、手を握られて「大丈夫だよ」と言われた。何がという言葉が喉から出かかったが、「リュックも濡れそうだし、特別に先生が濡れないようにゴミ袋をかけたあげよう」という言葉が先に聞こえたので引っ込めた。どうにか笑顔で「ありがとうございます」と言って、ゴミ袋でガードされたリュックが出来上がるまでその場に立っていた。
「できたよ」と言う優しい声が聞こえたとき、私は足早に職員室から退出することを優先した。暗い廊下に出たと思ったら、急に電気がついた。何となく電気のスイッチがあったはずの後方を振り返ると担任が「雨、気をつけて帰りなさいよ」と大きな声で言っていた。私は会釈だけして走る。
いつもなら「走るな」と声がかかる廊下を私は走った。だが今日は声がかからない。
かけろよ。いつも通りに。困ってよ。私を気にせず。怒ってよ。私の代わりに。
飲み込んだ言葉が胃から逆流して吐き出しそうになる。乱暴に階段を駆け降りて、そして最後四段飛ばしで飛び降りてみた。馬鹿なことして私も怪我をしたらいい。そうしたら全て諦められる。でも、最後四段なんて怪我をする高さではない。運動している人間からすると、そんなにハードルの高くない飛び降りだ。
勇気のない自殺。私はいつもこの飛び降りをするたびにそう思う。勇気がない。家族を見捨てる勇気がない。先生に無茶を言う勇気がない。友達に打ち明ける勇気がない。
ただ自分のやりたいことを、言いたいことを押し殺すために行うルーティン。そんな勇気のない自殺。それが最後四段残して階段を飛び降りる理由だった。
「すごいね」
着地と同時に明るい声が響く。
「ハルカワマナミ」
彼女だった。部活に行く前にあった時より、うんと明るい声で明るい表情で彼女は私に話しかけた。能天気なほど明るくて楽しげな声。彼女は「えっと、ママが仕事終わりなら迎えに行けるって連絡くれて、それで今まで自習していたの」と照れながら私に語りかけてきた。
彼女は聞いてもいないのに私に現状を説明してくる。頼んでもいないのに私の後をついて来る。眩しい笑顔を浮かべながら、彼女はとうとう生徒玄関の屋根ギリギリまでついてきた。
「来週大会なんだってね。もしよかったら応援しに行ってもいいかな。私、友達の大会応援するとかやってみたくて」
限界だと思った。打ち付ける雨が痛いくらい鼓膜に響く。うるさい。全てがうるさくて堪らない。
「うるさいな」
耳鳴りがする。自分から諦めるのと急に取り上げられて諦めなくてはいけない状況は全く違う。もう、全て煩わしい。
「こっちは疲れてんだよ」
声を荒らげ初めて誰かに言ってしまった。はたと気がついて彼女を見る。彼女はまんまるに目を見開いて、そして間抜けな私を瞳に映していた。そして戸惑いがちに「ごめん、疲れてるよね、部活終わりだもん」と震える声で彼女は私を理解しようとした。
あんたに私が分かるかよ。迫り上がった言葉が喉を焼く。熱くて熱すぎる言葉が喉元から顔まで焼いていく。
「ごめんね、分かってあげられなくて」
彼女の言葉で限界だった。私は思わず傘を彼女に押し付けて走り出した。ここから逃げたい。その一心で走り出した。
なぜか後ろで鈍臭い足音を立てながら追い変えかけてくる彼女の声が聞こえたが、振り返らなかった。振り返れなかった。
なんで、被害者面しないんだ。なんで八つ当たりされているのに受け入れられるんだ。そんな矛盾だらけの感情を抱えながら私は走った。
水たまりも上から振り下ろされる強い雨も何もかも気にならなかった。ただ焼けた喉を身体をどうにかして冷やすことだけ考えた。
そこからどう帰ったのか覚えていない。ただ玄関を開ける音におばあちゃんが「おかえり」と出てきてくれて、ずぶ濡れの私を見るなり悲鳴のような声をあげてタオルで拭いてくれたことだけは覚えている。
優しく私を抱きしめながら濡れるのも構わないで「みのりは優しい子だもんね」と言ってくれた。小さい子をあやすみたいに背中を一定のリズムで叩くおばあちゃん。抱きしめられておばあちゃんの心臓の音がどくどくと耳に響く。その全ての音に包まれながら私は思う。
優しくなんてない。優しかったら私は彼女に八つ当たりなんてしていないはずだ。優しかったら先生の思いやりにもっといい態度でいたはずだ。優しかったらお母さんからの電話で直ぐに家に向かっていたはずだ。優しかったらなんでとなんて思うことなんてないはずだ。
おばあちゃんは「ごめんね。全部ごめんね」と優しい声で言う。
なんだかそれだけで、許してしまえる自分がひどく情けなかった。
情けない、ついでの話。
週末、ひいおばあちゃんのお見舞いに行った。怪我をしてから生気が抜けたようで痩せ痩けたひいおばあちゃんがいた。驚きながら入り口で立ち尽くしていたら、ひいおばあちゃんが私を手招きした。枝みたいに細くて、皮が骨にくっついているだけの肉体。その肉体の持ち主が私を手招きした。
お母さんがひいおばあちゃんのそばで私を呼びかけるけれど、思うように足が動かない。多分始まろうとしている流れに抗っているつもりだろう。でも痺れを切らしたお母さんに手を引かれ、ひいおばあちゃんのそばの椅子に座らせられる。ひいおばあちゃんの口元がよく見える距離で、表情がわかる位置で私は座った。
「ありがとうね、きてくれて」
「うん」
返事をするのがやっとで私はぎこちない笑顔を浮かべた。後ろで扉が開く音が聞こえた。おばあちゃんがトイレから戻ってきたようだった。
「ばぁばの骨、拾ってね」
息を呑んだ。私はこの時、人でなしになるか、人で居るかで選択を迫られていたのだ。事前にひいおばあちゃんは多分、火曜か水曜には危ないだろうと教えられていた。と言うことは葬儀が週末に行われる可能性が高い。この約束をしてしまえば、高校最後の大会に参加することすら叶わない。そう理解して私はどちらを選択するか迫られた。
お母さんは「もちろん」と「みのり約束してあげて」と私の肩を震える手で支える。お母さんはひいおばあちゃんと仲良しだったから、私よりひいおばあちゃんの味方をするようだ。
「ちょっと」
低い声がした。おばあちゃんが眉を顰めながらお母さんとひいおばあちゃんを睨みつけている。その燃えるような感情。このまま家族の繋ぎになることを選択するには十分な感情だった。だからその姿に思わず私は「分かった」と大声で叫んだ。
「ひいおばあちゃんの骨、拾うよ」
「ありがと」
「でも、死なないで」
「ありがと」
ひいおばあちゃんは泣いた。お母さんも泣いた。一人だけ怒っているおばあちゃんのことに気が付かず泣いた。
私はおばあちゃんのためにこの状況を受け入れた。自分の母親の死に際に、娘と喧嘩する姿を見せるなんて悲しすぎる。おばあちゃんの優しさに報いるために、私は人であることを選んだ。
ただ、そんなつまらない話。
結局ひいおばあちゃんは予告通り死んだ。だから高校最後の大会は葬式で飛んだ。チームメイトにばあちゃんが死んだ日に、「ひいばあちゃんの骨拾う約束しちゃったから、葬儀行かなきゃなんだ。大会、勝っておいてよ」と明るく言ったつもりが同じ三年に泣かれてしまった。
粉になる前に白く上がる煙を見てお母さんは泣いていた。おばあちゃんは喪主なのでその場にはいなかったが、別れる前に私にだけ「ごめんね、ありがとうね」と泣いてくれた。それだけで少しだけ救われた気がして私は笑った。
ひいおばあちゃんの骨は塵みたいに軽くて、ほとんど粉だった。私との約束はこんなに軽かったのかと肩透かしをくらってしまった。
高校最後の大会はどうやら私が出るまでもなく敗退したらしい。葬儀が終わった三日後、引退式の紅白戦をして私たちは引退をした。チームメイトたちが、後輩が泣くからなんだか笑うしかなくて私は「ありがとう」とみんなに伝えた。
「根本さん」
引退式の次の日、なんとなく帰りたくなくて図書館で時間を潰していた。おばあちゃんがお母さんに対して怒ることが増えていた。お母さんはひいおばあちゃんに影響を受けているので結構な古風な考え方をするのだ。
最近揉めているのが私の進路だ。ひいおばあちゃんは常々「女の子は手に職になる学問以外は進学しなくていい」と言っていた。更に「うちは女が強い家系だから、みのりちゃんが介護士か看護師になってくれたら皆んな安心だね」と言っていた。それもあってお母さんは、私を介護士に促したいみたいだった。介護がちゃんとできていたら、ひいおばあちゃんがもう少し長く生きていたんじゃないかと思っているのだろう。だからもう存在しないひいおばあちゃんに報いるために、介護士を勧めてくる。
私はその二つなら看護師が良かった。この地元から出られる口実が看護師の方が多かったから。ちょっとで良い。看護学部がある大学の近くに下宿するだけでもいい。介護士は実家から通える距離に専門学校も大学もある。看護学科の大学は実家から距離が遠いのだ。だからせめてもの抵抗で看護師を選びたかった。
それをばおばあちゃんは汲んでくれたのだろう。家に帰るとお母さんから進路の話になって、そしておばあちゃんが「みのりの好きにさせなさい」と止めるのだ。
その攻防がキツい。キツいから帰りたくない。
「根本さん」
「ハルカワマナミ」
「良かったら、河川敷で話さない」
柔らかい笑顔を浮かべて彼女は尋ねてきた。
「風邪、大丈夫なの」
「知ってたんだ」
彼女はクスクス笑う。彼女に八つ当たりをした次の日、どうやら彼女は風邪を引いて一週間ほど欠席していたらしい。そう、先生に聞いた。
「悪いと思ってるんなら来て欲しいな」
「あんた、結構性格悪くないか」
そう言うと彼女は声をあげて笑った。楽しそうに私に笑顔を浮かべて笑っている。その彼女に呆気に取られていると、彼女は私の手を引いて図書館から連れ出してしまう。下駄箱、生徒玄関、河川敷。あっという間に目的地に来た。
「私、結構性格悪いんだよ」
やっと返事が返ってきた。夕焼けに照らされる彼女を見ながら私は困惑するばかりだった。彼女が何を求めているのか分からない。流れに合わせてきた私は彼女の流れが一つも読めず混乱するばかりだった。
そんな私を見つめて彼女は笑う。この間初めて会った時とはお互い逆のような態度。彼女は「思ったんだ。風邪で寝込んでいる時」と柔らかく呟く。
河川敷で川の水面が光を反射して視界の端に煌めきがちらつく。その煌めきが視界の端にチラつくのが眩しくて視線を逸らす。
黒と白、長袖を着た野球部の集団走りこみの掛け声。灰と茶、夏至が過ぎ梅雨前線が消え去った河川敷で焼けこげるミミズの姿。赤と橙、河原で沈む夕焼け。緑と青、梅雨を経てたんと栄養を吸収したどこにでもある背の高い雑草。紫と桃、夕焼けに照らされて見えた乾燥して皮がむけている唇。
視線を逸らした代わりに色々な色が見えてくる。最後見えた色がそっと大きくなる。
「なんで、私だけって思うよね」
歌うように彼女はいう。
「特別不幸なわけじゃないよ。でもちょっとした嫌なことが積み重なってなんで私だけって思うよね」
そうなのだ。特別不幸ではない。だから逃げ場がないのだ。私は彼女の言葉に思わず強く頷いてしまう。ありふれた嫌なことはタイミング悪く私に降りかかっているが、特別に不幸なわけではない。これくらいで不幸ぶっていると世の中のもっと不幸な人に申し訳がない。だから私は笑うしかなかった。
笑うしかなかった私は初めて顔が熱くなるのを感じた。初めて飲み込んでいた言葉が喉からでる。
私が我慢すれば多分、外から見たら幸せなんだよ。
そう言いたかったのに空気が喉でつっかえて上手く言葉にできない。ひゅうひゅうと喉に渇いた空気が通る。目尻は生暖かい水分が伝って気持ちが悪かった。
そんな情けない私の隣で柔らかく笑いながら背中をさする彼女。一言文句でも言ってやりたい。そう思って顔を見やる。見つめていると彼女ははらりと頬に輝きを一滴、二滴と零しながら言葉も零した。
二十五歳、二十五歳になったら一緒に死のう。
あんたの声が言葉がずっと、ずっと鼓膜を揺らしている。未だに、揺らしている。揺らした言葉はいつの間にか身体の中に入り込み、内側から私を再構築する。構築していく道中、言葉は分解され身体の管という管を通っていろんな場所を巡った。そんなお守り、信仰が胸を詰まらせるには充分過ぎるものだった。
それが私のお守り。
*
「それでは新郎新婦の新たな門出に盛大な拍手をお願いします」
真っ白で純白をもした裾の長い衣装を見に纏い、あんたは隣のよく分からない男と歩き出した。笑顔で両側の列席者に感謝を述べながらあんたは歩き出した。その笑顔は私ではなく、よく分からない隣の男向けられていた。
誰だよ。そいつは。あんたが電話で、一年に一回二人で小旅行するときに話してた奴かよ。嘘つけよ。私との約束は覚えてないのかよ。
手には生花がいつの間にか握られている。遠くで司会が「お幸せに」と掛け声をマイクに通していた。フラワーシャワーの順番が次、次と回ってくる。その順番はあっけなくやって来て、せめてやるなら私が一番の笑顔にさせてやりたい。そう思って力一杯に宙に舞わせてやった。大きく生花は弧を描きながらゆっくりと地面に落ちる。白、黄、桃。色彩が空をゆっくりと舞う。
あんたの言葉は空気に触れていつの間にか風化してしまっていたらしい。私だけ、私だけ、丁寧に丁寧に丁寧に手入れを重ねて大切にしていた言葉が風化していく。
フラワーシャワーで舞った花びらは列席者の移動と共に踏まれて蹴られて、あっという間にボロボロになっていた。私はその花びらたちを見てほくそ笑む。
二十五歳、二十五歳になったら一緒に死のう。
嘘つきの愛すべき親友に送る言葉は何が適切なんだろう。恋愛で片付けるならこの信仰は信仰とは言わない。そんな薄汚い人間のレベルに価値観を合わせて欲しくない。愛だの恋だのみんな、みんな、みんな鬱陶しい。
なぜ私のお守りをみんなで取り上げていくんだ。みんなで、みんなで、みんなで。
私に信仰させた教祖でさえ、無邪気に無意識に無自覚にお守りを取り上げていった。どうしてなんだろう。
私はどうにもその場に居ることができなくて喫煙所に向かった。急いで小さな小さなカバンからタバコとライターを取り出す。
煙が上がる。一生、あんたのいる空間では上がるはずのなかった煙が上がる。大学の大学の友だちに「ふかし」と揶揄われたやり方で煙を上げる。青い、雲一つ無い快晴。その余白ばかりの空に煙を上げる。
あんたにとっては思い出に成り下がってしまったお守りを思いながら、私はありふれた日常を過ごしてく。
特別ではなくなったお守りと共に。
