「ここで弁当まで食っちゃって、
ホントに迷惑じゃない?」
いつもの昼休み。
陽翔は母親が作った弁当を頬張りながら言った。
「うん全然」
「でもさ、ここでひとりで食ってるってことはひとりがいいんじゃねーの?」
「ひとりがいいというか…僕たぶん友達いないんだ。
ピアノが好きすぎて。まあいいんだけどね」
そう言いながら響は鞄の中をゴソゴソ探り、
小さな紙袋を取り出した。

「コレ食べる?
クラスの女子にもらったんだ」
俺の目の前に差し出されたそれは甘い匂いがした。

そっと開けてみると。
ん?友達いねーっつったよな……
スコーンって。
これガチなやつじゃね?

とりあえず脇に置いた。

少しの間黙っていると、
「ねぇ、君もちょっと弾いてみてよ」
突然、響がそんなことを言った。

「え!?な、なんで……」
「実は弾けるんじゃない?
お姉さん弾くって言ってたじゃん、
家にピアノあるんでしょ」
「えーー……」
「あ、弾けるんだ。早く!」
「マジか……」
陽翔は渋い表情を見せたが、
空気を読んでピアノの方へ向かった。

響が立ち上がり、
どうぞ、と椅子に手を向けた。

「えっと…これだけっすよ。
習ったことないし。
これしか弾けない」
と言って陽翔が弾いたのは、
バッハのメヌエット、ト長調。
小さなピアニストが発表会などで弾くあの可愛らしい曲だった。


……メヌエットか……ネコじゃないんだ…
響は笑いを堪えた。

陽翔が弾きながらふと響を見ると
少し顔を上げて目を閉じていた。
こんな演奏でもちゃんと聴いてくれてるんだ。
最後はritardandoで弾いた。
……恥ずかしい。
曲が終わると、
「すごいすごい!」
パチパチと大きな拍手が聞こえた。
「君はきれいな音を出すね!
それにすごく丁寧。
もっと雑な感じかと思ってたゴメン!」
響さんは嬉しそうに俺を褒めた。

「そ、そっすか」

「うん、タッチが優しい。
ピアノって触ったら音が鳴るじゃん、
誰でも弾けるんだよ。
だから習ってない人はガンガン弾くイメージあるんだけど。」

「……そうなんすか。
なんか、ピアノって
すぐ壊れそうな気がして。
俺みたいなのが強く弾くと」

「へー!
ピアノに優しいんだね」

「あ、そうそう」
響さんが足早に俺に近づいてきた。
「…えっとね」
…えっと…?
よくあるこの展開は…ヤバいやつじゃ……
「音はすごくいいんだけど
手をね、こうすると弾きやすくなるよ」

響さんは俺の真横に来て少し屈み、
俺の指の関節をグイッと曲げた。

やっぱり!
……近い。
なんか……いい匂いがする
シャンプーとか香水とかじゃなくて……
響さん、汗の匂いとかしねーんだ
……てか俺臭くね?

陽翔は少し身を引いて言った。
「……ちょっと痛いです、響センセー。」
「ゴ、ゴメン!」
響はパッと手を離した。
痛いなんて嘘をついてしまった。
じゃなきゃ…指が震えていたのがバレてしまう



「……また…、教えてよ」
ふとそんな言葉が出て、慌てて続けた。
「そういえば響さんはいつもおとなしいやつばっか弾いてっけどさ、
もっと、ババーン!とかさ、
パラパラヒューン!みたいなのは弾かないの?」
「アハハ。
こういうやつ?」
ショパンの練習曲集25-11、
"木枯らしのエチュード"を
響は軽々と弾いてみせた。
「そうそう、そんなの!
てかスッゲーー!」
突然のスーパーテクニックを前にして
陽翔は目を丸くした。
「コンクールとかでは弾くし練習もしてるよ」
「でも……ここでは自分の好きな曲弾きたいんだよね
君の前では。」
「……ふーん」



貰ったスコーンを手に取った。
それはちっともおいしくなかった。

「じゃあ…僕は今日これ弾こう。
なんかこんな気分」
響さんは窓の外を見て言った。
弾いたのはショパンの前奏曲28-15
"雨だれ"。
その曲は俺も知っていた。
でも……こんなに柔らかくて綺麗な曲だとは知らなかった。






__ __ __
響がローファーに履き替えて人気のない昇降口を出ようとすると
「響さん」
見えない方向から声がした。
「あれ?どうしたの」

「音楽室の窓開いてたし、
響さんのピアノの音してたから…」
「ああ、雨が降ってきたから
止むまで弾こうと思ってたんだけどね…
諦めた」

「傘……、持ってねーんじゃねーの」
「……なんで分かったの?」
「天気予報なんて見なさそーだし
見たとしても持ってこなさそう」
「アハハ、なんか僕、そんなキャラなんだね。
……選曲も間違えたかな」

響さんは天然だ。

「俺、傘ありますよ。
駅まで一緒行きます?」
「え? いいの?」
この笑顔のために俺は待っていた。

開いた傘にヒョイっと入ってきて、
「男ふたりだと狭いねー」と言う。
「そ、そうっすね」

それから……素直だな。

駅までは10分くらい。
時々肩が当たる。
右の方だけ暖かい。
響さんの髪の香りがする。
雨の匂いよりも鮮明に。
俺の心臓の音が聞こえそうだ。
雨の音と重なって傘の中で響いている。
なんか喋んなきゃ……




「あのさ、ちょっと真剣なんだけど」 
唐突に響が言った。
「………へ??」

「あの、まず名前聞いていいかな?
はるとくん、だっけ。
ごめんね、今までちゃんと聞いてなくて。」
「あ、いえ。
はるとです。鈴木陽翔。」

「陽翔くん…えっ…と…」

「あの日さ、君が音楽室にボールを打ち込んだ日。
君が僕のピアノを褒めてくれただろ、
あれ、本当に嬉しかったんだ。

僕の演奏が優しいなんて
初めて言われたし
音が綺麗、も嬉しかったよ 

上手いって褒められることはあっても、
そんなこと言われたことなかったから。」

雨音が大きくなった。
陽翔は響の方へ身体を少し寄せた。

「僕はピアノが大好きなんだけど
こんなに弾くのが楽しいとは思ったのは
今が初めてなんだ。
君に褒められてね、
こんなふうに
自分の好きなように弾いていいんだ、
って思えて。
なんか君に会う前の僕と今の僕は
全然違うんだ
ピアノに対する気持ちもピアノの音も。
僕自身も。  
またピアノが好きになったし。
ブラームスの間奏曲も……

……アハハ、ゴメンゴメン、
ペラペラと自分語り、キモいな。
でもさ、言っときたかったんだよね。

僕は君に本当に救われたっていうか…。」
響さんは傘の中で俺の方に顔を向けた。

「あの日、音楽室にボール入れてくれてありがとう」
照れくさそうに笑っていた。 



響さんの隣にいるのが俺でよかった
響さんを救ったのが俺でよかった
だけど……




「いえ、俺は…」
俺は響さんを抱きしめたかった。