ふと窓の方へ目を遣ると、
新緑が心地よさそうに揺れているのが見えた。
音が聞こえてしまうけれどまあいいか
緑を揺らす爽やかな風に触れたくて
窓を開けたその時、飛び込んできたのは。

飛び込んできたのは…
野球の、ボール?

ボールはコロコロと(ひびき)の足下に転がってきた。

まるでこの曲の冒頭、
右の旋律みたいだ

その曲は響の大の気に入りだった。
人前で弾いたことはないけれど。

間奏曲119-1
ちょうど3分ほどの小さな曲。
弾き終わった後、
音楽室の扉が静かに開いた。
最後の最後の、音の響きが消えたその後に。

「失礼します…!」
そう言って入ってきたのは、
背が高くてすらりとした体型の男子生徒だった。
「あの…ここにボール飛んできませんでした?」
「あぁ、コレのこと?」
響は床に転がったボールを拾い上げた。

「す、スミマセン!!
当たんなかったですか?」
彼は深く頭を下げた。
「あぁ、大丈夫だよ。ピアノは無傷。」
「じゃなくて…」
「僕も大丈夫。
僕が窓を開けなきゃよかったんだよね。」

「いえ、俺の打球が悪い。」
彼はそう言った後、口ごもった。



「あの、、さっきの曲…すごくいいですね」



思いがけない言葉だった。
少なくとも彼の見た目からは到底想像できない。
響は彼が聴いていた曲をもう一度
弾き始めた。

「この曲?」



「優しいな」
「え?」
「ピアノ。えーと…」
「佐藤響です」
「佐藤さんのピアノ」

僕のピアノが、優しい?

「スッゲー綺麗な音だし…
これピアノの音?って。
姉ちゃんの音と全然違う。
……あ、スミマセン、うちの姉なんかと比べてしまって」

初めてだ、
僕のピアノをそんなふうに言ってくれる人。



「ありがとう、すごく嬉しい」



「……どうかした?」
彼の視線が僕に留まっているような気がした。

が、彼はすぐに目を逸らして言った。
「いえ、、
昼休みいつもここにいるんですか?
また聴きに来てもいい?
あ……練習の邪魔になるかな」

「いいよ、ここではガチの練習はしてないし」



………なぜ僕はそんなことを言ってしまったんだろう



彼が去った後、
再びあのフレーズを弾きながら思った。



本当だ、優しい。
この曲を、
すごく優しく弾いていたんだ、僕は。

自分のピアノの音が、
今までと全く違って聞こえた。

あ、そういえば彼、曲名は聞かなかったな

……どうでもいいのか、そんなこと。
ブラームスなんて言っても分からないだろうし。

そういえば……
僕も彼の名前を聞いてないな……





_ _ _
昼休み、時々音楽室から聞こえるピアノの音。
さとうひびき。
あの人だったんだ。
なんとなく男だとは思っていたけど

想像通りの人だった
柔らかで、繊細な雰囲気を纏った人。

それにしても俺……
なんであんなこと言ったんだろ

どうしてもまた聴きたいと思った。
あの人が弾く、あのピアノを





陽翔(はると)は音楽室のボールをそのままにしていることに気づいた。
「やべっ……!」






響はピアノの蓋を閉めると、
もう一度窓に近づいた。
野球…
昼休み野球やってる生徒がいるんだ

ここからこんなふうにグラウンドが見渡せるなんて、知らなかったな…



彼は…もう戻ったのかな

「あのー、スミマセン…
俺、ボール忘れちゃって……」




五月の心地よい風が響の頬を撫でた。