受けだと思っていた推しは、溺愛症候群でした(?)

 冬の朝特有の、鼻の奥がつんとする冷えた空気。その中で、俺の背中にぴったりと回された腕の温度だけが、やけに現実味を持って存在している。
 目が覚めた瞬間、違和感があった。布団の感触が、いつもと違う。動けない。というか、動きたくない。
 視界の端に見えるのは、二段ベッドの上段の木枠。昨日と同じ景色のはずなのに、決定的に違うのは、俺が今ひとりじゃないってことだ。
 柔らかいけど、少し硬くて、なにより……重い。
 寝返りを打とうとして、できなかった。体が、固定されている。
 ゆっくり視線を下げると、そこには見覚えのある腕があった。俺の腰を囲うように、しっかりと回された腕。
「……え」
 一瞬、夢だと思った。いや、正確には、夢であってほしかった。恐る恐る顔を上げる。
 視界に飛び込んできたのは、翠の喉元。寝息。規則正しく上下する胸。
「………………」
 脳が、処理を拒否している。
 昨日の夜の記憶が、じわじわと浮かび上がってきた。
 イルミネーションの中で、冷たい空気、震える声で言った告白。
 「振ってください」なんて最低な逃げ道を使ったけど、それを全部塞ぐみたいに、抱きしめられたこと。
 "好き"だって、小さく、でもたしかに言われたこと。
「……う、うそ……」
 夢じゃ、ない……。
 そのあと寮に帰ったら翠がこのまま寝よって言ったこと。……同じベッドで。
 いや冷静に考えて無理だろ。心臓が持たない。なのに翠は俺の気も知らないで、寝顔がやたら穏やかで。
 睫毛長いし、眉も綺麗だし、ほんと……推しだった頃の自分に見せたい。
 昨夜のやり取りが、頭の中で何度も再生される。「夢じゃないよ」って言われたこと。
 否定し続けた俺の口を、キスで塞いできたこと。思い出しただけで、顔が熱くなる。
「……恋人、かぁ……」
 小さく呟いた瞬間、腕に力がこもった。
 夢じゃない。だって、温かい。
 心臓の音まで聞こえそうなくらい、近い。そっと身じろぎすると、翠の腕がきゅっと締まった。
「逃げないで」
 低くて、眠たげな声か耳元で響く。いくら起きようとしても翠の細い腕で身動きが取れない。
「起きてたんだ……お、おはよう」 
「おはよ……。そんなに動かれたらそりゃ起きるよ」
「う、ごめん………」
 翠が少しだけ目を開けて、首を振った。寝起きのくせに、ずるいほど穏やかな目。
 後ろから抱きつかれているので、翠を起こそうと振り返る。
「あの翠、起きないの?」
「んーこのままでいい」
「えぇ……もうこんな時間だよ?」
 額に、頬に、髪に。無意識みたいに、翠が顔を埋めてくる。
 別にいやなわけじゃないし、離れたいわけじゃない。ただ、恥ずかしくて、ドキドキして仕方なかった。
 ……まぁもう冬休みだし、ゆっくりしててもいいか。
 そう思い返しながら、心臓は完全に裏切っていた。
 近い。近すぎる。距離が、完全に恋人仕様だ。
「寮ってさ、いいよな」
 翠は俺の髪に顔を埋めるみたいにして、ぼそっと言う。
「冬休みでも、一日中一緒にいられる」
 ……だめだ。
 その一言で、頭が真っ白になる。
 昨日まで推しだの受けだの言って現実逃避していた俺が、今はこうして、恋人として抱きしめられてる。
「……朝からそんなこと言うの反則」
「事実でしょ」
 当然みたいに言われて、余計に混乱する。
 結局そのまま、ぎこちなくベッドを抜け出して身支度をして、寮の談話室に向かった。冬休み初日とはいえ、寮生はそれなりに残っていて、朝の談話室は意外とにぎやかだ。
「おはよ〜」
 ソファに座っていた碧くんが、俺たちを見るなりニヤッと笑った。
 ……もうバレたの。盛大に問い詰められる未来しか見えないんだけど。
「顔赤くない? 叶愛」
「うるさい……」
 その隣では、芹沢先輩がカップを片手に足を組んでいる。
 やっぱり、碧くんと芹沢先輩って完全に両想いじゃん。
 仲良くティータイムなんかしちゃってさ。前まであんなに喧嘩してたのに。(それもそれでとてもいいのだが)なんて尊いのだ……。
「いや〜昨日はおめでとう。告白もしていないのに失恋した身としては複雑だけど?」
「芹沢先輩……」
 芹沢先輩は冗談めかして言うけど、無理して笑っているのは分かってしまう。胸がきゅっとして、俺は思わず頭を下げた。
 失恋……。翠のことが、まだ好きなのかな。
「ありがとうございました。背中、押してくれて」
「いいっていいって。叶愛くんが幸せそうでよかった」
 そう言いながら、先輩はちらっと柱の方を見る。
 なにかあるのかな? と小首を傾げながら振り返ると、不服そうな顔をした翠がいた。
「……で、独占欲の権化さんは、もう少し穏やかになれそう?」
「無理」
 即答だった。翠が歩いてきて、俺の肩を抱き寄せる。
 なんで翠が来ているのか、という疑問も忘れ、幸せに浸ってしまった。
「ほら出た。相変わらずだなぁ」
「叶愛に近づくやつ全員警戒対象だから」
「はいはい」
 そのやり取りを横で見ながら、俺は、なぜか胸がいっぱいになっていた。
 昨日まで、こんな未来は想像すらできなかった。
 好きだって自覚するたびに、逃げて、傷ついて、勝手に諦めようとして。
 でも今は、こうして当たり前みたいに隣にいて、愛されて、守られてる。
「……尊いな」
 思わず零したら、翠が即反応した。
「なにが」
「碧くんと芹沢先輩」
「は?」
「ちょ、今それ言う?」
 碧くんが慌てて否定する横で、芹沢先輩は笑って肩をすくめる。
「はいはい、また新たな推し作っちゃったね」
 その瞬間、俺の腰に回された腕がきゅっと締まった。
「よそ見禁止」
「えっ」
「俺の恋人なんだから」
 真顔で言われて、心臓が跳ねる。
「……ほんとに独占欲すごいね」
「今さらだろ」
「大丈夫、大丈夫。僕は完全に翠叶愛推しだから」
 ……ん?
「翠叶愛?」
「うん」
 翠の方を見上げて、腕を離し、碧くんに詰め寄る。
 もう一度整理しよう。なぜ俺が後なんだ、?
「……え、俺が受けっていう根拠どこなの?」
「もしかして自覚なし?」
「いやいや! なんで勝手に決められちゃってるの!?」
 俺は受けじゃない。絶対に翠の方が受けだ。そうやって認識してきたし。……ん、待って、俺が翠を抱くってこと!? なんか頭がぐわぐわしてきた。
「じゃあ叶愛くんは翠のこと抱けるの……」
「うわぁぁ!! ダメですここで言ったら!! まだそういうのはありませんから!! それでは失礼します!」
 翠の怪訝そうな顔にも気を求めないまま、勢いで芹沢先輩の口を遮る。
 先輩って口緩すぎないか……という言葉を呑み込み、翠の手を引いて廊下を歩いた。
「っあぶない……」
 あんな健全じゃないこと、翠に聞かれたら溜まったものじゃないよ……。まだ純粋なのに。
 一人でぶつぶつとボヤいていると、隣の彼がボソッと呟いた。
「……音羽のやつ、まだ諦めてないな」
 多分独り言なんだろうけど、地獄耳の俺は翠の言葉に反応してしまう。
 その呟きは、独り言にしては少しだけ重かった。歩く速度も変わらないし、声も低いままなのに、胸の奥にだけずしりと沈む。
 翠は、気づいている。そして、気にしている。俺が思っているより、ずっと深く。その事実が、少しだけ怖くて。同時に、どうしようもなく嬉しかった。
 諦めていないってなんのことだろう。不思議になって首を傾げるけど、一つ思い当たる節があった。
「芹沢先輩……」
 まさか、まだ翠のことがやっぱり好きなのか……。翠も気づいてたのかな? それで。
 芹沢先輩は俺よりずっと強くてかっこいいから、もしかしたら翠もいつか……。
「叶愛、違うから。あいつは叶愛のことが……」
「え?」
 言いかけた翠の声が、わずかに揺れた気がした。
 はっきり言い切れない理由があるみたいで、俺は続きを待つことも、遮ることもできなかった。
 想像のしすぎかもしれないけど、芹沢先輩、俺のこと嫌ってる……? で、でももしそうだったら俺にあんなよくしてくれないし……。わからない。
 彼は歩きながら、俺を安心させようとしてくれたのか、手を握ってきてくれた。その心遣いに、また心がときめく。
 ……あぁ、好きだな、こういうところ。
「というか、叶愛。俺といるときは他の男の話しないで」
「あ……」
 そうだった……。昨夜、そんなこと言ってたっけ。冗談かと思っていたけど、彼の瞳は俺でもわかるくらい嫉妬に滲んでいた。
 愛されてるな、と改めて実感する。
「はぁ……俺ばっか嫉妬してんのやだな」
 呆れたように顔を手で隠してため息をつく彼。
 俺ばっかって、そんなのお互い様なのに。俺は翠を励まそうと慌てて口を開く。
「お、俺だって嫉妬なんかいつもしてるよ……!」
「え……?」
「え、えぇと、翠が他の人に取られちゃったらどうしよう……とか」
 恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
 俺がもじもじしていると、翠は一瞬目を大きく開いて部屋の中に入った。そして、強制的に座らせられ、問い詰められるの会が始まると悟り、俺は肩を落とす。
 いつ、俺が誰に嫉妬したのか。どんな気持ちだったか。翠のことがどれくらい好きなのか。
 最後の方は嫉妬となにも関係なかったけど、笑い合いながら、そんなたわいもない話をした。
「そういえば叶愛さ」
「ん?」
「音羽に嫉妬したって言ってたよね?」
「う、うん」
 いきなり真剣になって俺の手を握る翠。
 芹沢先輩の話……。正直なにを言われるのか怖い。だって、もしかしたらって思っちゃうじゃん。
「俺もなんだけど」
「……んぇ?」
「俺も、音羽に嫉妬してた」
「芹沢先輩……!?」
 なんで、? 翠は芹沢先輩の気持ちに気づいていたはずなのに。
 俺が先輩に取られるとかそんなことはないはずなのに。
 頭から足の先まで考えていると、翠の表情はなぜか険しくなった。
「叶愛……」
「ん?」
「自分が音羽にそういうふうに思われてるって気づいてないの?」
 え……? そういうふうにって……?
 首を傾げながら考えるけど、全く意味がわからなかった。
「はぁ……なんでもないよ。俺は叶愛に近づくやつ全員
遠ざけるだけ」
「へ……なんて?」
 最後のセリフが、隣の部屋の人の声でかき消されてしまった。聞こえなかったはずなのに、なぜか、その言葉の温度だけは伝わってきた。冗談とも、本気ともつかない。でも決して軽くはない響き。
 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
 俺は、守られているのか、囲われているのか。その違いがまだわからなかった。
「でも、もう叶愛は俺のだから。誰にも触れさせない」
「ぇあ……」
 急に翠が真剣な顔になるから、顔が熱くなる。
 ま、まさか俺がこんなこと言われる側になるとは……。
 顔が熱くなって、しばらく沈黙が続き、照れ隠しをするように口を開いた。
「……じゃ、じゃぁこれからは芹沢先輩と碧くんの恋を応援するよ」
 本心から出た言葉のはずなのに、言い終わったあと、少しだけ胸がざわついた。まるで、なにか大事なものを見落としたまま話を進めてしまったような感覚。
 お互いに嫉妬しあっていた意味はわからなかったけど、最近あの二人はいい感じだし。碧くんたちがくっついたら大変素晴らしい。
 そう自分に言い聞かせているけど、目の前の彼の表情は悪くなるばかり。俺、変なことしちゃった? 
 そう思って、翠の頭を撫でると、抱きしめ返してくれた。

 数日後、ベッドの上で、俺は膝を抱えながらBL漫画を読んでいた。
 冬休みなのに、予定もない。しいて言えば、お正月に一日だけ帰省するだけだ。……お年玉をもらいに。あんなブラコンな兄ならいくらでも貰えるし。俺は勝ったのである。
 まぁそんなことはどうでもよくて、外は寒いし、寮にいるのが一番最高だ。
 ページをめくるたび、胸がきゅっとする展開が続いていて、思わず頬が緩む。あぁ尊い。尊すぎて滅。
「……っ、ここで手ぇ繋ぐとか反則すぎ……!」
 ひとり小声でツッコミを入れていた、その瞬間。
 後ろから、誰かに抱きしめられた。言わずもがな、この部屋にはふたりしかいないので、翠なのは決まっている。
「わっ……翠?」
「楽しそう……」
 耳元に、少し拗ねたような声が響く。
 いつの間にか、背後に立っていたらしい。気配に気づかなかった自分にびっくりする。
「な、なに……?」
「俺の恋人が俺以外の男にときめいてる」
 拗ねた声の裏に、冗談じゃない感情が混じっているのがわかる。
「ち、違っ……! これはBLであって、俺の供給で……」
 言い訳をしようとしたけど、腕の力が強くなって、言葉が詰まる。
 こういう拗ねるところもかわいいんだけど、そんなこと本人に言ったら、犯されそうなので吞み込んだ。
「俺にも構って。……寂しいから」
 かわいい……。ぽつりと落とされたその一言に、胸が締め付けられる。
 振り向けば、翠は俺の肩に額を預けていて、珍しく表情が柔らかい。
「俺のこと好き?」
 真剣なのに、どこか不安そうな目で見つめる彼。
「好きだよ。……永遠に」
 考えるまでもなく、言葉が出た。
 自分で言っておいて、恥ずかしくなって目を逸らすけど、彼の腕の力は強くなるばかり。
「……もう、推しじゃない?」
「もちろん」
 俺は小さく笑って、ゆっくり告げる。
 この子はたぶん、言葉にしないと伝わらない。言わないと、また誤解が起きてしまう。
 だから、俺は……。
「もう翠は、大切な……恋人、だから」
 抱きしめられながらそう言うと、胸の奥がじんわり温かくなる。今度は、安心するように笑う彼に前から抱きしめられた。
 ああ、本当に愛されてるんだな、って。気づけば、俺はもう“推し”として翠を見ていなかった。
 受けとか攻めとか、理想の関係とか、そういうもの全部を飛び越えて、ただ、翠という人間が好きだった。
 BL漫画みたいに楽しそうに笑う俺たちの姿を、少し引いた目線で思い浮かべる。でも、これは作られた物語じゃない。今、この瞬間に確かに存在している、俺たちだけの時間だ。俺たちだけの、物語なんだって。
 翠に手を握られ、背中に腕を回されて、胸いっぱいに広がる幸福感。推しに恋をしていたはずなのに、いつの間にか、推しだからとか、もうどうでもよくなるくらいこんなにたくさん愛してくれる翠だけが好きだ。
「……もう、好き通り越して愛してる」
 思わず声が漏れる。そう言った瞬間、翠が一瞬固まってから耳まで真っ赤になる。
 俺がもじもじして、瞬きもする間もなく、視界いっぱいに翠の顔が映された。
「……可愛い」
「ちょ、やめ……!」
 その一言に、胸の奥がじんと熱くなる。からかいでも、勢いでもない。ただ、真っ直ぐに向けられた言葉。
 この距離、この空気、この視線。全部が好きだからで繋がっていると、今さらのように実感した。
「え……っ」
 唇に、たぶん……翠の唇が重なった。考えるよりも先に、キスされたんだと気づく。
「好き。ほんとに」
「お、俺も……」
 そんなことを囁かれて、顔が熱くならないわけがない。
 俺は慌てて、手元のBL本で顔を隠した。
 ……その、表紙を。
「……へぇ」
 身体が離れて、低くて、意味ありげな声が耳元で呟かれる。
 そっと本を引き抜かれて、翠が表紙を見つめて、俺の顔をチラリと見た。
 ま、待ってその表紙は少々過激なシーンが……。まだ翠には早い……!
「こんなの読んでたんだ」
「ち、違っ、これは資料というか……」
 言い終わる前に、ふわっと視界が揺れて、ベッドに押し倒される。
 もちろん力は入ってないし、痛くもない。でも、距離が近い。近すぎる。
「……ふぅん。そっちがその気なら」
 彼は不敵に笑って、俺の頬に唇を当てる。
 え……今、キスされた? と思う暇もなく、焦り始める。
「俺も頑張らなきゃね」
 冷や汗を垂らしながら翠を見つめていると、こないだ碧くんたちに言われたことを思い出した。……やっぱり、俺って受けなの!?
 そんなこと、今はどうでもいいはずなのに。でも、こうして悩んでしまうくらいには、俺は本気でこの人と向き合っているんだと思った。
「違うこと考えてるでしょ」
「い、いやえっと……」
「……したいんでしょ?」
「えなに、ちょ、なんの話!?」
 完全に理解が追いついていない俺を見て、翠は楽しそうに笑った。
 やばい、やばい……! 翠の目が銀色に輝いてるんだけど!
 これはまずいと思って逃げるけど、腕と足を捕まれ引きずり込まれる。
「なになになに!?」
「叶愛がかわいいのが悪い」
「えぇ……ちょ、翠……!」
 外の街は、今日も変わらず煌めいている。
 イルミネーションも、人の笑い声も、きっとどこかで続いている。
 でも、俺たちの世界は今、この部屋の中だけで完成していた。
 誰かに見せるためでも、物語みたいに綺麗に終わらせるためでもない。ただ、確かにここにある、不器用で、あたたかい現実。