目が覚めた瞬間、胸の奥がずしりと重たかった。
夢を見た気がする。でも、どんな夢だったのかは思い出せない。
ただ、嫌な予感だけが残っている。昨日のことを思い出してしまったから。正夢にならないといいな、なんて。
翠の声、背中に回された腕、耳元で落とされた低い声。
──『言わないで。聞きたくない。』
あの一瞬で、俺の中でなにかが壊れる音がした。
ちゃんと覚悟して、ちゃんと傷つく準備もして、やっと口に出そうとしたのに。俺のなにが行けなかったんだろう。どうして聞きたくなかったんだろう……。
拒絶されたわけではない。でも、受け取ってもらえなかった。それが、一番きつい。
もう、全部わかんないや……。頭の中ぐちゃぐちゃで、最悪で、布団をすっぽり被る。
「……行ってきます」
俺と一緒にいることがいやだということがまるわかりな様子で、まだ登校時間よりも大幅に早い時間に、翠は部屋を出た。
そんなに俺といるのが気まづいのかな。
布団の中で身を丸めながら、スマホを手に取ると、通知が一件来ていた。
……碧くんだ。碧くんの長々とした言葉の中に、芹沢先輩のことが書いてある。芹沢くんってめっちゃ攻めだよね、とか、いつも軽いしうざいけどなんだかんだいい人だよね、とか。俺が考えていることよりも呑気な言葉ばかり。
「…………はは」
声にならない笑いが漏れた。
碧くんはいいな。好きなものを好きって言えて、萌えたらそのまま口に出して、誰かに遠慮することもなくて。
俺は、いつから臆病になったんだろう。
このまま……このまま、碧くんと芹沢先輩がくっついちゃえばいいのにな、と思う。そうすれば、俺はもう……翠を誰かの相手役として見る必要がなくなる。いや、ほんとはもう見れない。翠を、「受け」だとか「攻め」とか、推しとして消費する視線で見ることができなくなってしまった。
やっぱり俺は、翠が好きだ。
「……最低」
布団から起きて、呟く。
推しに恋するなんて、腐男子として、一番やっちゃいけないことだ。
誰かを推すって、もっと安全で、もっと都合のいいものだったはずなのに。自分の無力さに、また失望した。
今日は終業式。
しかもクリスマスイブなのに学校。
教室に入ると、全体的にどんよりしていた。誰もが早く帰りたい顔をしている。……みんな恋人がいるのかなぁ、なんて。いつもなら、BLのカップルいないかなって思ってるのに、なんだか今年は、恋人がいる人が羨ましく思う。
机に顔を伏せながら、教室の扉を眺める。いつも翠たちが戯れている場所だ。翠は、いつも通り一軍の輪の中にいる。笑って、誰かと肩を組んで。
その光景を見ただけで、胸がきゅっと痛くなる。
……み、見ない見ない。
そう決めて、ノートを開く。でも気づいたら、妄想ノートの攻め探しページに、翠の名前を書いていた。
その隣に、俺の名前。手を繋ぐ、隣りに座る、くだらない妄想。オタクとして、もう本当にさいっあく。
「萌木くん、しっかりしてや?」
「紫音……」
二学期は終わったけれど、お昼ご飯は持参なので、購買に行くため紫音と二年の廊下を歩く。
「最近、平気か? 兄貴のやつも心配しとったで?」
「……う、うん……」
紫音にも伝わってるなんて……。これ以上迷惑をかけたくなくて、無理に笑顔を作る。
「だ、大丈夫だよ! ありがとう……」
「そか……そうならえぇんやけど……話と〜なったらまた言うんやで?」
「う、うん。ありがとう」
そう言い残して、紫音はパンを大量に買っていた。
こんないい友達をもって、幸せものだなぁ。なのに俺、なんにもできてない。がっくりと肩を落とす。
「あ、ご、ごめんなさ……」
「……叶愛?」
階段の角で、誰かとぶつかったかと思って、謝りながら顔を上げると、いつもより目が少し腫れている翠がいた。
どうしたんだろ……泣いたのかな。恋の、病……? 芹沢先輩のことかな。少し、胸がチクッと痛む。
自分で思って自分で傷つくって、ほんとにめんどくさいな。
俺と翠との間に沈黙が続いたため、お辞儀をして、その場を去ろうとする。
「待って」
翠に、腕を捕まれる。翠の手のあったかさ、久しぶりだな……。
泣きそうになって、顔を逸らす。
「な、なに」
声、冷たいな……俺。
今日、俺叶愛に伝えたいことがあって」
「……うん」
伝えたいこと……ね。芹沢先輩が好きだから、もう付きまとうのはやめてほしい、とかかな。
被害妄想はよくないけど、翠の瞳を見る限り、そう言ってるようにしか見えなかった。……あぁ、本当に泣きそうだ。
涙が瞳に滲んできて、慌ててまた視線を逸らす。
「……だからさ、今日イル……」
「おーい! 篠宮置いてくぞ〜!」
翠のなにか重要な言葉は、クラスの一軍たちによりかき消されてしまった。
「ごめん、またあとで話したい」
翠は、少し拳を握りながら、陽キャの並に囲まれてしまった。
また、聞けなかったな。あとでって。もう俺、言おうとしてることわかるよ。わざわざ言わなくても、諦めるよ。
「あっれぇ? 叶愛くんじゃーん」
「芹沢先輩……」
ひょこっと教室から現れた芹沢先輩の表情は、ニコニコを超えてニヤニヤしている。怖すぎ。
……というか、今日翠が一緒じゃないから寄ってこないかと思ってたのに。もしかして、もっと俺と翠の仲を引き剥がそうと……。
「今日イルミめっちゃ綺麗らしいよ」
「え……?」
先輩は、からかうわけでも、仲を引き剥がそうともせず、いつもの優しい笑顔で、軽く言った。
「誰かさんと行ってくれば?」
「え……っと」
先輩はわかってるくせに。翠のことが好きなくせに、なぜ俺の恋を応援しようとしてくれるのか。
もしかして、先輩、振られる俺を見たくて楽しんでる? い、いや先輩に限って、そんなことはない……と思う。だって、とってもいい人だって、知ってるし。
「きっと叶愛くんの気持ち、翠に届くよ」
「先輩……」
「頑張って!」
「は、はい……!」
背を向けながら手を振って、教室の中へと入った先輩の表情は、やっぱりどこか諦めているようだった。
先輩は本当にいい人だなぁ……。最後まで背中を押してくれて。きっと明日芹沢先輩……翠も、告白するのだろうに。
胸を少しざわつかせながら、教室へと足を運ぼうとしたけど、紫音を置いていったことを思い出して、もう一度階段を下った。
「イルミネーション、ねぇ……」
「え」
「もしかして、今日誰かと行くん?」
「ま、まだ決まってないけど、ね……」
紫音はパンを大量に持ちながら壁にもたれかかる。
誘えるかどうかも怪しいし、わからないな……と内心呟きながら苦笑いする。
「そか。まぁわからんけど気張りぃや!」
「あ、ありがとう」
この無邪気な顔、本当碧くんにそっくり。天真爛漫だな、と思いながらまた歩き始める。
……イルミネーション、クリスマス、夜。
これで、お終いにしよう。この気持ちを、終わらせよう。もう怖気付いてちゃダメだ、ちゃんと告白して、ちゃんと振られて、ちゃんと諦める。それが一番、正しい。二回告白しようとして、二回失敗したんだ。二度あることは三度ある……い、いやいや三度目の正直とも言うし……今度こそ、気持ちが伝わるといいな。
またもや楽しそうに友達と話す翠を眺めながら、そう決意した。
夕方、無事終業式も終わり、寮で本を読みながら翠を待つ。翠はココ最近、気まづいから、門限ギリギリで部屋に帰ってきていたけど……。話があるって言ってたし、早く帰ってくるのかな、なんて、淡い期待を胸に翠のベッドを見つめる。
「ただいま……」
噂をすれば。
「お、おかえり……」
表情を曇らせながら、ベッドに腰掛ける翠。
いざ帰ってくるとなると……中々勇気でないなぁ。
言うか言わないか。翠のところに近づくか近づかないかで沈黙の時間が過ぎて行って、ただ静かに時計の秒針の音が聞こえた。
逃げたら、絶対後悔する。逃げたら、前の俺と同じことになる。もう、過去には戻りたくないから、思い切って口を開いた。
「あ、あのさ……」
手汗と、震えが止まらない。
「なに?」
翠は、まだ顔を上げず、本を見ながら問いかける。
「きょ、今日、い、一緒に、イルミネーション……行かない?」
どうしよう……。緊張しすぎてめっちゃカタコトだ……。
希望を失ったまま、沈黙が続く。おどおどしながら返事を待っていると、翠が本を閉じて顔を上げた。
「……いいよ」
冷たくて、どこか素っ気ない返事だった。
「もう外暗いし、行こ」
「え、あうん……!」
翠に置いていかれないように、上着を着て、寮の門から出る。この感じ、なんだか久しぶりだな。
「さむ……」
外は、冬の匂いがした。並んで歩いているのに、距離が遠い。
沈黙があまりにも続くから、怖くて、わざと話題を作るけど「寒いね」とか、「芹沢先輩がさ」とかどうでもいい話しかできなくて、すぐにまた沈黙に戻ってしまう。いつもなら、BLの話で俺だけが盛り上がっちゃって翠を困らせちゃうのに。
今日は困らせるどころか、怒っている様子。さっきから俺が話題を出すとすぐ表情をムスッとさせるし。
なにに怒っているのか本当にわからない……。
それにしても寒いなぁ。雪とか降ったりしないかな、なんて。空を見上げながら白い息を吐く。
「え、ちょ……」
マフラーに顔を埋めていると、翠がいきなり手を掴んで、彼のポケットの中に入れた。その中で、翠が手を握る。
「寒いだろ」
「で、でも……」
これって付き合いたてのカップルがやるやつなんじゃないの……!? このとき近すぎて赤面しちゃう受けちゃんが大好きだったのに。
待って、今俺がその状況にいるってこと!? い、いや考えすぎ考えすぎ。付き合ってないし。それに、俺の一方的な片想いだもん。
やっぱり近さ半端ないよぉ。確かに冷えていた手は暖かくなったけど、今は暖かい通り越して熱々だよ。こんなことされたら、期待しちゃうじゃん。
……あぁ! もう!! ドキドキしてわけわかんない! い、今言っちゃおうかな。でも、この手離したくないよ。
イルミネーションの光が、視界の端で滲む。寒さのせいじゃない。喉が詰まって、うまく息ができなくなったからだ。
「……翠」
名前を呼ぶだけで、声が震える。それがもう、答えみたいで嫌だった。
昨日のこと、あの夜遮られた言葉。言えなかった「好き」。それが喉の奥に、ずっと引っかかっている。
このまま何も言わなかったら、多分俺は一生この気持ちをなかったことにしようとする。それが一番、卑怯だ。
しょうがない、もう我慢できない。
俺は手を離して立ち止まり、勇気を振り絞り口を開いた。
「あ、あの!」
翠の歩く速度が、ほんの少しだけ遅くなった。
「昨日のこと、ちゃんと話したくて」
遠かった背中が近づいてきて、立ち止まってくれたんだと思ったけど、やっぱり沈黙は避けられない。
大丈夫、俺はもう逃げない。今度こそ、間違えない。
口を思い切って開く。
「俺さ……ずっと、翠のこと推しだって思ってた」
声が裏返りそうになるのを、必死で押さえる。
翠が、向かい合わせに止まってくれた。
「受けだとか、攻めだとか、そうやって見てれば安全で……近くにいても、傷つかなくて済むって、思ってた」
最低だ。自分で言ってて、吐き気がする。
「でも……それ、全部嘘だった」
息を吸うけど、肺が苦しい。心臓が、うるさい。
「一緒にいると変になるし、他の人と話してるの見るとムカつくし……推しに、こんな感情持つの、よくないって何回も思った。だからさ……だから、これは間違いなんだって俺が勝手に勘違いしてるだけなんだってそう思わないと、無理で……」
笑って誤魔化したくなる。でも、それすらできない。
泣きたくなって、声が少し掠れる。
「でも……好きなんだよ」
もう推しだってなんだっていい。この気持ちに嘘はない。
初めて、本当に好きになれた人。初めて、本当の愛を教えてくれた人。
ずっと黙って俺の瞳を見つめてくれた彼は、優しく手を握ってくれた。もう、考えてる暇はない。
一拍置いてから、息を吸った。
「翠のことが……好きです……! 誰よりもずっと。どんな推しにも負けないくらい」
言った……言った。翠の目は、みるみるうちに見開いていって、驚きを隠せていない。
困らせちゃってるよね……。俺のバカ! なんでもっと早く言わなかったんだ……。どうにか空気を変えようと、咄嗟に言葉を探す。
「きっと困るだろうってわかってたから! ……だから、どうぞ振ってくださいお願いします!! ごめんなさい……好きになって、ごめんなさ……」
全部吐き出して、翠の顔も見れずに早口になって話す。
喋りながら、やってしまった……と考えていると、次の瞬間。
「っ……!?」
「俺も」
「え?」
翠に、真正面から抱きしめられた。息が詰まるほど、腕の中が暖かい。
彼の声も、少し震えていて。
「俺もだよ」
そ、それはどういう、こ、と? 翠の匂いがして、それだけで頭が真っ白になる。
彼は俺の頭を離して、向かい合わせに見つめた。
「俺も……。ずっとずっと好きだった」
「……え、?」
一瞬、意味がわからなかった。
冗談だよね。夢だ。そうじゃないとおかしい。……俺、翠のこと好きすぎて幻聴聞こえるようになったのかな。
誤魔化すように愛想笑いをする。
「俺、叶愛のことが好き」
「へぁ……?」
はっきりした声で、真っすぐ見つめてくるから、逃げ場がなくて。
真剣な表情だから、もしかしてって。期待、しちゃう……。本当に本当、なの、かな。
でも、嘘だったら俺、生きていけない。
「……夢?」
答えを確かめるように震える声で聞く。
彼は少しだけ息を吸っていつもの優しい笑みを浮かべてくれた。
「夢じゃないよ」
そう言われた瞬間に、翠の大きな手で、俺の頭を撫でてくれた。
夢じゃ、ない……。信じられなくて、笑ってしまいそうになる。
翠が、俺を︎好き……? そんなの、物語の中でしかあるはずないよ……。だって、翠の好きな人は……。
「翠は、芹沢先輩が好きなんじゃないの?」
「…………はぁ? 音羽? んなわけないじゃん」
「え、え……」
そんなわけない……? あんなに愛し合ってたのに……? じゃ、じゃあ芹沢先輩の片想いって、こと? そ、そんなことって。
「俺が好きなのは、叶愛だけだよ」
「ほ、本当に……?」
「うん。好き」
未だに信じられなくて、でもやっぱり信じたくて。たくさんの感情が混ざりあい、涙がポロポロと流れ出る。
「そ、そんなの……漫画でしかありえないよ……だ、だってさだって翠が俺のこと好きだなんてありえな……」
俺が取り乱して、弱々しい抵抗を続けていたとき、唇に柔らかい感触が触れた。
短かったけど、確かな感触だった。
言うまでもない。キス……され、たんだ。現実だとわかった瞬間、顔がぶわっと熱くなる。
「信じられないよ……」
「信じてもらわなきゃ困る」
顔が見られなくて俯く俺を翠は、また優しく抱きしめた。
暖かい……。自分がBLするなんて、思いもしなかったな。
「好きだよ」
「うん……俺も好き」
その一言で、今までの自己嫌悪も、逃げ腰も、全部崩れ落ちた。
さっきまでイルミネーションが綺麗だとか、寒いねとか、そんな当たり前の言葉しか思い浮かばなかったのに。今はもう、頭が真っ白で、胸だけがうるさい。
身体を離して、また歩き出す。もちろん、手は繋いだままで。
「叶愛……?」
俺が恥ずかしすぎて、目を逸らしているから、頭上から不安そうな声が降ってくる。
名前を呼ばれ、はっとした。
「い、今のって……本気、だよね……」
俺の声が震えてることなんていやでもわかる。
聞かなくてもいいことをわざわざ聞いてしまうのは、まだまだ夢見心地で、信じられなかったから。いや……信じるのが怖いから。
だ、だって、自分を推してるオタクに恋をするのってありえるはずないもん。
彼は、少しだけ手を伏せてから静かに言った。
「本気に決まってる」
それだけ。でも、嘘が入る余地なんてどこにもなかった。
……信じても、いいのかな。この瞳の奥には、なにも嘘がなくて。本当に俺が好きっていう愛に満ちた瞳をしてる。それだけで、胸がきゅっとなった。
「あ、あの翠……」
「ん?」
立ち止まると、彼は振り返って微笑んでくれた。
……もう、キャパオーバーだけど、これだけは言いたい。
「ほ、本当に夢じゃないんだよね……?」
「夢なわけないよ」
「じゃ、じゃあ……じゃぁさ。俺、もう逃げないから。ずっと翠が好きだから」
「うん」
拳をぎゅっと握って、息を吸う。
一か八かだけど……。
「……お、俺と付き合ってください……!」
思い切って、言う。どんな反応をされるか怖くて恐る恐る顔を上げると、前方に翠はいなくて。
「わっ……!?」
勢いよく、翠が抱きしめてきた。
ほんと、今日何回抱きしめられてるんだろう……。
「今さら、もう俺のだろ」
「す、翠……」
もう、どうにでもなれ……。
なんでそんなにドキドキするような言葉が出てくるんだろう。やっぱり翠はずるいな。
身体を離しながら、少しの間沈黙が続くけど、さっきより全然苦しくなかった。だけどやっぱりなにか会話をしたくて、イルミネーションを見ながらふと思い出したことを口に出す。
「そ、そういえばさ……」
「どうしたの?」
意を決して、言葉を探す。
「い、いつから……俺のことを……」
そこまで言って、続きが出てこない。
怖い。もし「最近」とか言われたら、どうしようって。
翠は、俺の手をぎゅっと握り直した。
「中三の最後の方」
「え?」
「正確には、卒業式で好きになった」
言葉の意味がわからない。だって、俺と翠は、中学違うはずで……。
彼はイルミネーションから目を逸らし、遠くを見つめる。
「叶愛が不登校だったとき。久しぶりに一日だけ来た教室の中で、友達と話してた」
胸が、きゅっと鳴る。
俺は覚えてない。覚えてないけど、その日はたぶん、すごく怖くて、人の顔なんて見る余裕がなかった。
その日はその日で本当に、他クラスのオタク友達としか話してなくて。それから卒業式まで学校に行っていなかった。
中学校に行ったのも、それで七、八回目くらい。クラスメイトの顔も、名前すら知らなかった。
「目、合ったんだよ。一瞬だけ。すげー必死な顔しててさ」
「必死な顔……」
彼は、ふわりと笑って俺の方に顔を傾けた。イルミネーションが被ってなんだか眩しい。
「変な話だけど、忘れられなかった」
胸がじんわり熱くなって、また涙が出そうになる。
そんな前から、気になってくれていたなんて。
「卒業式のとき話しかけようかとためらったけど、叶愛は人のことを誰も見てなかったから……。勇気出なくて」
「そ、れは……ごめん。本当は卒業式に行くつもりもなかったんだよね……」
二桁の回数も学校に行っていない人が、卒業していいのか、とか卒業証書なんてもらっていいのか、ずっと思い詰めてた。
受験だって、家で必死に勉強して、受かる希望なんてなかったし。
「ううん。……でも、目が合った時から少し気になってて。だから、叶愛と同じ高校受けた」
「え!?」
な、なんで!? そんなさらっと言うことじゃない気がする。だって俺、どこの高校に行くかなんて誰も言ってなかったし……。なんで、?
い、いやここまで来たら聞くのも怖くなってきた。むやみに探らないようにしよう。
「入学式で見たときあ、って思った。……まさか同室になるとは考えてもなかったけど」
「た、たしかに……」
「……それで、好きにならないようにしてた」
「えっ」
あまりに真っ直ぐな瞳に、言葉に、息を飲む。
「推しだのBLだの言ってるし、俺が割り込む場所じゃないと思ってた。……それに……」
「それに……?」
彼は一瞬言いにくそうに顔を俯かせる。
「秋祭りの日、結城先輩に聞いたんだよ」
「碧くん?」
「詳しくは言ってなかったけど、叶愛は昔ひどく傷ついたことがあったから、あんまり思い出させないであげてって」
「っ……」
碧、くん……。それで、それで俺と距離を置いてくれたんだ。俺がまた傷つかないようにって。
……全部、俺のせいだ。自分で思って、自分で傷ついて。勝手に壁を作って、勝手に遠ざかって。その上気まで遣わせるとか……。
きっと、たくさん翠のこと傷つけた。馬鹿だなぁ俺は。
「……ごめん」
小さく言うと、翠がすぐに首を振る。
「叶愛のせいじゃないよ。……逃げたのは、俺も一緒」
そう言って、俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「でも、もう逃げない」
近すぎて、息がかかる。ドキドキして、半端ない……。翠も同じ気持ちだったら嬉しいな、なんて。
「叶愛が好き。叶愛のどんな過去も、俺が受けとめるから」
胸がいっぱいで、涙が出そうになる。どれだけの勇気を出してくれたんだろう。どれだけ、我慢してくれたんだろう。考えただけで、胸と瞳がじんと熱くなる。
「俺も、翠が好き」
言った瞬間、世界が少しだけ明るくなった気がした。
翠は一瞬だけ驚いた顔をして、それから……ものすごく、安心した顔で笑った。
「叶愛は? いつから俺のこと好きだったの……?」
「そ、それは……のちのち、話すよ」
芹沢先輩に気付かされた、なんて絶対言えない……!
「わかった。楽しみにしてる」
彼は、幸せそうな笑顔を浮かべて、また握る手の力を強くした。
追い詰められなくて、よかった……。
「じゃあ……もう俺は推しなんかじゃないね?」
「えっ?」
彼はにっこり笑って顔を覗く。
た、確かにもう翠は……。
「それと、さっきみたいに俺と二人きりのときに他の男の話したら……」
心なしか、翠が本当に攻めに見えてくる。今思えば、裏の顔は攻めだったってこと……? 受けみたいな顔してるのに。
そんなことを考えて翠の言葉を待っていると、いきなり俺の鼻を指でちょんちょんと撫でられた。
「お仕置ね」
「んぇ」
囁くような声で、耳元に翠の声が広がった。遅れて耳がじわじわと熱くなる。
……お仕置き……。恐るべし翠。ドキドキしてそれどころじゃないのに、追い打ちをかけてこないでよぉ。
芹沢先輩には罪悪感でいっぱいだけど、条件はひとつ。
「俺といるときは、BL禁止」
「……はい」
小さく答えたら、彼は満足そうに笑い、また歩き出した。
イルミネーションは相変わらず綺麗だったけど、もうそれどころじゃなかった。俺が、こんな風に漫画のような恋をするなんて。漫画みたいな展開で、翠と恋人になれて。奇跡、だな。……う、ううんもしかしたら運命だったのかもしれない、なんて物語の中みたいなこと言っちゃうけど。
「軌跡……かな」
こうして、翠の攻めを探す旅は終わった。名残惜しいけど、恋しちゃったものはもう仕方がない。
これからは芹沢先輩と碧くんをくっつける旅にでも出ようかな、と思ったけど、翠の表情がむすっとしていたので、今日のところは考えるのはやめておいた。
夢を見た気がする。でも、どんな夢だったのかは思い出せない。
ただ、嫌な予感だけが残っている。昨日のことを思い出してしまったから。正夢にならないといいな、なんて。
翠の声、背中に回された腕、耳元で落とされた低い声。
──『言わないで。聞きたくない。』
あの一瞬で、俺の中でなにかが壊れる音がした。
ちゃんと覚悟して、ちゃんと傷つく準備もして、やっと口に出そうとしたのに。俺のなにが行けなかったんだろう。どうして聞きたくなかったんだろう……。
拒絶されたわけではない。でも、受け取ってもらえなかった。それが、一番きつい。
もう、全部わかんないや……。頭の中ぐちゃぐちゃで、最悪で、布団をすっぽり被る。
「……行ってきます」
俺と一緒にいることがいやだということがまるわかりな様子で、まだ登校時間よりも大幅に早い時間に、翠は部屋を出た。
そんなに俺といるのが気まづいのかな。
布団の中で身を丸めながら、スマホを手に取ると、通知が一件来ていた。
……碧くんだ。碧くんの長々とした言葉の中に、芹沢先輩のことが書いてある。芹沢くんってめっちゃ攻めだよね、とか、いつも軽いしうざいけどなんだかんだいい人だよね、とか。俺が考えていることよりも呑気な言葉ばかり。
「…………はは」
声にならない笑いが漏れた。
碧くんはいいな。好きなものを好きって言えて、萌えたらそのまま口に出して、誰かに遠慮することもなくて。
俺は、いつから臆病になったんだろう。
このまま……このまま、碧くんと芹沢先輩がくっついちゃえばいいのにな、と思う。そうすれば、俺はもう……翠を誰かの相手役として見る必要がなくなる。いや、ほんとはもう見れない。翠を、「受け」だとか「攻め」とか、推しとして消費する視線で見ることができなくなってしまった。
やっぱり俺は、翠が好きだ。
「……最低」
布団から起きて、呟く。
推しに恋するなんて、腐男子として、一番やっちゃいけないことだ。
誰かを推すって、もっと安全で、もっと都合のいいものだったはずなのに。自分の無力さに、また失望した。
今日は終業式。
しかもクリスマスイブなのに学校。
教室に入ると、全体的にどんよりしていた。誰もが早く帰りたい顔をしている。……みんな恋人がいるのかなぁ、なんて。いつもなら、BLのカップルいないかなって思ってるのに、なんだか今年は、恋人がいる人が羨ましく思う。
机に顔を伏せながら、教室の扉を眺める。いつも翠たちが戯れている場所だ。翠は、いつも通り一軍の輪の中にいる。笑って、誰かと肩を組んで。
その光景を見ただけで、胸がきゅっと痛くなる。
……み、見ない見ない。
そう決めて、ノートを開く。でも気づいたら、妄想ノートの攻め探しページに、翠の名前を書いていた。
その隣に、俺の名前。手を繋ぐ、隣りに座る、くだらない妄想。オタクとして、もう本当にさいっあく。
「萌木くん、しっかりしてや?」
「紫音……」
二学期は終わったけれど、お昼ご飯は持参なので、購買に行くため紫音と二年の廊下を歩く。
「最近、平気か? 兄貴のやつも心配しとったで?」
「……う、うん……」
紫音にも伝わってるなんて……。これ以上迷惑をかけたくなくて、無理に笑顔を作る。
「だ、大丈夫だよ! ありがとう……」
「そか……そうならえぇんやけど……話と〜なったらまた言うんやで?」
「う、うん。ありがとう」
そう言い残して、紫音はパンを大量に買っていた。
こんないい友達をもって、幸せものだなぁ。なのに俺、なんにもできてない。がっくりと肩を落とす。
「あ、ご、ごめんなさ……」
「……叶愛?」
階段の角で、誰かとぶつかったかと思って、謝りながら顔を上げると、いつもより目が少し腫れている翠がいた。
どうしたんだろ……泣いたのかな。恋の、病……? 芹沢先輩のことかな。少し、胸がチクッと痛む。
自分で思って自分で傷つくって、ほんとにめんどくさいな。
俺と翠との間に沈黙が続いたため、お辞儀をして、その場を去ろうとする。
「待って」
翠に、腕を捕まれる。翠の手のあったかさ、久しぶりだな……。
泣きそうになって、顔を逸らす。
「な、なに」
声、冷たいな……俺。
今日、俺叶愛に伝えたいことがあって」
「……うん」
伝えたいこと……ね。芹沢先輩が好きだから、もう付きまとうのはやめてほしい、とかかな。
被害妄想はよくないけど、翠の瞳を見る限り、そう言ってるようにしか見えなかった。……あぁ、本当に泣きそうだ。
涙が瞳に滲んできて、慌ててまた視線を逸らす。
「……だからさ、今日イル……」
「おーい! 篠宮置いてくぞ〜!」
翠のなにか重要な言葉は、クラスの一軍たちによりかき消されてしまった。
「ごめん、またあとで話したい」
翠は、少し拳を握りながら、陽キャの並に囲まれてしまった。
また、聞けなかったな。あとでって。もう俺、言おうとしてることわかるよ。わざわざ言わなくても、諦めるよ。
「あっれぇ? 叶愛くんじゃーん」
「芹沢先輩……」
ひょこっと教室から現れた芹沢先輩の表情は、ニコニコを超えてニヤニヤしている。怖すぎ。
……というか、今日翠が一緒じゃないから寄ってこないかと思ってたのに。もしかして、もっと俺と翠の仲を引き剥がそうと……。
「今日イルミめっちゃ綺麗らしいよ」
「え……?」
先輩は、からかうわけでも、仲を引き剥がそうともせず、いつもの優しい笑顔で、軽く言った。
「誰かさんと行ってくれば?」
「え……っと」
先輩はわかってるくせに。翠のことが好きなくせに、なぜ俺の恋を応援しようとしてくれるのか。
もしかして、先輩、振られる俺を見たくて楽しんでる? い、いや先輩に限って、そんなことはない……と思う。だって、とってもいい人だって、知ってるし。
「きっと叶愛くんの気持ち、翠に届くよ」
「先輩……」
「頑張って!」
「は、はい……!」
背を向けながら手を振って、教室の中へと入った先輩の表情は、やっぱりどこか諦めているようだった。
先輩は本当にいい人だなぁ……。最後まで背中を押してくれて。きっと明日芹沢先輩……翠も、告白するのだろうに。
胸を少しざわつかせながら、教室へと足を運ぼうとしたけど、紫音を置いていったことを思い出して、もう一度階段を下った。
「イルミネーション、ねぇ……」
「え」
「もしかして、今日誰かと行くん?」
「ま、まだ決まってないけど、ね……」
紫音はパンを大量に持ちながら壁にもたれかかる。
誘えるかどうかも怪しいし、わからないな……と内心呟きながら苦笑いする。
「そか。まぁわからんけど気張りぃや!」
「あ、ありがとう」
この無邪気な顔、本当碧くんにそっくり。天真爛漫だな、と思いながらまた歩き始める。
……イルミネーション、クリスマス、夜。
これで、お終いにしよう。この気持ちを、終わらせよう。もう怖気付いてちゃダメだ、ちゃんと告白して、ちゃんと振られて、ちゃんと諦める。それが一番、正しい。二回告白しようとして、二回失敗したんだ。二度あることは三度ある……い、いやいや三度目の正直とも言うし……今度こそ、気持ちが伝わるといいな。
またもや楽しそうに友達と話す翠を眺めながら、そう決意した。
夕方、無事終業式も終わり、寮で本を読みながら翠を待つ。翠はココ最近、気まづいから、門限ギリギリで部屋に帰ってきていたけど……。話があるって言ってたし、早く帰ってくるのかな、なんて、淡い期待を胸に翠のベッドを見つめる。
「ただいま……」
噂をすれば。
「お、おかえり……」
表情を曇らせながら、ベッドに腰掛ける翠。
いざ帰ってくるとなると……中々勇気でないなぁ。
言うか言わないか。翠のところに近づくか近づかないかで沈黙の時間が過ぎて行って、ただ静かに時計の秒針の音が聞こえた。
逃げたら、絶対後悔する。逃げたら、前の俺と同じことになる。もう、過去には戻りたくないから、思い切って口を開いた。
「あ、あのさ……」
手汗と、震えが止まらない。
「なに?」
翠は、まだ顔を上げず、本を見ながら問いかける。
「きょ、今日、い、一緒に、イルミネーション……行かない?」
どうしよう……。緊張しすぎてめっちゃカタコトだ……。
希望を失ったまま、沈黙が続く。おどおどしながら返事を待っていると、翠が本を閉じて顔を上げた。
「……いいよ」
冷たくて、どこか素っ気ない返事だった。
「もう外暗いし、行こ」
「え、あうん……!」
翠に置いていかれないように、上着を着て、寮の門から出る。この感じ、なんだか久しぶりだな。
「さむ……」
外は、冬の匂いがした。並んで歩いているのに、距離が遠い。
沈黙があまりにも続くから、怖くて、わざと話題を作るけど「寒いね」とか、「芹沢先輩がさ」とかどうでもいい話しかできなくて、すぐにまた沈黙に戻ってしまう。いつもなら、BLの話で俺だけが盛り上がっちゃって翠を困らせちゃうのに。
今日は困らせるどころか、怒っている様子。さっきから俺が話題を出すとすぐ表情をムスッとさせるし。
なにに怒っているのか本当にわからない……。
それにしても寒いなぁ。雪とか降ったりしないかな、なんて。空を見上げながら白い息を吐く。
「え、ちょ……」
マフラーに顔を埋めていると、翠がいきなり手を掴んで、彼のポケットの中に入れた。その中で、翠が手を握る。
「寒いだろ」
「で、でも……」
これって付き合いたてのカップルがやるやつなんじゃないの……!? このとき近すぎて赤面しちゃう受けちゃんが大好きだったのに。
待って、今俺がその状況にいるってこと!? い、いや考えすぎ考えすぎ。付き合ってないし。それに、俺の一方的な片想いだもん。
やっぱり近さ半端ないよぉ。確かに冷えていた手は暖かくなったけど、今は暖かい通り越して熱々だよ。こんなことされたら、期待しちゃうじゃん。
……あぁ! もう!! ドキドキしてわけわかんない! い、今言っちゃおうかな。でも、この手離したくないよ。
イルミネーションの光が、視界の端で滲む。寒さのせいじゃない。喉が詰まって、うまく息ができなくなったからだ。
「……翠」
名前を呼ぶだけで、声が震える。それがもう、答えみたいで嫌だった。
昨日のこと、あの夜遮られた言葉。言えなかった「好き」。それが喉の奥に、ずっと引っかかっている。
このまま何も言わなかったら、多分俺は一生この気持ちをなかったことにしようとする。それが一番、卑怯だ。
しょうがない、もう我慢できない。
俺は手を離して立ち止まり、勇気を振り絞り口を開いた。
「あ、あの!」
翠の歩く速度が、ほんの少しだけ遅くなった。
「昨日のこと、ちゃんと話したくて」
遠かった背中が近づいてきて、立ち止まってくれたんだと思ったけど、やっぱり沈黙は避けられない。
大丈夫、俺はもう逃げない。今度こそ、間違えない。
口を思い切って開く。
「俺さ……ずっと、翠のこと推しだって思ってた」
声が裏返りそうになるのを、必死で押さえる。
翠が、向かい合わせに止まってくれた。
「受けだとか、攻めだとか、そうやって見てれば安全で……近くにいても、傷つかなくて済むって、思ってた」
最低だ。自分で言ってて、吐き気がする。
「でも……それ、全部嘘だった」
息を吸うけど、肺が苦しい。心臓が、うるさい。
「一緒にいると変になるし、他の人と話してるの見るとムカつくし……推しに、こんな感情持つの、よくないって何回も思った。だからさ……だから、これは間違いなんだって俺が勝手に勘違いしてるだけなんだってそう思わないと、無理で……」
笑って誤魔化したくなる。でも、それすらできない。
泣きたくなって、声が少し掠れる。
「でも……好きなんだよ」
もう推しだってなんだっていい。この気持ちに嘘はない。
初めて、本当に好きになれた人。初めて、本当の愛を教えてくれた人。
ずっと黙って俺の瞳を見つめてくれた彼は、優しく手を握ってくれた。もう、考えてる暇はない。
一拍置いてから、息を吸った。
「翠のことが……好きです……! 誰よりもずっと。どんな推しにも負けないくらい」
言った……言った。翠の目は、みるみるうちに見開いていって、驚きを隠せていない。
困らせちゃってるよね……。俺のバカ! なんでもっと早く言わなかったんだ……。どうにか空気を変えようと、咄嗟に言葉を探す。
「きっと困るだろうってわかってたから! ……だから、どうぞ振ってくださいお願いします!! ごめんなさい……好きになって、ごめんなさ……」
全部吐き出して、翠の顔も見れずに早口になって話す。
喋りながら、やってしまった……と考えていると、次の瞬間。
「っ……!?」
「俺も」
「え?」
翠に、真正面から抱きしめられた。息が詰まるほど、腕の中が暖かい。
彼の声も、少し震えていて。
「俺もだよ」
そ、それはどういう、こ、と? 翠の匂いがして、それだけで頭が真っ白になる。
彼は俺の頭を離して、向かい合わせに見つめた。
「俺も……。ずっとずっと好きだった」
「……え、?」
一瞬、意味がわからなかった。
冗談だよね。夢だ。そうじゃないとおかしい。……俺、翠のこと好きすぎて幻聴聞こえるようになったのかな。
誤魔化すように愛想笑いをする。
「俺、叶愛のことが好き」
「へぁ……?」
はっきりした声で、真っすぐ見つめてくるから、逃げ場がなくて。
真剣な表情だから、もしかしてって。期待、しちゃう……。本当に本当、なの、かな。
でも、嘘だったら俺、生きていけない。
「……夢?」
答えを確かめるように震える声で聞く。
彼は少しだけ息を吸っていつもの優しい笑みを浮かべてくれた。
「夢じゃないよ」
そう言われた瞬間に、翠の大きな手で、俺の頭を撫でてくれた。
夢じゃ、ない……。信じられなくて、笑ってしまいそうになる。
翠が、俺を︎好き……? そんなの、物語の中でしかあるはずないよ……。だって、翠の好きな人は……。
「翠は、芹沢先輩が好きなんじゃないの?」
「…………はぁ? 音羽? んなわけないじゃん」
「え、え……」
そんなわけない……? あんなに愛し合ってたのに……? じゃ、じゃあ芹沢先輩の片想いって、こと? そ、そんなことって。
「俺が好きなのは、叶愛だけだよ」
「ほ、本当に……?」
「うん。好き」
未だに信じられなくて、でもやっぱり信じたくて。たくさんの感情が混ざりあい、涙がポロポロと流れ出る。
「そ、そんなの……漫画でしかありえないよ……だ、だってさだって翠が俺のこと好きだなんてありえな……」
俺が取り乱して、弱々しい抵抗を続けていたとき、唇に柔らかい感触が触れた。
短かったけど、確かな感触だった。
言うまでもない。キス……され、たんだ。現実だとわかった瞬間、顔がぶわっと熱くなる。
「信じられないよ……」
「信じてもらわなきゃ困る」
顔が見られなくて俯く俺を翠は、また優しく抱きしめた。
暖かい……。自分がBLするなんて、思いもしなかったな。
「好きだよ」
「うん……俺も好き」
その一言で、今までの自己嫌悪も、逃げ腰も、全部崩れ落ちた。
さっきまでイルミネーションが綺麗だとか、寒いねとか、そんな当たり前の言葉しか思い浮かばなかったのに。今はもう、頭が真っ白で、胸だけがうるさい。
身体を離して、また歩き出す。もちろん、手は繋いだままで。
「叶愛……?」
俺が恥ずかしすぎて、目を逸らしているから、頭上から不安そうな声が降ってくる。
名前を呼ばれ、はっとした。
「い、今のって……本気、だよね……」
俺の声が震えてることなんていやでもわかる。
聞かなくてもいいことをわざわざ聞いてしまうのは、まだまだ夢見心地で、信じられなかったから。いや……信じるのが怖いから。
だ、だって、自分を推してるオタクに恋をするのってありえるはずないもん。
彼は、少しだけ手を伏せてから静かに言った。
「本気に決まってる」
それだけ。でも、嘘が入る余地なんてどこにもなかった。
……信じても、いいのかな。この瞳の奥には、なにも嘘がなくて。本当に俺が好きっていう愛に満ちた瞳をしてる。それだけで、胸がきゅっとなった。
「あ、あの翠……」
「ん?」
立ち止まると、彼は振り返って微笑んでくれた。
……もう、キャパオーバーだけど、これだけは言いたい。
「ほ、本当に夢じゃないんだよね……?」
「夢なわけないよ」
「じゃ、じゃあ……じゃぁさ。俺、もう逃げないから。ずっと翠が好きだから」
「うん」
拳をぎゅっと握って、息を吸う。
一か八かだけど……。
「……お、俺と付き合ってください……!」
思い切って、言う。どんな反応をされるか怖くて恐る恐る顔を上げると、前方に翠はいなくて。
「わっ……!?」
勢いよく、翠が抱きしめてきた。
ほんと、今日何回抱きしめられてるんだろう……。
「今さら、もう俺のだろ」
「す、翠……」
もう、どうにでもなれ……。
なんでそんなにドキドキするような言葉が出てくるんだろう。やっぱり翠はずるいな。
身体を離しながら、少しの間沈黙が続くけど、さっきより全然苦しくなかった。だけどやっぱりなにか会話をしたくて、イルミネーションを見ながらふと思い出したことを口に出す。
「そ、そういえばさ……」
「どうしたの?」
意を決して、言葉を探す。
「い、いつから……俺のことを……」
そこまで言って、続きが出てこない。
怖い。もし「最近」とか言われたら、どうしようって。
翠は、俺の手をぎゅっと握り直した。
「中三の最後の方」
「え?」
「正確には、卒業式で好きになった」
言葉の意味がわからない。だって、俺と翠は、中学違うはずで……。
彼はイルミネーションから目を逸らし、遠くを見つめる。
「叶愛が不登校だったとき。久しぶりに一日だけ来た教室の中で、友達と話してた」
胸が、きゅっと鳴る。
俺は覚えてない。覚えてないけど、その日はたぶん、すごく怖くて、人の顔なんて見る余裕がなかった。
その日はその日で本当に、他クラスのオタク友達としか話してなくて。それから卒業式まで学校に行っていなかった。
中学校に行ったのも、それで七、八回目くらい。クラスメイトの顔も、名前すら知らなかった。
「目、合ったんだよ。一瞬だけ。すげー必死な顔しててさ」
「必死な顔……」
彼は、ふわりと笑って俺の方に顔を傾けた。イルミネーションが被ってなんだか眩しい。
「変な話だけど、忘れられなかった」
胸がじんわり熱くなって、また涙が出そうになる。
そんな前から、気になってくれていたなんて。
「卒業式のとき話しかけようかとためらったけど、叶愛は人のことを誰も見てなかったから……。勇気出なくて」
「そ、れは……ごめん。本当は卒業式に行くつもりもなかったんだよね……」
二桁の回数も学校に行っていない人が、卒業していいのか、とか卒業証書なんてもらっていいのか、ずっと思い詰めてた。
受験だって、家で必死に勉強して、受かる希望なんてなかったし。
「ううん。……でも、目が合った時から少し気になってて。だから、叶愛と同じ高校受けた」
「え!?」
な、なんで!? そんなさらっと言うことじゃない気がする。だって俺、どこの高校に行くかなんて誰も言ってなかったし……。なんで、?
い、いやここまで来たら聞くのも怖くなってきた。むやみに探らないようにしよう。
「入学式で見たときあ、って思った。……まさか同室になるとは考えてもなかったけど」
「た、たしかに……」
「……それで、好きにならないようにしてた」
「えっ」
あまりに真っ直ぐな瞳に、言葉に、息を飲む。
「推しだのBLだの言ってるし、俺が割り込む場所じゃないと思ってた。……それに……」
「それに……?」
彼は一瞬言いにくそうに顔を俯かせる。
「秋祭りの日、結城先輩に聞いたんだよ」
「碧くん?」
「詳しくは言ってなかったけど、叶愛は昔ひどく傷ついたことがあったから、あんまり思い出させないであげてって」
「っ……」
碧、くん……。それで、それで俺と距離を置いてくれたんだ。俺がまた傷つかないようにって。
……全部、俺のせいだ。自分で思って、自分で傷ついて。勝手に壁を作って、勝手に遠ざかって。その上気まで遣わせるとか……。
きっと、たくさん翠のこと傷つけた。馬鹿だなぁ俺は。
「……ごめん」
小さく言うと、翠がすぐに首を振る。
「叶愛のせいじゃないよ。……逃げたのは、俺も一緒」
そう言って、俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「でも、もう逃げない」
近すぎて、息がかかる。ドキドキして、半端ない……。翠も同じ気持ちだったら嬉しいな、なんて。
「叶愛が好き。叶愛のどんな過去も、俺が受けとめるから」
胸がいっぱいで、涙が出そうになる。どれだけの勇気を出してくれたんだろう。どれだけ、我慢してくれたんだろう。考えただけで、胸と瞳がじんと熱くなる。
「俺も、翠が好き」
言った瞬間、世界が少しだけ明るくなった気がした。
翠は一瞬だけ驚いた顔をして、それから……ものすごく、安心した顔で笑った。
「叶愛は? いつから俺のこと好きだったの……?」
「そ、それは……のちのち、話すよ」
芹沢先輩に気付かされた、なんて絶対言えない……!
「わかった。楽しみにしてる」
彼は、幸せそうな笑顔を浮かべて、また握る手の力を強くした。
追い詰められなくて、よかった……。
「じゃあ……もう俺は推しなんかじゃないね?」
「えっ?」
彼はにっこり笑って顔を覗く。
た、確かにもう翠は……。
「それと、さっきみたいに俺と二人きりのときに他の男の話したら……」
心なしか、翠が本当に攻めに見えてくる。今思えば、裏の顔は攻めだったってこと……? 受けみたいな顔してるのに。
そんなことを考えて翠の言葉を待っていると、いきなり俺の鼻を指でちょんちょんと撫でられた。
「お仕置ね」
「んぇ」
囁くような声で、耳元に翠の声が広がった。遅れて耳がじわじわと熱くなる。
……お仕置き……。恐るべし翠。ドキドキしてそれどころじゃないのに、追い打ちをかけてこないでよぉ。
芹沢先輩には罪悪感でいっぱいだけど、条件はひとつ。
「俺といるときは、BL禁止」
「……はい」
小さく答えたら、彼は満足そうに笑い、また歩き出した。
イルミネーションは相変わらず綺麗だったけど、もうそれどころじゃなかった。俺が、こんな風に漫画のような恋をするなんて。漫画みたいな展開で、翠と恋人になれて。奇跡、だな。……う、ううんもしかしたら運命だったのかもしれない、なんて物語の中みたいなこと言っちゃうけど。
「軌跡……かな」
こうして、翠の攻めを探す旅は終わった。名残惜しいけど、恋しちゃったものはもう仕方がない。
これからは芹沢先輩と碧くんをくっつける旅にでも出ようかな、と思ったけど、翠の表情がむすっとしていたので、今日のところは考えるのはやめておいた。

