受けだと思っていた推しは、溺愛症候群でした(?)

「叶愛」
 ある日の夜、寮の部屋で勉強していると、翠が声を掛けてきた。
 今日も、先輩と楽しそうでよかったな。という思いは翠の声で一気に吹っ飛んで、翠の方に身体を向ける。
「……なに?」
「ここ、教えてほしい」
 翠は優等生だけど、英語だけ苦手らしい。……俺も大体の教科は苦手だ。だけど、よく海外のBLも見るから自然と勉強してしまっていた。
 机を挟んで隣に座る。距離が近い。近すぎる。本当に、こういうの無自覚でやってるのかな。
 そう思うのに、どこか落ち着かない。しばらく無言で問題を解いていた翠が、ふっと顔を上げた。
「そういえばさ、来週秋祭りあるだろ?」
「あ、学校主催の」
 たしか金曜日だったかな、とカレンダーを見渡す。
 もうそんな時期か……。
「それさ……一緒に行かない?」
「え?」
 一瞬、進めていたペンが止まる。
 俺……? あ、もしかして先輩たちと一緒に行こうってことなのかな?
「ふたりで」
「……ふぇ」
 最近は、芹沢先輩を攻めにさせることに必死で、翠とは意識的に距離をとっていたはずなのに。
「な、なんで?」
「別に。たまにはいいかなって」
 なんでもないみたいな顔。
 そんなに行きたいのか。……まぁたしかに他の攻めも探せるいいチャンスかもしれないし。
 オタクの思考がそう言い訳を作る。
「行きたい……!」
 そう答えた瞬間、胸が少し高鳴った。
 って、待って待って待って。推しにこんな感情持つのは違う!
「よかった。楽しみ」
 ふわりと微笑む彼にまた心臓が脈を打つ。
 ……大丈夫。俺はあくまで翠を"推愛"しているだけ。恋じゃない。それに、推しにドキドキするのは、結構当たり前のことだ。……たぶん。

 お祭り当日。会場は屋台と人で溢れかえっていて、薔薇ノ下学園主催ということもあり、知っている顔ばかりが視界を横切る。
 この空間が賑やかで、少し落ち着かない。
 ……はず、だった。
「……」
 俺は、目の前にいる彼を見て、完全に言葉を忘れた。……正確に言えば、失っている、だ。
 一瞬、周りの音が全部遠のいた気がする。
 だってだってだって。浴衣姿の翠が、天使の眩しさで立っていたから。
 紺色の生地に落ち着いた柄。普段より少し大人びて見えるその姿に、呼吸を忘れそうになる。胸の奥が、きゅっと縮んだ。
 え、普通に、無理……。
「どうした?」
「い、いや……似合ってるなって」
「そりゃどうも」
 少し照れたように視線を逸らす彼。
 ……あ、これ絶対ダメなやつだ。心臓に悪い。慌てて視線を逸らす。
 こんなの、推しに向ける感情じゃない。
「い、行こっか」
 何秒か沈黙が流れたあと、翠が恥ずかしそうに口を開いた。
 内心、ドキドキが止まない。俺の格好は翠に釣り合わないほど似合っていないし、こんな素敵な人の隣を俺は歩いていいのか? 辺りを見渡し歩きながら、がっくりと肩を落とす。
 勝手に比べて、勝手に落ち込む自分が情けない。
「叶愛」
「ちょ、翠……?」
 慣れないことに、たくさんの意味のドキドキが混ざり合っていると、翠に手首を掴まれた。
「迷子になられたら困る」
 そう言って、彼は俺の手を強く握った。思ったよりも強くて、離す気がないみたいだ。
 迷子……俺って、そんな子供っぽく見えてるのかな。
「っ……」
 心臓の跳ね上がりが治まらない。触れられただけなのに、全身が反応してしまう。
 もしかして、さっきからずっと俺が暗い顔をしていたから、それに気づいて安心させようとしてくれたのかな。い、いやそれは流石に考えすぎだよね。
 どちらにしても、気を遣わせちゃって申し訳ないな。でもやっぱり、ドキドキするものはするもので。あぁ矛盾しすぎだ……。俺、いつからこんなに我儘になったんだよ。
「こ、これはその受けあるあるの甘えだから……!」
 自分でもなにを言っているのかわからない。
「意味わかんねぇ」
 そう言いながらも、手は離さない。むしろ、少しだけ指に力がこもった気がした。
 ぼーっと、歩きながら人混みを抜けようとして、一歩踏み出す。
「んわっ!?」
 慣れない下駄が思ったよりも不安定で、足元がぐらりと揺れた瞬間、視界が傾く。
 転ぶ……!! そう思った次の瞬間。
「……っぶな」
「えっ……」
 腕を強く引かれ、背中に衝撃が来る。
 倒れるはずだった身体は翠の腕の中でギリギリ止まっていた。一瞬、世界が静止したみたいに見える。
「怪我ない……?」
「う、うん……」
「そっか。よかった」
 耳元で聞こえた声に、はっとする。片腕が俺の背中に回っていて、もう片方の手が、しっかりと俺の腕を掴んでいた。抱き寄せる力が、やけに必死で。
 ……忘れていたけど、俺、今翠に抱き寄せられてるんだ……。わかった瞬間に、じわじわと顔が赤くなるのがわかる。
「ご、ごめ……」
 謝りながら身体を離そうとしたのに、喉が詰まる。
「下駄、慣れてないでしょ」
 そう言って、少し名残惜しいけど、身体を離した。
 ……はずなのに、手だけはまだ離れなかった。繋がったままの手が、離れるのを拒んでいるみたいで。
「人多いんだから、気をつけて」
「うん。ありがとう」
 心臓が、うるさい。頭の中で必死に言い訳を探す。
 支えられただけ。事故。不可抗力。
 でも……翠を見上げた瞬間、その表情がやけに真剣で。
「やっぱり怪我してる……?」
 あまりにもずっと見つめていたものだから、心配そうに顔を覗き込まれる。その声に、胸がきゅっとするのが抑えられない。
「し、してないよ! 大丈夫」
 そう答えたら、翠は小さく息を吐いて少しだけ力を緩めた。
「……ならいいけど」
 安心したように、また俺の手を取る彼。
「離れないでね」
 その一言に、俺はなぜか逆らえなかった。このとき、もう気づいていたのかもしれない。
 かわいいって言葉で誤魔化せなくなってることに。

 俺はドキドキ満載の中、たくさんの屋台を回り、時間を忘れて楽しんだ。隣を歩く翠の足音が、やけに近い。
 屋台の明かりに照らされる横顔を見るたび、胸の奥がきゅっと縮む。
 今までは、こんなふうに意識したことなんてなかったはずなのに。
 ……もう開き直るしかないんだよ。食べ物に集中していれば、ドキドキを思い出すこともない。手のぬくもりだってきっと。
「あれ……」
 ぼーっと歩いている中、見つけてしまった。とてもとても、俺の性癖ど真ん中なBLカップル!!
 ああ、これだ。この安全なドキドキ。自分が当事者じゃなくていい、観てるだけで許されるやつ。
 あの二人めっちゃめちゃイチャイチャしていないか……!? え最高なんだが。
「やば……!」
 反射的に追いかける。やっぱり路地裏だよねぇ。
 数々のBLを見てきた俺を舐めてはいけないぜ。周りも見えないくらい集中して、必死に追いかける。
「はぁ……はぁ……」
 そして、気づいたら……。あれ?
 翠と、はぐれていた。振り返っても、見えるのは知らない背中ばかり。
 さっきまで隣にいたはずの翠の姿が、どこにもない。心臓が、どくんといやな音を立てる。
 さっきまで当たり前にあった存在が、急に消えたみたいで。迷子になった不安より、隣にいない現実の方が、ずっと怖かった。
「……すい、……翠?」
 名前を呼ぼうとして、喉が詰まる。
 祭囃子と笑い声に掻き消されそうで、声を出すのが怖かった。
「……あーあ」
 やばい。これ、完全に迷子だ。あんなに迷子にならないでって言われてたのに。俺ってまだ子供だ……。
 いつの間にか、追っていたカップルも姿を消していた。
 最悪。もうなにもかも。推しを困らせるなんて。
 スマホを取り出そうとして、指が震える。
 連絡すればいいだけなのに、なぜかそれすら負けみたいに感じてしまう。
 だって、「ちょっと待ってて」って言えなかったのは、俺だ。勝手に立ち止まって、勝手に離れて、それで不安になるなんて、都合がよすぎる。
 翠を探しながら、なぜか離れてよかったのかもと思ってしまう自分がいた。俺、同担拒否にでもなったのかな。そんなわけないのに。
 目に涙が滲んできたとき、人混みの向こうに見慣れた背中があった。
 ほっとしたのは、ほんの一瞬だった。
 次の瞬間、胸の奥がいやな方向にざわつき始める。
「翠……!」
 そう声をかけようとしたけど、隣には浴衣を着た小柄な男の子が並んでいた。後ろ姿だけでもわかる、整った輪郭と柔らかい雰囲気。
 ふたりで……? それに加えて、ふたりは距離が近い。肩が触れそうなくらい。
 翠が、隣の子が口を動かした後に、俺には見せない微笑みを作った。
 そう思った瞬間、自分で自分に驚いた。どうしてこんな感情になるの?
「……ぁ」
 反射的に物陰に身を隠す。なぜだか胸の奥がモヤッとする。
 ……あれ、おかしいな。いつもなら、尊い……で終わっていたはずなのに。翠の隣に誰かがいる。それだけで、胸が苦しくなる。
 尊い、って言葉を使えば、全部綺麗に終わるはずだったのに。今は、その言葉を思い浮かべるだけで、胸が苦しくなる。最近ずっとそうだった。
 芹沢先輩とくっついてほしいと思っていた。誰かと並んでいる翠を見るのは、推し活として正解のはずなのに。
 胸の奥が、じわじわと痛み出す。さっきまで楽しかったはずの祭りが、急に色を失った。
 ああ、そうだ。俺はずっと、こうだった。期待して、勝手に距離を測って、相手が踏み込んでくると、逃げたくなる。
 不登校だった頃も。人の優しさを、ちゃんと受け取れなかった。
 翠が優しいのは知ってる。手を引いてくれるのも、待ってくれるのも。でも、それを当たり前みたいに受け取っていい理由なんて、俺にはない。
 ぎゅっと、浴衣の袖を握る。視界が、少し滲んだ。
 なんで俺、こんなに不安なんだろ。推しなら、ここまで心臓が痛くなる? 推しなら、置いていかれる想像だけで、こんなに息が苦しくなる?
 俺、変だな。……邪魔しちゃいけない。そう思って、人の少ない所へ足を運んだ。
 花火が見える、少し離れた場所。俺は石段に腰を下ろして、空を見上げた。
 独りになると、余計な考えが全部浮かんでくる。
 誰かを好きになるたび、距離を測って、逃げ道を探してたこと。優しさを向けられると、いつも先に諦めてきたこと。
 花火の音が、遠くで弾けるのが聞こえた。
「叶愛くん?」
「……え?」
 聞き慣れた声がして振り向くと、そこには芹沢先輩が立っていた。
「芹沢先輩……」
 隣に座る先輩。しばらく、なにも言わずに花火を見上げる。……翠と、約束したのにな。一緒に見るって。
「なぁ叶愛くん」
「なんですか」
 沈黙を先輩が破って、一拍置いてから静かに。
「……もし翠が誰かと一緒に肩を並べて、笑い合って、叶愛くんに見せない表情をしたらどう思う?」
「……っ」
 胸の奥が、ぎゅっと音を立てて縮んだ気がした。
 想像なんて、したくなかったのに。翠が、俺の知らない顔で笑うところなんて。それを見て平気でいられる自分なんて、どこにも思い浮かばない。
「そ、それは……」
 答えられない俺を、先輩は責めない。……こういうところも、翠は好きになったんだろうな。いつもはからかい上手でチャラい先輩だけど、悩みはしっかり聞いてくれる。
 やっぱり理想の攻めだなぁ。
「胸、ざわっとしただろ」
 図星すぎて、息が止まる。ざわっと、なんて言葉じゃ足りない。息が一瞬止まって、視界が狭くなって、心臓だけが置いていかれたみたいな感覚。
 先輩が言った言葉が、俺が今間近で見てきたことを知っているみたいに言った理由はすぐにわかった。
 先輩は、やっと俺を見たかと思うと、気まづそうに言葉を放つ。
「それさ……」
 違う。違うって言わなきゃ。認めたら、もう戻れなくなる。
 ここでなにか言われたら、今まで必死に守ってきた「推し」って言葉が、全部嘘になる気がした。
「もう、恋じゃん」
「違う」
 反射的に否定する。
「俺は、ただの推しとして……」
「じゃあ聞くけど」
 先輩は被せるように言う。俯いていた顔を恐る恐る上げると、にこりと笑っていた。
「推しが他の誰かに取られそうになって、尊いって思えなかったの、初めてだろ」
「あ……」
 喉の奥で、言葉が引っかかった。
 尊い、って便利な言葉だ。自分が踏み込まなくていい理由を、全部正当化してくれる。
 でも……今回は、その言葉が出てこなかった。
 尊い……か。
「叶愛くんが今まで見てきた漫画の数々思い出してみ」
 淡々とした声なのに、逃げ場がない。
 ……考えたこと無かった。もう俺は、BL漫画の受け……いや、当て馬ポジションにいるなんて。
 好きだって気づくのが遅くて、一歩引いた場所から尊いって言いながら、結局一番泣く役。
「一番最初に壊れるの、どのポジション?」
 脳裏にいやでも浮かぶ。
 推しって言いながら、一歩引いて見てるふりして、本当は一番傷ついていること。答えなんて、最初から決まっていた。
 ずっと黙っている俺に、先輩は優しく声を掛けてくれる。
「叶愛くんさ。前にもあっただろ」
 胸が、きゅっと縮む。その話は、一番聞きたくない過去だって拒否反応を起こしたからだ。
「好きだって言う前に、どうせ俺なんかって引いて。結局傷ついたのは自分なのに」
「……なんで知ってるんですか」
 頭に、過去の記憶が再生される。
 ……思い出しくなかった。翠と重ねたくなんてなかったのに。すごいなぁ先輩は。
「結城から全部聞いたよ」
「碧くんが……?」
「うん。あいつも、ずっと心配してる」
 碧くんは、俺の過去も、未来も、全て知ってる。でも、そこまで心配してくれてるなんて知らなかったな。
 なんだか自分が惨めで情けなく思えてきて、我慢していた涙が頬を伝った。
「……叶愛くんは、前の自分とまた同じことしてるよ」
 花火がクライマックスになったみたいで、夜空を裂いた。
「相手が悪かったんじゃない、タイミングでもない」
 先輩は、俺を真っ直ぐ見て言い切った。
 その先の言葉なんて、もうずっと前から知ってる。
「怖かっただけだろ。気づいたら壊れるの、知ってるから」
 言葉が、胸の奥に強く刺さった。もう、全部お見通しなんだな。先輩には、嘘なんてつけないや。
「だから、尊いって言葉に逃げた」
 なにも言えない俺に、先輩はふっと笑う。
 もう涙で顔がぐちゃぐちゃで、わけが分からない。
「でもさ、翠はもう観賞用の推しとして扱ってくれない」
「……はい」
「手、離さなかっただろ、探しに来ただろ、怒っただろ」
 一つ一つ積みあげるみたいに。どこか、BLの……。
「それ、BLで言うともう終盤の攻めムーブだから」
「……最悪です」
 小さく呟いた俺に、先輩は肩をすくめる。
「最悪だな」
 でも、どこか優しい声色で。
 先輩は俺の背中を軽く押して、息を吐いた。
「だからさ、逃げるなよな」
「……はい」
「自覚したなら、ちゃんと向き合え」
 背中を押してくれてるんだろうけど、どこか先輩の顔は儚くて、寂しそうだった。
 先輩は、恋、しないのかな。やっぱり、翠のこと好きなのかな。……でも、俺のこと応援してくれてるってことは、違ったり。少しだけ嬉しいって思っちゃうのは我儘?
 花火が、またひとつ上がった。
 先輩は俺の心を呼んだかのようにその答えを教えてくれた。
「おれは、負けるってわかってる恋はもう慣れてるから」
 その言葉が、やけに静かに落ちた。胸が、痛む。
 もし俺がここで立ち止まったら……この人の言葉を、全部無駄にする気がした。
「先輩……」
「ほら、行ってきな。翠は今頃きっと血眼になって叶愛くんのこと探してるよ」
「はい」
 最後ははっきりと、真面目な瞳で言う。
「今行かないと、一生尊いって言いながら泣くやつになる」
 胸の奥で、なにかがほどける音がした。
 怖いのは、嫌われることじゃない。本当は……好きだって言って、拒まれる可能性から、ずっと逃げてただけだ。
 それは、今までの俺そのもの。
 もう、逃げない。推しだからとか、尊いからとか、そんな安全な言葉の後ろに隠れるのは、やめる。
 芹沢先輩にお礼を言ってから立ち上がる。
 立ち上がると、足が少し震えていることに気づいた。
 怖い。でも、それ以上に、翠に会いたい。
 ……その瞬間。
「叶愛!!」
「えっ……」
 息を切らした声がはっきりと聞こえた。その声を聞いただけで、全部、分かった。
 聞き慣れた、大好きな、会いたいけど、会いたくない声。胸が、ぎゅっと締めつけられる。同時に、ほっとしてしまう自分がいた。
 ああ俺、こんなにも、この人の声ひとつで揺れるんだ。
 振り返ると、翠と、さっき翠と一緒にいた…………。
「碧くん!?!?」
 もしかして、さっき俺が嫉妬してた人って碧くんだったの!?
「あー、結城、おれと一緒に来てたんだよ」
「え……?」
 芹沢先輩が苦笑いしながら立ち上がった。
 それを早く言ってよぉぉ……。先輩と碧くん仲悪いかと思ってたのに。一緒に来てるとは。
「叶愛、やっと、やっと見つけた……!」
 翠は息を切らしながら俺の腕を掴んで抱き寄せる。
 その呼び方が、今までよりずっと近く感じて、胸の奥が熱くなった。心臓の音が、耳にうるさいくらい響く。
 この腕の中にいると、不安より先に、安心が来る。
「どれだけ心配したと……!! って……泣いてる!? 音羽、お前叶愛になにし……」
「なにもしてないよ。ほぼ翠のせいじゃない?」
「は?」
 やばい。泣き顔見られちゃった。最悪だ。
 よくみんなの言う、好きな人の前では涙を見せられないって、本当だったんだ……。
「あ、あのご、ごめ……」
 混乱する俺の横で、翠と一緒に探してくれていたんであろう……碧くんが息を整えて芹沢先輩と話していた。
「いやー本当に見つかってよかった」
 まさか、碧くんが翠と一緒に行動を共にするなんて。
 というか、嫉妬してごめんなさい……と内心で謝る。
「碧くん……」
 なんで笑ってるんだ。こっちは芹沢先輩にコテンパンにされたのに。俺が言えたことじゃないけど。
「なにその顔。……なんか、急に芹沢くんが失恋したから、一緒に祭り来いって言ってき……」
 ほぼ全てを話す碧くんの口を、芹沢先輩が塞いだ。二人も最高のケンカップルって感じ……?
「ゲホゲホ。で、芹沢くんも急にいなくなっちゃってさ。その矢先に篠宮くんが焦りながら僕に言いよってきて。まぁもちろん僕も心配してたんだけど」
 恥ずかしそうにしながら、翠は俺から身体を離した。
 ……芹沢先輩も迷子? 当本人は唇を尖らせながら視線を逸らす。
「はいはい。独占欲丸出しな」
「黙れ」
 後ろで、先輩たち二人が……いや主に芹沢先輩が肩をすくめるほど楽しそうに笑っていた。
 翠はまた、先輩たちを睨むように俺を抱き寄せる。
 さっきまでの、あの苦しさが別の意味を持って襲ってきた。
「じゃあ、俺らは先に寮に帰ります」
「えっ、え?」
「では。……あ、結城先輩、本当にありがとうございました」
「ううん。全然! 叶愛のことをよろしく!」
 ペコッとお辞儀をして、流れるように俺の手を握り歩き出す翠。
 あ……。
「芹沢先輩! ありがとうございました! 一応……碧くんも。また学校で!」
 最後に大きく手を振って手を引かれる。
 先輩たちはまるで、子供を送りだす親のように手を振ってくれた。
 良い人すぎるな。本当に。

「本当に、ごめん」
 寮に帰ると、俺たちの中には気まづい空気が流れていた。
 どこに視線を置いたらいいかわからなくて、とりあえず鞄を置く。
「勝手にいなくなったりして……迷惑かけた」
 自覚したら自覚したで、翠の顔を今までどう見てたか忘れてしまった。
 彼は黙っていて、俺の方を見向きもしない。背後で、浴衣を脱ぐ音だけがする。その沈黙が、怒りじゃないってことくらい、薄々わかっていた。
 たぶん、言葉を選んでいる。俺を責めないために。
「その……碧くんと探してくれたんだよね」
「うん」
「あ、ありがとう」
 短い返事をされたあと、また沈黙が続く。
 耐えきれなくなって、翠に近づいた。
「……ねぇ、怒ってる?」
 彼は、目を見開いてため息をついた。
 もしかして、呆られた……?
「なんでそうなんの」
「だって……」
「怒ってたら、あんなに走らないよ。……叶愛が無事なら、それでいい」
 低い声だったけど、その言い方がやけに真剣で、勘違いしそうになる。思わず目を逸らした。
「でも……碧くんと一緒にいたの、見えたから。俺、邪魔しちゃいけないのかなって」
 なにを言ってるんだ俺は……。言ってから後悔する。
 こんなこと言ったら気持ちがバレちゃ……。
「それ、本気で言ってる?」
 翠がぴたりと動きを止めて、次の瞬間。背中に衝撃が当たった。
「え……」
 壁ドンされてる……? 最初に会ったときと同じ。だけど、翠の瞳は全く変わっていた。
「結城先輩は、音羽のことが……いや、これ以上は言えないな。……とにかく、そんな関係じゃない」
 ん……? 芹沢先輩?
 彼は、視線を落としてから、壁についていた手を下ろした。
「それに、今日探してる間、ずっと最悪な想像ばっかしてた」
「え……?」
「もし泣いてたらどうしようとか、転んでたら、変なやつに絡まれてたらとか」
 その声は、どこか不安定で、瞳は震えるように揺れている。言葉を探すみたいに、一瞬だけ視線が泳いだ。
「だから……勝手に俺の前からいなくならないで」
 ……その言葉が、俺の中で強く刺さった。胸の奥を、ぎゅっと掴まれたみたいに。それは命令じゃなくて、お願いだった。
 震える声が、それをはっきり物語っている。
 ずるいな、本当に。もう全部どうでもよくなる。
「ごめんね」
 彼は少しだけ力を抜いた後、俺と距離を取る。さっきまで触れそうだった温度が、急に遠のく。
「怪我、ないな?」
「うん。大丈夫」
 俺の足を確認すると、彼はほっと安堵の息をはいて、また距離を一歩取った。肩がわずかに下がるのを見て、初めて気づく。
 ……ずっと、張り詰めてたんだ。俺はその事実を、胸の奥で大事に抱えた。
 もう、独りで耐える必要はないんだって。
「風呂、先入って」
「え」
「浴衣のままだと冷える」
 優しい……。いつもの翠だ。
 言葉も、仕草も、いつも通りなのに。さっきまでとは全然違って、彼の背中がやけに大きく見えた。
 もう……翠は、受けなんかじゃない。……推しなんかじゃない。そう、はっきり思ってしまった。触れられなかった距離が、逆に意識に残る。
 この夜、その認識が完全に書き換えられた。