あっという間に夏休みを終え、学校は文化祭の準備で活気づいている
 俺たちのクラスは、出し物としてお化け屋敷を作る予定だった
 放課後、クラスメイトの賑やかな話し声が響く教室で、俺は壁の装飾を眺めていた
 日向は、入口の設計図を広げているグループの中心にいる
 日向との関係は、夏休みを通じて大きく変わった
 日向の隣は、もはや俺にとって一番安心できる場所だ。あの時、言葉にできなかった感情は、今も胸の奥で温かい光を放っている
 そんな安心感があったからだろうか。俺は、いつの間にか、周りの議論に耳を傾けていた
「この壁、真っ黒な布を貼るだけだと、少し単調じゃないか?」
「でも、装飾する時間がないよなー」
「予算もあんまりないし」
 誰かの言葉に、ふと、一つのアイデアが浮かんだ
 それは、布の裏から光を当てて、幽霊の影を移動させるという、簡単なギミックだ
「あのさ……」
 俺は、意を決して、声を上げた。日向の傍で意見を交換していたグループが、一斉に俺のほうを見る
「布の裏から、懐中電灯の光を当てて、影を動かすギミックを入れるのはどうかな。簡単なものでも、驚きが増すと思う」
 意見を言い終えると、周りがシーンと静まり返った
 いつも賑やかだった教室の空気が、一瞬で凍り付いたように感じる
 誰も何も言わない。ただ、俺のほうを見ている
(しまった……)
 心臓がドクンと大きく跳ねた。手が汗ばむ
 俺の意見は、きっと変だったんだ
 突然、今まで何も言ってこなかった俺が口を挟んだせいで、みんな困惑している。周りの空気を凍らせてしまった
 また、みんなを不快にさせた
 過去の恐怖と、嫌われることへの恐れが、冷たい水のように一気に押し寄せてきた
「あ……いや、なんでもない、今の、忘れてくれ」
 そう言って、俺は椅子から立ち上がった
 逃げなきゃ。この場にいたら、もっと迷惑をかけてしまう
「あ、篠塚……」
 誰かが俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。日向の驚いた顔が視界の端に映った
 だが、俺はそれを確認する余裕もなく、リュックを掴むと、教室の扉へ向かって駆け出した
 重い扉を勢いよく開け、廊下に出る
 背後でクラスメイトたちのざわめきが聞こえたが、もう振り返ることはできなかった。
(結局、何も変われてなかった。なんでもないって、誤魔化した)
 せっかく日向と二人で、過去を乗り越えたと思っていたのに
 集団の中で、俺はまだ、自分の意見を言った瞬間の沈黙に耐えられない、臆病なままだった
 俺の意見は、いつも周りの人を困らせる
 そう思いながら、俺は人目のない階段を駆け下りた。体が震える
 日向に、今の姿を見られたくなかった
「凛!」
 階段の上から、日向の鋭い声が響いた
 人目のない非常階段の下まで来ていた俺は、弾かれたように振り返った
 やはり、日向は追いかけてきた
「なんだよ、なんで逃げてんだ」
 日向は息一つ乱さず、冷たい目つきで俺を見下ろしていた
 その顔には、いつもの意地悪な笑みも、夏休み中に見せた穏やかな優しさもない
 ただ、真実を追求する、厳しい目だけがあった
「べ、別に……もう帰るだけだ」
「嘘つくな」
 日向は一歩踏み出し、俺との距離を詰める
 彼の目線は、俺の顔ではなく、俺の震える手元に向けられていた
「布の裏から光を当てるギミック。あれ、悪くなかったぞ。いや、むしろ一番面白かった。みんな、驚いてただけだ。なのに、なんでいつもの癖で逃げようとする?」
 日向の言葉は、俺の逃げ道を塞いだ
 俺は唇を噛み締める。日向はすべて見抜いている
「また、周りの空気を凍らせるのが怖くなったのか?みんな、お前を責めてないだろ」
「うるさい!」
 俺は、自分の弱さを指摘され、パニックと自責の念で、思わず声を荒げた
「日向には、分からないよ!俺がどれだけ、みんなの輪に入れなくて、一人ぼっちだったか、日向には絶対に分からない!だって、日向はどこでも中心にいられる人間だろ!俺の気持ちなんか、分かろうとしても、分かるはずがない!」
 俺が感情をぶつけ終わると、日向は静かに俺の目を見つめた
 そして、その顔から一切の感情が消えた
 彼が、これほどまでに冷めた、無表情な顔を見せたのは初めてだった
「……へえ。お前は、俺のことが、結局そういう人間だと思ってんだな」
 日向の声は淡々としていて、感情の起伏がない分、深く俺の心をえぐった
「誰にも理解されないから、孤独でいても仕方ない、と。俺がお前の気持ちを理解できない、傲慢な人間だと。そうやって、俺を突き放して、自分の殻の中に閉じこもる言い訳にしてんだろ」
 日向は、俺の本音を隠すことに苛立っているのだ
 彼が嫌う嘘や建前、そして自分を隠す行為を、俺がまだ集団の中で実践していることに腹を立てている
「俺は、お前が集団の中でまた逃げたってお前のことを嫌いになるわけじゃない。お前だけで抱えてることだってあるのはわかってる。お前が怖くなる理由があるなら、教えてくれればいい。でもな、凛」
 日向は、一呼吸置いた。彼の瞳には、俺の弱虫な嘘つきという言葉に対する、深い落胆だけが宿っていた
「お前が本気でそう思ってんなら、俺がお前の隣にいる意味はない」
 日向は、淡々とした、しかし有無を言わせない声で、告げた
「お前が本気で、俺の優しさも、俺との時間も、お前を助けられない嘘だと思ってるなら、俺、お前のこと嫌いになるけど。……それでいいんだな」
 日向は、俺の返事を待たなかった。その場に立ち尽くす俺の傍を、手を触れることなく通り過ぎ、階段を下っていった
 俺は、その場に崩れ落ちた。体の震えが止まらない。 日向は、俺を嫌いになると言った。 俺の臆病な一言が、せっかく手に入れた、日向の隣という居場所を、一瞬にして壊してしまった


 次の日、俺は学校を休んだ
 日向に合わせる顔がなかったこともそうだが、昔から、過去に失敗したことや深く傷ついた出来事を思い出してしまうと、体が鉛のように重くなり、布団から起き上がれなくなることが多かった
 今回もその類のものだった。体調が悪いわけじゃない
 ただ、心が動かない
「ゆっくり休んでいなさいね」
 そう言って仕事に向かった母の背中を、横になりながら見送った
 静寂が戻った部屋で、俺は昨日のことをずっと考えていた
 日向が、あんなに冷めた目をしたのは初めてだった
 あの目は、俺の臆病さへの怒りではなく、俺の言葉が彼の真心を否定したことへの、深い悲しみと落胆を宿していた
 俺は、日向が最も嫌う嘘を、日向自身にぶつけてしまった
 自分を守るための、最も卑怯で、最も醜い嘘だった
 せっかく日向が俺のために作ってくれた、嘘のない、温かい居場所
 水族館で手に入れた安心感も、夏祭りで感じた幸せも、すべて俺のどうせ誰にも理解されないという古い呪いの言葉一つで、粉々に壊してしまった
 プールで、自分にも日向にも嘘つかないって言ったのに、嘘をついてしまった
 考えている最中、枕元に置いてあったクマのぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめた
 射的の景品として、日向が俺のために取ってくれた、あの小さな証
 日向のことを考える度に、止めどなく涙が溢れてくる。俺はぬいぐるみに顔を押し付け、声を殺して泣いた
(ごめん、日向。ごめんなさい……)
 日向は俺を嫌いになると言った
 日向の「嫌い」は、彼の信念に反する行為への、最も正直な拒絶だ
 もう、二度とあのまっすぐな瞳で俺を見てはくれないだろう
 もう、二度とあの大きな手で俺を包み込んでくれることはないだろう
 日向との時間も、優しさも、俺を救ってくれた真実だった
 だからこそ、日向の隣にいる時間が、俺にとって一番安らげる場所になっていたのに
「俺は、日向だから、好きになったんだ」
 やっと見つけたはずの、この嘘偽りのない本音が、届くことのない独り言として、静かな部屋に響くだけだった
 俺は、日向の隣という居場所と引き換えに、自分の臆病さを守ってしまったのだ


 次の日、俺は再び学校を休んだ
 いつもなら、一日泣いて眠れば、翌日には無理にでも起き上がれるようになっていたのに、今回はそうはいかなかった
 むしろ、体は悪化していた
 頭はガンガンと痛み、熱を測ると、三十八度を超える高熱を出していた
 昨日、日向の心を深く傷つけ、彼を突き放したあの出来事が、物理的に俺の体を閉じ込めているようだった
 朝早く、母は早番で仕事に向かい、既に家には俺一人だった
 高熱で揺らぐ視界の中に静寂が広がる
 日向に別れを告げられた衝撃と、後悔と、彼を失った喪失感が、容赦なく体を苛む
 熱でぼーっとする意識の中で、俺は枕元に置かれたクマのぬいぐるみを抱きしめた
 日向からもらった温もりの証拠を、離したくなかった
「……日向」
 熱のせいで喉は渇き、声は掠れてうまく出ない
 日向が俺を嫌いになると言った、あの冷たい表情が、瞼の裏に焼き付いて離れない
(このまま、夏休み前の俺に戻ってしまうのか)
 そんな未来は、耐えられない
 日向との時間が、俺に与えてくれた光を、もう一度失うことは、もうできない
「明日……明日こそは……」
 熱に浮かされながら、俺は固く誓った
 明日は絶対に学校に行かないと。日向と向き合わないと
 たとえ、彼から完全に拒絶されたとしても、昨日のあの卑怯な嘘を謝罪し、自分の本当の気持ちを伝えなければ
 彼の真心を否定してしまったことを、謝らなければ
 クマのぬいぐるみを胸に強く抱きしめ、重い瞼を閉じると、熱のせいか、冷たい廊下で俺を見下ろした日向の顔が浮かんだ
 その顔が、今度は夏祭りの夜に見た、穏やかで優しい横顔に変わっていく
『知ってるよ、凛』
 隣にいる事が嬉しいと伝えたときの優しい日向の声が聞こえた気がした
 その幻聴に、俺は少しだけ安心する
 熱にうなされながら、明日は絶対に日向と向き合わないと強く思いながら、俺は深い眠りへと落ちていった


 次に目が覚めた時、部屋の隅、ローテーブルのそばに、日向が座っているのが見えた
 熱はまだ高く、頭はガンガンと痛み、視界が揺らぐ
 ぼーっとする意識の中で、必死に考えた。
(日向が、ここにいるはずがない……)
 そうだ、これはきっと熱にうなされているせいの幻覚だ
 あるいは、まだ深い夢の中にいるんだ
 そうでなければ、日向が俺の部屋にいるなんてありえない
 どうせ夢なのだ。どうせ明日になれば消えてしまう幻なのだとしたら、もう何も隠さなくていい
 俺は布団から飛び出した
 ふらつく足で、日向がいる場所へと駆け寄る
「ひな、た……!」
 喉が焼けるように熱く、声はひどく掠れていた
 日向は驚いたように目を見開いた
 その表情は、昨日俺に向けられた冷たさとは違う、焦りと心配の色を湛えていた
 しかし、俺はもう日向の表情の意味など考える余裕がなかった
 俺は躊躇なく、その逞しい体に、強く抱きついた
「おい、凛!熱があるんだぞ、寝てろ!」
 日向が驚きと戸惑いの声を上げるが、その温もりはあまりにも現実的だった
 しかし、幻でも夢でも、俺の言葉はもう止まらなかった
 後悔、日向を失う痛み、そして、この胸で燃え続けている本音
 抱え込んだ全てを、この幻にぶつける
「ご、ごめん……っ!ごめんなさい、日向……っ!」
 俺は日向の胸に顔を押し付け、声を殺して泣いた
 熱と涙で、日向のTシャツの肩口が濡れていく
「一昨日、俺が言ったことは、全部嘘だ!日向のこと、突き放したかったわけじゃない。俺が、またみんなに嫌われるのが怖くて、その恐怖を日向にぶつけて、逃げただけなんだ……!」
 呼吸が乱れ、言葉が途切れ途切れになる
「俺は日向のこと、傲慢な人間だなんて思ってない!違う……っ!誰よりも優しくて、まっすぐで、俺を一人ぼっちから救ってくれたのは、日向だけなのに……」
 日向は、俺を無理に引き剥がすことはしなかった
 ただ、背中に回された彼の大きな手が、俺の体を支えている
「怖かったんだ……っ。せっかく日向が俺に居場所をくれたのに、また一人ぼっちになるのが、怖くて。だから、先に日向を突き放そうとしたんだ。最低だ、俺……」
 もう、嫌われてもいい
 でも、この気持ちだけは伝えなければ
「日向の隣が、俺にとって一番安心できる場所だった。日向といる時間が、一番幸せだったんだ……っ!だから、もう、俺のこと嫌いにならないで……っ」
 俺は日向のTシャツを強く掴み、最後の、一番重い言葉を絞り出した
「俺は……日向が好きだ。日向だから好きになった!もう、この気持ちに嘘はつけない……!もし、日向にとって迷惑でも、友達じゃいられなくなっても、俺は日向のことが……!」
 言葉に詰まり、ただ嗚咽だけが喉から漏れる
 日向は、しばらく沈黙した後、俺の背中を、優しく、トントンと叩いた
「凛」
 低い、落ち着いた声が頭上から降ってきた
「大丈夫だ。もう、大丈夫だよ」
 日向は、俺の額に手を当てた。その手が、ひどく冷たく感じた
「お前の言ったことは、ちゃんと聞こえた。嘘じゃないのもわかってる。だから、とりあえず熱を下げるぞ」
 日向はそう言うと、俺を抱きかかえ、そのままベッドに戻した。意識が遠のき始める
「俺がお前のこと、嫌いになるわけないだろ。バカ。だから、安心しろ」
 俺の頭を優しく撫でる感触が、夢ではない現実だと、熱に浮かされた頭でも理解できた
(夢じゃ……ない?)
その事実に言葉にできないほどの混乱を覚えながら、また深く意識を手放した


 次に目が覚めた時、窓の外はすでに深い闇に包まれていた
 時計を見ると、夜の十時を回っている
 頭を悩ませていたガンガンという痛みは引き、熱を測ると微熱まで下がっていた
「あ、起きたのね。お粥、食べられる?」
 母が温かいお粥を持ってきてくれ、それを口にした
 身体に染み渡る温かさが、心までも温めてくれるようだった
 しかし、俺の意識はまだ、覚醒と夢の間をさまよっている
(やっぱり、あれは夢だったのか……)
 熱にうなされ、日向に抱きついて、全てをぶちまけたあの時間
 謝罪も、告白も、日向の嫌いになるわけないという優しい声も、あまりにも都合が良すぎる幻だった
 日向が来てくれたという幻覚は、どれほど現実味がなかったか
 熱に浮かされた俺の脳が作り出した、最高の安らぎだったのだろう
 そう結論付けた時、母は食器を片付けながら、何気ない口調で言った
「そういえば、夕方にお見舞いに来てくれたわよ、日向くん。熱が高いからって心配そうにしてたわ」
 母の言葉を聞いた瞬間、俺は息を止めた
「ひ、日向が……?」
「ええ、凛を起こさないように静かに帰って行ったけど。明日、学校でちゃんとお礼言いなさいよ」
 その瞬間、頭が真っ白になった
 幻覚ではない。あれは、現実だった
 日向は本当に俺の部屋に来てくれた
 そして、俺が熱に浮かされて日向に抱きつき謝罪し告白したこと
 そして、日向がそのすべてを受け止めてくれたこと
 すべてが、現実の出来事として、重い質量を持って俺の意識に流れ込んできた
(俺は、日向に全部……全部言ってしまった……!)
 恥ずかしさや混乱よりも先に、安堵と熱い喜びが、胸の中で爆発した
 彼は幻ではなかった
 彼は本当に、俺の最低な嘘を知った上で、俺を責めることなく、俺の好きを受け止めてくれたのだ
 俺は布団を握りしめた。熱が下がったはずなのに、顔が再び熱くなるのを感じる
 明日、学校で日向に会う。今度は、逃げない
 この熱に浮かされた状態ではなく、自分の足で立ち、日向の目を見て、嘘偽りのない気持ちを改めて伝えなければならない
 枕元のクマのぬいぐるみを、強く抱きしめた
 明日、日向に会える。その事実一つが、俺の心を夏の太陽のように強く輝かせていた


 翌朝、凛は平熱まで体温が下がり、久しぶりにリュックを背負って登校した
 日向に会う緊張で胸が張り裂けそうだったが、逃げるという選択肢はもうなかった
 教室に入ると、日向はいつものように窓際の席で静かに参考書を広げていた
 凛は目を合わせる勇気がなく、自分の席にまっすぐ向かう
 席に着き、机に教科書を出し始めたとき、後ろから小さな声が聞こえた
「あのさ、篠塚」
 恐る恐る振り返ると、三日前にお化け屋敷の装飾について話していた二人のクラスメイトが立っていた
「体調、もう大丈夫か?昨日、急に帰っちゃったからさ。俺たち、何も言えなくてごめん」
 クラスメイトは少し気まずそうに、しかし真剣な表情で言った
「俺たちが変に黙っちゃったせいで、篠塚に変な空気だって思わせちゃったんじゃないかって、みんな心配してたんだ」
「え……?」
 凛は目を見開いた。周りの沈黙は、自分を責めるものではなかった?
「いや、違うんだ。あの、布の裏から影を動かすやつ、マジでいいアイデアだと思ったんだよ。篠塚がさ、ああいうの言うの初めてだったから、みんなすげえってびっくりして、言葉が出なかっただけなんだ」
 もう一人が続けた。
「みんなも採用しようって言って、もう昨日から布と懐中電灯で試作始めたんだ。だから気に病んでたなら、ごめん。誤解与えちゃって」
 凛の胸に、昨日までの鉛のような重さが、一瞬で溶けていくのを感じた
「そ、そうだったんだ……ごめん。俺こそ、勝手に勘違いして逃げちゃって」
「いーよ、いーよ!じゃあ、後で細かいこと決めようぜ。そのギミック、篠塚に監督してほしいんだ」
 クラスメイトはそう言うと、明るく笑って自分の席に戻っていった


 昼休みになり、クラスメイトたちが教室から出ていく中、俺は日向のほうを向いた
「日向、あのさ」
「飯食うぞ」
 日向は簡潔にそう言うと、俺の弁当箱を手に取り、自分の机に並べた
 そして、俺の目をまっすぐに見つめた
「昨日、お前が言ったことは、俺の中で整理がついてる。だが、体調が完全に治ってねぇんだから無理するな。とりあえず飯食え、凛」
 彼は、俺の心身の状況を最優先して、話を延期しようとしていた
 その優しさに、俺は胸が熱くなった
 俺は日向の手を取り、強く握りしめた
「ううん。今、話したいんだ。俺のほうこそ、あの日から二日も逃げたんだから」
 日向は、俺のその強い意志を測るように、数秒俺を見つめた
「……わかった。屋上行くぞ」
 階段を上りながら、俺は心の中で誓った
 俺が逃げるようになった理由も、嘘偽りなく日向に伝えよう
 そして日向へのこの気持ちを、今日改めて、自分の足で立ち、自分の言葉で伝えるんだ
(もう、二度と逃げない)
 俺は、日向という光を得て、真の嘘のない自分になるために、屋上に足を踏み入れた
 屋上の鉄扉が閉まると、吹き抜ける風が熱を帯びた俺たちの頬を冷やした
 日向は弁当を置いたまま、手摺にもたれかからず、ただ俺の真正面に立っている
「あのさ、日向。昨日、俺が言ったこと、聞いてくれてありがとう」
 俺は地面を見つめたまま、絞り出すように言葉を始めた
「俺が、集団の中で逃げた理由。なんで、あんなに怖がるようになったのか。それをちゃんと話したい」
 深呼吸をし、顔を上げた
 日向はただ、静かに俺の言葉を待っている
 そのまっすぐな瞳に、嘘をつくことはできなかった
「俺、中学二年生のとき、クラスで孤立したんだ。もともと自分を主張することは得意で、その頃もそうだった。クラスの出し物とか、委員会とか、結構積極的にやってた」
 日向は無言で頷く
「でもいつからか、何を言っても、何をしても、クラスの何人かにくすくす笑われたり、揶揄われるようになった。俺が提案したことが、裏で笑いの種にされて。だんだん、誰も俺の目を見て話してくれなくなって……」
 手のひらに、嫌な汗が滲む。その時の息苦しさが蘇ってきた
「毎日が地獄みたいだった。教室にいるだけで、誰かの視線が針みたいに刺さってくる。だから、俺は決めたんだ。もう、これ以上傷つきたくないって」
 一度、言葉を切った。日向は、手を出すこともなく、ただ俺の言葉を待っている
「自分の意見を言うのも、何かを主張するのも、全部やめた。そうすれば、誰の気分も害さない。誰も俺を笑わない。自分の存在感を消して、なんでもいいって言っておけば、誰も俺に興味を持たないでくれるから。それが、一番安全な生き方だと思ったんだ」
 それが、自分の最大の嘘であり、自己防衛の手段であった
 日向は、凛の話を最後まで一言も挟まずに聞いていた。そして、静かに首を振った
「そうか……そんなことがあったのか」
 日向は、その逞しい手で、凛の震える手を強く握った
「凛。謝らなきゃいけないのは、俺のほうだ」
 日向の口調は落ち着いていたが、その目に強い光が宿っていた
「俺は、お前が誰にも理解されないから、孤独でいても仕方ないって、俺を突き放したことに腹を立てた。だけど、俺は陽葵の経験から、嘘をつく人間に対する自分の価値観を押し付けていただけだった」
 日向は深く息を吐いた
「お前は、もう既に、十分傷ついていた。お前がなんでもいいを選んだのは、怠慢じゃなく、防衛本能だった。そのお前が抱えていた痛みを無視して、俺は真実を知りたいという信念だけを押し付けた。俺はお前に傲慢だと言われたような気がして、自分の間違いに気づいたのに、逆ギレみたいな態度をとった」
 日向は凛をまっすぐに見つめた
「俺は、お前が誰よりも傷つきやすいことを知っていたはずなのに、一昨日の階段で、関係を断つような言葉で突き放した。お前をまた一人に戻すかもしれない、最低な言葉だった。……本当にごめん。俺は、お前を救いたかったのに、一番傷つけたのは、俺だった」
 日向はそう言うと、凛の頭を優しく抱き寄せた
「あの時、お前の過去を勝手に決めつけて、怒りなんかぶつけるべきじゃなかった。ただ、黙ってお前を抱きしめるべきだった」
 日向の温もりが、凛の体を包み込む
「だから頼む、凛。もう二度と、自分の痛みを隠したり、俺を突き放したりするな。俺は、お前がどんな過去を持っていようと、どんなに臆病だろうと、お前の隣にいることを選ぶ。そして、お前がそばにいてくれるなら、俺がお前を嫌いになることはない」
 日向は凛を離すと、強い目で問いかけた
「……凛、お前が俺に一番言いたいことはなんだ?」
 日向の問いかけは、逃げ道を塞ぐものではなく、むしろ、その言葉を口にする勇気をくれるものだった
「……日向」
 俺は日向から一歩離れ、しっかりと彼の目を見つめた
 太陽が反射してきらめくその瞳に、もう恐怖の色はない
 あるのは、俺の言葉を待つ、揺るぎない真剣さだけだ
 一度深呼吸をする
 肺いっぱいに吸い込んだ屋上の風が、勇気に変わる
「俺は、日向のことが好きだ」
 言葉にした瞬間、胸の奥で温め続けていた感情が、熱い奔流となって解き放たれるのを感じた
「昨日言ったことは、嘘じゃない。日向が、俺の隣にいてくれることが、俺を助けてくれた真実が、俺の心を救ってくれた。その気持ちが、いつの間にか、日向という一人の人間に向けた、恋の感情になっていたんだ」
 日向は、俺の告白を真剣に聞いてくれた
「男同士だとか、友達じゃいられなくなるとか、怖くて仕方がなかった。でも、そんなのどうでもいい。俺は、日向だから好きになった。この気持ちに嘘はつけない」
 俺は、震える声のまま、まっすぐ日向に訴えた
「俺のこの気持ちを受け止めてくれるかは日向の決めること。でも、迷惑って、友達でいられないって言われても俺は……」
「馬鹿」
 日向は、俺の言葉を遮るように、低い声で言った
 彼の表情が穏やかな優しさに変わっていく
「迷惑なわけ、ないだろ」
 日向はそう言うと、静かに俺に近づき、手を伸ばし、俺の頬に触れた
「凛、お前が熱の中で言ったとき、俺は、すごく驚いたと同時に、ようやく答え合わせができた気がした」
 日向の口調は、いつもよりもずっと柔らかく、そして正直だった
「俺はな、お前の好きが、熱で言わされた嘘なんかじゃないって、知ってるよ」
 日向は俺の目を覗き込むように、顔を近づけた
「俺は、正直、お前を家に誘った日から、お前のことが特別だった。自分でも理由はわからなかったが、お前が自分の気持ちを口にするたびに、すごく嬉しかったし、お前が笑っているのを見ると、俺まで安心した」
 日向は、屋上を見下ろすように視線を遠くへ向けた
「でも、それが恋なのか、それとも、誰にも本音を言えなかった陽葵を助けたときの感情の延長なのか、ずっとわからなかったんだ。俺は、嘘や建前が一番嫌いだから、自分の気持ちにも嘘をつきたくなかった」
 俺は日向の言葉を息を詰めて聞いていた
「それがはっきりしたのが、昨日の夜だ」
 日向は再び俺のほうを向き直る
「恋愛は面倒だと思ってた。嘘をつかれるのも疑うのも嫌だ。でもお前は熱で倒れながら俺を抱きしめて告白してきた。そのときに、痛いほどわかった」
 日向は俺の手を強く握りしめる
「俺に好きだって言って、嫌いにならないでって泣きながら抱きついてきたとき、俺は、お前を失うことが、誰よりも怖いって気づいた。あんなに最低な言葉をぶつけて突き放した俺の隣に、お前がもう二度と戻ってこないかもしれない、って考えたら、心臓が潰れるかと思った」
「日向……」
「凛。俺はもう友情とか練習とか、そういう曖昧な言葉でお前を手放したくない。俺もお前が好きだ。凛の全部を受け止めたいし、誰にも渡したくない。だから……」
日向は、俺の顎をそっと持ち上げた。
「俺と、付き合ってくれるか。凛」
 その瞬間、屋上を吹き抜ける風が祝福のざわめきのように聞こえた
 俺の心臓は、花火の夜よりも、もっと強く大きく脈打っていた
「うん……!喜んで!」
 俺は、涙を拭うことさえ忘れ、日向の胸に飛び込んだ
 日向のたくましい腕が、今度は迷いなく、そして強く俺を抱きしめた
「俺も、お前が好きだ、凛」
 日向の声が頭上から聞こえ、彼の温もりが全身を包み込む
 もう、寂しくない。もう、一人じゃない
 屋上を吹き抜ける風が、俺たちの背中を押すように、優しく通り過ぎていった


 授業が終わりのチャイムが鳴り響くが、俺の耳にはほとんど届かなかった
 昼休みの屋上で、俺たちは正式に恋人になった
 その事実が俺の頭の中を日向でいっぱいにしていた
 周りのクラスメイトが帰り支度を始める中、俺はそっと後ろの席を振り返った
 日向と目が合うと、彼は少しだけ口角を上げた
「帰るぞ」
 とだけ言って、俺の手を掴んだ
「今日の放課後は、どうする?」
 日向が聞いた
「えっと……特に用事はないよ。日向は?」
「俺も、ない」
 日向は悪戯っぽく笑った
「なら、少し遠回りして帰るか。お前と二人で歩きたい。病み上がりだけど平気か?」
 その言葉一つ一つが、俺の心に深く染み渡る
 俺を気遣ってくれる彼の確かな愛情の証明に聞こえた
「うん、大丈夫。歩きたい」
 そう答えて俺は笑った
「あのさ、日向」
 学校を出て、俺は聞きたかったことを尋ねた
「俺たち、その……付き合うって、どういうことなんだろう?」
 日向は立ち止まった
 生徒たちの波が引いた静けさが際立った
 強く、優しく、指をしっかりと絡ませて
「どういうことって、そういうことだろ」
 日向はフッと笑った
「恋人ってことだよ、凛。お前が誰にも隠さなくていい、俺だけの特別な居場所ってことだ。もちろん、お前もな」
 そして、手を繋ぎ、少しだけ真面目な声で続けた
「お前は、まだ集団の中では怖いものがたくさんある。俺も、急に恋愛のことでお前に何かを強制したりはしない。だが、お前の気持ちに嘘をつかないでいること。それが、俺たちのルールだ」
 日向は俺の手を軽く引いてまた歩き始める
「でも、凛。俺にも不安なことはある」
「不安なこと……?」
「お前が本当に俺の隣にいていいのか、心配になることがある」
 日向の目に、まだ少しの不安が宿っているのがわかった
 俺がまた突き放したり、逃げたりしないか、確かめているようだった
 だから、日向がしてくれたみたいに俺も安心させたい
「大丈夫。俺は日向の隣がいいんだ。一昨日の階段で、日向がいなくなることほど、怖いものはないって自覚した」
 俺は深呼吸をして、彼の目をまっすぐ見つめた
「俺は、日向が誰にも話さなかった過去まで知ることができた。そして日向も俺の過去を受け入れてくれた。日向の隣こそが、俺が嘘をつかずにいられる唯一の場所だよ」
 日向は静かに微笑んだ
 それは、これまでのどんな笑顔よりも、優しくて、心から安堵しているように見えた
「そうか。よかった」
 日向は、繋いでいた手とは逆の腕で、そっと俺の肩を抱き寄せ、少しだけ歩調を緩めた
「俺もお前を、もう二度と一人にしない。だから、一生俺の隣にいろ」
__一生
 その重い言葉が、俺の心臓に深く響いた
 それは、曖昧さのない、日向からの最も正直で、強い約束だった
 俺は、日向の肩にそっと頭を寄せた
 白露の季節の穏やかな光と、日向の温もりに包まれて、俺の新しい世界は、今、始まったばかりだ
「ねえ、日向。次、二人でどこか行かない?」
「そうだな、どこ行くか」
 日向は俺の頭を優しく撫でた
「でも、来週の月曜までは無理だな。今週は文化祭の準備で、来週は文化祭本番だろ」
 そう言われて、ようやく現実に戻ってきた
 そうだ、俺たちは今、クラスの出し物であるお化け屋敷の準備中だったんだ
 日向との関係が急変したことで、すっかり頭から抜け落ちていた
「そうだよね。お化け屋敷、俺のギミックも採用になったんだもんね。頑張らないと」
 俺は少し残念そうな声を出しながらも、文化祭でみんなと一緒に活動できる喜びも感じていた
 日向は少し考える仕草をした
「じゃあさ」
 低い声が頭上に響く
「文化祭が終わった次の日の月曜日、代休だろ。そこで行こうぜ」
「月曜日?」
「ああ。遊園地とか、どうだ?」
 遊園地。夏祭りよりも、水族館よりも、もっと賑やかで、そしてカップルらしい場所
 俺は瞬間的に顔が熱くなるのを感じた
 ついさっき、日向の肩に頭を寄せていた恥ずかしさなんて、比べ物にならないくらいだ
「え、ゆ、遊園地!い、いいの?」
「何がいいのだよ。行きたいだろ?」
 日向は俺の顔を覗き込み、悪戯っぽい笑みを浮かべた
 その表情から、彼がすでに俺の戸惑いをすべて見透かしているのがわかる
「行く!行きたいよ!日向と!」
 俺は興奮で思わず声が上ずってしまった
 日向に自分の気持ちを正直に伝えることが、こんなにも簡単なことになったなんて
「よし。じゃあ、決まりだ」
 日向は満足そうに笑うと、俺の繋いだ手をもう一度強く握りしめた
「凛。俺、お前と二人で遊園地行くの、楽しみだわ」
 そう言われて、俺はもうどうにでもなれという気持ちになり、日向の肩に再び顔を埋めた
 恋人
 その響きが、こんなにも甘くて、こんなにもくすぐったくて、そしてこんなにも恥ずかしいものだなんて、知らなかった
「うん……俺も、すごく楽しみだよ、日向」
 そうしているとパッと日向は俺から離れ肩を掴んだ
「お前、さっきから顔赤いぞ。熱がぶり返したか?」
 日向は、立ち止まって俺の額に手を当てようとした
「ち、ちがう!大丈夫、熱なんかもうないよ!」
 咄嗟に一歩後ろに下がり、日向の手から逃れた
 顔だけでなく、耳まで熱くなっているのがわかる
(な、なんでこんなに照れるんだ……!)
 今更、こんなに恥ずかしくなるなんて、本当に馬鹿みたいだ
 日向は、俺の様子をしばらく観察した後、フッと小さく笑った
「そうか。じゃあ、照れてんのか」
「ち、違うって言ってるだろ!」
 俺が慌てて否定すると、日向はさらに愉快そうに声を上げて笑った
「そうかよ。可愛いな、お前」
 可愛いという言葉を、日向から直接聞くのは初めてだった
 心臓が跳ね上がりすぎて、今度は本当に胸が痛い
「うるさい!俺は可愛くない!」
「はいはい」
 日向は、もう何も言わず、再び俺の手を掴み直した
 今度は、逃がさないとでも言うように、少し力を込めて
 俺たちの関係は、今日から恋人だ
 恥ずかしくてたまらないけれど、この温もりと、日向の隣という居場所は、もう二度と手放したくない
 俺は、日向に負けないように、繋いだ手を強く握り返した
 代休の月曜日が、今から待ち遠しい