***
「お疲れ様です。アンリ様」
午後の予定も全て済ませ、迎えに来てくれた馬車に乗って屋敷に帰った。フレッドと共に屋敷に入ると、屋敷全体に甘い匂いが漂っている。香水とかの甘さではなく、焼きたてのお菓子のような…そんな香りだ。
「良い匂いがするね」
「厨房ではシーズさんとルエさんが舞踏会で提供する軽食の試作をしているようですよ」
「へー、舞踏会って軽食も出すんだ」
「えぇ、舞踏会当日ホールは踊る場として使いますが、隣のコンサバトリーでは軽食を取ったり、ゆっくりと会話を楽しむことが出来るように開放する予定です」
「そっか、じゃあ私もダンスの練習、頑張らないとだね」
「そうですね。では一度、お部屋でお着替えをしてから練習にしましょうか。練習が終わり次第、昨日同様にアフタヌーンティということで」
「うん!」
一人で自室に戻ると、恐らくフレッドが準備してくれていたのであろうラックに掛けられていたワンピースに腕を通し、すぐにダンスの練習部屋に向かった。練習部屋では既にフレッドが蓄音機の調整をしてアンリを待っている。
「お待たせ」
「お早かったですね。ではそうですね…今日は昨日のおさらいをして、その後に音楽を流してみましょうか」
「分かった」
昨日の練習と同じように流れるように踊るフレッドのカウントに合わせて、アンリもタイミングを合わせて足を動かす。昨日は一歩一歩考えながら動いていたし、緊張もあって体もガチガチだったが、一晩経って時間を置いたからなのか、今日は昨日より頭が澄んでいる。時々、分からなくなって躓く事があっても、それでもかなり自然と動けているんじゃないだろうか。そんなアンリに鏡越しに目の合ったフレッドはカウントをしながらも笑いかけてくれる。
「昨日よりも自然と動けていましたし、かなり良かったですよ」
「ほんと?」
「えぇ、これなら音楽を流してテンポが速くなっても大丈夫かと思います」
一度目の練習が終わった。昨日の練習もそうだったが、アンリが何をしてもフレッドは褒めてくれる。おかげで元々自己肯定感なんて皆無だったアンリでも自信を無くさずに済む。それがフレッドの気遣いなのか、根っからの優しさなのかは分からないが、なんだったとしても素直に嬉しいのだ。
「では音楽を流してみましょう。おそらく今までのカウントよりもペースアップしますが、初めは出来なくて当たり前だと思って、やってみましょう」
グランドピアノ横のすでにセットされていた蓄音機から昨日一度だけ聞いた音楽が静かに流れ出す。音楽に合わせ踊り始めるフレッドの隣でそれを真似してみるが、音楽無しの練習に比べて明らかにテンポが速い。
踊り終わる頃には何テンポもズレているし、足はもつれ優雅さの欠片もなかった。それと同時に、たった一週間しか無い練習期間でもフレッドのように踊れる様になれるのかも、なんて浮かれていた気持ちは一気に萎んだ。
「そんなに落ち込まなくて大丈夫ですよ」
「でも…」
「今日初めて音楽に合わせたのですから、出来なくて当たり前です。それに何テンポか遅れたとしても次に足をどう動かすのか、しっかり覚えていたじゃないですか。練習二日目でそこまで出来れば十分過ぎる程ですよ」
そんな励ましに、沈んでいた気持ちをなんとか取り戻す。そしてその後もフレッドの励ましや褒め言葉によって、モチベーションを保ちながら練習を続けるのだった。
練習を終えるとフレッドには自室で待っているように言われたが、共に食堂へと向かう。フレッドに次いで厨房に入ると厨房内ではコックコートを着るシーズとルエが忙しなく動き回っていた。そんな二人もフレッドとアンリの存在に気がつくと一度手を止める。
「フレッドさんにお嬢様、お二人揃ってどうなさいましたか?」
「私はお茶菓子を取りに来たのですが、アンリ様はどうしても厨房に来たいと仰るので…」
邪魔になるだろうし、困らせてしまうかもしれないという事も分かっていた。それでも初めて会った日以降、どうしても彼と一度でも話をしてみたかったのだ。
「ルエさんとお話してみたくて…」
「ルエとですか?」
「やっぱり迷惑でしたか?」
「いえいえ、そんな事は」
そう言って微笑むとシーズは優しく「ルエ」と振り返る。名前を呼ばれ一気に視線が集まったルエは、どうしたら良いのか分からないといった表情だ。
「ほら、お嬢様がお話したいそうだ。行っておいで」
「でも仕事が…」
「丁度オーブンにパン生地を入れた所だっただろう?焼き終わるまで時間はあるし、少し休憩しておいで」
「はい……」
小さな声で頷くと恐る恐るといった感じでルエは近づいてくる。フレッドはそんなアンリとルエに隣の食堂を使うように提案してくれる。その言葉に甘えるように厨房を出ると、八人掛けの椅子に並んで座る。肝心のルエは事前に人見知りだと聞いていたとおり、椅子に小さく座るとずっと自分の拳を見つめている。
「あの…一体何のご用でしょうか…」
「えっとね、これと言って用事があったわけじゃないんだけど…、お話してみたかったの」
「僕なんかとですか…?」
「ルエさんだからだよ。あのね、貴方の作ってくれたパンやお菓子、今まで食べたものの中で一番美味しかったの」
「ほんと…、ですか?」
「うん!今までパンとか何も考えずに食べてたんだけど、ルエさんが焼いてくれたパンは甘くて優しい味でとっても美味しかった」
「…嬉しいです、そう言って貰えて」
そして出会って初めて、ちゃんとルエの顔を見られた。照れたように頬を染めて、口の端を少し上げて笑う顔は可愛らしい。
「ルエさんの瞳って綺麗だね」
「そんな、じっくり見ないで下さいよ…。あとルエって呼び捨てで良いです」
「ほんと?じゃあこれからはルエって呼ぶね。ねぇ、またこうしてルエとお話しに来てもいい?」
「…はい、僕なんかで良いなら」
「ほんと?ありがとう」
ルエとの話はそこで終わった。きっとまだ警戒されているだろうし、いきなり仲良くなるのは難しいかもしれないが、これから先ゆっくりお話出来るようになれば良いなと思う。
そしてそれからの毎日は学園に通い、ミンスと授業を受けたり休み時間や放課後にはクイニーやザックも加わり三人で過ごす。お屋敷に帰ってからはダンスの練習をした後、フレッドと共にアフタヌーンティを嗜み、夜には両親と揃って夕食を食べる日々を繰り返すのだった。
「お疲れ様です。アンリ様」
午後の予定も全て済ませ、迎えに来てくれた馬車に乗って屋敷に帰った。フレッドと共に屋敷に入ると、屋敷全体に甘い匂いが漂っている。香水とかの甘さではなく、焼きたてのお菓子のような…そんな香りだ。
「良い匂いがするね」
「厨房ではシーズさんとルエさんが舞踏会で提供する軽食の試作をしているようですよ」
「へー、舞踏会って軽食も出すんだ」
「えぇ、舞踏会当日ホールは踊る場として使いますが、隣のコンサバトリーでは軽食を取ったり、ゆっくりと会話を楽しむことが出来るように開放する予定です」
「そっか、じゃあ私もダンスの練習、頑張らないとだね」
「そうですね。では一度、お部屋でお着替えをしてから練習にしましょうか。練習が終わり次第、昨日同様にアフタヌーンティということで」
「うん!」
一人で自室に戻ると、恐らくフレッドが準備してくれていたのであろうラックに掛けられていたワンピースに腕を通し、すぐにダンスの練習部屋に向かった。練習部屋では既にフレッドが蓄音機の調整をしてアンリを待っている。
「お待たせ」
「お早かったですね。ではそうですね…今日は昨日のおさらいをして、その後に音楽を流してみましょうか」
「分かった」
昨日の練習と同じように流れるように踊るフレッドのカウントに合わせて、アンリもタイミングを合わせて足を動かす。昨日は一歩一歩考えながら動いていたし、緊張もあって体もガチガチだったが、一晩経って時間を置いたからなのか、今日は昨日より頭が澄んでいる。時々、分からなくなって躓く事があっても、それでもかなり自然と動けているんじゃないだろうか。そんなアンリに鏡越しに目の合ったフレッドはカウントをしながらも笑いかけてくれる。
「昨日よりも自然と動けていましたし、かなり良かったですよ」
「ほんと?」
「えぇ、これなら音楽を流してテンポが速くなっても大丈夫かと思います」
一度目の練習が終わった。昨日の練習もそうだったが、アンリが何をしてもフレッドは褒めてくれる。おかげで元々自己肯定感なんて皆無だったアンリでも自信を無くさずに済む。それがフレッドの気遣いなのか、根っからの優しさなのかは分からないが、なんだったとしても素直に嬉しいのだ。
「では音楽を流してみましょう。おそらく今までのカウントよりもペースアップしますが、初めは出来なくて当たり前だと思って、やってみましょう」
グランドピアノ横のすでにセットされていた蓄音機から昨日一度だけ聞いた音楽が静かに流れ出す。音楽に合わせ踊り始めるフレッドの隣でそれを真似してみるが、音楽無しの練習に比べて明らかにテンポが速い。
踊り終わる頃には何テンポもズレているし、足はもつれ優雅さの欠片もなかった。それと同時に、たった一週間しか無い練習期間でもフレッドのように踊れる様になれるのかも、なんて浮かれていた気持ちは一気に萎んだ。
「そんなに落ち込まなくて大丈夫ですよ」
「でも…」
「今日初めて音楽に合わせたのですから、出来なくて当たり前です。それに何テンポか遅れたとしても次に足をどう動かすのか、しっかり覚えていたじゃないですか。練習二日目でそこまで出来れば十分過ぎる程ですよ」
そんな励ましに、沈んでいた気持ちをなんとか取り戻す。そしてその後もフレッドの励ましや褒め言葉によって、モチベーションを保ちながら練習を続けるのだった。
練習を終えるとフレッドには自室で待っているように言われたが、共に食堂へと向かう。フレッドに次いで厨房に入ると厨房内ではコックコートを着るシーズとルエが忙しなく動き回っていた。そんな二人もフレッドとアンリの存在に気がつくと一度手を止める。
「フレッドさんにお嬢様、お二人揃ってどうなさいましたか?」
「私はお茶菓子を取りに来たのですが、アンリ様はどうしても厨房に来たいと仰るので…」
邪魔になるだろうし、困らせてしまうかもしれないという事も分かっていた。それでも初めて会った日以降、どうしても彼と一度でも話をしてみたかったのだ。
「ルエさんとお話してみたくて…」
「ルエとですか?」
「やっぱり迷惑でしたか?」
「いえいえ、そんな事は」
そう言って微笑むとシーズは優しく「ルエ」と振り返る。名前を呼ばれ一気に視線が集まったルエは、どうしたら良いのか分からないといった表情だ。
「ほら、お嬢様がお話したいそうだ。行っておいで」
「でも仕事が…」
「丁度オーブンにパン生地を入れた所だっただろう?焼き終わるまで時間はあるし、少し休憩しておいで」
「はい……」
小さな声で頷くと恐る恐るといった感じでルエは近づいてくる。フレッドはそんなアンリとルエに隣の食堂を使うように提案してくれる。その言葉に甘えるように厨房を出ると、八人掛けの椅子に並んで座る。肝心のルエは事前に人見知りだと聞いていたとおり、椅子に小さく座るとずっと自分の拳を見つめている。
「あの…一体何のご用でしょうか…」
「えっとね、これと言って用事があったわけじゃないんだけど…、お話してみたかったの」
「僕なんかとですか…?」
「ルエさんだからだよ。あのね、貴方の作ってくれたパンやお菓子、今まで食べたものの中で一番美味しかったの」
「ほんと…、ですか?」
「うん!今までパンとか何も考えずに食べてたんだけど、ルエさんが焼いてくれたパンは甘くて優しい味でとっても美味しかった」
「…嬉しいです、そう言って貰えて」
そして出会って初めて、ちゃんとルエの顔を見られた。照れたように頬を染めて、口の端を少し上げて笑う顔は可愛らしい。
「ルエさんの瞳って綺麗だね」
「そんな、じっくり見ないで下さいよ…。あとルエって呼び捨てで良いです」
「ほんと?じゃあこれからはルエって呼ぶね。ねぇ、またこうしてルエとお話しに来てもいい?」
「…はい、僕なんかで良いなら」
「ほんと?ありがとう」
ルエとの話はそこで終わった。きっとまだ警戒されているだろうし、いきなり仲良くなるのは難しいかもしれないが、これから先ゆっくりお話出来るようになれば良いなと思う。
そしてそれからの毎日は学園に通い、ミンスと授業を受けたり休み時間や放課後にはクイニーやザックも加わり三人で過ごす。お屋敷に帰ってからはダンスの練習をした後、フレッドと共にアフタヌーンティを嗜み、夜には両親と揃って夕食を食べる日々を繰り返すのだった。

