***
馬車が学園の前に停まると、馬車の窓から校門の前に昨日仲良くなったばかりの三人が揃っているのが見える。周りの通行人や学生はそんな彼らを二度見して行く。そりゃあそうだ。顔面偏差値が高い三人がああして揃っているのだから。
ミンスはザックに絡んでいるようだが、クイニーとは真っ直ぐ目が合っている。あれはアンリ待ちという事だろうか。
サッチェルバッグを持ち、フレッドに手を引かれ馬車を降りる。
「では本日もお帰りの際は、こちらまでお迎えに参りますね」
「うん、ありがとう」
フレッドに笑いかけている間にも、クイニーからの視線が背中にグサグサと刺さっている気がする。あれは間違いなく、完全にアンリ待ちだ。
足早に三人の元に向かうとそれぞれ第一声は全く違った。
「遅い」
「アンリちゃん、おはよ〜。今日も可愛いね」
「おはようございます」
クイニーの言ってきた事は無視するとして、とりあえず「おはよう」と返す。ミンスに関しては、貴方の方が今日もフワフワしていて私よりも何倍も可愛いです、と心で思いながら。
「私の事、待っててくれたの?」
「そうだよ~」
「今朝ミンスと二人で登校したのですが、二人との集合場所を決めていなかった事を思い出しまして…」
「この学園は広いし敷地内で見つけるのは大変でしょ?だからここで待ってたら登校してきた二人をすぐに見つけられるんじゃないかなって思って」
「そっか、ありがとう。待っててくれて」
元の世界で暮らしていた頃、高校までなら自分の所属するクラスがあって、決められた教室があった。でもここでは授業ごとに教室は変わるし、レベルごとの組み分けがあってもクラスという枠組みはない。どちらかと言えば大学と似ている。
だがこの世界にはメールや電話のような手軽に使える連絡手段が無い。スマホがあれば一瞬で連絡を取り合って集合場所を決める事も出来たけど、この世界では口約束をしていないと、顔を合わせるのも一苦労だろう。
「ほら、立ち話は良いから行くぞ」
「あぁそうだな」
「アンリちゃん、行こ~」
アンリ達は自然と二列になって歩き出す。前をクイニーとザックが歩き、後ろにアンリとミンスがついていく形だ。ミンスはずっとアンリの腕にくっついて歩いているが、その姿が子犬のようで振り払うなんて絶対に出来ない。
昨日も思った事だが、この学園はやはり広い。普段基本的に授業を行なうのは本館だが、本館以外にも大講堂や別館、他にもいくつか建物が建っているのだ。これはどこに何の部屋があるのか覚えるのに相当な時間が掛かりそうだ。
そんな風に思っているにもかかわらず、前を歩く二人は迷う素振りすら見せずにスタスタと歩いて行く。
「二人はよく迷わないよね。こんなに広いのに」
そう言うと共感するように腕にくっついていたミンスが頷く。
「だよね!僕もすごいなって思う」
「慣れるまではすぐに迷子になっちゃいそうだよね」
「そうだね。でも、ザックが居れば絶対に大丈夫だよ」
そんな風に共感し合っていると、前から呆れたような溜息が聞こえてくる。
「ミンスは昔からそんな事ばかり言ってるから、すぐに迷子になるんだぞ」
「だって道を覚えるのってパズルみたいで苦手なんだもん」
「アンリだって同じだからな」
「私は方向音痴なの。だから仕方ないでしょう」
「仕方なくない。はぁ、よりによってすぐ迷子になる二人が同じレベルだなんて」
「ほんとだな。って事は今までと違って、ミンスは私についてくることは出来ないと言う事だな」
「えぇ無理無理」
「無理って言ったって仕方ないだろ?別の科なんだから」
「え~、じゃあさ…」
「私はいちいちミンスを教室に送り届けてから自分の教室に向かうなんて勘弁だからな?」
「もぉ、まだ何も言ってないのに」
「ミンスの考えていることなんて、言われなくても分かる」
「まぁせいぜい二人で頑張るんだな」
唯一頼りになる二人から完全に突き放されてしまった。クイニーもザックも、絶望するアンリ達の様子を見て面白がっているのか、揃って口角を上げている。
「アンリちゃん、どうしよう。僕達やっていけるのかなぁ」
「うーん、でもほら一人じゃないし…」
「確かに!アンリちゃんも居てくれれば怖くないや。なんだか僕、やっていける気がする!」
「はぁ、どうなることやら…」
途端にポジティブになる二人をクイニーとザックは呆れたような目で見る。が、まぁきっとどうにかなるだろう。森に放たれたわけでもないし、聞こうと思えば誰かに道を聞くことも出来る。
今日は四人とも午前中は何かしら授業に出席しないといけない。そのため次は昼休憩に中央広場の噴水前に集合する事になり、本館に入ると二手に別れるのだった。
そして二人と別れてすぐ、アンリとミンスはいきなり迷い始めていた。
「うーん、僕はこっちだと思うな~」
「じゃあそっちに行ってみよう」
そんな適当な勘で向かった先は、目的地とは真逆だった。目的の教室が無い事に気がつくと急いで目的の教室を探す。想像以上にアンリとミンスの方向音痴は酷いのかもしれない。
時間ギリギリになって目的の教室に到着すると、昨日のガイダンスで見た顔が既にほとんど揃っていた。アンリとミンスは空いていた一番前の席に並んで座ると、男女問わずに何人かの学生からの視線を感じる気がするが、気のせいだろうか。確認をしようにもアンリには背後を振り向く勇気はない。
数分もするとチャイムが鳴り響き、先生らしき人物の足音が聞こえる。アンリはミンスと話していた顔を前に向けると口がポカーンと開いてしまう。
教卓に立つ先生は綺麗な茶髪に青い瞳。お母様だった。
どうしてお母様が居るのかと混乱するアンリにお母様は笑いかけている。
「…ちゃん、アンリちゃんってば」
「え?あ、ごめん。どうしたの?」
「あの先生ってアンリちゃんの…」
「うん…」
「やっぱりそうだよね」
「ミンスくんは私のお母様の事を知っているの?」
「うん、前に社交の場でオーリン伯爵の側に居たのを見ていたから。こうして改めて見ると、本当に綺麗な方だよね」
アンリの動揺をよそに教卓に立つお母様…いや、先生は話を始める。
「みなさん、初めまして。私はこの時間の授業を担当するオーリンです。今日は初めての授業なので、触り程度で終わりにしますが、次回からはしっかり授業を初めて行きますので忘れ物のないようにお願いしますね」
そんな挨拶と共に、授業についての説明がされた。色々と言い方は違うものの、簡単に言ってしまえばお母様の担当する授業は数学だ。ある程度の説明を終わらせると、お母様は今日の授業を閉じるのだった。
授業が終わるとそれぞれが教室を去ったり、その場でお喋りを始める中、アンリの足は真っ直ぐにお母様の元に向かった。後ろにはミンスもついてきてくれている。
アンリが近づくと先程まで真剣だったお母様の表情はパッと笑顔に変わる。それが無邪気な少女のようで、母親だというのに可愛いと思ったのは秘密だ。
「アンリ、昨日ぶりね。どう、ビックリした?」
「うん、まさかお母様が授業するなんて思ってなかった」
「じゃあ作戦成功ね」
「作戦?」
「お父様とね、アンリを驚かせようって秘密にしていたのよ」
「お父様と?」
「えぇ、貴方には黙っていたのだけど実はお父様、ここの学園の理事長なのよ」
「えぇ!!」
まさかお母様が先生だっただけでなく、お父様が学園の理事長だなんて。そういえば特に気にしていなかったが、今朝も早い時間に二人揃って家を出ていった。きっとアンリより一足先に学園へ向かっていたのだろう。
「あら、そちらの子はアンリのお友達かしら」
そう言うとお母様はそれまでアンリの後ろで静かにしていたミンスに視線を向ける。
「うん、ミンスくんって言うの」
「ミンス・シェパードと申します」
「シェパード子爵のお家の子ね。アンリをよろしくね」
「はい!僕では頼りないかもしれませんが、他にしっかり者の二人もいますので心配ご無用です」
「あらあら、それは頼もしいわね。ぜひ今度、そのお友達も一緒に屋敷に遊びに来てね」
「はい、ありがとうございます!」
さすがの二人はあっという間に打ち解けてしまった。
アンリ達と会話する時はユルく、のんびりしていて可愛さの塊のミンスだが、さすがの貴族と言う事もあって、お母様を前にすると紳士の顔を見せた。
そんなこんなで会話を弾ませていると、いつの間にか時間はあっという間に過ぎていた。既に誰もいなくなっていた教室に慌てると、お母様から次の授業が行なわれる教室の場所への道のりを聞くと急いで次の教室に走り出す。
周りの目も気にせずに二人で全力疾走すると、なんとか授業が始まる前に教室に着いた。一限目は一番前の席に座ったが今度は一番後ろに並んで座ったため、初老のお爺ちゃん先生が自己紹介をしている間、ひっそりとお喋りする。
「そう言えば私達って理系なの?」
「ううん、違うよ。忘れちゃったの?」
笑いながら誤魔化すと、ミンスは何も疑わずにいてくれる。
「僕達はベーシックレベルだよ」
「ベーシック…って事は基礎?」
「うん、貴族階級の大半の学生はベーシックレベルかな。それでベーシックレベルよりも下のエントリーレベルは労働者階級の学生が学ぶんだよ」
「んー、じゃあ勉強はそこまで難しくないのかな」
昨日この世界で目覚めたばかりのアンリにはこの国の歴史はもちろん知らないし、その他の授業でも何かと分からない事だらけだろう。あまり難しいことを扱われても、さすがに困る。
「うーん、大丈夫だと思うよ。それにアドバンスレベルって言うベーシックレベルより上があるからね」
「そうなの?」
「ほら、僕達は理系文系関係なく基本的に広く浅く学ぶって感じでしょ?でもアドバンスレベルはそれぞれ一つの学問を究めていくの。その中でも一番難しいって言われてるのが理系科だよ」
「理系科?」
「ほら、ザックとクイニーがそうだよ」
「え!」
「アンリちゃん、声が大きいよ」
「あ、ごめん」
授業中だと言うことも忘れ、あまりの驚きに大声を出してしまう。でも幸い、こちらを気にしている人は居なさそうだからギリギリセーフだ。
何にしても、あの二人がそんなに頭がよかったなんて知らなかった。まぁザックは振る舞いから頭が良いんだろうと予想はついていたが、まさかあのクイニーが勉強できる側の人間だとは思わなかった。
そんな事を話している間に教卓に立つ先生は自己紹介と授業についての軽い説明を終えていたようで、初回はガイダンスのみで終わりにすると言うと早々に教室を出ていった。ちなみに話に夢中で、何も聞いていなかったのは言うまでもない。
二限目が終わると、長い休憩時間が始まるため、教室内は一気に騒がしくなった。そんな中、アンリとミンスは朝に約束していた中央広場の噴水前に向かう為に教室には留まらずに廊下へ出た。二人であっち、こっちと言い合いながら歩いていると、いつの間にか本来二限の終わる時間になっていたらしく、廊下も騒がしくなる。
なんとか途中で再びすれ違ったお母様に中央広場までの道順を教えてもらい、無事に約束の場所に到着。中央広場は本館の建物に囲まれるような場所にあり、ベンチやパラソル付きのテーブルも置かれている。
昼休憩という事もあって今の時間はある程度の学生が中央広場に集まっているが、楽しそうに過ごす女学生の大半は友人と話しながらも、チラチラと噴水の方に意識を向けている。それでも視線が集まる本人達は気にする素振りも見せずに話し込んでいる。
「ねぇねぇアンリちゃん」
「ん?どうしたの?」
「さっきの授業が終わった後にも思ったことなんだけど、アンリちゃんのお母様ってとっても優しい人なんだね」
「うん、私もそう思う。優しくて温かい」
「きっとアンリちゃんが優しいのはお母様譲りなのかもしれないね。あ、でもオーリン伯爵も優しい方だから、アンリちゃんは二人の優しさをたくさん受け継いだんだね」
「ありがとう」
そんな風に言ってくれる事がとても嬉しくて、アンリの口角は自然と上がっていた。
噴水前に立つクイニーとザックの元へ到着すると、方向音痴の二人だけでも約束の場所に辿り着けた事に安堵したのか、ザックは眼鏡の奥の瞳を細めた。
「ちゃんとたどり着けたようで良かった」
「ほらね、僕達二人でも心配しなくて大丈夫って言ったでしょ?」
ミンスは胸を張り堂々と言うが、すぐに横やりが飛んでくる。
「でも一限と二限の間の移動時間、二人揃って全力疾走してただろ。あれって迷ってたからじゃねぇの?」
「見てたの?」
「見てたというより、二人が俺たちの居る教室の前を駆けていったんだろ」
「確かに走ったけど…」
「まぁまぁ良いじゃないか。二人ともこうして、たどり着けたわけだし」
そんな三人の会話を聞きながら、中央広場に来るまでにお母様から道を聞いていた事は黙っておこうとアンリは決意するのだった。
昼休憩になったものの朝食をしっかり食べていたからか、特にお腹も空いていない。カフェテリアやラウンジに行けば食事を取れるが、クイニー達もお腹は空いていないという事で、そういった場所には行かずに、このまま中央広場で過ごす事にした。ちなみに詳しくは分からないが、ラウンジは貴族階級の学生にのみ出入りが許されている本館の最上階にあるらしい。そして事前に申請を出せば、貸し切りにすることも可能らしい。
馬車が学園の前に停まると、馬車の窓から校門の前に昨日仲良くなったばかりの三人が揃っているのが見える。周りの通行人や学生はそんな彼らを二度見して行く。そりゃあそうだ。顔面偏差値が高い三人がああして揃っているのだから。
ミンスはザックに絡んでいるようだが、クイニーとは真っ直ぐ目が合っている。あれはアンリ待ちという事だろうか。
サッチェルバッグを持ち、フレッドに手を引かれ馬車を降りる。
「では本日もお帰りの際は、こちらまでお迎えに参りますね」
「うん、ありがとう」
フレッドに笑いかけている間にも、クイニーからの視線が背中にグサグサと刺さっている気がする。あれは間違いなく、完全にアンリ待ちだ。
足早に三人の元に向かうとそれぞれ第一声は全く違った。
「遅い」
「アンリちゃん、おはよ〜。今日も可愛いね」
「おはようございます」
クイニーの言ってきた事は無視するとして、とりあえず「おはよう」と返す。ミンスに関しては、貴方の方が今日もフワフワしていて私よりも何倍も可愛いです、と心で思いながら。
「私の事、待っててくれたの?」
「そうだよ~」
「今朝ミンスと二人で登校したのですが、二人との集合場所を決めていなかった事を思い出しまして…」
「この学園は広いし敷地内で見つけるのは大変でしょ?だからここで待ってたら登校してきた二人をすぐに見つけられるんじゃないかなって思って」
「そっか、ありがとう。待っててくれて」
元の世界で暮らしていた頃、高校までなら自分の所属するクラスがあって、決められた教室があった。でもここでは授業ごとに教室は変わるし、レベルごとの組み分けがあってもクラスという枠組みはない。どちらかと言えば大学と似ている。
だがこの世界にはメールや電話のような手軽に使える連絡手段が無い。スマホがあれば一瞬で連絡を取り合って集合場所を決める事も出来たけど、この世界では口約束をしていないと、顔を合わせるのも一苦労だろう。
「ほら、立ち話は良いから行くぞ」
「あぁそうだな」
「アンリちゃん、行こ~」
アンリ達は自然と二列になって歩き出す。前をクイニーとザックが歩き、後ろにアンリとミンスがついていく形だ。ミンスはずっとアンリの腕にくっついて歩いているが、その姿が子犬のようで振り払うなんて絶対に出来ない。
昨日も思った事だが、この学園はやはり広い。普段基本的に授業を行なうのは本館だが、本館以外にも大講堂や別館、他にもいくつか建物が建っているのだ。これはどこに何の部屋があるのか覚えるのに相当な時間が掛かりそうだ。
そんな風に思っているにもかかわらず、前を歩く二人は迷う素振りすら見せずにスタスタと歩いて行く。
「二人はよく迷わないよね。こんなに広いのに」
そう言うと共感するように腕にくっついていたミンスが頷く。
「だよね!僕もすごいなって思う」
「慣れるまではすぐに迷子になっちゃいそうだよね」
「そうだね。でも、ザックが居れば絶対に大丈夫だよ」
そんな風に共感し合っていると、前から呆れたような溜息が聞こえてくる。
「ミンスは昔からそんな事ばかり言ってるから、すぐに迷子になるんだぞ」
「だって道を覚えるのってパズルみたいで苦手なんだもん」
「アンリだって同じだからな」
「私は方向音痴なの。だから仕方ないでしょう」
「仕方なくない。はぁ、よりによってすぐ迷子になる二人が同じレベルだなんて」
「ほんとだな。って事は今までと違って、ミンスは私についてくることは出来ないと言う事だな」
「えぇ無理無理」
「無理って言ったって仕方ないだろ?別の科なんだから」
「え~、じゃあさ…」
「私はいちいちミンスを教室に送り届けてから自分の教室に向かうなんて勘弁だからな?」
「もぉ、まだ何も言ってないのに」
「ミンスの考えていることなんて、言われなくても分かる」
「まぁせいぜい二人で頑張るんだな」
唯一頼りになる二人から完全に突き放されてしまった。クイニーもザックも、絶望するアンリ達の様子を見て面白がっているのか、揃って口角を上げている。
「アンリちゃん、どうしよう。僕達やっていけるのかなぁ」
「うーん、でもほら一人じゃないし…」
「確かに!アンリちゃんも居てくれれば怖くないや。なんだか僕、やっていける気がする!」
「はぁ、どうなることやら…」
途端にポジティブになる二人をクイニーとザックは呆れたような目で見る。が、まぁきっとどうにかなるだろう。森に放たれたわけでもないし、聞こうと思えば誰かに道を聞くことも出来る。
今日は四人とも午前中は何かしら授業に出席しないといけない。そのため次は昼休憩に中央広場の噴水前に集合する事になり、本館に入ると二手に別れるのだった。
そして二人と別れてすぐ、アンリとミンスはいきなり迷い始めていた。
「うーん、僕はこっちだと思うな~」
「じゃあそっちに行ってみよう」
そんな適当な勘で向かった先は、目的地とは真逆だった。目的の教室が無い事に気がつくと急いで目的の教室を探す。想像以上にアンリとミンスの方向音痴は酷いのかもしれない。
時間ギリギリになって目的の教室に到着すると、昨日のガイダンスで見た顔が既にほとんど揃っていた。アンリとミンスは空いていた一番前の席に並んで座ると、男女問わずに何人かの学生からの視線を感じる気がするが、気のせいだろうか。確認をしようにもアンリには背後を振り向く勇気はない。
数分もするとチャイムが鳴り響き、先生らしき人物の足音が聞こえる。アンリはミンスと話していた顔を前に向けると口がポカーンと開いてしまう。
教卓に立つ先生は綺麗な茶髪に青い瞳。お母様だった。
どうしてお母様が居るのかと混乱するアンリにお母様は笑いかけている。
「…ちゃん、アンリちゃんってば」
「え?あ、ごめん。どうしたの?」
「あの先生ってアンリちゃんの…」
「うん…」
「やっぱりそうだよね」
「ミンスくんは私のお母様の事を知っているの?」
「うん、前に社交の場でオーリン伯爵の側に居たのを見ていたから。こうして改めて見ると、本当に綺麗な方だよね」
アンリの動揺をよそに教卓に立つお母様…いや、先生は話を始める。
「みなさん、初めまして。私はこの時間の授業を担当するオーリンです。今日は初めての授業なので、触り程度で終わりにしますが、次回からはしっかり授業を初めて行きますので忘れ物のないようにお願いしますね」
そんな挨拶と共に、授業についての説明がされた。色々と言い方は違うものの、簡単に言ってしまえばお母様の担当する授業は数学だ。ある程度の説明を終わらせると、お母様は今日の授業を閉じるのだった。
授業が終わるとそれぞれが教室を去ったり、その場でお喋りを始める中、アンリの足は真っ直ぐにお母様の元に向かった。後ろにはミンスもついてきてくれている。
アンリが近づくと先程まで真剣だったお母様の表情はパッと笑顔に変わる。それが無邪気な少女のようで、母親だというのに可愛いと思ったのは秘密だ。
「アンリ、昨日ぶりね。どう、ビックリした?」
「うん、まさかお母様が授業するなんて思ってなかった」
「じゃあ作戦成功ね」
「作戦?」
「お父様とね、アンリを驚かせようって秘密にしていたのよ」
「お父様と?」
「えぇ、貴方には黙っていたのだけど実はお父様、ここの学園の理事長なのよ」
「えぇ!!」
まさかお母様が先生だっただけでなく、お父様が学園の理事長だなんて。そういえば特に気にしていなかったが、今朝も早い時間に二人揃って家を出ていった。きっとアンリより一足先に学園へ向かっていたのだろう。
「あら、そちらの子はアンリのお友達かしら」
そう言うとお母様はそれまでアンリの後ろで静かにしていたミンスに視線を向ける。
「うん、ミンスくんって言うの」
「ミンス・シェパードと申します」
「シェパード子爵のお家の子ね。アンリをよろしくね」
「はい!僕では頼りないかもしれませんが、他にしっかり者の二人もいますので心配ご無用です」
「あらあら、それは頼もしいわね。ぜひ今度、そのお友達も一緒に屋敷に遊びに来てね」
「はい、ありがとうございます!」
さすがの二人はあっという間に打ち解けてしまった。
アンリ達と会話する時はユルく、のんびりしていて可愛さの塊のミンスだが、さすがの貴族と言う事もあって、お母様を前にすると紳士の顔を見せた。
そんなこんなで会話を弾ませていると、いつの間にか時間はあっという間に過ぎていた。既に誰もいなくなっていた教室に慌てると、お母様から次の授業が行なわれる教室の場所への道のりを聞くと急いで次の教室に走り出す。
周りの目も気にせずに二人で全力疾走すると、なんとか授業が始まる前に教室に着いた。一限目は一番前の席に座ったが今度は一番後ろに並んで座ったため、初老のお爺ちゃん先生が自己紹介をしている間、ひっそりとお喋りする。
「そう言えば私達って理系なの?」
「ううん、違うよ。忘れちゃったの?」
笑いながら誤魔化すと、ミンスは何も疑わずにいてくれる。
「僕達はベーシックレベルだよ」
「ベーシック…って事は基礎?」
「うん、貴族階級の大半の学生はベーシックレベルかな。それでベーシックレベルよりも下のエントリーレベルは労働者階級の学生が学ぶんだよ」
「んー、じゃあ勉強はそこまで難しくないのかな」
昨日この世界で目覚めたばかりのアンリにはこの国の歴史はもちろん知らないし、その他の授業でも何かと分からない事だらけだろう。あまり難しいことを扱われても、さすがに困る。
「うーん、大丈夫だと思うよ。それにアドバンスレベルって言うベーシックレベルより上があるからね」
「そうなの?」
「ほら、僕達は理系文系関係なく基本的に広く浅く学ぶって感じでしょ?でもアドバンスレベルはそれぞれ一つの学問を究めていくの。その中でも一番難しいって言われてるのが理系科だよ」
「理系科?」
「ほら、ザックとクイニーがそうだよ」
「え!」
「アンリちゃん、声が大きいよ」
「あ、ごめん」
授業中だと言うことも忘れ、あまりの驚きに大声を出してしまう。でも幸い、こちらを気にしている人は居なさそうだからギリギリセーフだ。
何にしても、あの二人がそんなに頭がよかったなんて知らなかった。まぁザックは振る舞いから頭が良いんだろうと予想はついていたが、まさかあのクイニーが勉強できる側の人間だとは思わなかった。
そんな事を話している間に教卓に立つ先生は自己紹介と授業についての軽い説明を終えていたようで、初回はガイダンスのみで終わりにすると言うと早々に教室を出ていった。ちなみに話に夢中で、何も聞いていなかったのは言うまでもない。
二限目が終わると、長い休憩時間が始まるため、教室内は一気に騒がしくなった。そんな中、アンリとミンスは朝に約束していた中央広場の噴水前に向かう為に教室には留まらずに廊下へ出た。二人であっち、こっちと言い合いながら歩いていると、いつの間にか本来二限の終わる時間になっていたらしく、廊下も騒がしくなる。
なんとか途中で再びすれ違ったお母様に中央広場までの道順を教えてもらい、無事に約束の場所に到着。中央広場は本館の建物に囲まれるような場所にあり、ベンチやパラソル付きのテーブルも置かれている。
昼休憩という事もあって今の時間はある程度の学生が中央広場に集まっているが、楽しそうに過ごす女学生の大半は友人と話しながらも、チラチラと噴水の方に意識を向けている。それでも視線が集まる本人達は気にする素振りも見せずに話し込んでいる。
「ねぇねぇアンリちゃん」
「ん?どうしたの?」
「さっきの授業が終わった後にも思ったことなんだけど、アンリちゃんのお母様ってとっても優しい人なんだね」
「うん、私もそう思う。優しくて温かい」
「きっとアンリちゃんが優しいのはお母様譲りなのかもしれないね。あ、でもオーリン伯爵も優しい方だから、アンリちゃんは二人の優しさをたくさん受け継いだんだね」
「ありがとう」
そんな風に言ってくれる事がとても嬉しくて、アンリの口角は自然と上がっていた。
噴水前に立つクイニーとザックの元へ到着すると、方向音痴の二人だけでも約束の場所に辿り着けた事に安堵したのか、ザックは眼鏡の奥の瞳を細めた。
「ちゃんとたどり着けたようで良かった」
「ほらね、僕達二人でも心配しなくて大丈夫って言ったでしょ?」
ミンスは胸を張り堂々と言うが、すぐに横やりが飛んでくる。
「でも一限と二限の間の移動時間、二人揃って全力疾走してただろ。あれって迷ってたからじゃねぇの?」
「見てたの?」
「見てたというより、二人が俺たちの居る教室の前を駆けていったんだろ」
「確かに走ったけど…」
「まぁまぁ良いじゃないか。二人ともこうして、たどり着けたわけだし」
そんな三人の会話を聞きながら、中央広場に来るまでにお母様から道を聞いていた事は黙っておこうとアンリは決意するのだった。
昼休憩になったものの朝食をしっかり食べていたからか、特にお腹も空いていない。カフェテリアやラウンジに行けば食事を取れるが、クイニー達もお腹は空いていないという事で、そういった場所には行かずに、このまま中央広場で過ごす事にした。ちなみに詳しくは分からないが、ラウンジは貴族階級の学生にのみ出入りが許されている本館の最上階にあるらしい。そして事前に申請を出せば、貸し切りにすることも可能らしい。

