***
「本日もお疲れ様でした」
「今日もお迎え、ありがとう」
一時間の演劇鑑賞を終えて三人と別れた後、既に校門前には迎えの馬車が止まっていた。
演劇の感想と言えば、ここであの照明の入れ方をするんだ、ここであの音を使うのかと経験者だったこともあって普通とは別の視点で楽しめた。
馬車から手を引いて下ろしてくれたフレッドに向かって名を呼ぶとすぐに「なんでしょうか」と反応が返ってくる。
「これから厨房って使えるかな」
「厨房ですか?あぁ昨日仰っていた件ですね。今の時間なら下ごしらえは既に終わっているでしょうし、おそらく大丈夫かと」
「ありがとう。じゃあ私はしばらく厨房に居ると思うけど、良いよって言うまで入って来ちゃダメだからね?他の人にも伝えておいて?」
「かしこまりました」
もう一度「絶対だよ」と念を押して屋敷に入る。そのまま真っ直ぐ食堂に向かい厨房に入るが、ルエしか姿が見えない。
ルエは休憩中だったのか、紅茶を飲みながら読書をしていたがアンリに気がつくと慌てたように本を畳み机の上に置くとアンリに向き直る。
「えっと…、シーズさんなら今は外に出ています」
「今日は厨房を使わせて貰いたくて来たんだけど良いかな」
「フレッドさんから伺っていましたが、一体何を?」
「秘密…と言いたい所なんだけど、ルエにお願いがあるの」
「なんですか?」
「私ここの厨房を使ったことがないし勝手が分からなくて。だからちょっとだけ手伝って欲しいのだけど」
「いいですよ、僕も丁度暇していたので」
「ありがとう。じゃあまずは手、洗ってくるね」
シンクに近づき蛇口を緩めると水が一気に流れ出し、念入りに手を洗うとルエが持って来てくれたタオルで水滴を綺麗に拭き取る。
「そう言えば私の買っておいた食材ってどこにあるか分かる?」
「それでしたらパントリーの方に…」
そう言うとルエはキッチンの奥にあるパントリーに入っていく。アンリもルエに続いて中に入ると、小さな物置の様な場所に野菜やパンと言った食品達が綺麗に並べられている。この部屋には窓が無く薄暗いからか、他の部屋に比べてずいぶんと涼しい。そんな部屋の隅っこに置かれたカゴをルエは持つと、パントリーを出る。
「これがアンリ様の買われてきたモノです。…聞き忘れていましたが、一体何を作るんですか?」
「ポルボロンって言う焼き菓子を作ろうと思うんだ」
「ポルボロン…?初めて耳にした焼き菓子ですね」
「一緒に作ってくれる?」
「はい、僕にもお手伝いさせてください」
「じゃあまずはポルボロンの下ごしらえかな。えっと、オーブンってある?」
「オーブンならこちらに。すぐに使うようなら急いで温め直しますが…」
「うん、じゃあお願い出来る?まずは小麦粉を焼かないといけないんだ」
「小麦粉を、ですか?変わった調理法ですね」
天板に小麦粉を薄く敷いてルエが温めてくれたオーブンに天板を突っ込むと、そのままルエに手伝ってもらいながら他の材料の計量を始める。バターに砂糖にアーモンドプードル。さすが毎日パンや焼き菓子を作っている事もあってルエの計量は手際が良い上に正確だ。
それらの計量が終わると丁度オーブンに入れていた小麦粉もきつね色になっている。これで下準備は完了だ。
ボウルに計量した材料と共に小麦粉を入れて混ぜれば、初めはボソボソとしていて中々まとまってくれないが、次第に一つの生地にまとまってくる。
生地がまとまれば生地を落ち着かせるため、ルエと共に地下に降りて肉や卵を保存している一際涼しい食料保管室で生地を休ませる。
「名前も聞いた事の無かったお菓子ですが作ってみると簡単に作れるんですね」
「でしょう?しかもこんなに簡単なのに美味しいんだ」
「そうなんですか。ですがアンリ様は一体、いつの間にこんな焼き菓子を作られていたんです?」
「あっ、えっと…それは…。そんなことよりほら、生地を寝かせている間に二人で紅茶でも飲みながらお話でもしようよ」
昔はよく家で一人のタイミングを見つけるたびに時間潰しも兼ねてお菓子を作っていた。その時に一番作っていたお菓子であり、一番美味しく作れたのがポルボロンだ。
昨日の買い物中、色々なお菓子を目にした事で不意に昔作っていた焼き菓子の存在を思い出し今に至る訳だが、うっかりその事を口に出してしまうところだった。
そんな事がありながらその後はルエと紅茶を飲みながらゆっくりと世間話をした。ルエのよく読んでいる本についてだったり、お互いの一番好きな食べ物や苦手なモノについて。
もちろん学園で友達と話す時間も大好きだが、こうしてルエと話す時間はお互いの性格の相性が良いのか穏やかな時間が過ごせて心地が良い。
そしてタイミングを見計らって生地を成形しオーブンで焼き上げ、焼き上がったクッキーに粉糖を振りかければポルボロンも完成だ。
と、ここまでは順調にいったもののラッピングが中々上手くいかない。そんなアンリの隣で同じようにラッピングするルエはと言うと、本当に手先が器用でお店に並べても普通に商品として扱えそうだ。そしてここでも手際が良い。
「本当にルエって手先が器用だよね、羨ましい」
「ありがとうございます。アンリ様のは…、えっと…心がこもっていて良いと思います」
「下手って言って良いよ」
「そこはノーコメントでお願いします」
「あはは…、それが一番辛いよ。どうやったらルエみたいに綺麗に出来るんだろ。何かコツとかある?」
「コツ、ですか?うーん…、とりあえず折り目にはしっかりと折り目を付けることです。多分それでなんとかなるかと…」
「ねぇなんかそのアドバイス、適当じゃない?」
「だってよく考えてみてくださいよ。この僕が誰かに物事を教えたりアドバイスする、なんて経験があると思います?」
「…無いと思う」
「つまりそういう事です。…でもアンリ様は僕と違って誰かに物事を教えたりアドバイスするの得意そうですよね」
「え、そう見える?」
「はい。なんと言うかアンリ様は誰と喋る時でも楽しそうに喋られているイメージなので」
「うーん、でも人と話すのが好きでも、実際に上手く物事を教えられるかって言われたら別の話だよね。それに友達とは話せても私にも人見知りな部分ってあるし」
今はアンリの周りにはいつも誰かが居てくれて、笑いかけてくれる人が居る。両親や屋敷で働いている人、学園の友達。彼らはいつだってアンリを気遣い、大切にしてくれる。だからこそ、アンリも彼らを大切にしたいと思うのだ。
だからと言って彼ら以外の初対面の人とは上手く喋れないし、そもそも今以上にわざわざ交友関係を広げたいとも思っていない。自分で言うのもアレだが、昔から人との付き合いは狭く深くなのだ。
「アンリ様?どうかしましたか?」
「ん?ううん、なんでもないの。そんな事より今日は手伝ってくれてありがとう」
「こちらこそ。僕も良い勉強になりました」
「じゃあこれはルエにあげるね」
そう言ってラッピングを終えたばかりの包みの一つを手渡すと、ルエは驚きから目を見開く。
「良いんですか?」
「いつもありがとうって事で受け取って欲しいな。…って言ってもルエに手伝って貰っちゃったんだけど」
「ありがとうございます。後ほど、大切に食べますね」
「あ、そうだ!実はポルボロンにはおまじないがあるんだ」
そして最後にもう一度お礼を告げて厨房を出ると屋敷中を歩き回る。外で花壇の世話をしていたり、廊下で掃除をしているメイドや外出していたシーズのもとへ向かい、ポルボロンの入った包みを一つずつ手渡していく。みんな初めはルエと同じように驚いた顔を見せるが、ルエと共に作った事を話すと喜んで受け取ってくれた。
最後にフレッドが居そうな場所は…
思考を巡らせ、辿り着いたのは書庫だ。
フレッドはどうやら本を読むのが好きらしく、暇な時間が出来ると大抵書庫で分厚い本を読んでいる。そのため今回もここに居るのではと当たりを付けてやって来たのだ。
予想は見事的中。書庫の扉を開けるといつもの席に座り静かに本をめくっている。そして余程集中しているのかジッとその姿を見つめていても一向に気がつく気配はない。
「今日は何を読んでいるの?」
「アンリ様!いつの間に、いらしていたのですか」
「ちょうど今来たところ。そんな事より、今回は何の本?」
「これは戯曲です」
「へぇ、そう言うジャンルの本も読むんだ。なんか珍しいよね」
フレッドがいつも読んでいるのは法律や歴史、理科に数学、芸術や園芸についてなど多岐に渡り、どれもアンリには簡単に理解できない内容のモノばかりを好んで読んでいる。そんなフレッドが戯曲を読むことがあるのだと知ると、どこか親近感が湧く。
「いつも難しい本ばかりを読んでいては疲れてしまいますから。たまには私もこういった趣向の本も読みますよ。…それでアンリ様の用事は終了したのですか?」
「うん、ついさっき終わったよ。それでこれ、フレッドにも渡したくて」
「私にですか?」
隠し持っていた包みを一つ手渡すと中に入った焼き菓子を眺めた後、優しく微笑んでくれる。
「このクッキーはもしかして、アンリ様の居た世界で食べられていた焼き菓子ですか?」
「うん、ポルボロンって言うんだ」
「ずいぶんと可愛らしい名前ですね。ありがとうございます。そうだ、せっかくですし本日はアンリ様の下さったポルボロンでアフタヌーンティにしましょうか」
「うん!」
「では準備をしてくるのでアンリ様はお部屋でお着替えをしてお待ちください」
言われたとおり自室に戻り、ラックに掛けられていたワンピースに着替えて待っているとタイミング良くフレッドがポットと二人分のカップをワゴンに乗せて持って来る。
アンリは初めてアフタヌーンティをしてから、この時間が大好きになっていた。美味しい紅茶やお菓子を食べながらゆったりと色々な話をする。この時間、アンリがどんな話をしてもフレッドは頷いて反応してくれるから、いつも安心してお喋りが出来る。
もちろんクイニーやミンス、ザックやルエと話している時はそれぞれ違った話が聞けるし楽しい。それでも時々気を付けてないと元の世界に居たときの事を口走りそうになって焦るときがある。その点、フレッドなら事情を知ってくれている分、変に気を遣わずとも喋れて楽なのだ。
「では早速、アンリ様の下さった焼き菓子を食べてもよろしいですか?」
「もちろん、食べてみて?あ、そうだ!その前にルエにも教えたんだけど、ポルボロンにはおまじないがあるんだ」
「おまじない、ですか?」
「うん。クッキーを口の中に入れたらね、心の中でポルボロンって三回唱えるの」
「それだけですか?意外と簡単そうですが…」
「簡単に聞こえるけど、このお菓子は脆くてすぐに口の中で溶けちゃうの」
「なるほど、そういう事でしたか」
「でも上手くいけば幸せになれるんだって」
「ふふ、私はそのおまじないが叶う前から十分幸せですよ」
「んー、じゃあもっと幸せになれる!」
「私はいつか、幸せに埋もれてしまいそうですね」
そう笑いながらパクッとクッキーを口に放り込むと、フレッドは素直におまじないをしてくれた。
そんな姿を見て改めてアンリに関わってくれている全ての人が幸せで溢れると良いなと思った。
「とっても美味しいです」
「本当?」
「えぇ、今まで食べてきたクッキーとは違ったホロホロとした食感で、とても美味しいです」
「えへへ、喜んでもらえて良かった」
「ですが、私は貴族の方がキッチンでお料理をするなんて、初めて聞きましたよ。しかも作った焼き菓子を使用人にプレゼントするなんて」
「それ、ルエにも言われた。でも料理をしたり、焼き菓子をプレゼントするのに階級なんて関係ないよ」
「そうですね、アンリ様を見ていてよく分かりました」
その後、フレッドは全て食べてしまうのは勿体ないと言いつつも一つ一つ口に放り込むたびに美味しいと感想を告げながら綺麗に完食してくれた。
お菓子を作ってこんな風に喜んでもらえたのは、いつぶりだろう。向こうの世界に居た時はお菓子を焼いても、ご飯を作っても、喜んでもらうどころか感謝なんてされた事が無かったし、それを当たり前だと思っていた。
…いや違う、そう自分に言い聞かせていたのだ。だからこそフレッドやルエ、メイド達にお菓子を渡した際、感謝を伝えられて笑って貰えて心が温かくなった。
「そういえば、本日は学園で何か良いことがあったのですか?」
「良いこと?どうして?」
「勘違いだったら申し訳ないのですが、本日馬車でお迎えに上がった際、ご学友と一緒に居られたアンリ様がとても幸せそうな表情をしていたので、何か良いことがあったのかと」
「実はね、今日みんなでクラブを作ったんだ」
「クラブ…。まさか昨日の今日で本当に作られたのですか?」
アンリは今日ラウンジで起きたこと、そしてそのままクラブを作った経緯を全て話した。すると聞き終えたフレッドは珍しく苦笑いを浮かべている。
「それは…、なんと言いますか、ずいぶんと不純な理由ですね」
「だよね。だけどお父様もそれで許しちゃうんだもん」
「それはきっと溺愛している愛娘からのお願いなら、出来るだけ叶えて差し上げたいと思う親心だと思いますよ」
そんな風に冷静に返すフレッドが何だか面白くて笑い出す。だって恐らくアンリと年齢がほとんど変わらないであろうフレッドに親心を真剣な顔で語られるのがなんだか可笑しい。突如笑い出したアンリの心情を知らないフレッドは困惑した表情で見つめてくる。
「ふふ、ごめんね。なんでもないの」
「そう、ですか?」
「それより、これで私達の学園生活も少しは落ち着くのかな」
「どうでしょう。ですが皆様だけのお部屋が確保できた分、今まで以上に良い時間が過ごせるのではないですか?」
「うん、そうだといいな」
そうしてあのクラブの部屋でこれから過ごすであろう未来を想像してみる。あのローテーブルを囲むように並んでお話したり、ゲームをしたり…。
「でもフレッドも一緒に過ごせたら、もっと良かったのになぁ」
「私はそもそも学園に通っていませんし、もし仮に通える年齢だとしても私の所属をアンリ様のお友達は許さないのでは?」
「んー、ミンスくんとザックくんは許してくれると思うけど、問題はクイニーか…。でもクイニーが何を言ってもフレッドは私にとって大切な人だもん。絶対どうにかする」
「ありがとうございます。その気持ちだけで私は十分ですよ」
そう言って微笑むフレッドの顔は大人っぽいような、でもどこか幼い子供のような表情を浮かべる。
「そういえば聞いてなかったけどフレッドって何歳なの?」
「言っていませんでしたっけ。私はアンリ様の一つ下ですよ」
「…!!えっ、私より年下だったの?!」
「年上だと思っていましたか?」
「うん。えっ、本当に一つ下?」
「そんなに疑います?」
フレッドの言葉遣いは丁寧だし、周りへの気遣いとか所作だって完璧だ。その上、いつも彼が読んでいた小説は難しいモノばかり。だからこそ、すっかり年上だと思い込んでいた。
だが年下だと知ると、アンリは今まで年下の男の子に色々とお世話してもらっていた訳で…。
「なんだかすごい申し訳ない気がしてきた。これじゃあまるで後輩を自分の都合よく使う先輩みたいじゃん」
「いいんですよ。これが私のお仕事ですし、何よりアンリ様のお側に仕えていると新しい発見で溢れていて、とても充実しています。ですから気になさらないでください」
「そんな事言われても、やっぱり気になるよ」
「私は旦那様や奥様がこのお屋敷に置いてくれなければ…」
その続きはずいぶんと小声で聞き取れなかった。すぐに聞き返そうと口を開きかけたが、フレッドの沈痛な表情にこれ以上、聞き直す気にはなれなかった。その代わり、話を変えるために大袈裟なまでに「あれ?」と呟いてみる。
「どうなさいました?」
「フレッドが私より年下って事は、ルエも私より年下なの?」
「いいえ、ルエさんはアンリ様の三つ年上だったかと」
「あっ、そこは年上なのね」
お兄さんだと思っていたフレッドが年下で、年下だと思っていたルエがまさかお兄さんだなんて。人は見かけによらないと言うのは、どうやら本当らしい。
そして些細な事かもしれないが、大切な人達の知らなかった事をまた一つ知れたのが素直に嬉しい。でもやっぱり彼らの事は知っている事よりも、知らない事の方が多いのだろう。だからといって慌てて聞く必要は無い。時間はたっぷりあるのだから。
「本日もお疲れ様でした」
「今日もお迎え、ありがとう」
一時間の演劇鑑賞を終えて三人と別れた後、既に校門前には迎えの馬車が止まっていた。
演劇の感想と言えば、ここであの照明の入れ方をするんだ、ここであの音を使うのかと経験者だったこともあって普通とは別の視点で楽しめた。
馬車から手を引いて下ろしてくれたフレッドに向かって名を呼ぶとすぐに「なんでしょうか」と反応が返ってくる。
「これから厨房って使えるかな」
「厨房ですか?あぁ昨日仰っていた件ですね。今の時間なら下ごしらえは既に終わっているでしょうし、おそらく大丈夫かと」
「ありがとう。じゃあ私はしばらく厨房に居ると思うけど、良いよって言うまで入って来ちゃダメだからね?他の人にも伝えておいて?」
「かしこまりました」
もう一度「絶対だよ」と念を押して屋敷に入る。そのまま真っ直ぐ食堂に向かい厨房に入るが、ルエしか姿が見えない。
ルエは休憩中だったのか、紅茶を飲みながら読書をしていたがアンリに気がつくと慌てたように本を畳み机の上に置くとアンリに向き直る。
「えっと…、シーズさんなら今は外に出ています」
「今日は厨房を使わせて貰いたくて来たんだけど良いかな」
「フレッドさんから伺っていましたが、一体何を?」
「秘密…と言いたい所なんだけど、ルエにお願いがあるの」
「なんですか?」
「私ここの厨房を使ったことがないし勝手が分からなくて。だからちょっとだけ手伝って欲しいのだけど」
「いいですよ、僕も丁度暇していたので」
「ありがとう。じゃあまずは手、洗ってくるね」
シンクに近づき蛇口を緩めると水が一気に流れ出し、念入りに手を洗うとルエが持って来てくれたタオルで水滴を綺麗に拭き取る。
「そう言えば私の買っておいた食材ってどこにあるか分かる?」
「それでしたらパントリーの方に…」
そう言うとルエはキッチンの奥にあるパントリーに入っていく。アンリもルエに続いて中に入ると、小さな物置の様な場所に野菜やパンと言った食品達が綺麗に並べられている。この部屋には窓が無く薄暗いからか、他の部屋に比べてずいぶんと涼しい。そんな部屋の隅っこに置かれたカゴをルエは持つと、パントリーを出る。
「これがアンリ様の買われてきたモノです。…聞き忘れていましたが、一体何を作るんですか?」
「ポルボロンって言う焼き菓子を作ろうと思うんだ」
「ポルボロン…?初めて耳にした焼き菓子ですね」
「一緒に作ってくれる?」
「はい、僕にもお手伝いさせてください」
「じゃあまずはポルボロンの下ごしらえかな。えっと、オーブンってある?」
「オーブンならこちらに。すぐに使うようなら急いで温め直しますが…」
「うん、じゃあお願い出来る?まずは小麦粉を焼かないといけないんだ」
「小麦粉を、ですか?変わった調理法ですね」
天板に小麦粉を薄く敷いてルエが温めてくれたオーブンに天板を突っ込むと、そのままルエに手伝ってもらいながら他の材料の計量を始める。バターに砂糖にアーモンドプードル。さすが毎日パンや焼き菓子を作っている事もあってルエの計量は手際が良い上に正確だ。
それらの計量が終わると丁度オーブンに入れていた小麦粉もきつね色になっている。これで下準備は完了だ。
ボウルに計量した材料と共に小麦粉を入れて混ぜれば、初めはボソボソとしていて中々まとまってくれないが、次第に一つの生地にまとまってくる。
生地がまとまれば生地を落ち着かせるため、ルエと共に地下に降りて肉や卵を保存している一際涼しい食料保管室で生地を休ませる。
「名前も聞いた事の無かったお菓子ですが作ってみると簡単に作れるんですね」
「でしょう?しかもこんなに簡単なのに美味しいんだ」
「そうなんですか。ですがアンリ様は一体、いつの間にこんな焼き菓子を作られていたんです?」
「あっ、えっと…それは…。そんなことよりほら、生地を寝かせている間に二人で紅茶でも飲みながらお話でもしようよ」
昔はよく家で一人のタイミングを見つけるたびに時間潰しも兼ねてお菓子を作っていた。その時に一番作っていたお菓子であり、一番美味しく作れたのがポルボロンだ。
昨日の買い物中、色々なお菓子を目にした事で不意に昔作っていた焼き菓子の存在を思い出し今に至る訳だが、うっかりその事を口に出してしまうところだった。
そんな事がありながらその後はルエと紅茶を飲みながらゆっくりと世間話をした。ルエのよく読んでいる本についてだったり、お互いの一番好きな食べ物や苦手なモノについて。
もちろん学園で友達と話す時間も大好きだが、こうしてルエと話す時間はお互いの性格の相性が良いのか穏やかな時間が過ごせて心地が良い。
そしてタイミングを見計らって生地を成形しオーブンで焼き上げ、焼き上がったクッキーに粉糖を振りかければポルボロンも完成だ。
と、ここまでは順調にいったもののラッピングが中々上手くいかない。そんなアンリの隣で同じようにラッピングするルエはと言うと、本当に手先が器用でお店に並べても普通に商品として扱えそうだ。そしてここでも手際が良い。
「本当にルエって手先が器用だよね、羨ましい」
「ありがとうございます。アンリ様のは…、えっと…心がこもっていて良いと思います」
「下手って言って良いよ」
「そこはノーコメントでお願いします」
「あはは…、それが一番辛いよ。どうやったらルエみたいに綺麗に出来るんだろ。何かコツとかある?」
「コツ、ですか?うーん…、とりあえず折り目にはしっかりと折り目を付けることです。多分それでなんとかなるかと…」
「ねぇなんかそのアドバイス、適当じゃない?」
「だってよく考えてみてくださいよ。この僕が誰かに物事を教えたりアドバイスする、なんて経験があると思います?」
「…無いと思う」
「つまりそういう事です。…でもアンリ様は僕と違って誰かに物事を教えたりアドバイスするの得意そうですよね」
「え、そう見える?」
「はい。なんと言うかアンリ様は誰と喋る時でも楽しそうに喋られているイメージなので」
「うーん、でも人と話すのが好きでも、実際に上手く物事を教えられるかって言われたら別の話だよね。それに友達とは話せても私にも人見知りな部分ってあるし」
今はアンリの周りにはいつも誰かが居てくれて、笑いかけてくれる人が居る。両親や屋敷で働いている人、学園の友達。彼らはいつだってアンリを気遣い、大切にしてくれる。だからこそ、アンリも彼らを大切にしたいと思うのだ。
だからと言って彼ら以外の初対面の人とは上手く喋れないし、そもそも今以上にわざわざ交友関係を広げたいとも思っていない。自分で言うのもアレだが、昔から人との付き合いは狭く深くなのだ。
「アンリ様?どうかしましたか?」
「ん?ううん、なんでもないの。そんな事より今日は手伝ってくれてありがとう」
「こちらこそ。僕も良い勉強になりました」
「じゃあこれはルエにあげるね」
そう言ってラッピングを終えたばかりの包みの一つを手渡すと、ルエは驚きから目を見開く。
「良いんですか?」
「いつもありがとうって事で受け取って欲しいな。…って言ってもルエに手伝って貰っちゃったんだけど」
「ありがとうございます。後ほど、大切に食べますね」
「あ、そうだ!実はポルボロンにはおまじないがあるんだ」
そして最後にもう一度お礼を告げて厨房を出ると屋敷中を歩き回る。外で花壇の世話をしていたり、廊下で掃除をしているメイドや外出していたシーズのもとへ向かい、ポルボロンの入った包みを一つずつ手渡していく。みんな初めはルエと同じように驚いた顔を見せるが、ルエと共に作った事を話すと喜んで受け取ってくれた。
最後にフレッドが居そうな場所は…
思考を巡らせ、辿り着いたのは書庫だ。
フレッドはどうやら本を読むのが好きらしく、暇な時間が出来ると大抵書庫で分厚い本を読んでいる。そのため今回もここに居るのではと当たりを付けてやって来たのだ。
予想は見事的中。書庫の扉を開けるといつもの席に座り静かに本をめくっている。そして余程集中しているのかジッとその姿を見つめていても一向に気がつく気配はない。
「今日は何を読んでいるの?」
「アンリ様!いつの間に、いらしていたのですか」
「ちょうど今来たところ。そんな事より、今回は何の本?」
「これは戯曲です」
「へぇ、そう言うジャンルの本も読むんだ。なんか珍しいよね」
フレッドがいつも読んでいるのは法律や歴史、理科に数学、芸術や園芸についてなど多岐に渡り、どれもアンリには簡単に理解できない内容のモノばかりを好んで読んでいる。そんなフレッドが戯曲を読むことがあるのだと知ると、どこか親近感が湧く。
「いつも難しい本ばかりを読んでいては疲れてしまいますから。たまには私もこういった趣向の本も読みますよ。…それでアンリ様の用事は終了したのですか?」
「うん、ついさっき終わったよ。それでこれ、フレッドにも渡したくて」
「私にですか?」
隠し持っていた包みを一つ手渡すと中に入った焼き菓子を眺めた後、優しく微笑んでくれる。
「このクッキーはもしかして、アンリ様の居た世界で食べられていた焼き菓子ですか?」
「うん、ポルボロンって言うんだ」
「ずいぶんと可愛らしい名前ですね。ありがとうございます。そうだ、せっかくですし本日はアンリ様の下さったポルボロンでアフタヌーンティにしましょうか」
「うん!」
「では準備をしてくるのでアンリ様はお部屋でお着替えをしてお待ちください」
言われたとおり自室に戻り、ラックに掛けられていたワンピースに着替えて待っているとタイミング良くフレッドがポットと二人分のカップをワゴンに乗せて持って来る。
アンリは初めてアフタヌーンティをしてから、この時間が大好きになっていた。美味しい紅茶やお菓子を食べながらゆったりと色々な話をする。この時間、アンリがどんな話をしてもフレッドは頷いて反応してくれるから、いつも安心してお喋りが出来る。
もちろんクイニーやミンス、ザックやルエと話している時はそれぞれ違った話が聞けるし楽しい。それでも時々気を付けてないと元の世界に居たときの事を口走りそうになって焦るときがある。その点、フレッドなら事情を知ってくれている分、変に気を遣わずとも喋れて楽なのだ。
「では早速、アンリ様の下さった焼き菓子を食べてもよろしいですか?」
「もちろん、食べてみて?あ、そうだ!その前にルエにも教えたんだけど、ポルボロンにはおまじないがあるんだ」
「おまじない、ですか?」
「うん。クッキーを口の中に入れたらね、心の中でポルボロンって三回唱えるの」
「それだけですか?意外と簡単そうですが…」
「簡単に聞こえるけど、このお菓子は脆くてすぐに口の中で溶けちゃうの」
「なるほど、そういう事でしたか」
「でも上手くいけば幸せになれるんだって」
「ふふ、私はそのおまじないが叶う前から十分幸せですよ」
「んー、じゃあもっと幸せになれる!」
「私はいつか、幸せに埋もれてしまいそうですね」
そう笑いながらパクッとクッキーを口に放り込むと、フレッドは素直におまじないをしてくれた。
そんな姿を見て改めてアンリに関わってくれている全ての人が幸せで溢れると良いなと思った。
「とっても美味しいです」
「本当?」
「えぇ、今まで食べてきたクッキーとは違ったホロホロとした食感で、とても美味しいです」
「えへへ、喜んでもらえて良かった」
「ですが、私は貴族の方がキッチンでお料理をするなんて、初めて聞きましたよ。しかも作った焼き菓子を使用人にプレゼントするなんて」
「それ、ルエにも言われた。でも料理をしたり、焼き菓子をプレゼントするのに階級なんて関係ないよ」
「そうですね、アンリ様を見ていてよく分かりました」
その後、フレッドは全て食べてしまうのは勿体ないと言いつつも一つ一つ口に放り込むたびに美味しいと感想を告げながら綺麗に完食してくれた。
お菓子を作ってこんな風に喜んでもらえたのは、いつぶりだろう。向こうの世界に居た時はお菓子を焼いても、ご飯を作っても、喜んでもらうどころか感謝なんてされた事が無かったし、それを当たり前だと思っていた。
…いや違う、そう自分に言い聞かせていたのだ。だからこそフレッドやルエ、メイド達にお菓子を渡した際、感謝を伝えられて笑って貰えて心が温かくなった。
「そういえば、本日は学園で何か良いことがあったのですか?」
「良いこと?どうして?」
「勘違いだったら申し訳ないのですが、本日馬車でお迎えに上がった際、ご学友と一緒に居られたアンリ様がとても幸せそうな表情をしていたので、何か良いことがあったのかと」
「実はね、今日みんなでクラブを作ったんだ」
「クラブ…。まさか昨日の今日で本当に作られたのですか?」
アンリは今日ラウンジで起きたこと、そしてそのままクラブを作った経緯を全て話した。すると聞き終えたフレッドは珍しく苦笑いを浮かべている。
「それは…、なんと言いますか、ずいぶんと不純な理由ですね」
「だよね。だけどお父様もそれで許しちゃうんだもん」
「それはきっと溺愛している愛娘からのお願いなら、出来るだけ叶えて差し上げたいと思う親心だと思いますよ」
そんな風に冷静に返すフレッドが何だか面白くて笑い出す。だって恐らくアンリと年齢がほとんど変わらないであろうフレッドに親心を真剣な顔で語られるのがなんだか可笑しい。突如笑い出したアンリの心情を知らないフレッドは困惑した表情で見つめてくる。
「ふふ、ごめんね。なんでもないの」
「そう、ですか?」
「それより、これで私達の学園生活も少しは落ち着くのかな」
「どうでしょう。ですが皆様だけのお部屋が確保できた分、今まで以上に良い時間が過ごせるのではないですか?」
「うん、そうだといいな」
そうしてあのクラブの部屋でこれから過ごすであろう未来を想像してみる。あのローテーブルを囲むように並んでお話したり、ゲームをしたり…。
「でもフレッドも一緒に過ごせたら、もっと良かったのになぁ」
「私はそもそも学園に通っていませんし、もし仮に通える年齢だとしても私の所属をアンリ様のお友達は許さないのでは?」
「んー、ミンスくんとザックくんは許してくれると思うけど、問題はクイニーか…。でもクイニーが何を言ってもフレッドは私にとって大切な人だもん。絶対どうにかする」
「ありがとうございます。その気持ちだけで私は十分ですよ」
そう言って微笑むフレッドの顔は大人っぽいような、でもどこか幼い子供のような表情を浮かべる。
「そういえば聞いてなかったけどフレッドって何歳なの?」
「言っていませんでしたっけ。私はアンリ様の一つ下ですよ」
「…!!えっ、私より年下だったの?!」
「年上だと思っていましたか?」
「うん。えっ、本当に一つ下?」
「そんなに疑います?」
フレッドの言葉遣いは丁寧だし、周りへの気遣いとか所作だって完璧だ。その上、いつも彼が読んでいた小説は難しいモノばかり。だからこそ、すっかり年上だと思い込んでいた。
だが年下だと知ると、アンリは今まで年下の男の子に色々とお世話してもらっていた訳で…。
「なんだかすごい申し訳ない気がしてきた。これじゃあまるで後輩を自分の都合よく使う先輩みたいじゃん」
「いいんですよ。これが私のお仕事ですし、何よりアンリ様のお側に仕えていると新しい発見で溢れていて、とても充実しています。ですから気になさらないでください」
「そんな事言われても、やっぱり気になるよ」
「私は旦那様や奥様がこのお屋敷に置いてくれなければ…」
その続きはずいぶんと小声で聞き取れなかった。すぐに聞き返そうと口を開きかけたが、フレッドの沈痛な表情にこれ以上、聞き直す気にはなれなかった。その代わり、話を変えるために大袈裟なまでに「あれ?」と呟いてみる。
「どうなさいました?」
「フレッドが私より年下って事は、ルエも私より年下なの?」
「いいえ、ルエさんはアンリ様の三つ年上だったかと」
「あっ、そこは年上なのね」
お兄さんだと思っていたフレッドが年下で、年下だと思っていたルエがまさかお兄さんだなんて。人は見かけによらないと言うのは、どうやら本当らしい。
そして些細な事かもしれないが、大切な人達の知らなかった事をまた一つ知れたのが素直に嬉しい。でもやっぱり彼らの事は知っている事よりも、知らない事の方が多いのだろう。だからといって慌てて聞く必要は無い。時間はたっぷりあるのだから。

