伯爵令嬢になった世界では大切な人に囲まれ毎日が輝く1

「…様。アンリ様。お目覚めの時間ですよ」

 どこからか誰かが呼んでいる。低すぎず、だからといって高すぎない丁度良い声のそれは微睡みの中にいる暗璃を再び眠りに誘うには丁度良い。

「アンリ様」

 そういえば、さっきから名を呼び続けている人は一体誰なのだろう。私を”暗璃様”と呼ぶなんて。
 睡魔と戦っている暗璃は不意に脳内で疑問を作る。

 暗璃がそんな疑問を抱いていることを知らない声の主は未だに眠りとの狭間を彷徨っている暗璃を呼び続ける。

 本当はまだ瞼も重たいし、昨夜なかなか眠りにつけなかった分、本音を言えば時間ギリギリまで二度寝していたい。だがこんなに誰かに名前を呼ばれ続ける中、無視して眠りにつけるわけがない。

 仕方なく重たい瞼を持ち上げる。それと同時にそれまでの眠気は一瞬で消え去り、今度は脳内が真っ白になる。

 暗璃の眠るベッドのすぐ横には見覚えのない青年が立ち、ようやく瞼を持ち上げた暗璃を見て爽やかに微笑んでいる。
 ブルーブラックの髪をした青年は、輪郭や目に鼻筋、眉に口元と顔のパーツが整っていて誰が見ても文句のつけようがないだろう。

 少し視線をそらせば、そこは暗璃の自室の四倍以上の広さがあると思われる見覚えのない部屋が目に入る。

「アンリ様、おはようございます。朝食の支度は既に出来ておりますよ」

 一体何がどうなっているのだろう。
 目の前に立つ青年は柔らかい声で挨拶をすると会話を進めていくが、暗璃の思考は一切追いついていない。なぜなら昨夜は普段と変わらず、自分の部屋の幼い頃から使い続けて薄くなってしまったマットレスの上で眠りについたからだ。
 それなのに一晩で何があって、こんな状況になっているのか、想像も見当もつかない。

「君は誰…?」

 恐る恐る口を開くと、ブルーブラックの髪の青年は驚いたように一瞬目を見開く。そしてほんの少し微笑んだ後、ゆったりとした口調で口を開く。

「なんのご冗談を。フレッドでございます。フレッド・バノフィーです」
「フレッド…?」

 まるで当たり前のことを言う様に自己紹介されても、やはりその名に聞き覚えはない。ただ、フレッド・バノフィーという名前は明らかに日本人ではないだろう。

「ごめんなさい。私、貴方の言うアンリという人ではないと思うんですけど…」
「何をおっしゃっているのですか。アンリ様はアンリ様ですよ」
「でも貴方のことも知らないですし、そもそもこの部屋だって私の部屋じゃないんですけど…」

 暗璃がそこまで話すと、それまで微笑んでいたフレッドは優しげな表情を消し、不安そうに揺らぐ瞳を暗璃に向ける。

「…失礼ですがアンリ様、ご自分のお名前をフルネームでおっしゃることはできますか?」

 名前ならもちろん答えられる。十六年間、ずっと名乗ってきた名前だ。両親が何故この名をつけたのか分からないが、名前という第一印象から暗い印象を与える名を私自身、好いていない。

「沢木暗璃(さわき あんり)です」
「沢木…暗璃…?申し訳ありません、アンリ様に口答えをするのは気が引けるのですが、アンリ様の名はアンリ・オーリンです」
「アンリ・オーリン…?」

 そんな名前、一度も聞いたことがない。本当にどうなっているのだろう。ただでさえ朝は頭が回らないのに、余計に混乱するばかりだ。

「まさか記憶喪失…ですか?」

 フレッドは深刻そうに告げてくるものだから慌てて「違います!」と、普段の暗璃には似合わない勢いで反論してしまう。

「だって私、ちゃんと自分のこと分かります。沢木暗璃、十六歳。実家暮らしで、それからえっと…見た目に特徴はないけど、どちらかと言うと地味で、特技も自慢出来るようなことも一つもないような平凡な人間で…」

 なんて思ったことを一気に告げる。どれもこれも嫌いな部分で、ある意味名前にお似合いな性格だ。だがこの言葉以外に暗璃という人間を説明するような言葉なんて思いつかなかったのだから仕方ない。

「そんな…。そんな風にご自分を卑下なさらないでください。なによりアンリ様が地味だなんて、滅相もございません。アンリ様は整った目鼻立ち、そして旦那様譲りの何色にも染められない綺麗な長い黒髪。全てアンリ様だけの特別なモノですよ」

 どこかフレッドと話が噛み合わない。確かに私の髪は今まで一度も染めたことのない真っ黒な髪だが、長髪ではなく肩に付くか付かないかギリギリのショートヘアだ。それに目だって一重で怖い印象だとよく裏でコソコソと言われていたし、顔だって日本人らしく平たい。フレッドの言う印象とはずいぶん違うモノだ。

「あの…、鏡ってありますか?」
「手鏡でよろしいですか?」
「はい」
「それならばこちらの引き出しに入っております。どうぞ、こちらになります」

 そう差し出された手鏡はどう見ても高価な手鏡だ。もちろん、そんな手鏡にも見覚えはない。だが今はそんなことより、一刻も早く確認しないと。
 
 一つ深呼吸をすると恐る恐る鏡を覗く。
 鏡の中に写っているのは既になんとなく想像はしていたものの、やはり暗璃が自認している人物とは別人が写っていた。

 フレッドの言うとおり鏡に写る人物の目は二重でパッチリだ。そして癖毛で朝直すのが大変だった黒髪は綺麗なロングストレート。何より肌は白いし、全体的に線が細い。

「…可愛い」
「ですから申したではないですか」

 フレッドはまるで自分のことのように嬉しそうに堂々と言ってみせるが、こうして鏡に写る人物を見ても、これが私だと簡単には信じられない。

「先程から様子がおかしいようですが大丈夫ですか…?まさか体調が優れないとか…?」
「いえ、大丈夫です。でも…やっぱりおかしいんです」
「おかしいというのは…?」
「私は本来こんなに可愛い顔じゃないし、それにこの部屋も…。私の部屋はもっと質素で狭いお部屋のはずなのに…」
「と、言われましても…」
「そもそもこの顔立ちに名前、日本人…ではないですよね」
「日本人?それは何です?」

 首をかしげるフレッドはまるで初めて聞いた言葉かのように「日本…、日本…」と困惑したような表情で呟き、脳を回転させる。その様子にアンリまで戸惑ってしまう。

「日本を知らないんですか?」
「えぇ、申し訳ございません。おそらく周辺国ではありませんし…、やはり聞いたことがないですね」
「ここは一体…?」
「ここはフェマリー国のジャンミリー領でございます」

 フェマリー国…。それこそ、一度も耳にしたことがない国の名前だ。

 …そういえば目を覚ます前、誰かと話した気もするけれど、モヤがかかってしまって思い出せない。

 だが経緯は分からずとも、ここが本当に異世界というのなら見た目が変わっていることについても、聞いた事がない国に居ることについても百歩譲れば理解できる、かもしれない。
 どちらにしても、どうしてこうなったのか何一つ分からないままだ。今はひとまずこの状況を説明して、今唯一頼れそうな彼から色々な情報を聞き出さないと。

「あの…、今から私が言うことを信じてもらえますか…?」
「はい、もちろんでございます」
「でも、すごい嘘みたいな話ですよ?私ですら、半信半疑ですし…」
「大丈夫です。私はアンリ様に仕えている身ですから。私がアンリ様のおっしゃることを信じないなんて、あり得ませんよ」

 フレッドはベッドに座っているアンリに視線を合わせるように膝を曲げ、アンリを安心させるようにゆっくり頷く。
 アンリにとって、こんな風に急かさずに話を促してくれる人間と出会ったのは初めてだ。だからなのか、普段なら人と話をすることを苦手とするアンリも正直に口を開いていた。

「私もまだ自分で信じられていないんですけど…。多分、別の世界から来たんじゃないかと思うんです」
「別の世界…ですか。それは先程仰っていた日本という国からですか?」
「はい。私は昨夜まで日本という国で沢木暗璃として過ごしていたはずなんです。どうしてこうなったのか自分でも分からないんですけど、そこでの私の見た目は今とはずいぶん違っていたし、アンリ様だなんて言われるような女の子でもなかったんです。…って急に言っても信じられないですよね」

 そこまで言ったところで、アンリは途端に不安に襲われる。
 いくら事実を話しているとしても、出会ったばかりのフレッドが優しい人に見えても、いきなりこんなことを打ち明けられて、誰が簡単に信じてくれるというのだろう。

 俯いたアンリに向けてフレッドは一層優しい声で「アンリ様」と呼ぶ。その声に恐る恐る目線を上げると、フレッドは相変わらず微笑んだままだ。

「確かに信じがたい話ではありますが、信じますよ。そう言われてみれば、目を覚まされてからのご様子の説明がつきますし…」
「えっ?そんな簡単に信じてしまうんですか…?」

 確かに今、唯一頼れるであろうフレッドに信じてもらいたいと思っていたのは事実だ。だが正直、簡単には信じてもらえないだろうと思っていた。
 最悪の場合、理解を得られずに笑われるか、おかしな人と判断されると思っていた。だからこそ、こんなにも簡単に信じると言うフレッドに何だか拍子抜けしてしまう。

「では私からも、アンリ様に一つよろしいですか?アンリ様が異世界から来たのだとして、元の世界に帰りたいと思いますか?」

 その質問で思い出すのは、灰色の様な世界で過ごす日々だ。
 友達なんて居ないし、やりたい事があるわけでもない。なんとなく学校に通い、すれ違う男子からは揶揄われ、女子からは頭から足の先まで値踏みされる。家に帰ったところで慕ってくれる姉妹も、優しく愛情を注いでくれる家族が居たわけでもない。
 覚えている限り、心の底から笑ったり、楽しいと思えた記憶もない。

「どうしても帰りたい訳じゃないです。特に楽しい生活ではなかったので…」
「そうでしたか…。でもそれなら問題は何もないですね」
「まぁ確かに…。でもだからって本当にすぐ信じて良いんですか?」
「ここで私が信じなければ何も話が進みません。永遠にお互いに批判し合っても、良いことは何もないでしょう?それに以前読んだ本で異世界からの訪問者が過去に居たという文献を読んだことがあります。ですから、もしかしたらありえることなのかもしれません」

 そんな風に言われると、一気にアンリの心を覆っていた不安は薄くなる。確かにお互いに否定し合うよりも、受け入れて、その上でこれからのことを考える方が断然良い。

 それにここに来てずっと戸惑ってばかりだったが、あんなに苦しくて辛かった世界から離れられたことを喜ぶべきだったのかもしれない。

「あの…色々と聞きたいことがあるんですけどフレッドさんは一体…」
「私はアンリ様のお世話をメインにさせてもらっている執事でございます」
「執事…」

 執事なんて本の中だけで見る空想の存在だと思っていた。だが改めてフレッドの服装に視線を移せば、黒のコートにグレーのダブルベスト、白いシャツにはシルバーグレーのネクタイを巻いている。いわゆるモーニングコートと呼ばれるスタイルだ。

「本来、使用人というのは担当ごとに細かく名前が付けられているんです。ですがオーリン家の使用人は通常に比べ少人数なので自分の担当という区分けがほとんど無いんです。ですから執事やメイドと言った簡単な呼び方をしています」
「なるほど…」
「ただ私は先程も申し上げたとおりアンリ様のお世話をメインとしているので、基本的にアンリ様と行動を共にしています」
「えっと、じゃあ私は?」
「アンリ様はオーリン伯爵のご令嬢です」

 フレッドの話によるとアンリはオーリンという伯爵の一人娘らしい。そしてオーリン家はジャンミリー領を治める二つの名家のうちの一つ。屋敷には両親と執事、メイドやシェフの計十人以上が住んでいて、普通の貴族の屋敷に比べると使用人はかなり少数らしい。

「申し訳ありません、アンリ様。他にも色々とお話をしたいのは山々なのですが、本日は学園の登校日でございます。あとのお話は後ほどでもよろしいでしょうか」
「えっ?私って学校に行くんですか?」
「えぇ、本日から学園に通われる予定になっております。何より本日は入学式なので欠席なさるわけには…」

 学園って、こんな何も知らない状態で通って大丈夫なのだろうか。この国のことを知らないのはもちろん、文化や価値観、色々と今までと勝手が違ってくるだろう。
 そんな不安がアンリを支配するが、だからと言って我儘を言って困らせるわけにもいかない。
 決意を固め、アンリがゆっくり頷くとフレッドは安心したのか一つ息を吐いて笑う。

「では早速、お召し物をお着替えにならないといけませんね。アンリ様、こちらをどうぞ」

 戸惑いながらも寝間着を脱ぎ、フレッドから手渡された白いシャツに腕を通しボタンを留め、黒いスカートに足を通す。
 次にストライプ柄のネクタイを渡されるが、アンリはこれまでネクタイを結んだ経験がない。試しに紐を首に回してみせるが、よく分からないまま手間取ってしまう。

「アンリ様、私が結びますよ」

 フレッドはアンリからネクタイを受け取ると、手際よくアンリの首元にネクタイを巻いていく。

「ではアンリ様、髪を梳かしますので、そちらのドレッサーの前におかけ下さい」

 アンリがドレッサー前の椅子に腰を掛けると、フレッドはドレッサーの引き出しから櫛を取り出し、アンリの長髪を手に取り丁寧に優しく梳かしていく。

「アンリ様の髪は艶やかで、本当に綺麗ですね」
「何から何まで、すいません…」
「よろしいんですよ、これも私の仕事です。なにより、私が好きでやっている事ですから」

 フレッドは鏡越しに微笑んで見せる。
 
 ほとんど寝癖すらついていなかった髪はフレッドの手によって、あっという間に綺麗に整えられた。

「ではアンリ様、食堂へご案内致します。どうぞ、こちらへ」

 フレッドに続きアンリは部屋を出る。アンリが目を覚ました部屋、アンリの自室は二階にあるらしく、食堂に向かうまでに大小様々な扉が並ぶ廊下を歩き階段を降りた。
 おそらくアンリが一人で屋敷を歩いていたら、慣れるまで迷子になってしまうだろう。

 二枚扉を開けた先の食堂には大きなテーブルが部屋を占拠するように置かれ、八脚の椅子が綺麗に並んでいる。テーブルや椅子含めこの食堂、いや、屋敷中に置かれた家財道具はどれも綺麗な彫刻が彫られていて、そういうことに詳しくないアンリから見ても美しいと思われるモノばかりだ。

「お待たせ致しました」

 そんな言葉に振り向くと、早足に奥の部屋に入って行ったフレッドはお皿やティーポットなどが乗ったワゴンを運んでくると、丁寧にテーブルの上にそれらを並べた。
 お皿にはオムレツなど見ただけで美味しいというのが分かるおかずが並べられ、その横には数種類の小さなパンが入ったカゴが置かれる。

「紅茶はセイロンとアッサムをブレンドしたブレックファストティーです。コクがあるためパンとの相性がよく、香りも楽しめると思います」
「ありがとうございます」

 一通りの説明を終えるとフレッドは静かにアンリの背後の壁際に姿勢良く立つ。アンリには執事というのがどんなことをする仕事なのか、いまいち分からないが、まさか食事が終わるまでずっと立っているつもりなのだろうか。それはそれで食べづらい気がするし、こんな大きなテーブルで一人ご飯を食べるのは、なんだか気が進まない。

 一向に食事に手をつけようとしないアンリの異変に気がついてか、フレッドはアンリの元へ近づいてくると目線を合わせるように膝を曲げる。

「どうかなさいましたか?」
「…一人で食べる朝食はなんだか寂しいなって」
「なるほど、確かにそうですよね…」
「フレッドさんは食べないんですか?」
「えぇ、我々は基本的にアンリ様や旦那様が目覚める前に済ませてしまうんです」
「そうだったんですね…」
「…でも、そうですね。アンリ様にそういう表情をさせたい訳ではありませんし…。こういうのはどうでしょうか。本日のようにアンリ様がお一人でお食事を召し上がる際は、私もご一緒させていただきます。ですが、旦那様や奥様がご一緒できる際は私は別で頂きます。いかかですか?」

 その提案は浮かない表情をする私の為に考えてくれた提案だ。そんな風に私のためにと考えてくれたことが無性に嬉しい。
 アンリは顔色を明るくして頷くと明日からの朝食の時間を楽しみに、今日はこのまま食事を取ることにした。

 今まで食べていた食事は調味料に頼った料理ばかりだったが、食材本来の美味しさを引き出す調理がされた料理は優しい味わいで、普段は朝食を食べない日がほとんどのアンリも目の前に並ぶ食事のあまりの美味しさに気がつくとあっという間に平らげていた。

「それではそろそろお屋敷を出るお時間ですので、私は馬車の準備をしてきますね。紅茶のおかわりも入れておきますので、こちらでゆっくりとお待ちください」
「ありがとうございます」

 フレッドは空いていたカップに湯気が漂う紅茶を注ぎ直すと、食堂を後にしていった。今まで生きてきて紅茶をストレートで飲むことは少なかったが、フレッドの淹れてくれる紅茶は渋みが少なく、お砂糖を入れて飲む紅茶よりも断然美味しい。

 ただ着替えに食事に馬車の支度と、何もかも準備してもらっていると罪悪感も湧いてくる。せめて自分が使った食器くらいは自分で片付けないと。
 おそらくフレッドがワゴンを運んで来た扉の先が厨房なのだろう。そう予想を付けてお皿やカップをまとめて扉の先へ向かう。

 扉の向こうは予想通り厨房だ。厨房にはコックコートを纏った男が二人、そしてメイド服を着た女が二人、忙しそうに作業していた。だがアンリの姿に気がつくと厨房には一瞬ピリッと凍り付くような雰囲気が漂う。そんな中、ベテラン感漂う男が近づいてくる。

「おはようございます、お嬢様。このような場所に、どういたしましたか?」
「えっと、自分の使ったお皿を片付けようと思いまして…」
「そんな、そのような事はお嬢様がされなくて良いのですよ。ほら、君たちこれを」

 そう言うとアンリの有無を聞く前に、アンリの手にあったお皿は一人のメイドの手に渡っていった。

「お嬢様、本日のお料理はお口に合いましたか?」
「はい、とっても美味しかったです。特にパンが美味しくて…」

 アンリの答えにコックコートの男性はどこか嬉しそうに目を細める。
 カゴに入れられていた数種類のパンはどれもフワフワしていて、ほんのりと甘さがあって朝食の中で一番のお気に入りだ。

「それは何よりです。本日のパンはあちらに居る新人のルエが担当したんです。お嬢様は確か、ルエと顔を合わせるのは今日が初めてですよね」

 紹介されたのは、もう一人のコックコートを着た男の子だ。髪はふんわりとしたマッシュで前髪がギリギリ目に掛かるかどうか。おそらくアンリと同じくらいの年齢だろう。目が合うと控えめに会釈してくれる。

「申し訳ありません。ルエは無口なものでして、昼間は滅多にキッチンからも出ないんです」

 そんな会話の後、馬車の準備が終わり戻ってきたフレッドに連れられるようにアンリは厨房を出た。

 食堂を出てフレッドの後ろを歩いていると、今度は一段と広々としたスペースに出た。さっきまでの絨毯が敷かれていた廊下と違い、大理石調のフローリングは綺麗に磨かれていて、こんなに広いスペースにも関わらず目立った家具も置かれず、真正面に二階に続く豪華な階段があるくらいだ。

「こちらはホールになります。舞踏会を行なったり、大勢のお客様が来客されても良いように広いお部屋になっております」
「あの、さっきの人達って…」
「あぁ、先程アンリ様がお話しになっていた方のことですね。あの方はシーズさんです。このお屋敷の料理は彼とルエさんの二人が担っています。ルエさんは人見知りが強い様ですが、お二人とも良い方ですよ」

 二人で屋敷全員分の食事を作っているなんてと感心すると同時に、アンリはルエの人見知りにひっそりと親近感を感じていた。

「アンリ様、外に出る前にこちらをお召しになって下さい」

 フレッドは腕に掛けていたブレザーをアンリの肩に掛ける。アンリは右腕、左腕と順番に腕を通すとエンブレムの彫られた金色に輝く前ボタンを閉じた。

 エントランスから外に出ると、綺麗にタイルが敷き詰められた道は門まで繋がっていて、屋敷の目の前には二頭の馬が繋がれた黒色の馬車が止められている。
 エスコートされるままアンリが馬車に乗り込むとフレッドは御者台に乗り手綱を引く。そして馬車は初めはゆっくりと、それから徐々にスピードを上げて走り出した。

 窓から見える風景はレンガ造りの建物が多く、オシャレな街灯が等間隔に並んでいる。外を歩く男性はそれぞれスーツに帽子を被ったりステッキを持ち、女性はドレスに傘を差したり、帽子を被っている人が多い。

 どれくらい揺られていたか。しばらくすると馬車はゆっくりと静止した。

 フレッドに手を引かれ馬車を降りると目の前には大きな校門がそびえ建つ。その先の敷地は広く、一目で敷地の端から端を見ることはできない。そして堂々とそびえ立つ建物は、さっきまで居た屋敷の数倍の面積があり、その見た目は学校と言うより、まるでお城だ。

「ここ、本当に私が通う学園…?」
「初めて見ると驚きますよね。なんたってここはこの国で王城に続いて二番目に敷地面積が広く、歴史があり、難関の学園と言われていますから」
「難関…?あの私、そこまで頭良くないんですけど大丈夫なんでしょうか」

 アンリは昨日まで学校に通っていたが、だからといって勉強が得意なわけではない。なによりどれだけ勉強をしていても、世界が変われば過去の勉強が役に立つとは限らないだろう。

「それについてはご心配なさらなくて大丈夫ですよ。確かに難関とは言いましたが、勉学の方の意味ではなく…、実はここの学園では家柄が入学できるかに非常に密接して関係してくるんです」
「家柄?」
「はい、そうです。アンリ様は階級制度というのをご存じですか?」
「いえ、分からないです」
「では簡単にご説明しますと、この国では大きく分けて二つの階級が存在します。一つは労働者階級。そしてもう一つが貴族階級です。貴族と呼ばれる方々にも序列が存在しまして…」
「序列?」
「公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵という順番です。公爵の方は他の特別な学園に通われるので、その他の貴族の方が主にこちらの学園に通うことになります」
「でもそれなら、どうして難関なの?」
「貴族の方は基本的に試験を受けてしまえば入学が許可されるのですが、労働者階級の者には非常に難しい試験や面接があるようです。ですから主に労働者階級の者から難関と言われているようです」

 つまり生まれた家が爵位を持っていれば自ずと学園へ通うことができるが、爵位が無ければどれだけ意欲があっても報われないことも多々あるということだ。
 
「ちなみにアンリ様のつけられているネクタイ、色自体の指定はなく自由なのですが、ストライプ柄は貴族階級の方。そして労働者階級の者には色の指定はないものの無地のネクタイと決められています」
「ネクタイの柄まで違うんですか?」
「えぇ、柄が決まっていた方が一目で階級が分かりますからね」

 わざわざネクタイの柄まで階級ごとに決める必要があるのかと疑問に思うが、今はそれ以上突っ込まないことにする。なんせ今、階級制度について聞いたばかりだ。それすらもまだ完全には理解出来ていないというのに、ネクタイの柄を気にしている余裕はないだろう。

「それと、こちらアンリ様のお鞄になります」

 フレッドは馬車の座席に置かれていたサッチェルバッグをアンリに手渡す。中にはペンケースやハンカチなど、必要なモノが入っているようだ。

「おい」

 アンリが荷物を受け取ったタイミングで背後から一段と低い声が響く。その声に反応したように、フレッドは伸ばしていた背筋を一段と伸ばすと、どこか緊張した表情を浮かべる。

 恐る恐るアンリも声の主の方に振り向くと、少し離れた場所にワインレッドのストライプ柄のネクタイに黒色のブレザーを羽織った深紅色の髪の男が真っ直ぐにアンリを見ている。 優しげな雰囲気を醸し出すフレッドとは真逆で、少し怖い印象。正直、ああいうタイプの人間は苦手だ。

「あの人は誰ですか?」
「あの方はクイニー・ソアラ様です。伯爵家のご子息でアンリ様のお父様とともにジャンミリー領を治められているお家です」
「まさか、私と彼は知り合いなんですか?」
「はい、お二人は幼馴染に当たります」

 第一印象で苦手だと思っていたのに、まさか幼馴染だったなんて。つまり先程、彼がぶっきらぼうに「おい」と呼び止めた相手もやはり間違いなく私だろう。

「アンリ様、私はアンリ様の事情を理解しております」
「それは私が別の世界から来たということですよね」
「はい。ですが周りの者に同じように説明し、理解を求めるのは非常に難しいと思われます」
「まぁ普通そうですよね」

 正直、あの時は納得したつもりだったが今思い返すとフレッドがあんな風にあっさりと信じてくれたことが不思議に思える。何よりアンリ自身、未だにこの状況が夢なのではないかと疑っているのだから。

「ですから、このことは私とアンリ様の秘密です。学園内では時に難しい部分もあるかと思いますが、私もできる限りのサポートは致しますので」
「…分かりました、頑張ってみます」
「では私はそろそろお屋敷に戻ります。お帰りになる時間に合わせて、こちらにまた迎えに参りますね」

 そう言うとフレッドは馬車に乗り、再び屋敷への道を引き返していく。そんな馬車を呆然としたまま見送っていると、忘れかけていた男がアンリの丁度真横に立っていた。

 一般的な赤よりも濃い赤髪のクイニー・ソアラというらしい彼は一重で目がつり上がっていて、アンリやフレッドよりもずっと身長が高い。だからなのか、横からの威圧感が苦しい。

「おい、アンリ。俺が呼んでいるというのに、無視するのか?」
「あっ、えっと…」

 ただでさえ初対面の人と会話するのは緊張するのに、一度怖いと思ってしまったからなのか、余計に人見知りが発動してしまう。
 そんなアンリを不思議に思ってか、クイニーは俯くアンリの顔を覗き込む。

「ん?お前どうした?体調でも悪いのか?」

 そうだ、私からしたら初対面だが、クイニーからしてみたら幼馴染にいつも通り話しかけているのだ。ここで変に素っ気ない態度で接していたら、余計に怪しまれてしまうかもしれない。

「いえ、大丈夫です。ごめんなさい」
「ふーん、まぁそれなら良いけど。そんなことより、なんだその敬語。この前までタメ口だったくせに学園デビュー的な何かか?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど…」
「あっそ、まぁ何でも良いけど。そういえばお前、さっきまでアイツと何喋ってたんだ?」
「え?ちょっとした世間話だよ」
「世間話?アイツと?」
「そうだけど…」

 アンリが頷けば、一層機嫌が悪くなったのかクイニーは舌打ちすると「気に入らねぇ」と吐き捨てる。今のたった数言の会話で何か機嫌を悪くさせるようなことを言っただろうか。いまいちこの人の思考が分からない。

「何が気に入らないの?フレッドさんは私にとって大切な人なんだけど…」
「は?大切って、アイツは労働者階級だぞ?」
「だから何?」
「俺らとは格が違うだろ」
「格って…。そんなの関係ないでしょ?それにクイニーの家にも執事は居るでしょ?」
「居るが、だからって必要以上に話す訳がないだろ」

 幼馴染と言われて頑張って受け入れようと思ったものの、やはりクイニーのことは苦手かもしれない。
 この世界で目を覚まし、初めて出会ったフレッドは何も分からないアンリに優しく物事を教えてくれたり、ひたすら良くしてくれた人だ。そんな人がバカにされるのは当たり前だが良い気持ちはしない。

 でも同時に何を言っても無駄なんだとも思う。こういう自分の意見を曲げるのが嫌いなタイプの人に気持ちを分かってもらおうと説得しても、こっちが疲れるだけだと心得ている。

「ほら、いつまでもこんな所に立ってないで行くぞ」

 スタスタと歩いて行くクイニーの一歩後ろにアンリもついて行く。クイニーは後ろを振り返ることなく自分のペースで歩いて行くため、大股で歩かなければついていけない。
 アンリには当然、クイニーと別々で行くという選択肢もあるが、迷子になることが目に見えている。知らない場所、しかもこんな広い学園でどこに何があるかも分からないのに、一人になることだけは避けたい。そうでなくても方向音痴なのだ。

 学園の門をくぐった先にはアンリやクイニーと同じ格好をした男女が大勢いる。この服を渡された時は特に気にしていなかったが、この白いシャツに黒いスカート、ブレザーは学園の制服のようなモノなんだろう。
 フレッドに教わっていた通りネクタイに注目して見れば、色は様々だがストライプ柄のネクタイをしている学生がこの場の大半だ。

「おい、見ろよ。あれ、オーリン伯爵のところのアンリ様だろ?」
「え、あの人が?噂には聞いていたが、まさかあんなに綺麗な人だとは…」
「あぁ、お近づきになりたいものだな」

 このときのアンリには入学というソワソワ感に包まれ、一段と周囲が賑やかになっているのだと思っていた。だからまさか周りがそんな風にアンリのことを話題にしていたなんて想像もしなかった。