花弁に宿る、君の哲学

スマホの振動が、現実を淡々と告げている。僕は枕元を探り、無機質なアラームを止めた。カーテンの隙間から差し込む光は、いつもより少しだけ白く、透き通っているように見えた。

昨日の放課後。旧校舎。そして、彼女。

「……感傷の快感の、謎」

口の中でその言葉を転がしてみる。昨日の記憶が、意識の表面にふわりと浮かんできた。 卯月桜子。その姿を思い出すだけで、視界にノイズが走るような錯覚に陥る。僕の脳が人間と認識しないような浮世離れした美しさだった。それはまるで、儚さそのものが形を成した権化。

僕は、指先でスマートフォンの画面をなぞった。 昨日、もし彼女と出会ったことが現実なら、僕の日常のどこかに「彼女の破片」が残っているはずだ。

クラスの連絡網をスクロールする。「う……卯月……」 だが、指が止まった。

そこにあるはずの名前が見当たらない。 「あ」行の次に続くのは、「か」行の生徒。五十音順のリストの中で、彼女の名前があるべき場所は、不自然なほど綺麗に詰められていた。

「……嘘だろ」

背中に嫌な汗が流れる。 僕は慌てて、昨日撮ったはずの風景写真を確認しようとアルバムを開いた。旧校舎の窓から見えた夕焼けを撮った記憶がある。彼女がその隣に立っていたはずだ。

アルバムの中に、その写真はあった。 しかし、画面に映し出されたのは、ただの誰もいない旧校舎の廊下だった。 窓の外には、季節外れの淡いピンク色の光が、まるでノイズのように小さく散っているだけ。

「夢じゃない。……でも、現実でもないのか?」

その時だ。 不意に、鼻腔をくすぐるものがあった。 閉め切った自室。季節は五月の終わり。それなのに、枕元から、あの

「残像の桜」と同じ、甘く切ない香りが微かに漂ってきた。

昨日、彼女が僕の心に触れた証拠。 世界が彼女を消そうとしても、僕の「感傷」だけが、彼女を覚えている。

僕はいてもたってもいられず、ベッドから飛び起きた。 制服に着替える時間さえ惜しい。僕は部屋着のまま、昨日の答えを求めて、再びあの場所へ向かうために家を飛び出した。

駅前を離れるにつれ、道は急な上り坂に変わっていく。 新しく建てられた白い壁の建売住宅が並ぶ横で、石垣から溢れ出したドクダミやツツジが、初夏の濃い緑を主張している。

坂を登るほどに、空が近くなる。 その頂上、街を見下ろすように建つ僕たちの高校は、五月の光を反射して白く輝いていた。……いや、正確には「新校舎」だけが、だ。その奥にひっそりと佇む、茶褐色の旧校舎は、まるで光を吸い込む深い穴のようにそこにある。

「おはよー、いっちー。土曜なのに真面目すぎ。補習か何か?」

背後から、坂道を軽やかに登ってきた湊ありまが声をかけてきた。 彼女のスクールバッグにジャラジャラと揺れるキーホルダーが、坂道の静寂を賑やかに塗り替えていく。中学の頃から、なぜか僕の陰気な空気を気にせず土足で踏み込んでくる、不思議な距離感の友人だ。

「……湊。おはよ」 「何、その『幽霊にでも会った』みたいな顔。あ、もしかして昨日、旧校舎でピアノの練習でもしすぎて、変なもん見ちゃった?」

ありまは、いつもの天真爛漫な調子で笑い飛ばす。 僕は、スマホの連絡網から名前が消えていた違和感を思い出し、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。まだ、確信が持てない。

「……いや。昨日、旧校舎に誰かいたような気がしてさ。卯月、とかいう名前の……湊、心当たりないか?」

できるだけ平静を装って、探るように聞いてみた。 もし彼女が「誰それ?」と笑えば、昨日の出来事は僕の感傷が見せた白昼夢として片付けられるはずだった。

「……ああ、卯月さん?」

ありまの声が、一瞬だけ揺れた。 彼女は、手に持っていたアイスラテのストローを弄びながら、視線をふいと旧校舎の方へ逸らした。

(ついに、いっちーも気づいちゃったんだ。サクがいること)

ありまは、心の中で深くため息をついた。 彼女は知っていた。四月の入学式の日、新入生が浮足立つ喧騒の中で、誰もいない旧校舎の窓際に佇む「あの少女」を。 かつて目の前で消えたはずの親友が、三年前と同じ姿で、まるで最初からそこにいたかのように現れたこと。ありまはこの一ヶ月間、その「ありえない奇跡」を、誰にも言わずに一人で観測し続けてきたのだ。

遥人が自分の「感傷」という殻に閉じこもっている間に、世界はもう、次の物語を始めていた。

「どうだろ。あそこ、たまに変な部活の溜まり場になってるし。……それより、いっちー、あんまり旧校舎に深入りしない方がいいよ。ただでさえあんた、現実感薄いんだから」

ありまは、核心を避けるように笑って僕の背中を叩いた。 彼女の言葉は明るいけれど、その瞳の奥には、僕の知らない「四月からの記録」が、重く澱んでいるように見えた。

「じゃ、私は部活の顔出しあるから! 変なもん見ても、付いてっちゃダメだよ!」

ありまは駆け足で坂を登っていく。 彼女の煌めきが、眩しい陽光の下で激しく点滅している。

僕は一人、坂の途中に取り残された。 鼻腔に残るのは、ありまが残した甘いラテの香りと、それとは対極にある、あの冷たくて切ない桜の香り。

「……確かめてみるしかないか」

僕は、光り輝く新校舎の門を通り過ぎ、影の濃い旧校舎へと足を進めた。

ありまの背中が見えなくなると、坂の上は再び静まり返った。 新校舎の喧騒からは離れた、正門脇の小さな花壇。そこだけが、まるで時間がゆっくり流れているかのように、穏やかな空気に包まれている。

(……考えすぎなんだ、きっと。ありまだって、からかってるだけかもしれないし)

自分に言い聞かせながら、僕は旧校舎へ続く裏道へと足を向けた。その時だった。

「わっ……!」

足元に視線を落としていたせいで、僕は花壇の縁で屈んでいた人影に気づかなかった。 ぶつかる寸前で足を止めたが、勢い余って、彼女が脇に置いていたプラスチックのじょうろを蹴飛ばしてしまう。

バシャッ、と派手な音を立てて、溜められていた水がコンクリートの地面に広がった。

「あ……ごめん。大丈夫?」 「あ、はい! 大丈夫です。……びっくりしただけですから」

顔を上げたのは、同じクラスの日向つむぎだった。 低めのポニーテールに、土のついた軍手。彼女はこの五月の瑞々しい風景に、最もよく馴染む。 彼女は怒るどころか、こぼれた水を見て「地面が冷たくなって、アリさんたち喜ぶかもしれませんね」と、小さく微笑んだ。

「すぐ汲み直してくるよ。……じょうろ、貸して」 「すみません、一ノ瀬くん。ありがとうございます」

僕は彼女から空のじょうろを受け取り、近くの水道へと向かった。 蛇口をひねると、勢いよく水が流れ出す。キラキラと光る水流を見つめながら、僕は思い切って、さっきから胸につかえている名前を口にした。

「……ねえ、日向さん。今日、学校で誰か見かけなかった? その……卯月さん、とか」

水を止める。じょうろの重みが、腕にずしりと伝わった。 つむぎは花壇のパンジーを優しく撫でながら、事も無げに答えた。

「桜子ちゃんですか? ええ、さっきあそこの廊下を歩いているのを見かけましたよ。今日もとっても綺麗でした」

心臓が、ドクンと跳ねた。 ありまの時とは違う。つむぎの口から出た「桜子ちゃん」という響きには、何の疑いも、隠し事もない。それはまるで「今日の空は青いですね」と言うのと同じくらい、絶対的な事実として響いた。

「……日向さん、卯月さんと知り合いなの?」 「はい。ちょくちょくお話しするんです。私たちがこうして花壇の手入れができるのも、彼女が旧校舎を守ってくれているおかげかな、なんて思ったりして。彼女、とっても優しいんですよ」

つむぎは、僕が知らない「四月からの日常」を語り始めた。 僕が「感傷」という殻の中で、勝手に過去の幻影を追いかけていた間に、桜子はこの学校の風景に、つむぎの感謝の連鎖の中に、当たり前のように溶け込んでいたのだ。

「……そう、なんだ。ありがとう」

僕はじょうろをつむぎの手元に戻した。 水を含んで黒々と光る土の匂い。つむぎの穏やかな微笑み。 すべてが、卯月桜子という存在が「今、ここにいる」ことを証明していた。

「一ノ瀬くんも、会いに行くんですか?」 「……ああ。ちょっと、確かめたいことがあって」

つむぎに背を向け、僕は旧校舎へと歩き出す。 背後で「いってらっしゃい」という彼女の柔らかい声が聞こえた。

新校舎の光に照らされた「日常」の庭を抜け、僕は影の濃い、蔦の絡まる旧校舎の入り口へと足を踏み入れる。 そこにはもう、疑う余地のない真実が待っているはずだった。

旧校舎の階段は、一歩踏み出すごとに不気味なほど軋んだ。 新校舎の喧騒は、分厚いコンクリートの壁に遮られ、代わりに重く沈殿した埃の匂いと、どこからか入り込んだ初夏の湿り気が鼻を突く。

ありまが言っていた「四月からいた」という事実。つむぎが語った「優しい桜子ちゃん」という日常。 それらが頭の中で混ざり合い、僕の心音を速度を上げていく。

最上階の重い扉を押し開けると、眩いばかりの五月の光が視界を白く染めた。 屋上には、誰もいなかった。

ただ、乾いた風が吹き抜け、錆びついたフェンスがカタカタと乾いた音を立てているだけだ。 「……なんだ。いないのか」 期待と安堵が入り混じった溜息が漏れる。やはり、あの日見たのは僕の脳が作り出した「究極の感傷」だったのかもしれない。そう思い、踵を返そうとした。

「そんなに急いで、どこへ行くの? 一ノ瀬くん」

鈴の音を転がしたような、透き通った声が降ってきた。 振り返ると、そこには――。

屋上の中央にそびえる塔屋(とうや)。その縁に、危ういバランスで腰掛けている彼女がいた。 卯月桜子。 紺色のスカートが風にふわりとなびき、白い肌が陽光に溶け出してしまいそうだ。彼女は高い場所から、迷子を見守るような慈愛に満ちた瞳で僕を見下ろしていた。

五月の強すぎる光が、コンクリートの照り返しとなって視界を白く焼き切る。その中心、屋上の塔屋の縁に腰を下ろしている彼女は、まるでこの世界の重力から半分だけ自由になっているように見えた。

「……卯月さん。そんなところにいたら危ないよ」

「危ない……? ふふ、そうね。でも、ここは一番よく聞こえるの」

彼女はゆっくりと首を傾げた。その髪が陽光に透け、一瞬だけ空気の色に溶け込む。

「世界が動いている音が」

「動いている? ……ただの風の音じゃないのか」

「いいえ、もっと細かくて、もっと残酷な音よ」

彼女は塔屋から音もなく飛び降りた。着地した瞬間にスカートがひらりと舞い、その下にある足が、昨日の夕暮れよりもさらに透き通っているように見えて、僕は思わず目を逸らした。

「一ノ瀬くん。あなたには、この校舎が『止まって』見える?」

彼女は蔦の絡まる茶褐色の壁に、白く細い指先を這わせた。

「……当たり前だろ。建物が動くわけない」

「私には、ここが絶え間なく『散っている』ように見えるわ。レンガの粒子が剥がれ落ち、鉄が錆び、空気がこの建物の記憶を少しずつ削り取っている……。何一つとして、一秒前と同じ姿で留まっているものなんてないのよ。人も、心も、この五月の光さえも」

彼女は僕のすぐ近くまで歩み寄り、じっと僕の瞳を覗き込んだ。その瞳の中には、どこまでも深い「虚無」と、それを愛おしむような「慈愛」が同居していた。

「それを人は『儚い』と呼ぶけれど、私にとってはそれが世界の『拍動』なの。消えていく瞬間の摩擦熱だけが、この世界が生きている証拠。……だからね、一ノ瀬くん。何かにしがみついて、それを『永遠』にしようと願うことは、世界の動きを止めてしまうことなのよ」

「永遠にしようとすることが……間違いだって言うのか?」

「間違いではないわ。それはとても美しい、人間の『エゴ』。でも……」

彼女はふっと視線を落とし、自分の掌を見つめた。 「止まってしまったものは、もうこの世界の『流れ』には乗れない。……今のあなたは、私をあなたの『感傷』という名の標本箱に閉じ込めようとしている。それがどれほど私を苦しめているか、あなたはまだ知らないのね」

桜子の言葉は、風よりも冷たく、けれど春の陽だまりのように優しく僕の胸に刺さった。 彼女が言う「儚さ」とは、弱さのことではない。**「消えゆくことへの潔い全肯定」**なのだ。

「……謎を解けって言ったのは、君だろ」

「ええ。あなたがその標本箱を自ら壊して、私の『消えていく美しさ』をそのまま愛せるようになった時……。その時初めて、あなたは本当の私に出会える。まだ少し、難しいかしら」

彼女は悪戯っぽく微笑むと、再び風の吹く方へと顔を向けた。 その横顔は、あまりにも完成されていて、だからこそ今すぐ花弁となって散ってしまいそうなほど、危うい均衡の上に成り立っていた。

「……さあ、もう行きなさい。下で、あなたの『日常』が待っているわ」

彼女がそう言った瞬間、一際強い風が吹き抜け、僕は思わず目を細めた。 三十分、あるいは永遠。 僕たちがその場所で共有した時間は、時計の針では測れないほど重かった。

旧校舎の屋上、あの「三十分の空白」を経て、僕は地上へと戻ってきた。 一歩外に出るだけで、湿った埃の匂いから、眩しい五月の陽光と草いきれの匂いへと一気に引き戻される。

正門脇の花壇では、日向つむぎがまだ熱心にパンジーの間に生えた小さな雑草を摘んでいた。

「あ、一ノ瀬くん。お帰りなさい」

僕の足音に気づき、彼女は軍手をした手で額の汗を拭いながら微笑んだ。

「……日向さん、まだやってたんだ」

「はい。この子たち、お水をあげると本当に嬉しそうにするので、つい長居しちゃって。……桜子ちゃんには、会えましたか?」

当たり前のようにその名前を出す彼女に、僕はじょうろを戻しながら、喉に引っかかっていた問いを投げかけた。

「……会ったよ。でも、相変わらず何を考えてるのかよくわからなくてさ。日向さんは、卯月さんと……そんなにしょっちゅう話すの?」

「ええ、よくお話ししますよ。昨日の放課後も、ちょうどこの花壇のところで」 つむぎは、懐かしそうに目を細めた。 「彼女、私が植え替えたばかりの苗を見て、『この子たちは、土の温かさを知っているから、こんなに真っ直ぐ背を伸ばすのね』って。なんだか詩人さんみたいですよね」

僕は言葉を失った。僕が「感傷の快感」というフィルター越しにしか見ることのできない彼女を、つむぎはもっとずっと近い、手触りのある距離感で捉えていた。

「四月から、ずっとそうだったの?」 「はい。入学式の翌日だったかな、私がここでじょうろを重そうに持っていたら、彼女がそっと支えてくれたんです。……『重いものは、分かち合うためにあるのよ』って微笑んで。それから、時間が合う時はいつも、こうしてお花の話をしたり、昨日降った雨の匂いの話をしたり……」

「……雨の匂い?」 「ええ。『雨が降ると、世界が一度リセットされて、また新しい物語が始まる感じがして好き』なんですって」

つむぎの話す桜子は、僕が抱いている「儚い幽霊」のようなイメージとは正反対だった。 彼女はこの学校の風景に、つむぎが紡ぐ穏やかな日常の中に、確かに根を張って生きていた。

「……日向さんは、怖くないのか? 彼女が、その……急にいなくなったりするんじゃないかって」 「いなくなる……?」 つむぎは不思議そうに首を傾げた。 「いつかお別れが来るのは、お花だって人間だって同じです。でも、今こうして一緒に笑い合える時間を、私はとても『ありがたい』って思うんです。彼女と過ごす時間は、私にとって一日の終わりの温かいココアみたいなものですよ」

つむぎの言葉には、迷いがなかった。 僕が彼女の「消滅」や「謎」に怯えている間に、つむぎは彼女の「存在」そのものをまるごと受け入れ、感謝していた。

「一ノ瀬くん。桜子ちゃん、あなたのことを待っていたみたいですよ。……少し、寂しそうな顔をしてましたけど」 「……僕を?」 「はい。一ノ瀬くんが来るのを、ずっと風の音を聞きながら待っている気がするって。……うふふ、なんだか素敵な関係ですね」

つむぎは無邪気に笑い、再び花壇に向き直った。 「じゃあ、私はもう少しだけここを綺麗にしてから帰りますね。一ノ瀬くんも、お疲れ様でした」

「……ああ。また月曜に」

僕はつむぎに背を向け、校門へと歩き出した。 午前十一時の強い光が、影を短く切り取っている。 つむぎが語った「優しい桜子」と、屋上で僕を突き放した「残酷な桜子」。 二つの像が頭の中でせめぎ合い、僕の心臓を不規則に叩いた。

「……全然、わからないじゃないか」

信じられない。僕がピアノの旋律を頭の中で鳴らし、過去の残響に浸っていた一ヶ月の間、彼女は「日常」としてここに存在していたというのか。

「おーい! いっちー! 待って待って、置いてかないでよ!」

賑やかな声が背後から響き、数人の女子生徒が坂を駆け下りてくるのが見えた。 中心にいるのは、バレー部のユニフォームの上にジャージを羽織った湊ありまだ。彼女の周りには、同じく背の高い部員たちが固まっている。

「……湊。もう終わりか?」 「そー! 超疲れた、もう無理、足死んだ! 明日練習試合なのに、これマジで動ける気がしなーい!」

ありまは大げさに膝をつくフリをして嘆いてみせる。 練習試合前なので恐らくミーティングと軽い調整だけだったはずだが、彼女の「超疲れた」には、どこか精神的な消耗が含まれているようにも聞こえた。

「あ、みんな先帰ってていいよ! 私、いっちーにちょっと説教しなきゃいけないことあるから!」 「えー、ありま、また一ノ瀬くん独り占めー?」「お熱いねー、ごちそうさま!」 「うるさ! 違うから! ほら、駅前のアイス屋閉まっちゃうよ、早く行きな!」

茶化す仲間たちを強引に追い払い、ありまが僕の隣に並んだ。 二人で坂を下り始めると、彼女のスクールバッグに付けられた無数のキーホルダーが、シャラシャラと軽快な音を立てる。

ふと横を見ると、ジャージの裾から覗くありまの姿が目に入った。

「……湊」 「んー? 何? 昨日の続きなら、私もう知らないよ?」

「いや。……純粋に、スタイルいいなと思って。バレー部だからか、足もすごく綺麗だし。その練習着、格好よく着こなしてるよな」

僕は、心に浮かんだままの感想を口にした。 旧校舎にいた「透き通るような、消えてしまいそうな美」を見た後だからだろうか。目の前にいるありまの、太陽の光を跳ね返すような「生命力の美」が、ひどく眩しく、素晴らしいものに思えたのだ。

「…………は?」

ありまの足が、ピタリと止まった。 彼女は驚いたように目を見開き、数秒間、彫像のように固まった。

「……え、ちょ、あんた、何……今、なんて……」

みるみるうちに、ありまの顔が、耳の先から首筋まで真っ赤に染まっていく。 普段、カースト上位で男子を適当にあしらうことにも慣れているはずの彼女が、まるで初めて告白された中学生のように激しく動揺していた。

「いや、事実だろ。運動してるやつって、やっぱり凛としてていいよな。……似合ってるぞ、それ」 「バ、バカじゃないの!? あんた、さては本当に旧校舎で頭打った!? あーもう……急にそういうこと言うの、法律で禁止! マジで心臓に悪いから!」

ありまは真っ赤な顔のまま、ぶんぶんと両手を振って、逃げるように早歩きを始めた。

「……湊。顔、すごい赤いぞ。熱でもあるのか?」 「うるさ! 太陽が眩しいだけ! あんたのせいで体温三度くらい上がったわ! ほら、さっさと歩きなさいよ!」

ありまはそっぽを向いたまま、僕を置いていこうと速度を上げる。 けれど、その背中からは先ほどまでの刺々しさが消え、代わりに年相応の、どこか浮ついた可愛らしさが漏れていた。

午前十一時の強い光の中、彼女の「プロローグの煌めき」が、照れ隠しのノイズのように、激しく、眩しく弾けていた。