五月の終わり。梅雨を目前に控えたある日。遥人は旧校舎の資料室前の窓際にいた。

旧校舎の独特な雰囲気は浮世離れした空間が広がっており日常の喧騒から切り離されていた。遥人は窓枠に凭れ掛かり中庭を見つめる。視界に映る何気ない日常とは異なり遥人の世界には常に悲しくも切ないBGMが流れていた。


 「この世は全て、失うために存在している」
遥人は誰に伝えるわけでもなくボソッとつぶやく。この遥人の核となる思想は過去のいくつかの悔恨の残響の影響であった。

例えば満開の桜は美しく咲くほど散り際は儚く虚しくなり、賑やかで楽しい記憶ほど一人になっときの孤独は深くなる。僕の人生はそういうものでできている。手に入る喜びよりも手放す切なさの方が多い。しかしそれでもこの感覚に慣れており心地よいとも思える

(この感覚の正体はなんだろうか?ネガティブな感情で感覚であるはずなのに心地よいと思えるのはなぜだ?)

遥人は旧校舎から見えるいつもと変わらぬ景色を見ることを好んでいた。生命をしっかりと感じさせる木々、少し朽ちている木製のベンチ、園芸部が管理している花々。それぞれがその場所で自分たちの役割を果たしているような、遥人は景色からそう読み取っていた。

遥人は「過去の切なき記憶」を旧校舎の景色に重ね感傷に浸っていた。過去の記憶を鮮明に思い出すほど旧校舎からの景色は濃く色付き生き生きとしたように見えた。

これから経験する遥人の様々な経験は「悲しき未来への予行練習」である。そして静かな廊下には、遠くから聞こえる運動部の掛け声だけが、現実の音として響いていた。しかしそれさえ、遥人の耳には「過ぎゆく青春の残響」として、切なく響いていた。

---もしあの時、恋愛にもっと熱を持てたら

---もしあの時、別の道を進んでいたら

---そしてもし過去にもっと青春を貪っていたら


運動部の掛け声が虚しくも遥人の心に現実を押し込んでいた。過去の切なき記憶が鮮明になっていく。鮮明になればなるほど自己肯定感を奪っていった。

廊下は静寂に包まれている。しかしその静寂は一瞬にして『達観した静寂』に上書きされていた。
僕はふいに視線を感じ反射的に窓から離れて振り返った。

そこに立っていたのは同じ一年生のクラスメイト、卯月桜子だった。
彼女の存在は非現実的な美しさを纏っていた。その美しさは僕の切実な過去のフィルターを透過させるような異質なものであった。僕はその美しさに思わず息をのんだ。

長く、漆黒でサラサラとした髪は、旧校舎にわずかに入っている薄明の光をうけ輪郭を曖昧にしている。非常に色白な肌は、彼女がこの世のものではないような存在であることを物語っていた。

そして何よりも僕が強く引き付けたのはその瞳だった。透明感のある淡いライトブルーの瞳は、まるで遠い空を閉じ込めたように静寂を湛え、過去や未来への一切の執着を感じさせない。彼女の視線は『今ここにいる一ノ瀬遥人』という一点だけを向き雑念が皆無のように感じられた。

「一ノ瀬君、話すのは初めてかな、まだここにいたんだね」

彼女の声は風鈴のように軽やかではあったが確かな響きを持っていた。僕は彼女の声にハッとし口を開く

「卯月さん、初めまして。ここにいると落ち着くんです。少し言葉にするのは難しいんですが、なんというか感傷に浸ってしまうというか、でもそれは辛いことではなくむしろ快感というか。」


「そうなんだ。いきなりなんだけどその謎私と解いてみない?」

その言葉は僕の好奇心を最大限に引き出した。桜子は、その遥人の内側の壁を、そっと指先でなぞるように言った。

「一ノ瀬くんは、いつもここへ来て、『終わった季節』を探している」

彼女の瞳は、まるで心の奥底を覗き込むように淡く澄んでいた。

「一ノ瀬くん。その『切ない』という感情に、浸っているだけでは、何も終わらない」

「……どういう意味ですか」

遥人の声が、わずかに低くなった。彼の『感傷の快感』という領域に、初めて他者が踏み込んできた。

桜子は窓の外、遠くの夕焼けに目を向けた。

「だって、一ノ瀬くん。あなた自身が、『今、終わるべきではないもの』を、無理やり『終わった過去』として扱っているからでしょう? ここにいて、満たされる快感を得ているのは、あなたが『終わっていない謎』に、ずっと蓋をしているから」

遥人の心臓が、強く脈打った。

『終わっていない謎』。

彼の過去の感傷は、すべて解決済みで、ただの「悲しいBGM」として再生しているだけのはずだった。だが、桜子の言葉は、その感傷の源泉には、まだ手付かずの、何か重要な「秘密」が隠されていると示唆していた。

「謎……? 」

「その謎が解けるまで、あなたは永遠に『切なさの快感』から抜け出せない。そして――」

桜子は再び遥人の瞳を見つめた。

「その謎が解けない限り、あなたが望む『永遠』は、決して訪れない」

遥人の心を支配していた「感傷の快感」の壁が、ガラガラと音を立てて崩れ始めた。彼の中の『好奇心』が、疼き出す。

自分の感傷の裏に隠された秘密とは何か?

そして、この少女は、なぜそれを知っているのか?

遥人は初めて、過去への執着ではなく、「今、この瞬間に目の前にいる桜子」と、彼女が示唆する「謎」の方へ、意識の舵を切った。