今まで俺はそういう意味で人を好きになったことはなかった。
友人は多いし、人といることが好き。だがそれ以上の感情が生まれることはない。
深い関係を持つ理由が分からないのだ。友達以上になる必要がない。ただ友達というだけでいいではないか。
恋愛とかよく分からない。俺には理解出来ない。
『片村先輩って執着しないですよね』
宇田の言う通りだ。
真摯に面倒を見ていた後輩がいたって、別の人の方が上手く教えられるなと気付いたら、すぐに手放す。
先輩に教わりたいんですと言われたら嬉しいけれど、俺のところにいても成長できないぞと説得して旅立たせる。
でもそれの何が悪い? 執着して何の意味がある? 深い関係を持ったら自由に生きることが出来なりそうだし、面倒だ。
浅く広くが一番いい。
――――と、ずっと思っていたのに。
どうしてだろう。今の俺は、宇田は俺だけの後輩だと思っている。
(なんでこんなことになった……?)
俺はげんなりと溜息をついた。気が乗らない足取りで通学路を歩く。
嫉妬だなんて初めて抱いた。独占欲とか今まで皆無だったというのに、どうしてそんな気持ちが生まれてしまったのか。
(どれもこれも宇田のせいだ)
俺のことを特別扱いする可愛い後輩だから、きっとほだされてしまったのだ。それが悔しいし、腹立たしい。いつもの俺を返せ! と胸ぐらを掴みたくなる。
(でもまぁ、とりあえず俺の方が謝らないとだよなぁ)
島野原と勉強したと聞いて嫉妬し、痛いところを突かれ、大キライだと言って逃げてしまった。
あれから宇田はどれくらい俺を探しただろうか。きっと気にしているに違いない。
でも正直会いたくない。一方的に怒ったことは俺が悪いけれど、怒らせたのは向こうだし、こんな気持ちにしたのはあいつだ。むしろ謝りに来い。
「だー! そう思ってる時点であいつに負けてんだっつーの!」
前髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
分かった。認めよう。俺は初めて執着しています。宇田は俺の事だけを先輩扱いすればいいと思っています。他の先輩を頼るな、敬うな、挨拶もしなくていい!
可愛い後輩は俺だけのものだ。
「…………会いたくねぇ」
認めたら認めたで、より宇田に会いたくなくなった。
どんな顔をしたらいいのか分からないから、というよりも、どんな顔をしてしまうか分からないからだ。
恥ずかしさでいっぱいの顔なんか見せたくない。格好悪いじゃん。
ここで素直に俺もお前が好きだと言ったらハッピーエンドなんだろうけれど、もう少し、もう少しでいいから落ち着く時間が欲しい。
冷静に、客観的に、慌てることなく向き合えるようになるまで。宇田のことが本当に好きなのかどうなのか、ちゃんと受け止められるように――――と思っているのに。
(どうしてここにいるんだよ‼)
二人で帰る時の分かれ道。そこに宇田が立っているのが遠くから分かった。
気にしているだろうとは思っていたけれど、まさか朝から待ち伏せされるとは思わなかった。
入学早々、島野原を使って接触してきたり、毎日学年ひとつ上の先輩だらけの教室まで迎えに来るとか、本当に行動力の化身である。朝は苦手だと言っていたから尚更。
(時間を、俺に時間をくれ!)
俺は小走りで脇道に入り、回り道して学校へ行くことにする。
きっと帰りも迎えに来るだろうが、それはそれでまた逃げれば――――と思っていたのに第二弾。
「お前、マジで行動力の化身にもほどがあるだろ!」
放課後になる前、なんと昼休みの時間に宇田は教室に来たのだ。
『片村ぁ、後輩くんだぞー』と声が掛かった時は箸を落としてしまった。
いつものように教室に乗り込んできた宇田に、俺は『ちょ、こっち来いバカ』と腕を引っ張って廊下に出た。
放課後よりも人が多い今、クラスメイトが宇田に慣れたといえど必要以上に目立ってしまう。
それに内容が内容なだけに、大勢がいるところにいたくない。
「お前のメンタルどうなってんだ、ほんと」
廊下の端で俺は大きく溜息をついた。
呆れられていると分かっているだろうに、宇田は安堵の表情を浮かべた。
「良かった。朝、見かけなかったから休みかと思ったんです」
「…………」
回り道したんだよ! と言えるわけもなく。
心配してくれたんだと胸がキュンとしたことも、もっと言えるわけもない。
また頬が熱くなってしまうのが怖くて、俺は顔を逸らした。
「あの、片村先輩。昨日はすみませんでした」
「え、なに?」
「ひどいことを言ってしまって」
珍しくシュンとした表情で言う宇田に、俺は反応が遅れた。
謝りに来いとは思っていたけれど、本当に謝られるなんて。だが宇田の謝罪は俺が求めたものとは勿論違っていて、「別に」と首を横に振った。
「お前の辛口はいつものことだろ? 気にしちゃいないって」
「でも怒ってますよね」
執着うんぬんは確かに痛かったけれど、怒ってはいない。昨日のことを言えば怒ったのは島野原に勉強を教わったことだ。むしろ嫉妬して逃げた俺が悪い。
「宇田は悪くない。俺が突然帰っちまって心配させたよな。ごめんな」
「それは俺が傷つけたから……」
「まぁ確かにイラっとしたけどさ、それはそれで引きずったりしてねぇし。問題ねぇって」
「あります。傷つけたし怒ってる」
まるで宇田の方が傷ついているように言った。
「だって俺のこと、全然見てくれない」
「…………あー」
視線を逸らしたまま、少し笑ってしまう。
あるある、あるよなー。漫画とかでこういうの。視線が合わなくて色々察してしまうとか、ケンカに発展したりとか。
(そうだ、こういうのは意思疎通をちゃんとすることが大切だ)
「あのな宇田」
俺は視線は合わせられないけれど、出来るだけ納得させるように言う。怒っていないと教えるように、ポンポンと軽く肩を叩いて。
「俺は少し時間が欲しい」
「なんのですか?」
「考える時間」
「許すか許さないか?」
「違う違う」
あくまで自分が悪いと思っているようだ。そこまで罪悪感を抱かせてしまったことにこちらも罪悪感が生まれる。
「ちょっと考えたいんだよ」
「何を考えるんですか? もう俺とは一緒にいたくない?」
どこまでも不安そうな声音。もういっそ『お前のことが本当に好きかどうか冷静に考えたいんだよ』って言ったらいいのか⁉ そんなこと恥ずかしくて言えるか!
じわじわと頬が熱くなってくる。寒くも無いのに身体が震えて、あの間接キスの時のように落ち着かなくて。
――――かわいい。
「っ!」
余計なこと思い出すな俺!
「とっ、とにかく今は放っておいてくれ」
可哀想だが、怒っていると勘違いさせたままでもいい。
そのまま歩き出せば「片村先輩っ」と、宇田は慌てて後を追ってくる。
「どうしたら許してもらえますか?」
「だから怒ってるんじゃないって」
「じゃあこっち見て」
「今は無理なんだよ」
「なんでっ」
教室のドアをくぐる。それでも諦めない宇田は俺の腕を掴んだ。
「片村先輩!」
「~~~~っ、しつこい!」
それを俺は思いきり振り払った。
ハッとしたのはクラスメイトが黙り、こちらを注目していることに気付いてからだ。
宇田は瞠目し、何かを言おうとして、でも何も出てこないように口を開閉していた。
俺は「ごめん」と慌てて謝る。でも上手く笑えない。
「お前も教室戻れよ。な?」
「……はい」
「すみませんでした」と頭を下げて、ようやく教室から出て行った。それを見送ってから俺も自分の席に座る。目を閉じて大きく溜息を吐いた。
少しずつ教室がいつものざわめきが戻って来たけれど、どこかぎこちない。当たり前だ。
(やっちまった)
机に突っ伏したいけれど、そうしたら周りはもっと気にするだろう。だからいつものように頭の後ろで手を組んで、親指で結ぶ髪の毛をいじる。
そんな俺に、宇田と一緒にカラオケに行った友人男子たちが声を掛けてきた。
「片村どしたー」
「なに、後輩くんとケンカ?」
恐る恐るという感じなのは宇田をカラオケに誘った時と同じだ。
苦笑して「まぁそんな感じ」と返す。それに彼らも苦笑した。
「後輩くん、強引なところあるもんな」
毎日迎えに来るのを知っているから出て来る言葉だろう。
「でも珍しいよな、っつーか、ああいう片村初めて見たわ」
「俺もー。一年生の時とかもケンカとかしてねぇよな?」
「片村って誰とでも上手くやるしさ」
続いた言葉に、内心ドキリとする。それはイコール、宇田が特別だと言外に言われたような気がしたからだ。
だが彼らはそういう意味ではなかったようで、先ほど俺が宇田にやったように、こちらの肩を軽く叩いた。
「いつでも話聞くぞ?」
「片村には助けてもらいっぱなしだから、たまには役に立たせろって」
「はは、ありがとな」
心配しつつも深くは追求せず、こちらが話すのを待ってくれる。良い友達だと思う。
「そしたらさ、帰りなんだけ」
そんな彼らに素直に甘えることにした。
「もし宇田が来たら、先に帰ったって伝えといてもらっていい?」
「オッケー」
「まかせとけって」
いつも使う俺の口調にまた笑っていたら、チャイムが鳴る。
軽く手を振って各々が席に戻り、俺はもう一度落ち着かせるように瞼を閉じて大きく深呼吸をした。
それなのに最初に思ったことが『宇田はちゃんと教室に戻っただろうか』だなんて、ほとほと俺は呆れてしまった。
『俺、先輩と同じ高校に行きますから!』
入学式から始まった宇田との日々。でも今から思えば、きっと中学の時から始まっていたのだろう。
なぁ、お前はいつから俺のことが好きだった?
どうして俺のことを好きになったんだ?
再会してから宇田には振り回されてばかりだけれど、宇田からしたらきっと俺が彼を振り回しているのだろう。
『好き』という気持ちを持っているだけで、相手の挙動一つ一つに振り回される。
なんて面倒な感情なのだろう。
好きな人がいる。
それだけで気持ちが揺れ動いて、笑顔が出てこなくなる。
恥ずかしくて逃げてしまう。
あぁ、でも一緒にいる心地よさも知っていて忘れられない。
今まで告白して来てくれた人たちも、こんな感覚だったのかな。
「片村、ほらとっとと帰っとけ」
「後輩くんは何とかしとくから」
「ごめん、あんがと!」
なぁ、俺はいつからお前のことが好きになった?
どうしてお前のことを好きになったんだ?
再会して、振り回されて、お前の気持ちに気付いて、でも振ることが出来なくて。
「もしかしたら玄関で待ち伏せもあるか? しばらくトイレに隠れるか……」
――――高校まで俺を追って来たんだぞ? 健気に毎日帰りも迎えに来てさ。告白もしてきてないのに振ったら可哀想だろ。
俺らしくなかった。
きっとあの時にはもう、心は宇田に傾いていたのかもしれない。
可愛くない後輩は愛想もなくて、辛辣で、ただただ一緒に帰ろうと迎えに来る。可愛くないところが可愛い後輩。
一途に俺めがけて走って追いかけてくる姿だけに心を奪われたわけではない。
素直なのに素直じゃないから、くすぐったくて、可愛いんだと思う。
(もう帰ったかな)
俺が一歩踏み出せばいい。
恥ずかしくても、顔を真っ赤にして、手にも背中にも汗をかきながら、俺も好きだと言えばいい。
冷静になりたいと思っている時点でいつもの俺は壊されているのだから、もう彼が特別なのだと分かりきっている。
でもさ、その一歩ってどこに踏み出すんだ?
踏み出し方は? 左右どっち? どれくらい体重を掛けても平気?
「……教室、覗いてみるか」
細かいことを気にしていても仕方が無いのに、不安になってしまう。
大丈夫だと分かっていても吊り橋を渡るのが怖いように、この気持ちが本物なのかまで気になって、自信が持てずに恐れてしまう。
特別な人がいるだけで足下が不安定だなんて、バカみたいだと笑いたい。でも笑えない。だって、本当に怖いんだ。
そういう感情を漫画や小説で知っていても、理屈じゃ無いから。
今まで抱いたことがない気持ちだから。
この『好き』という得体の知れないものを、どうしたらいい?
「なんで……」
夏に近づく空はまだ青い。
夕焼けには遠い色をしていて、教室の中を柔らかく照らしていた。
白いカーテンがなびく。
日直が手を抜いたせいで、曇っている黒板。
掃除で正した筈の席は帰りの挨拶で乱れたまま。
机の影の黒さが光りを際立たせて、眩しく反射する。
俺の席に座って窓の外を見る宇田は、まるで一枚の絵みたいだった。
(――――あぁ、好きだ)
正体不明の気持ちが溢れて揺れる。
初めての感情は怖い。当たり前だ。心の柔らかいところを触れられたら誰だって恥ずかしい。
きっと誰も分かっていないだろう。
好き嫌いの正体。その色も形も、味も匂いも、誰ひとり分かっちゃいない。
それでも抱いてしまうのだ。溢れてしまうのだ。
隠したって、捨てたって、埋めたって、それは在る。
「宇田」
どうしたって、どうしようもない。
だって、好きだから。
「あれ、片村先輩?」
俺の席に座る宇田がこちらを向く。
驚いた様子は、こちらがもう帰ったと思っていたことを教えてくれる。それなのに。
「なんで、いんの?」
どうして一人で俺の席に座っているのだろう。
どうしてこんなに、想ってくれるのだろう。
こちらの問い掛けに少し間をあけて。
「……そうですね」
宇田は柔らかく笑う。
「少しでも一緒にいたくて」
あのね、と話す姿はまるで恋する少女のようだった。
「俺、先輩が中学卒業して、後悔したんです。素直に一緒にいれば良かったって」
部活に入る気なんてサラサラ無かったのに、帰っている途中、先輩に捕まってしまって、一緒にサッカーをさせられたんです。
「覚えてますか?」と聞かれて首を横に振る。その返事に残念そうな顔は無かった。
「そこから俺の中学時代は色づいて、どうでも良かったことが全て輝くようになって、先輩がいつも眩しかった」
だけど。
「引退してしまって、俺の世界はまたモノクロに逆戻り」
宇田ははにかんでいるのに、その声は、表情は、
「すごく、さみしかった」
泣いているみたいだった。
「卒業するって分かってた。でもさみしかった。放課後になればそこにいた先輩がもういなくなるんです」
「宇田……」
「でも何も言えなくて、連絡先も聞く勇気もない。だから決めた、追いかけようって。それでもやっぱり、先輩のいない世界は何の意味もなかったなぁ」
そんな声で、笑わないで欲しい。
今すぐ抱きしめたくなる。
「一年間がんばってがんばって、ようやくまたあなたに会えた。嬉しかった。本当に嬉しかった。俺のこと忘れていても、それでも嬉しかったんです」
「ねぇ片村先輩」と、宇田は眉を下げながら言った。
「一緒にいたいんです。困らせてるって分かってても、一緒にいたいんです」
我が儘言って、
「ごめんなさい」
「~~~~っ」
カバンを落として走り出す。
座ったままの宇田を力一杯抱きしめた。
慌てた様子の宇田なんかどうでもいい。とにかく抱きしめて、伝えたい。
「好きだよ、宇田」
ピタリと動きが止まる。
まるで空気も時間も、この世界の全てが止まったような感覚。
それでいい。二人きりがいい。お前がいれば、それで。
「俺も宇田が好き」
「俺も、って……待って、俺が好きって、どうしてっ」
「えぇ?」
別の方向に慌て出した宇田につい笑ってしまう。
抱きしめた腕を少し緩めて、頭を撫でながら顔を見た。その頬は真っ赤に染まっている。
「お前、バレてないとでも思ってたのか?」
「だ、だって俺、先輩のこと好きだなんて一言もっ!」
「あぁ。大キライとしか言われてないな」
ツンとした言い方をすると、またアワアワしながら可愛い後輩は言い訳を始める。
「あれは、その、大スキとか言えないしっ」
「告白でもすりゃ良かったろ」
「困らせるって分かってたから」
「毎日有無を言わせず一緒に帰るのに?」
「それは、そうですけど」
困ったように目を伏せてしまう。
意地悪をしてしまったともう一度頭を撫でれば、宇田の腕がそっと俺の身体を抱きしめた。そして頬擦りをする。
「一緒にいられれば良かったんです」
「…………」
「先輩が卒業して寂しかったから、もう一緒にいられるだけで、幸せなんです」
「欲が無いなぁ」
「誰にでも優しくて人気な先輩と一緒にいるんですよ? 十分欲深いです」
「バカだな、ほんと」
もう一度抱きしめ直して、頭に顎を乗せた。
「もっと欲深くなれよ。一緒にいるだけじゃ足りないって言え」
「……言ったら一緒にいてくれる?」
「だぁから、一緒にいるだけじゃ足りないって言ってんだろ。お前は俺と手ぇ繋いで帰りたくないのか?」
「っ、帰りたい!」
「はい、素直ないい子」
少しだけ腕を緩めて顔を上げさせる。見つめ合いながらは恥ずかしい。でも恥ずかしくても、その瞳に映りたかったし、映したかった。
「ならお前は俺に何て言うのがいいか、もう分かるよな?」
「…………っ」
はく、と口を動かして、一度閉じる。それから片腕が俺の頬に触れて、宇田ではなくて俺が震えていることに気がついた。
余裕ぶっていても、心臓が破裂しそうなのはどうしようもない。
これは先輩の意地だとでも言おうかと思ったが、その前に宇田は優しく微笑んで言った。
「好きです」
俺は、
「先輩が大スキです」
いつも言っていた、大キライの言葉。それの裏には大スキが隠れていて、ようやくそれが顔を出す。
まぁ、バレバレだったわけだけど。
それでも嬉しくて、ときめいて。
「俺は大キライ」
「えぇ⁉」
「嘘だよばーか」
可愛い後輩を強く強く抱きしめた。
「大スキだよ、宇田」
④その気持ちはここにある。――終了

