片村幸也は気さくな性格で、クラスの中でも外でも顔が広い男である。
この高校は特進、普通、英文科クラスと分かれており、クラス替えも特に行われずに学年が持ち上がる。
クラスメイトが変わらないのは味気ないかもしれないが、友人との繋がりは安定するものだ――――が、正直片村にとってそれは些細なことでしかない。
「片村ぁ、教科書貸して」
隣りのクラスから声を掛けられることもあれば、
「片村はい、これこの間のお礼ね」
同じクラスの女子からもクッキーを貰ったり、
「おい片村、あいつらのケンカの仲裁してやってくんない?」
面倒ごとを押しつけられたりもする。
人間関係というものは複雑で、誰か彼かと絡めば問題が起きそうなもの。しかし片村はそういう類いのものは軽く受け流せる星の下に生まれたようで、
「おっし、まかせとけ」
浅く広く、相性が悪そうな人には極力近づかずに、人類皆好きそうな笑顔で笑う男だった。
だがしかし、これは一体どうしたものか。
「起立、礼」
チャイムの音と共に響く声、そしてイスと机が床を擦る音。
頭を下げれば、もう解放されたとばかりに頭を上げるのもそこそこに教室は騒がしくなる。
「ん~~!」
俺も両腕を上げ、ひとつ伸びをした。
窓側の一番後ろの席。はふ、と欠伸も付け足せば、前の席の友人男子が「じゃあな片村」とカバンを背負って教室を後にする。
「おー、部活頑張って」
そう返すと次は斜め前の友人女子。
「片村またね」
「気をつけて帰りーや」
「あれ片村日直?」
前の席の彼は俺の机の上に置いてある日誌を見て首を傾げた。
「そそ。でもすぐ終わらすー」
「メンドくせぇよなぁ」
「頑張れよ」と手を振られ、「あんがと」と俺も手を振って応える。
部活に所属している生徒はすぐ出て行く為、教室に残る者はすでに半分以下になっている。
俺も中学三年生までサッカー部に所属していたため、帰宅部になった高校一年生のすぐは教室に残ることにすごく違和感を感じていたし、少しだけ寂しい気持ちにもなったのだが、それも数ヶ月経てば慣れたのだから、人間の順応能力というものは素晴らしい。
だがしかし。そう、だがしかしである。
「片村ぁ」
廊下側の席から呼ばれた名前に、来た、と内心呟く。
「後輩くんのお迎え来たぞー」
教室のドアを見れば、そこには宇田の姿があった。
先々月入学したばかりの一年生。身長と見た目だけならば同じ学年の二年生に見えるだろうけれど、ネクタイの色がそれを否定する。それ故に宇田は容姿のみならず学年からして注目を集めるのだ。
先輩だらけの教室に後輩が一人、単身で乗り込んでくるのは勇気がいるだろうに、彼は全く気にした様子もなく教室に入り、真っ直ぐこちらへと歩んでくる。
「片村先輩、お疲れ様です」
「おうお疲れ、宇田」
俺以外に挨拶もしない。周囲を気にした様子もない。初めてこの教室に訪れた時と何一つ変わらず、変わったのはクラスメイトたちが宇田の存在に慣れたということだけだ。
「今日もお迎え?」
「はい」
ニコリとも笑わない宇田。けれどイケメン。口角が一ミリも持ち上がっていないのにキラキラ輝いて見えるだなんて、なんと罪深き後輩。
以前は女子が宇田のことを見ては『格好良いね』とか囁いていたけれど、もう今は平然と友達同士で何気ない日常会話を繰り広げている。
「俺と一緒に帰る?」
「はい」
「そっかー」
苦笑を描きながら背もたれに寄りかかり、頭の後ろで手を組んだ。結んだ髪の束を親指で少しいじる。
入学式の日。
呼び出しがあったあの日の後から、宇田は俺と帰る為に毎日この教室にやって来る。
大注目を浴びる中、『片村先輩、帰りますよ』と言われた時には、『え、なんで?』と聞いてしまった。
いやお前、俺のことが嫌いだって言ってたじゃんとは流石に言わなかったけれど。
対して宇田は『一緒に帰ることに理由がいりますか?』と逆に問い掛けてきて、混乱した。
確かにまぁ、一緒に帰ることに理由はいるか? 仲の良い友達とは一緒に帰るし、方向が同じなら途中までとか、放課後遊んで帰ることもあるし。
いやでも宇田とは仲が良いのか? でも元中の後輩だしな。一緒に帰っても変じゃないか。え、本当に変じゃない?
混乱に混乱を極めたが、俺の出した結論は。
(ま、いっか)
『おー、じゃあ、うん。まぁ帰るか』
そうして先々月から毎日、宇田と一緒に帰っている。断るような理由も無いからだ。
だがまぁ正直まだ混乱、というよりも困惑はしたままだ。
「俺、今日日直だからちょっと待たせるけどいい?」
「いいですけど、早く終わらせてくださいね」
「おっし、まかせとけ」
シャーペンを取り、指でクルリと回してから日誌に取りかかる。
宇田が何の躊躇いも無く俺の席の前に、こちら向きで座ったのを見て、ふむ、と動き始めたばかりの手を止めて頬杖をついた。
「お前さぁ、一応学年上のクラスにいるんだから、周りに挨拶とかちゃんとしろよ」
「部活じゃないんだからいいじゃないですか」
「そういう問題じゃないだろ? 目上の人に対する態度を大切にしろって言ってるんだ」
「片村先輩って細かいんですね」
隠しもせず大きな溜息をついて宇田は振り返る。そして残っている生徒に向かって「どーも」と頭を下げてこちらに向き直った。
これでいいですか? と視線が言っている。いや、そういうことじゃない。それでいいというわけではないが。
(まぁいいか、こんなもんで)
部活ではないと言われたら、その通りではあるので。
「そんな感じで教室に入るときくらいは頭下げとけ」
「ここ職員室じゃないんですけど」
「年上である点は同じだろ」
「はいはい、分かりました。ほら、先輩はさっさと日誌終わらせてください」
トントンと指先で日誌を叩かれる。
「あー、うん。待ってろ」
再びシャープペンを握るも、またまた再び頬杖をついた。
集中力がないという訳ではない。断じて。ただ気になったことはすぐ口にしないと気が済まないタチなのだ。
「お前さ、たまには自分のクラスの奴と帰れよ」
「どうしてですか」
「友達とかいるだろ」
「俺、友達いないんで」
「…………え」
「何ですかその顔。友達が、いないって、言ったんです。俺は」
「いやいや、そんな自信満々に言うなよ」
片村は小さく笑う。なるほど、それで一緒に帰ろうと誘いに来るわけか。
一応納得はするものの、だが中学の頃の宇田を思い出せば、一人で帰ることも苦ではなさそうだった。では何故今更になって一緒に帰る人を探しているのだろうか。
「片村先輩、日誌」
「あ、すんません」
また指先で叩かれ、今度こそ日誌にペンを走らせる。すると今度は別の方から「あのぉ」と声を掛けられた。
顔を上げれば残っていた友人男子数名がこちらの様子を伺っている。
「ん? どしたー」
「それならさ、俺らと一緒にカラオケ行かね?」
「「カラオケ?」」
二人ハモって首を傾げた。
「いやさ後輩くんと帰るのジャマしちゃ悪いと思ったんだけどよ、二年に上がってから片村と遊んでねぇから、たまには遊びてぇしさ」
確かに遊んでないな。俺は頷き、続きを促す。
「んで話聞いてたら後輩くん、友達いねぇって言うし、なら俺たちと友達になればよくね? って考えたんだけど……」
「どう?」と友人が恐る恐る訊ねてくる。
「…………」
あえて返さずに宇田の返答を待ってみる。大体の予想はついている。きっと友人も。だからこんな及び腰なのだろう。先輩なんだからもっと大仰な態度でいいだろうに。
宇田は表情を変えることなく答えた。まさに皆の予想通りに。
「俺、別に友達とかいらないんで」
「デスヨネー!」
「でも行きます」
「行くんかい!」
つい俺も突っ込めば、宇田が「だって」とキョトンとした。その顔は年相応に見える。
「先輩、カラオケ行くでしょ?」
「あー、うん。行きたいけど」
「なら行きますよ」
そこでやっと少しだけ彼の頬が緩んだ。
それはなんだか花が開いたような笑みという例えが似合うようだったのだが、
「音痴な先輩の歌を聴きに」
「音痴じゃねぇよ!」
気のせいだった。
(学年違うのに一緒にカラオケ行くってすげぇな)
少し広めのカラオケボックスで座りながら俺は隣りに座る宇田を見た。
(んで歌うの拒否るってのもほんっとすげぇな)
「俺、歌とか知らないし興味無いんで」
手渡されたタッチパネルを手のひらで返す宇田を遠い目で見つめる。
仲の良い先輩相手ならまだしも、今日初めて話す年上にこういう態度が取れるだなんて、こいつはどれだけ鋼の心を持っているのだろうか。
「ごめんなー、愛想も何もない後輩で」
「いやいや、俺らが付き合わせただけだから」
「俺を付き合わせたのは片村先輩なんですから、片村先輩が俺に謝ってください」
「てめぇはお黙りなさい」
可愛くない後輩の額をつつく。
「まっ、折角だからさ、楽しみたい奴が好きなように楽しもうぜ!」
俺は立ち上がり宇田を壁側の席に追いやって、その隣りに座り直した。テーブルに置かれたドリンクバーのコップも親切に移動させてやる。
「なんですか?」
「お前は隅っこで歌でも聴いてろ」
「歌わないんだろ?」と聞けば「まぁ」と頷いた。少しだけ泳がせた視線を見逃さない。本当に興味がないのだろう。連れて来られても困るだけだろうに。
(ほんと、何で一緒に来たんだか)
付き合いが良いのか悪いのか分からない。
「この片村先輩の歌声でも聴いて、メロってろよ」
「おー! 言うじゃん片村!」
友人男子が片村の向こうから顔を笑いながら覗かせた。
「あ、でも後輩くん、片村の歌聴いたことあるんだっけ」
「いえ、無いですけど……」
「そうなんだ? じゃあ存分にメロるといいよ」
「ほら片村の十八番!」
広告のような画面がパッと切り替わる。
流れてきたジャンジャンという派手な伴奏は爆音で、友人が急いで音量を調節している中、「よっしゃ、まかせとけ‼」と俺はマイクを握って立ち上がった。
高校二年生になってから初、友人との放課後カラオケ!
「盛り上がってくぜ~!」
「ひゅー!」
テンションを上げた友人男子たちにとってこの曲はもう何度も聴いたことのある曲の為、手拍子も完璧だ。
拳を突き上げて俺は息を吸って――――
「~~~~♪」
「ハイ! ハイ! 相変わらずの、へったくそ!」
「~~~~!」
「…………え、待って先輩」
ドッと湧く室内で、宇田だけがポカンと口を開ける。
「ガチで音痴なの?」
「ふいー、いい汗かいたわー」
俺は額を拭いながら廊下を歩く。
ひとしきり友人らと騒ぎ、フリードリンクを取りに来たのだ。
あちらこちらから溢れるビートを聴きながらその場所まで行くと、同じ男子高校生の先客がいた。
「え、ちょ、やば、どうするよこれ」
「笑えない笑えない」
「マジ止まンねぇし」
ドリンクを注ぐ機械の前で慌てた様子の彼らに、「ん?」と後ろから声を掛ける。
「どした?」
「あ……」
振り返った男子のネクタイの色は宇田と同じ赤色。そして向こうから見たらこちらは水色。同じ高校の先輩だとすぐ分かったのだろう。彼らは焦りながら機械を指さした。
「飲み物が止まらなくて」
見れば、注ぎ口に設置したコップはもうドリンクが溢れていて、それなのに未だに注がれている状態だ。床にまで流れ出てしまっている。
「あらー」
こりゃ洪水だ、と苦笑する。
「お前ら制服は濡れてないか?」
「え、あ、はい、大丈夫です」
「フロントは……一階まで下りないとだから部屋でコールして店員呼ぶぞ」
「お前、自分の部屋覚えてるな?」と、一人の肩を軽く叩く。
「四階のフリードリンクの機械が故障してジュースが止まりませんってだけ伝えろ」
「はいっ」
「よし、行って来い」
端的な指示で他の彼らにも続ける。
「まぁ無駄かもしれないけど、洪水被害を最小限にする為にコップを俺に渡せ」
歌って騒いで暑くなり、すでに捲っていた袖をより上に捲り上げる。そしてジュースの滝に手を突っ込んで溢れていたコップを取った。そして新たなコップを置いてそれに注がせる。
「片村先輩? なにやってるんですか?」
「おー、宇田。いいところに来たじゃん」
同じくドリンクのおかわりに来たのだろう宇田に、俺は満杯になったカップを渡した。
「俺ら、しばらくコーラな」
「…………」
これは一体どういう状況だと宇田は顔をしかめて、だがすぐ察したのだろう。
「まぁいいですけど」
「はい、いい子」
素直に頷いた後輩を褒めれば、「報告しました!」と先ほどの男子生徒が帰ってくる。するとすぐ店員も駆けつけ、何とかその場は落ち着いた。
「ふー、やれやれだったな」
コーラまみれになってしまった手をおしぼりで拭いて笑う。あとの掃除は店員の方でしておいてくれるようだ。
「あの、先輩。ありがとうございました」
男子生徒が俺に頭を下げた。礼儀正しい後輩である。
「おう、いいってことよ。お前らも驚いたろ」
「ほんと助かりました」
「コーラの滝なんて初めて見たわ。笑い話にでもしとけ、な?」
ハハ! と笑うと彼らも緊張が解けたように笑顔になる。良い空気に戻ったそれに、よしよしと内心で頷いていれば、突然グイと腕を引かれた。
「片村先輩、コーラ運び終わりました」
「宇田か、急にひっぱるな。驚いただろうが」
「戻りましょう」
「はいはい」
もしかしたら俺がいない部屋は気まずいのかもしれない。いや、むしろそれくらいのメンタルを持った方が今後の為だと思う。
「じゃあな」
宇田に引っ張られながら男子生徒に手をヒラヒラさせると、「あの!」と引き留められる。
「何組の先輩ですか! 今度お礼します!」
礼儀正しいのみならず、なんと律儀な子なのか! しかしそんな必要はないと返す前に、突然視界が暗くなった。
背中が温かくて、頭に頬擦りされている感覚。
背後から抱きしめられる形で目を塞がれていると分かったのは、再び宇田に引っ張られながら歩き出してからだった。
「お前らの先輩じゃない。俺だけの先輩だから関わるな」
「宇田?」
「行きますよ、先輩」
「え、あ、おいっ」
たたらを踏みながらついて行く。
そこまで遠くない部屋につけば、他の友人らが必死にコーラを飲んでいるところだった。
もう説明はされているようで、みんな笑ってコップを掲げる。
「はは、ごめんな付き合わせて」
「俺ら帰ります」
「……ん?」
「お金、適当に置いておくんで」
「は?」
「お疲れ様でした」
まるで風のように去って行く自分たちに全く追いつけない。友人たちも呆気にとられて言い返す暇も無かった。
宇田は俺のカバンも一緒に持ち、二人分の代金を置いて、腕を引きながらカラオケを後にした。
何度も「待て待て!」と止めようとしたけれど、「帰りますよ」の返答一択で埒が明かない。
この後輩は一体なにを考えていて、何がしたいのだろう。
(まったくこいつは……でもまぁいいか)
ここで腕を払ってまで引き留める理由はない。友人たちにはまた明日謝ればいい。
夕陽がビルの間から輝くのを、目を細めて見る。きっと明日も晴れだろうなんてのんきなことを考え、そして同じくのんきな声で「うーだ、くん!」と後ろから、掴まれている腕を軽く振った。
「もう少しゆっくり歩いて。あと力も抜いて」
「…………」
歩くテンポは落ちていくが、腕の力は変わらない。
しばらく沈黙の間。ふむ、と俺は宇田に訊ねた。
「なんかイヤだった?」
「…………」
雑踏。電車の音と、人の声。
自転車が細い道を速いスピードで駆けていき、バス特有の息を吐くような音が耳に届く。
二人で歩いているのに手が繋がっているため道に落ちる黒い影はひとつ分だ。
「片村先輩は誰に対しても優しいですよね」
背中が言う。
前を向いて話す声は聞こえづらい。でも片村にはハッキリと聞こえた。
「俺はそういうところが大キライです」
「…………」
「先輩が可愛がる後輩は、俺だけでいいじゃないですか」
その言い方は夏が始まる夕焼けの風よりもひんやり冷たい。けれどその冷たさがドライアイスのように、触れたら火傷してしまいそうだ。
「――――――ぇ」
ハク、と口を開いて、閉じる。息が止まって。それなのに勝手に声が出そうだった。。
鈍感な奴ならきっと気付かない。でも確信が無いとはいえ、察しが悪くない俺はなんとなく気付いてしまった。
――――俺、先輩と同じ高校に行きますから!
――――一緒に帰ることに理由がいりますか?
なるほど。なるほどなるほど。
「…………っ」
マジか‼
「宇田!」
片村は走るようにして一歩踏み出し、宇田の横に並ぶ。それに驚いたのかずっと離れなかった手がようやく離れた。
「一緒に帰ろう!」
声が裏返りそうだったが、なんとか耐える。
「は? いま一緒に帰ってますけど」
「あー、まぁそうだけどさっ」
確かにその通りだ。予想外の展開に驚いてパニックになっている。だがその原因である宇田は一体どうしたのかと怪訝そうな顔をするだけ。
おいお前、結構な爆弾発言をしたことに気付いていないのかコラ。
「ほら、ここから一緒に帰ったことはないから」
「まぁそうですね」
そこは納得するんかい! という突っ込みはどうにか飲み込み、改めてというように深呼吸してから訊ねた。
「お前、ここからは家どっち方面?」
毎日一緒に帰っているとはいえ、途中の分かれ道で別になる。
徒歩圏内といえど、東西南北の全てを把握しているわけでは無い。
「先輩はどっちですか?」
「俺はあっち」
近くにある駅の向こうを指させば、宇田も返した。
「俺もそっちです」
「……いやそれ絶対嘘だろ」
「いいから」
彼はどこか楽しそうに言う。
「一緒に帰りましょう、先輩」
小さな笑顔を向けられて、その珍しい笑みにつられてこちらも笑顔になった。
「しゃあねぇなー」
頭の後ろで腕を組み、一緒に並んで歩いて行く。
しかしその背中は。
(さて、と)
先ほどのコーラのような滝汗をかいていた。
(困ったことになったぞ)
それなりに人に好かれやすいことは自負している。だがまさか、まさかこの後輩が俺のことが好きだなんて。
(予想外だっての!)
①早速気付きました。――終了

