僕がそう話すと、彼女はその様子を思い浮か
べたのか、くすくす、と可笑しそうに笑った。

 「それ、わかります。わたしも電車の中でそう
いう男性を見かけたことがあって、周囲の人に訝
しげな目を向けられているのが、ちょっと気の毒
でした。きっと、その本が面白くて仕方なかった
んでしょうけど、面白い本を読むときは場所を
選ばないとダメですよね」

 そう言ってまた笑みを深めた彼女に、僕は得
も言われぬ感情を抱いた。そうしてその想いの
まま、僕は唐突に彼女に訊いた。

 「……あの、この店にはよく?」

 彼女の連絡先を知ることが出来ないなら、
せめてまた会える可能性が欲しかった。ここが
彼女のお気に入りの店なら、いつかまた会える
かも知れない。

 そんな淡い期待を抱いて僕が訊ねた時だった。
 テーブルの上の携帯がガタガタと震え出し、
僕はそれを止めた。

 「……失礼」

 父親からの着信に、慌てて応答ボタンに触れ
てしまった僕は、席を立つ間際そう彼女に声をか
けた。彼女は淡く笑んで、僕を見上げていた。

 けれど話を終え、急いで席に戻ってみればそ
こにもう彼女の姿はなく、僕は自分でも驚くほど
そのことに落胆したのだった。

 それから僕は、無意識のうちにその店に足を
運ぶことが増えた。

 その店の、その席に座れば、彼女に会えるよ
うな気がしたのだ。

 けれど何度その場所を訪れても、彼女を見つ
けることは出来なかった。どこの誰かもわからな
い人間と、偶然、再会することは容易ではない。

 考えてみれば、この広い世界で、約束もない
まま誰かと偶然会える確立など、ゼロに近いの
かも知れない。

 人と人との出会いは、数億分の一という可能
性を超えてもたらされる、奇跡なのだ。その奇跡
がもう一度起こらない限り、きっと再会は叶わな
いのだろう。

 やがて僕がその店に足を運ぶ頻度は、減って
いった。

 時折、近くを通りかかった際に店内を覗いてみ
る。その程度だ。それでも、記憶から彼女が消え
たわけではなかった。

 あの日のハンカチに残る染みのように、彼女の
やわらかな笑みが、脳裏に焼き付いて消えること
はない。

 もしかしたら一生、忘れられないかも知れない。

 遂にそんなことを思うようになっていた矢先だ
った。

 奇跡は再び起きた。

 その日は、僕がこの会社で働くようになってか
ら三度目の入社式だった。専務として新入社員へ
の祝辞を任されていたが、会場へ入るにはまだ
早く、僕は控室で身なりを整えていた。

 そして、そろそろ会場へ向かおうかと部屋を出
た時だった。

 「きゃっ!」

 軽い衝撃と共に女性の声が聴こえ、僕は咄嗟
に声をかけた。