恋に焦がれて鳴く蝉よりも

 会社に来れば、彼に会えると思っていた。
 たとえ詩乃守人としての彼を失ったとしても、
上司としての彼はずっと自分の側にいてくれる
のだと、そう思っていた。

 けれどいまや、そのどちらも残っていない。
 どうして、こんなことになってしまったのか。
 蛍里はつんと痛む鼻先に、ハンカチをあてた。

 彼の匂いがする。
 彼が自分に残していったハンカチだ。
 これは、あなたが持っていてください。
 あの日の声が、耳に蘇る。

 そう言えば、ハンカチは“別れ”を示唆するもの
なのだと、いまになって思い出す。

 彼はそういう意味で、あの時、自分の手に返し
たのだろうか。

 もう、自分はいなくなるのだと、暗に伝えるた
めに残していったのだろうか。

 そこまで考えて、蛍里は細く息を吐いた。

 彼は自分に何も告げずに、去って行った。
 そうして、彼にそうさせたのは、自分なのだ。
 あの夜、彼の腕を離したりしなければ、こんな風
に、すべてを失うことにはならなかった。

 蛍里は目に滲んだ涙をそっと拭うと、顔を上げ
た。周囲を見渡せば、ざわめいていた社員たちも、
始業を前にそれぞれの準備を始めている。その
様子を見やって、蛍里はハンカチを引き出しにし
まった。

 いまは仕事だ。
 泣いている場合ではない。

 そう自分に言い聞かせて、パソコンの電源を入
れた時だった。ポンと肩を叩く手があって、蛍里は
振り返った。

 「……五十嵐さん」

 「ねぇ。顔色悪いけど、大丈夫?」

 囁くようにそう言って、結子が蛍里の顔を覗く。
 蛍里は小さく頷き、ぎこちなく笑って見せた。

 「大丈夫です。昨日はよく眠れなかったから、
そのせいかも。ありがとうございます」

 そう答えた蛍里に、結子は複雑そうな顔をし
て頷くと、「無理しないでね」と、また肩を叩いて
自分の席についた。




 「ねーちゃんさ。この味噌汁、みそ入れた?」

 久しぶりに休日をのんびりと家で過ごしてい
た拓也と食卓を囲んでいた蛍里は、弟の問い
かけに「あっ」と声を上げ、顔を顰めた。

 「入れてないかも……」

 「だよな。なんか、味薄いなーと思った」

 「ごめん」

 沢庵に箸を伸ばしながらそう言った蛍里に、
拓也はずずず、と豆腐とお揚げのすまし汁を
すすりながら、じっと姉の顔を見つめた。

 そうして、首を振った。

 「別に。普通に美味しいからいいんだけどさ。
ねーちゃん、なんかあった?この頃ぼんやりし
てること多いよね」

 空っぽになったお椀をテーブルに置き、拓也
が心配そうに眉を寄せる。蛍里は口に運びか
けた箸を止め、表情を曇らせた。

 弟に心配をかけないようにと、いつも通りの
自分でいたつもりなのに、こうして見透かされ
てしまえば、途端に我慢していたものが込み
上げてくる。

 蛍里は箸を置き、膝の上で両手を握ると、
消え入りそうな声で言った。