恋に焦がれて鳴く蝉よりも

 「お役に立てず、申し訳ありませんでした」

 「そうじゃない!わたしは謝れと言ってるわけ
じゃないんだ」

 理由も話さず、ただ謝罪の言葉を口にした僕
に、父はまた首を振り、語気を強めた。そうし
て、もどかしそうに拳を握り、膝を叩いた。

 親子になって十年経つが、こんな風に父が
感情を露わにするのは初めてで、僕は頭を上げ
ることが出来ない。

 そんな僕を前に、父は気持ちを落ち着かせる
ように呼吸をひとつすると、口調を和らげた。

 「なぁ、一久。好きな女ができたのか?そうな
んだろう?」

 その言葉に僕はゆっくりと顔を上げ、頷いた。
 父が目を見開き、得心したように何度か頷く。

 多くを語る必要など、なかった。
 僕には心に想う女性がいる。
 それが、この結末のすべてだ。

 父はソファーの背に体を預けると、天井を仰ぎ
両手で顔を覆った。

 そうして、くぐもった声で言った。

 「お前は何も悪くない。悪いのはわたしなんだ。
経営が立ち行かなくなったツケを、お前ひとりの
肩に背負わせようとした。それでお前が不幸に
なるわけじゃない。良縁なら幸せになれるんだ
と自分に言い訳をしながら、わたしはお前という
存在に甘えてしまった。酷い父親だ」

 最後のその言葉は、僕の心を抉った。父には、
感謝こそすれ、恨んだことなど一度もなかったか
らだ。父が悪いわけじゃない。おそらくは僕も、
破談を決めた彼女も、誰も悪くはないのだろう。

 僕は唇を噛んだ。

 もし、彼女から先に破談を申し出ていなかった
ら、僕から父に話をするつもりだった。あの夜、
滝田に触れられている彼女を見た瞬間、僕は
そのことを決意したのだ。

 けれど、もし、そうしていたら、父はもっと
自責の念に駆られたかもしれない。

 僕は手の平で隠されている父の顔を想像し、
胸を痛めた。

 「あなたの息子になれたから、いまの僕がある
んです」

 僕は穏やかにそう言った。
 父がゆっくりと僕を見る。
 涙こそ零れていないが、目は充血している。

 「あなたを父と呼べることが、僕は本当に嬉し
かったんです。だから、僕の我が儘であなたを
苦しめることだけは、したくなかった。こんなこと
になってしまい、申し訳ありませんでした」

 そこまで言った僕に父は顔を赤くすると、歯
を食いしばるようにして、頷いた。

 「お前は何も心配する必要はない。M&Aに
踏み切ろう。トウショウホールディングスから
話は来てるんだ。今のご時世、経営形態の転換
に踏み切る企業は、この業界も多い。同業とな
ら、互いの問題を解決しながら良い関係を築け
るだろう」

 父は経営者の顔をしてそう言うと、「よし」
と立ち上がった。

 もう話すことは何もないということだろう。
 けれど、僕にはまだ話があった。

 「待ってください」

 僕は父を見上げ、懐から白い封筒を取り
出した。