恋に焦がれて鳴く蝉よりも

 それは、母の存命中から義伯父がよく口にし
ていたことだった。

 僕は喉が詰まるような息苦しさを覚えながら
彼を向き、ゆっくりと頷いた。茜色の空を背に、
義伯父が微笑む。

 僕がこの人の息子になった、瞬間だった。

 僕は菅原の籍を抜け、榊一久と名乗るように
なった。大学では経営学を専攻し、企業の経営
に携われるよう、組織運営の理論はもちろん、
財務・人材マネジメントなどを学んだ。

 将来、経営者の一員として父の隣に立つこと
を意識しながら、時間を見つけては人知れず
物語を綴る。母の代わりを生きるつもりではなか
ったが、一度覚えた“文章を綴る”という楽しみは、
僕の心を掴んで離さなかった。

 僕は小説サイトを立ち上げ、自分が書き上げ
た物語を『詩乃守人』という名で公開するように
なっていた。自由に結婚相手を選ぶことができ
ないと悟ったのも、その頃だった。

 けれど、別段、そのことを苦に感じることなど
なく、誰と結婚してもそれなりに幸せになれるの
だろうと、軽く受け止めていた。

 あの日、彼女に出会うまでは。

 「どういうことなんだ?いったい」

 今から行く、という短いメール文と共に、父が
僕のマンションを訪れたのは、彼女と緑道公園
で会った二日後の夜のことだった。

 僕は大きな体をソファーに深く沈め、苦虫を
噛み潰したような顔をしている父の向かい側に
腰かけた。そして、顔を覗いた。

 「どういうことか、というのは?」

 「だから……上手くいってたんじゃないのか?
と訊いてるんだ。さっき先方から連絡が来た。
今回の話はなかったことにして欲しいと、紫月
さんの方がそう言ってきたそうだ。どういうこと
なんだ?いったい。あんなに、お前との結婚を
望んでいたというのに。彼女の方から破談を
申し出るとは」

 渋い顔のままで矢継ぎ早にそう言って、父が
何度も首を振る。

 僕はその話を聞いた瞬間に、あの夜のことを
思い出していた。

 彼女が僕に決断を迫った、あの夜。

 意を決しカードキーに手を伸ばそうとした僕に、
彼女は淡く笑んで、その手を止めたのだ。

 「お気持ちは、わかりました」

 そう言った彼女の気持ちは、その時はわから
なかった。

 僕のした選択が、彼女にとって正解だったの
か、も。けれど、破談の知らせを受けたいまに
なって、ようやく、僕は彼女の真意を悟ることが
できた。

 結局、人は自分の『心』が選択した結末にしか、
辿り着くことは出来ないのだ。

 僕は身を乗り出し、納得のいく説明を待ち構え
ている父に、深く頭を下げた。