安堵したような、自嘲するような、不思議な
笑みだ。

 「まさか社員に見られていたとは、気付きませ
んでした。でも、そのことであなたに責められる
のは、少し複雑な気分です。あの日、僕と彼女の
間には何もなかったし、そうと聞いてあなたが
傷ついてくれたことの方が、僕は嬉しい。本当に、
酷い男だ」

 ついには、零れ落ちてしまった蛍里の涙を、
彼の指が拭う。

 蛍里はいまの言葉を信じられない思いで聞き
ながら、頬を滑る、額に触れる、彼の唇に胸を
苦しくさせた。

 「でも……それでも、専務に婚約者がいること
は、変わりません!」

 あらがうように、首を振りながらそう言った蛍里
に、専務は悲しげに顔を歪め、頷く。彼にこんな顔
をさせたくなどないのに、本当は、彼を抱き締めて
離したくないのに。

 一欠片のモラルと罪悪感が、それを赦さない。

 こつり、とまた額が合わされる。
 切なく掠れた声が、夜の闇に寂しく響く。

 「あなたのいう通りです。僕には決められた
相手がいる。だから……あなたが僕をさらってく
ださい。あの『白いシャツの少年』のように、あな
たが、僕をここから連れて逃げて」

 その言葉に、蛍里は瞬きを止める。

 ああ、どうして……この人が詩乃守人なのだ
ろう。もしも、彼が別人だったら、自分はこの人を
忘れ、誰も傷つけることなく笑っていられたかもし
れないのに。

 けれど同時に、蛍里は気付いてしまう。

 心の底では、この人が詩乃守人で良かったと
思っている自分がいることに。彼の手から、あの
物語が綴られたという事実が、愛しくて堪らない
ということに。

 「無理です。そんなこと………できません」

 蛍里は消え入りそうな声で言った。

 彼が額を離す。そして両手で蛍里の頬を包み、
その目を覗き込んだ。

 「どうして?諦めなければどうにかなる。僕に
そう言ってくれたのは、あなただ」

 確かにあの時、自分はそう言った。臆面もなく。
 諦めてしまったら、どうにもならないと。
 専務も、その想い人も、幸せになって欲しい、
と。

 でもそれは、その相手が自分だなんて、知らな
かったから言えたことだ。知ってしまったいまは、
そうすることで彼が失うものの多さを、考えずに
はいられない。

 自分は構わない。誰に否定されても。
 誰に後ろ指を指されても。きっと、耐えられる。
 けれど彼は、その地位も、いままで築いてきた
信頼も、すべて失ってしまうのではないだろうか?

 そうして、それらを失った彼に自分は何を与え
ることができるというのだろう。