どきりと、心臓が鳴った。

 自分に向けられた笑みが、いつか見たそれと
同じだったからだ。あの日、視察に行ったレス
トランで、「心に想う人はいないのか」と訊い
た自分に、彼はいまと同じ笑みを向けた。

 胸が締め付けられるような、深い、深い笑み
だった。

 それがいま、自分に向けられている。

 蛍里は信じられない思いで、彼の眼差しを受け
止めた。

 専務が蛍里を向く。

 繋いでいた手が離され、その手が蛍里の頬に
添えられる。あの日、自分を守ってくれた手だ。

 「あなたが惹かれているのは、詩乃守人だけ
ですか?僕には惹かれていない?僕は上司と
してではなく、一人の男として、ずっとあなた
を見ていたのに……」

 その言葉を聞いた瞬間、蛍里は心が震える
のを止められなかった。

 彼を好きに、なってはいけない。
 彼に好きだと、言ってはいけない。

 頭ではそう思うのに、彼の告白を前に小さな
理性はあっという間に掻き消されてしまう。蛍里
は、彼の手に自分の手を重ね合わせた。

 そうして、言った。

 「わたしも……好きです。専務のこと。だから
……っ」

 あなたを忘れるために、“彼”に会いに来たん
です。

 そう、告げるはずだった蛍里の唇は、彼の
唇に塞がれていた。抱き寄せられた腕の中で、
それでも、あらがうことなどできるはずもない。

 蛍里は彼の広い背を抱き締め、その温もりを、
その想いを、必死に受け止めた。

 互いに求め合った唇が、やがて離れてゆく。

 濡れた唇をひんやりとした風が撫でて、唇を
庇うように、彼の指がそっとなぞった。

 蛍里は小さく首を振る。

 彼に触れられて嬉しいのに、やはり、想いの
ままに求めることは赦されない。

 彼には、婚約者がいる。

 「やっぱり……だめです。こんな……」

 蛍里は彼から目を逸らして、泣きそうな声で
言った。こつりと、専務の額が合わせられる。

 彼の息が、まだ濡れたままの唇にかかる。

 「……どうして?」

 「だって、専務は……結婚しなきゃならない
じゃないですか」

 「好きでもないのに?」

 どうしてそんなことを言わせるのかと、責めた
かった。こんな時に、こんな時だから、結子から
聞いたことを思い出してしまう。

 蛍里は目に涙を溜めて、彼を睨んだ。

 「でも、その人と……ホテルに行ったじゃない
ですか。なのに、そんな言い方……」

 その言葉に彼は目を見開き、やがて眉間に
シワを寄せる。

 「どうしてそんなことまで……」

 知っているのか?と言いたいのだろう。

 当たり前だ。

 蛍里は一度、躊躇うように唇を噛んだ。

 「谷口さんが……偶然、ホテルで専務を見た
って……」

 涙声でそう言った蛍里に小さなため息をつい
て、専務が口元に笑みを浮かべる。