「彼もきっと、動けずにいるんでしょうね。
あなたと同じように……」
まるで独り言のようにそう言って、専務が蛍里
を向く。
向けられた眼差しは夜の光と闇を溶かし込ん
でいるように、美しい。蛍里はその瞳にどきりと
して、目を逸らすと、「そういえば」と思い出し
たように言った。
鞄からあのハンカチを取り出す。
「これ、ありがとうございました。本当は、昨日
返そうと思っていたんですけど……」
しっかりアイロンがけされたハンカチを、彼の
手に渡す。
ハンカチと共に、彼のぬくもりも去ってしまう。
そんな風に思うのは、これでこの想いを手放さ
なければならないという覚悟が、心の中にあるか
らだ。蛍里は息苦しくなるような寂寥感に苛まれ
ながらも、つとめて自然に微笑んだ。
専務は手の中にあるそれを一度見つめ、
コートのポケットにしまう。何かを考えているの
か、それとも、何かを思い出しているのか?
今日の彼はいつもより口数が少ない。
けれど、蛍里はその理由を考える余裕はなく
なっていた。時計の針に目をやれば、すでに時刻
は七時を指している。
彼が来てしまう。
そうして、専務と鉢合わせしてしまう。
蛍里は、落ち着かない様子で辺りを見回した。
「誰か探しているんですか?」
ついには席を立って周囲を見回し始めた蛍里
に、専務が訊いた。
「あの、ここで人と待ち合わせをしていて。
もう、その人が来る頃だと思うので……だから」
この場を去ってほしい。と、さすがにそこまで
言えず、困った顔をした蛍里に、彼は尚も穏やか
な声で訊いた。
「その相手というのは、以前、あなたが言って
いた“気になる人”ですか?」
自分を見上げながらそう言った専務に、蛍里
は表情を止めた。
そう言えば、あの時、レストランでその話をした
けれども……そんなことより、どうしていま、彼は
自分が“その人”を待っていると、そう思うのか?
なぜか、違和感があった。
そうして、その違和感が少しずつ自分の中で
確かな温度を持って変わってゆく。
蛍里は、まさか、と思いながらも、恐る恐る
頷いた。彼がゆっくりと口を開く。
「その相手なら、もうここにいますよ」
耳に飛び込んできた言葉は、やはり、蛍里の
心臓を大きく跳ねさせた。信じられない思いで、
目を見開く。
彼が、詩乃守人、その人だというのか?
それとも、何かの間違いだろうか?
だって、彼は自分の上司で、あの会社の専務
で、なのに詩乃守人という筆名であの小説を綴り、
読者である自分と繋がっていたというのか?
ぐるぐると思考の波が押し寄せて言葉を失くし
てしまった蛍里を、彼は優しい眼差しで見上げて
いる。
あなたと同じように……」
まるで独り言のようにそう言って、専務が蛍里
を向く。
向けられた眼差しは夜の光と闇を溶かし込ん
でいるように、美しい。蛍里はその瞳にどきりと
して、目を逸らすと、「そういえば」と思い出し
たように言った。
鞄からあのハンカチを取り出す。
「これ、ありがとうございました。本当は、昨日
返そうと思っていたんですけど……」
しっかりアイロンがけされたハンカチを、彼の
手に渡す。
ハンカチと共に、彼のぬくもりも去ってしまう。
そんな風に思うのは、これでこの想いを手放さ
なければならないという覚悟が、心の中にあるか
らだ。蛍里は息苦しくなるような寂寥感に苛まれ
ながらも、つとめて自然に微笑んだ。
専務は手の中にあるそれを一度見つめ、
コートのポケットにしまう。何かを考えているの
か、それとも、何かを思い出しているのか?
今日の彼はいつもより口数が少ない。
けれど、蛍里はその理由を考える余裕はなく
なっていた。時計の針に目をやれば、すでに時刻
は七時を指している。
彼が来てしまう。
そうして、専務と鉢合わせしてしまう。
蛍里は、落ち着かない様子で辺りを見回した。
「誰か探しているんですか?」
ついには席を立って周囲を見回し始めた蛍里
に、専務が訊いた。
「あの、ここで人と待ち合わせをしていて。
もう、その人が来る頃だと思うので……だから」
この場を去ってほしい。と、さすがにそこまで
言えず、困った顔をした蛍里に、彼は尚も穏やか
な声で訊いた。
「その相手というのは、以前、あなたが言って
いた“気になる人”ですか?」
自分を見上げながらそう言った専務に、蛍里
は表情を止めた。
そう言えば、あの時、レストランでその話をした
けれども……そんなことより、どうしていま、彼は
自分が“その人”を待っていると、そう思うのか?
なぜか、違和感があった。
そうして、その違和感が少しずつ自分の中で
確かな温度を持って変わってゆく。
蛍里は、まさか、と思いながらも、恐る恐る
頷いた。彼がゆっくりと口を開く。
「その相手なら、もうここにいますよ」
耳に飛び込んできた言葉は、やはり、蛍里の
心臓を大きく跳ねさせた。信じられない思いで、
目を見開く。
彼が、詩乃守人、その人だというのか?
それとも、何かの間違いだろうか?
だって、彼は自分の上司で、あの会社の専務
で、なのに詩乃守人という筆名であの小説を綴り、
読者である自分と繋がっていたというのか?
ぐるぐると思考の波が押し寄せて言葉を失くし
てしまった蛍里を、彼は優しい眼差しで見上げて
いる。
