彼にこんな顔をさせる女性が、何処かにいる
のだ。なのに、その女性と彼が結ばれることは、
ない。そう思うと、どうにも胸が苦しくて仕方
なかった。安易に、「おめでとう」などと口に
してしまった自分が、許せない。

 自己嫌悪から俯いてしまった蛍里に、専務の
穏やかな声が聞こえた。

「この話はもうやめましょう。せっかく、美味し
いものを食べているんですから。もっと、楽しい
話を。そうだな……折原さんは誰か気になる人と
かいるんですか?」

 唐突にそんな話を振られ、蛍里はびっくりして
顔を上げる。そのリアクションを予想していたか
のように、専務はくすりと笑った。

 一瞬で場の空気が変わる。

 「ど、どうしてそういう話になるんですか?」

 「どうしてって、あなたが先に僕の心の内を聞
き出したんだから、今度はあなたが話す番です。
フェアにね。セクハラだと主張するならこれ以上
は訊きませんが」

 まるでいたずらっ子のような顔をして、蛍里の
顔を覗く。

 セクハラだなんて……先にそう言われてしまう
と、その言葉を盾に逃げることもできなくなる。

 蛍里は敵わない、と言いたげに口を尖らせると、
控え目な声で言った。

 「気になる人は……います。どこの誰とは言え
ませんけど。その人の存在があるだけで、気持ち
が明るくなるというか、平凡だった日常が、色づ
くというか……」

 心に想い浮かべたのは、もちろん、顔も名前も
知らない詩乃守人。その人だった。

 その想いはまるで、物語の主人公に恋をしてい
るようで、やはり、現実の恋には程遠いのかもし
れないけれど。

 気になる人はいるか?と訊かれれば、今はその
人の顔しか浮かばない。

 「少し、妬けますね」

 「……えっ?」

 正直に自分の気持ちを口にした蛍里に、そんな
呟きが聞こえて、蛍里は思わず聞き返した。

 当の本人はとぼけているのか、笑んだままで
小首を傾げている。空耳、だろうか?

 「いえ。あなたは素直な人だと。適当に茶を濁
せば済むことも、こうして正直に答えてくれる。
そういう、純朴な人が身近にいてくれると、僕も
ほっとします」

 もしかして、言わなくても良かったのか?と、
彼のその言葉に真意を見つけて、蛍里は目を見開
いた。

 そうして、専務につられたように、笑う。
 何だか、とても心地が良かった。

 始めのうちは緊張ばかりで、料理の味すらわか
らなかったのに、いまは少し冷めたパスタも美味
しい。

 こんな特別な時間は、きっと二度とないだろう。

 そう思って、チクリと胸が痛んだ事に蛍里は気
付かないまま、運ばれてきたデザートを堪能した
のだった。