「すっ、すみません。わたし、一人でべらべら
と」

 「いや。そういうことなら、僕の心配は確かに
的外れでしたね。でも、時間を忘れてしまうほど
没頭できる趣味があるのは、羨ましいです」

 「専務は、本を読まれたりしないんですか?」

 「もちろん、読みますよ。時間を忘れるほど、
夢中になることはありませんが」

 そう言いながら、ぶどうジュースを飲み干し、
ゆったりと食事を始めた専務に、蛍里はさらに
質問する。自分もフォークとナイフを手に持つ
が、いまは食べるよりも目の前の専務への関心
の方が勝ってしまう。

 「あの、専務はどんな本を読まれるんです
か?わたしはミステリーなら東山桐吾、恋愛も
のなら、宮本じゅんの作品が好きなんですけど」

 目をキラキラとさせながらそう訊ねた蛍里に、
専務はメニューを手に取りながら小首を傾げて
みせた。

 料理が取り分けられた皿は、すでに完食され
ている。

 「……どんな本。そうだな、しばらく前に読ん
だ横川流星の探偵シリーズも面白かったと思うし、
独特の読後感を味わえる有栖川浩一の作品も好き
ですね。わかりやすい結末ではないぶん、いつま
でも心に残るというか……」

 ぱらぱらとメニューをめくりながらそう答えた
専務に、蛍里は一瞬目を見開き、そうして身を
乗り出した。
 
 「横川流星の探偵シリーズって、何年か前に
ドラマ化された……あれですよね?」

 「そう。『探偵のいう通り』です。ドラマの方は
観ていないんだけど、確か、北野景子が主演を務め
たんじゃなかったかな。視聴率は良かったみたいで
すね」

 蛍里はごくりと唾を呑んだ。いま、専務が口にし
た作品は、蛍里の部屋に“二冊”ある。

 つまり、蛍里のデスクに置かれていた本なのだ。

 まさか、あの本の持ち主は榊専務なのだろうか?

 もしかしたら、うっかり彼が落としてしまった
ものを、滝田が蛍里のものだと勘違いして自分の
デスクに置いたのかもしれない。

 きっと、そうだ。

 蛍里はどきどきと騒ぎ出した胸を落ち着かせ
るために、すっかり冷めてしまった、じゃがいも
やズッキーニを口に放り込んだ。味がしない。

 というか、味覚なんか吹っ飛んでしまうくらい、
頭の中は散らかってしまっている。誰かが自分
の名を呼んでいるような気がしたけれど、蛍里
はその声が誰のものなのか気に留めないまま、
皿に残っているチキンにフォークを刺した。

 その蛍里の耳に、今度は確実に榊専務の声が
飛び込んでくる。

 「……折原さん」

 蛍里はぱっと顔を上げた。

 メニューを手に専務が顔を覗き込んでいる。
その隣には、彼が呼びつけたらしいウエイター
が立っていた。