「えっ、何って……」

 蛍里もひそひそ声で、返す。

 部長も、他の社員も二人のやり取りに気を留め
る様子はない。

 「笑い声聞こえたからさ。あれ、専務の声でしょ
う?」

 こっちまで聞こえていたのか、と、そのことに
驚きながらも、苦笑いする。結子は興味津々とい
った眼差しを蛍里に向けている。

 「ちょっと私が馬鹿なことしちゃって。それで、
専務に笑われちゃったんです」

 「馬鹿なことって?」

 「それはですね……」

 何となく、口にするのが恥ずかしくて蛍里が
言葉に詰まっていたその時、タイミングよく結子
の席の内線が鳴って、蛍里はほっと胸を撫で下ろ
した。

 結子が話をしている間に、ささっ、と引き出し
から鞄を取り出し、廊下に出る。どこに行くのか
と、そう訊かれてしまえば、余計に答えるのが
難しい。蛍里はどくどくと騒ぐ胸を抑えながら、
更衣室に滑り込み、私服に着替えたのだった。



 「お待たせしました」

 着替えを済ませ、地下にある駐車場に行くと、
専務はすぐ横の柱に背を預け、誰かと携帯で話し
ていた。蛍里の姿をみとめ、目を細める。

 彼の笑顔をみるのは、これで三度目だ。

 話を終えると、榊専務は携帯を懐にしまった。
 そうして営業車ではなく、私有車に蛍里を乗
せた。

 「あの、何処へ行くんでしょうか?」

 シートベルトを締めながら、蛍里は隣を覗き
見た。いつのまにか細いメタルフレームの眼鏡
をかけた榊専務が、車を発進させながら答える。

 素顔のままでも十分整っている顔立ちがいっ
そう知的に見えて、蛍里は余計に緊張してしまう。

 「そう硬くならないでください。前々から気に
なっていた他店の視察に同行してもらうだけです。
ちょっと一人では入りづらい店なので、ずっと足
を運べないままだったんです」

 「じゃあ競合店の視察、というお仕事なんです
ね?」

 別に専務を恐れているわけでも、警戒している
わけでもないのだけれど……一介の社員にすぎ
ない自分が、こうして専務の私用車に乗って外出
すること自体が稀で、恐縮してしまう。

 その他にも、こんなことが他の女子社員に知れ
たら社内でどんな噂をされることか、と、そうい
う不安もあった。

 彼には“婚約者”がいるのだ。

 迂闊に近づいて悪い噂が流れれば、蛍里だって
困る。

 そう考えて、無意識に膝の上で手を握りしめて
いた蛍里に、穏やかな声が聴こえた。

 「心配しなくても、他の社員の目に触れないよ
う僕も気を付けるつもりです。ただ、視察に行き
たいと思っていたところに、偶然、腹ペコのあな
たがいた。それだけだから、そんな誘拐される
子どもみたいな顔しないで」

 可笑しそうに目を細めながらそう言った榊専務
に、蛍里は思いきり彼を向いた。顔が熱い。