それでも彼は、想い続けてくれた。
 何一つ覚えていなかった自分を、密やかに、
見守るように。ずっと、愛してくれていた。

 そしてその想いに、彼の眼差しに気付けなか
った自分は、どれほど彼を傷つけたことだろう。

 蛍里はとめどなく零れ落ちる涙を、手の甲で
拭った。

 ずっと、鞄の中に忍ばせてあったハンカチを
手に取る。

 鼻にあて、すん、と匂いを嗅げば、ほのかに
彼の香りが残っている。きっと彼の手元には、
あの日、自分が差し出したハンカチがあるはず
だ。蛍里は顔を上げた。大きく息を吸って、本
の裏表紙を開く。

 タイトルや出版社が記されている奥付部分を
見れば、書籍の第一刷発行日はひと月以上も前
だった。

 それでも、彼は待っている。
 あの場所で、きっと。

 蛍里は窓の外を見上げ、席を立った。

 空はすっかり夕刻の茜を失い、紫紺に変わっ
ている。

 店の時計を見やれば、あの夜、彼と待ち合わ
せた時刻まで、あと僅かだった。蛍里は居ても
立ってもいられず、本とハンカチを鞄にしまい込
むと、店を飛び出していった。

 最寄駅を降り、緑道公園までの道のりを走り
続けた蛍里は、汗ばんだ頬に張り付いた髪を
払った。肩で息をしながら、公園の中に足を踏
み入れる。あの夜と同じように、クリスマスを
控えた緑道には青いライトが張り巡らされて
いる。

 けれど、眩いほどの光が川の水面に揺れて
いても、寒さもあってか人影は疎らだった。

 蛍里は誰もいない水上テラスに立ち、ぐるり
と辺りを見渡した。

 時刻はあの日の約束の時刻を半分以上過ぎ
ていて、やはり、彼の姿は見当たらない。

 蛍里は落胆にため息をつきながら、冷たい
ベンチに腰かけた。

 そして、ひとり自嘲の笑みを浮かべた。

 どうして、ここに来れば彼に会えると信じて
疑わなかったのか。そのことが可笑しかった。

 確かに、彼が物語の中で指示した場所は、
ここに違いない。けれど、毎日、毎晩、彼があて
もなく自分を待ち続けているわけがないのだ。

 もし、書店であの本を手にしていなかったら、
今日、自分がこの場所を訪れることも、なかった。

 蛍里は眩い光の先を見つめ、ゆっくりと目を
閉じた。

 『詩乃守人』に、手紙を書こう。
 
 そして、自分が待っていることを、彼に伝え
よう。出版社に手紙を送れば、少し時間はかか
っても、彼に届くはずだ。

 自分がこの本を見つけ、読んだことを知れば、
彼は返事をくれるかも知れない。蛍里はそう心に
決めると、大きく息を吸った。

 トクリ、トクリと、鼓動は少しずつ速さを増し
て、知らず頬が緩む。何も出来ず、ただ立ち止ま
っていた時よりも、気持ちは楽だった。

 蛍里は家に帰ろうかと、静かに目を開けた。

 その時だった。