5:都筑勝浬
「私がバカだって言いたいんでしょ!!?」
怒鳴り上げるお母さんが、あまりに可哀想だった。
何回も何回も謝った。理由はわからないけど、俺に怒ってることだけはわかったから、必死に謝った。
「お前なんか産まなきゃ良かった!!!!」
お母さんがタバコを俺の顔面に押し付ける。ジューと焼ける音と痛みが顔と脳を支配して、焼ける痛みに耐えられずに泣いた。でも、そこで目を丸くしたお母さんがあまりに可哀想で、俺はやっぱり謝った。
許されることはなかった。
お母さんには、俺に火傷を負わせたことがトドメになったらしい。
お母さんは俺の目の前で「ごめんね」なんて言いながら首を吊って死んだ。
やめて。
何回も声を張り上げ、お母さんの足にしがみついたけど、蹴飛ばされて呆気なく目の前で首を吊られた。
ガタンと倒れたお母さんが足場にしていた椅子を、慌てて元の位置に戻して体を揺さぶった。でも紐はあまりにきつく縛られていて揺さぶるだけじゃビクともしなかった。
隣の家まで走ったけど、もう誰も住んでいなかった。そういえば最近引っ越したのだった。俺は家に戻ってお母さんのスマホからお父さんに電話をかけた。
『今は仕事中なんだよ、どうしたの?』
「おと、お父さん! お母、さんが! し、死んじゃう!」
『勝浬くんかい? 何を言ってるん……』
「お母さんが! 死んじゃう!!!」
大きくなれば、あの時すぐに119番したらよかったのにと思う。
知ってしまえば、あの時すぐに状況を説明したらよかったのにと思う。
お父さんはとりあえず帰るからと言って、電話を切った。それから到着したのは30分後だ。お母さんは完全に息を引き取っていた。
「何で……」
愕然とするお父さんに泣きつきながら、俺はバカだからまだお母さんが生きてると思って「死んじゃうよ!」と訴えていた。
一緒に悲しんでいると思っていた。
お父さんも同じ気持ちなんだと思っていた。
でも、現実はどうだ? お母さんより先に妊娠させた女とまたよりを戻した。
それに気づくまでに俺も随分と時間をかけてしまった。幼い俺はその理由をわからず、とりあえず女が当たり前のように家に来るようになったという認識だった。
「お母さん、死んじゃったんだね。悲しいね」
あの女は俺が悲しんでいるとわかっていて、そんな言葉をかけてきた。
微笑む女は、まるでヒステリックだったお母さんとは違って、包み込んでくれるような優しそうな女だった。
あの女だけなら何とも思わなかったかもしれない。でも、連れていた娘がいた。
朱梨のことは少しだけ知っている。
あまり話すのが上手じゃない。いつも笑っているが、周りの話を全く理解していない。鈍臭くてかけっこも縄跳びも誰よりもできない。
それでも朱梨のことを知っていたのは、朱梨の言葉が、忘れられなかったからだ。
火傷をして登園してから「どうしたの?」「怖い」「汚い」と言われた。好奇心に嫌悪感に、色んな目で見られた。
その中で朱梨は笑っていったんだ。
「痛いの痛いの、飛んでけー!」
それだけだった。でも、まるで痛かったことを理解しえもらえたみたいで、それだけで嬉しかった。
日奈が連れてきた娘が朱梨だったから、日奈を受け入れた。朱梨のように優しい女なのだと信じていた。
なのに、朱梨が死んでしまった。
呆気なく、橋の下の川に飲み込まれてしまった。
日奈は泣いていた。たくさん朱梨に謝っていた。そのときの顔はいつも俺に謝っているお母さんに似ていて、何だか可哀想だと思った。
でも、それは本当の顔だったのだろうか。
何となく感じた疑問は、俺と日奈の軋轢になるのは必然だった。
そして、お父さんに日奈は言ったんだ。
「もう邪魔者はいなくなったよね?」
は?
何を言ってるんだ、コイツは。
お母さんが死んで、朱梨が死んだ。
邪魔者がいなくなった日奈は、父さんによく会いに来るようになった。
息子の俺には恥ずかしいほどに、2人は仲睦まじいのだった。脱ぎ捨てられた服を見る度に、日奈の甘い声を聞く度に、俺はいつだってこの家での居場所を奪われた気がしていた。
我慢はした。ずっと、我慢してきた。居場所がなくなる恐怖に負けていたのだろう。それに唯一の家族である父の幸せを考えると拒むことができなかった。2人がセックスしている間に2人のために料理をする自分に吐き気を覚えながら、何年も彼らの関係に耐えてきた。
でも、邪魔者という言葉でプツンと何かが切れた。
「おい、どういうことだよ」
「え?」
中学2年の夏だった。その日も日奈は父さんに会いに来ていた。父さんは研修が入っていたから珍しく土曜日にも出勤するのだった。家から出ようとする父さんと日奈がいつものようにイチャイチャしながら話していたときに聞こえたのが「邪魔者」というフレーズだった。
日奈が父さんを玄関で見送ってから、俺は日奈に詰め寄った。日奈は自分の言葉にまるで変なことなんてないかのようにキョトンと目を丸くしていた。
「どうしたの、勝ちゃん?」
「邪魔者はいなくなったって、父さんに言ってただろ。あれ、どういう意味なんだよ」
「あー、そのこと? 別に深い意味はないよ? ほら、もう奥さんもいないし、私も娘いなくなったし、そろそろ結婚とかどうかなって」
「母さんも朱梨も、アンタにとっては邪魔者だったってことか?」
思わず拳を握る。そんな俺を見て日奈は何が面白いのか笑った。母さんよりも若くて綺麗な顔をした女は、俺がどうして怒っているのかなんて全く想像がつかないのだろう。
「やだなぁ、怒ってるの? でもさ、和正さんは奥さん死んじゃって、私は朱梨が死んじゃって悲しかったから一緒になってもいいかなって思って! 勝ちゃんだってこんなに可愛いお母さんいたら嬉しいでしょ?」
「反吐が出る」
考えるよりも先に言葉が出る。俺の正直な言葉に日奈はわざとらしく眉を八の字にした。唇を少しだけ突き出していじけたような顔をしている。父さんはそんなちょっとした表情の変化に鼻の下を伸ばしているが、あいにく俺はこの女をそんな目では見れない。
父さんが幸せになるためなら我慢しようと思っていた俺が馬鹿だったんだ。
この女が朱梨のような優しい人間なのだと信じて我慢してきたのが無駄だったんだ。
邪魔者だった。母さんも、朱梨も。そしてきっと、俺も。
「勝ちゃん、そんな怖い顔しないでよー。仲良くしよう? そうだ! 勝ちゃんにいいファンデ紹介しようと思ってたんだよねー。その汚い火傷、可哀想だなって思ってて……」
「いい加減にしろ!!」
罵られたことでついに俺は抑えていた拳を振り上げた。
ゴッと鈍い音がする。気づいた時には日奈が何よりも大事にしていた顔を殴っていた。日奈が衝撃で床に叩きつけられる。
「なに、するの?」
「……母さんはお前が不倫したせいで死んだ!」
声が震えた。泣きたくなる目を乱暴に腕で拭い、俺は床に座り込んでいる女を睨む。
「えー、病気で死んだって聞いたよ?」
「精神病んで死んだんだよ!! お前がいなければ死ななかった!! 朱梨だってお前がちゃんと見ていれば……」
「朱梨は事故だもん。どうしようもなかったんだもん」
何でコイツ……!!
平然と言う日奈の口ぶりからは後悔も反省も微塵も感じさせなかった。そんな態度にいよいよ俺は今まで溜まっていた黒い感情が込み上げた。
キッチンまで戻り、無我夢中で包丁を掴む。そんなことをつゆ知らずのんびりとした様子で日奈がリビングまで来た。
だが俺が包丁を持ってリビングに向かえばさすがに顔を青くする。いつものヘラヘラした顔が一瞬で引きつった。
「冗談だよね?」
「俺にとってはお前が邪魔者だ! 今すぐ消えろ!! 死ね!!」
殺すつもりで包丁を奴の顔面に向かって振りかざした。日奈も咄嗟に避ける。端正な女の左目の下の皮がザックリと切れた。
「いったぁ!! ねぇ!? やめ、やめてよ!!」
「うるせぇ!!! 消えろ!! 殺す!!」
今度は逃さないように、俺は日奈を押し倒した。いとも簡単に日奈を押し倒せたのだから、今までの我慢は何だったのかと自分が馬鹿馬鹿しくなる。
日奈に馬乗りになると、女はついに顔を歪めて泣き出した。死んだ人間のことは笑いものにするくせに自分の命になれば大事で仕方がないのだろう。そんなコイツの考えにも反吐が出る。
「わか、わかったよ! 出て行く! 和正さんともう会わないから……! だから、だから殺さないで!!」
「……」
「ごめんって! 謝るから!! 変なこと言ってごめんね!! お母さん、私のせいで死んじゃってごめんね!! 謝るから殺さないで!! お願い!! お願いします!!」
泣きながら何度も何度も謝る無様な姿が、かつての自分と重なる。
意味がない。謝ったからといって現実は変わらない。
でも、それは殺しても一緒だった。この女を殺したところで、母さんも朱梨も戻っては来ない。
「……じゃあ、今すぐ父さんの連絡先消して、消えろよ」
「わか、わかった……わかったよ」
頭が痛い。
フラフラと日奈から距離を取ると、日奈は涙で顔をグシャグシャにしながらスマホをイジった。そして俺にスマホを向け「都筑和正」の連絡を消したのを見せた。
それを2人で確認すると、日奈は俺から逃げるようにリビングに放り投げていたバックを抱きかかえて家を飛び出した。呆気なく俺の邪魔者はこの家を出て行ったのだった。
勝った。そう思った。
やっと普通の家に戻るんだ。俺は胸を撫で下ろして日奈の血がついた包丁を洗った。
「はは、あはは、あははははははは!!」
あの女が二度と現れないと思うと嬉しくなって、久しぶりに声に出して笑った。
これで幸せになれると信じて疑わなかった。
「日奈ちゃん、いなくなったのか……」
落胆した。
父さんもまた、母さんや朱梨を邪魔者と思っている側だったんだ。
日奈がいなくなったことを嬉々として話した俺の前で、父さんは泣いたのだ。
「なァ、あんな女の何がそんな良かったんだよ……」
新婚だったのに不倫をしてまで手に入れた女だ。13年間手放せなかった女だ。父さんにとっては俺が思う以上に大事な存在だったらしい。
「日奈ちゃんは、特別だったんだ……」
「母さんより?」
聞かなければよかったとすぐに後悔した。当然、答えはイエスだっただろう。父さんは俺が意気揚々と作ったハンバーグに一口もつけずに俯いていた。
「アンタも……俺を邪魔だって思ってんだよな?」
「違うよ!! 思ってない!! 勝浬くんは大事な息子だよ! 本当にそう思ってる!」
「ならどうして日奈を捨てられないんだよ? 俺のために捨てられねぇのかよ!?」
「それは……」
ああ、俺の居場所なんて最初からなかったんだ。
俺は日奈に負けていたんだ。知っていたのに……知りたくなかったから、だからきっと我慢できていたんだ。
父さんは何も答えてはくれなかった。
ただ一言、消え入りそうな声で呟いた。
「もう生きていても仕方ない」
勝浬は誰にも勝てなかった。
ちっぽけで弱い存在だった。
母さんを守ることもできず、朱梨の母親を認めることもできなかった。
父さんの幸せのために耐えることもできなかった。
父さんは無気力になった。鬱になって休職した。時々喋れば返ってくるのは「死にたい」の言葉だった。
……俺はどうしたらいい?
どうしようもない現実に、自分まで挫けそうになったときだった。
力が演劇部で舞台に立つから観てほしいなんて言ってきた。
内容は殆ど見ていなかった。ただ、普段の力と違うその顔を見ているとふとあの女の顔を思い出していた。
俺の方がうまく『宮古日奈』になれる。父さんを普通の人間に戻せる。
そう思い至ってからははやかった。すぐに力にお願いをして化粧を教わった。ついでに演技についても話を聞いた。
できる。
鏡に映った『宮古日奈』を見て俺は直感でそう思った。
俺は『ヒナ』になれる。
「え……日奈ちゃん?」
いつかと同じハンバーグを作った。
ご飯ができたよ、と声を掛け勝手に父の部屋のドアを開けた。父さんは『ヒナ』の顔を見て目をまん丸にした。
「日……いや、勝浬くん、何を、してるの?」
「……『私』に会いたかったんでしょう? ごめんね、まだ傷は消せないんだけど、今はこれが精一杯。でも、『私』、アナタの女でも娘にでもなれるよ?」
「……」
父さんはベッドから起き上がると俺の肩に触れた。それからじっと俺を見つめる。
日奈に汚いと言われた火傷の痕は消せない。でも、それでも俺は『ヒナ』になれる自信があった。いつだって俺を馬鹿にしていたようなあの女よりも、可愛くて、楽しくて、優しくて、いい子になれる。
「お願い。私と一緒に生きて」
「……勝浬くん……」
「『ヒナ』だよ。私は『ヒナ』。アナタの誰よりも特別な存在」
「ヒナ……ちゃん」
父さんが、俺を抱きしめる。俺は父親の肩に顔を埋めながら吐き気をツバと一緒に飲み込んだ。
気持ち悪い。こんな女の顔をしている自分が。
でも、これ以外に今の俺にできることはなかった。日奈に勝つ方法がなかった。
父さんはそれから俺を何度も何度も『ヒナちゃん』と呼んだ。俺は精一杯に作った甘ったるい声でそれに応えるのだった。
結果的に父さんは元気になった。
『ヒナ』に大変満足してくれて、父さんから高級なファンデーションをプレゼントされて、顔から痕が消えた。
周りからも可愛いと言われる顔を手に入れた。だが、それは家での『勝浬』の居場所をなくす行為だった。
父さんは『勝浬くん』と呼ばなくなった。『ヒナちゃん』と呼ばれる度に気持ち悪さが込み上げるが、俺はそれを隠す術を持っていた。
家に帰れば俺は『ヒナ』になる。『宮古日奈』よりも完璧で料理もできるし掃除だって綺麗に仕上げられるし、裁縫も楽々できる。父さんとグッズを集める趣味を一緒に楽しめるし、セックスだって日奈よりうまい自信がある。男同士でも冷めさせることもなく愛し合える。
……これで良かったんだっけ?
俺の人生って、こんなモンなんか?
『ヒナ』としてうまくできている自分は凄いと思う。自信を持って素晴らしい存在だと言える。
でも、『勝浬』はこれでよかったんかな。
わからない。もう、わからない。
父さんに勧められた動画配信を理由もなく進めていくウチに、世間にも『ヒナ』が浸透していくことが時々怖くなる。
これが俺だったんか。これって本当に『俺』だったんか。
本当に日奈に勝ったんだろうか。これが勝ち組の生き様なんだろうか。
そんな悶々とした時だった。
ファンを名乗るアカウントの自分語りのコメントを見つけた。
性もないコメントだと思った。それなのに、俺はそのコメントを忘れられなかったんだ。
「私がバカだって言いたいんでしょ!!?」
怒鳴り上げるお母さんが、あまりに可哀想だった。
何回も何回も謝った。理由はわからないけど、俺に怒ってることだけはわかったから、必死に謝った。
「お前なんか産まなきゃ良かった!!!!」
お母さんがタバコを俺の顔面に押し付ける。ジューと焼ける音と痛みが顔と脳を支配して、焼ける痛みに耐えられずに泣いた。でも、そこで目を丸くしたお母さんがあまりに可哀想で、俺はやっぱり謝った。
許されることはなかった。
お母さんには、俺に火傷を負わせたことがトドメになったらしい。
お母さんは俺の目の前で「ごめんね」なんて言いながら首を吊って死んだ。
やめて。
何回も声を張り上げ、お母さんの足にしがみついたけど、蹴飛ばされて呆気なく目の前で首を吊られた。
ガタンと倒れたお母さんが足場にしていた椅子を、慌てて元の位置に戻して体を揺さぶった。でも紐はあまりにきつく縛られていて揺さぶるだけじゃビクともしなかった。
隣の家まで走ったけど、もう誰も住んでいなかった。そういえば最近引っ越したのだった。俺は家に戻ってお母さんのスマホからお父さんに電話をかけた。
『今は仕事中なんだよ、どうしたの?』
「おと、お父さん! お母、さんが! し、死んじゃう!」
『勝浬くんかい? 何を言ってるん……』
「お母さんが! 死んじゃう!!!」
大きくなれば、あの時すぐに119番したらよかったのにと思う。
知ってしまえば、あの時すぐに状況を説明したらよかったのにと思う。
お父さんはとりあえず帰るからと言って、電話を切った。それから到着したのは30分後だ。お母さんは完全に息を引き取っていた。
「何で……」
愕然とするお父さんに泣きつきながら、俺はバカだからまだお母さんが生きてると思って「死んじゃうよ!」と訴えていた。
一緒に悲しんでいると思っていた。
お父さんも同じ気持ちなんだと思っていた。
でも、現実はどうだ? お母さんより先に妊娠させた女とまたよりを戻した。
それに気づくまでに俺も随分と時間をかけてしまった。幼い俺はその理由をわからず、とりあえず女が当たり前のように家に来るようになったという認識だった。
「お母さん、死んじゃったんだね。悲しいね」
あの女は俺が悲しんでいるとわかっていて、そんな言葉をかけてきた。
微笑む女は、まるでヒステリックだったお母さんとは違って、包み込んでくれるような優しそうな女だった。
あの女だけなら何とも思わなかったかもしれない。でも、連れていた娘がいた。
朱梨のことは少しだけ知っている。
あまり話すのが上手じゃない。いつも笑っているが、周りの話を全く理解していない。鈍臭くてかけっこも縄跳びも誰よりもできない。
それでも朱梨のことを知っていたのは、朱梨の言葉が、忘れられなかったからだ。
火傷をして登園してから「どうしたの?」「怖い」「汚い」と言われた。好奇心に嫌悪感に、色んな目で見られた。
その中で朱梨は笑っていったんだ。
「痛いの痛いの、飛んでけー!」
それだけだった。でも、まるで痛かったことを理解しえもらえたみたいで、それだけで嬉しかった。
日奈が連れてきた娘が朱梨だったから、日奈を受け入れた。朱梨のように優しい女なのだと信じていた。
なのに、朱梨が死んでしまった。
呆気なく、橋の下の川に飲み込まれてしまった。
日奈は泣いていた。たくさん朱梨に謝っていた。そのときの顔はいつも俺に謝っているお母さんに似ていて、何だか可哀想だと思った。
でも、それは本当の顔だったのだろうか。
何となく感じた疑問は、俺と日奈の軋轢になるのは必然だった。
そして、お父さんに日奈は言ったんだ。
「もう邪魔者はいなくなったよね?」
は?
何を言ってるんだ、コイツは。
お母さんが死んで、朱梨が死んだ。
邪魔者がいなくなった日奈は、父さんによく会いに来るようになった。
息子の俺には恥ずかしいほどに、2人は仲睦まじいのだった。脱ぎ捨てられた服を見る度に、日奈の甘い声を聞く度に、俺はいつだってこの家での居場所を奪われた気がしていた。
我慢はした。ずっと、我慢してきた。居場所がなくなる恐怖に負けていたのだろう。それに唯一の家族である父の幸せを考えると拒むことができなかった。2人がセックスしている間に2人のために料理をする自分に吐き気を覚えながら、何年も彼らの関係に耐えてきた。
でも、邪魔者という言葉でプツンと何かが切れた。
「おい、どういうことだよ」
「え?」
中学2年の夏だった。その日も日奈は父さんに会いに来ていた。父さんは研修が入っていたから珍しく土曜日にも出勤するのだった。家から出ようとする父さんと日奈がいつものようにイチャイチャしながら話していたときに聞こえたのが「邪魔者」というフレーズだった。
日奈が父さんを玄関で見送ってから、俺は日奈に詰め寄った。日奈は自分の言葉にまるで変なことなんてないかのようにキョトンと目を丸くしていた。
「どうしたの、勝ちゃん?」
「邪魔者はいなくなったって、父さんに言ってただろ。あれ、どういう意味なんだよ」
「あー、そのこと? 別に深い意味はないよ? ほら、もう奥さんもいないし、私も娘いなくなったし、そろそろ結婚とかどうかなって」
「母さんも朱梨も、アンタにとっては邪魔者だったってことか?」
思わず拳を握る。そんな俺を見て日奈は何が面白いのか笑った。母さんよりも若くて綺麗な顔をした女は、俺がどうして怒っているのかなんて全く想像がつかないのだろう。
「やだなぁ、怒ってるの? でもさ、和正さんは奥さん死んじゃって、私は朱梨が死んじゃって悲しかったから一緒になってもいいかなって思って! 勝ちゃんだってこんなに可愛いお母さんいたら嬉しいでしょ?」
「反吐が出る」
考えるよりも先に言葉が出る。俺の正直な言葉に日奈はわざとらしく眉を八の字にした。唇を少しだけ突き出していじけたような顔をしている。父さんはそんなちょっとした表情の変化に鼻の下を伸ばしているが、あいにく俺はこの女をそんな目では見れない。
父さんが幸せになるためなら我慢しようと思っていた俺が馬鹿だったんだ。
この女が朱梨のような優しい人間なのだと信じて我慢してきたのが無駄だったんだ。
邪魔者だった。母さんも、朱梨も。そしてきっと、俺も。
「勝ちゃん、そんな怖い顔しないでよー。仲良くしよう? そうだ! 勝ちゃんにいいファンデ紹介しようと思ってたんだよねー。その汚い火傷、可哀想だなって思ってて……」
「いい加減にしろ!!」
罵られたことでついに俺は抑えていた拳を振り上げた。
ゴッと鈍い音がする。気づいた時には日奈が何よりも大事にしていた顔を殴っていた。日奈が衝撃で床に叩きつけられる。
「なに、するの?」
「……母さんはお前が不倫したせいで死んだ!」
声が震えた。泣きたくなる目を乱暴に腕で拭い、俺は床に座り込んでいる女を睨む。
「えー、病気で死んだって聞いたよ?」
「精神病んで死んだんだよ!! お前がいなければ死ななかった!! 朱梨だってお前がちゃんと見ていれば……」
「朱梨は事故だもん。どうしようもなかったんだもん」
何でコイツ……!!
平然と言う日奈の口ぶりからは後悔も反省も微塵も感じさせなかった。そんな態度にいよいよ俺は今まで溜まっていた黒い感情が込み上げた。
キッチンまで戻り、無我夢中で包丁を掴む。そんなことをつゆ知らずのんびりとした様子で日奈がリビングまで来た。
だが俺が包丁を持ってリビングに向かえばさすがに顔を青くする。いつものヘラヘラした顔が一瞬で引きつった。
「冗談だよね?」
「俺にとってはお前が邪魔者だ! 今すぐ消えろ!! 死ね!!」
殺すつもりで包丁を奴の顔面に向かって振りかざした。日奈も咄嗟に避ける。端正な女の左目の下の皮がザックリと切れた。
「いったぁ!! ねぇ!? やめ、やめてよ!!」
「うるせぇ!!! 消えろ!! 殺す!!」
今度は逃さないように、俺は日奈を押し倒した。いとも簡単に日奈を押し倒せたのだから、今までの我慢は何だったのかと自分が馬鹿馬鹿しくなる。
日奈に馬乗りになると、女はついに顔を歪めて泣き出した。死んだ人間のことは笑いものにするくせに自分の命になれば大事で仕方がないのだろう。そんなコイツの考えにも反吐が出る。
「わか、わかったよ! 出て行く! 和正さんともう会わないから……! だから、だから殺さないで!!」
「……」
「ごめんって! 謝るから!! 変なこと言ってごめんね!! お母さん、私のせいで死んじゃってごめんね!! 謝るから殺さないで!! お願い!! お願いします!!」
泣きながら何度も何度も謝る無様な姿が、かつての自分と重なる。
意味がない。謝ったからといって現実は変わらない。
でも、それは殺しても一緒だった。この女を殺したところで、母さんも朱梨も戻っては来ない。
「……じゃあ、今すぐ父さんの連絡先消して、消えろよ」
「わか、わかった……わかったよ」
頭が痛い。
フラフラと日奈から距離を取ると、日奈は涙で顔をグシャグシャにしながらスマホをイジった。そして俺にスマホを向け「都筑和正」の連絡を消したのを見せた。
それを2人で確認すると、日奈は俺から逃げるようにリビングに放り投げていたバックを抱きかかえて家を飛び出した。呆気なく俺の邪魔者はこの家を出て行ったのだった。
勝った。そう思った。
やっと普通の家に戻るんだ。俺は胸を撫で下ろして日奈の血がついた包丁を洗った。
「はは、あはは、あははははははは!!」
あの女が二度と現れないと思うと嬉しくなって、久しぶりに声に出して笑った。
これで幸せになれると信じて疑わなかった。
「日奈ちゃん、いなくなったのか……」
落胆した。
父さんもまた、母さんや朱梨を邪魔者と思っている側だったんだ。
日奈がいなくなったことを嬉々として話した俺の前で、父さんは泣いたのだ。
「なァ、あんな女の何がそんな良かったんだよ……」
新婚だったのに不倫をしてまで手に入れた女だ。13年間手放せなかった女だ。父さんにとっては俺が思う以上に大事な存在だったらしい。
「日奈ちゃんは、特別だったんだ……」
「母さんより?」
聞かなければよかったとすぐに後悔した。当然、答えはイエスだっただろう。父さんは俺が意気揚々と作ったハンバーグに一口もつけずに俯いていた。
「アンタも……俺を邪魔だって思ってんだよな?」
「違うよ!! 思ってない!! 勝浬くんは大事な息子だよ! 本当にそう思ってる!」
「ならどうして日奈を捨てられないんだよ? 俺のために捨てられねぇのかよ!?」
「それは……」
ああ、俺の居場所なんて最初からなかったんだ。
俺は日奈に負けていたんだ。知っていたのに……知りたくなかったから、だからきっと我慢できていたんだ。
父さんは何も答えてはくれなかった。
ただ一言、消え入りそうな声で呟いた。
「もう生きていても仕方ない」
勝浬は誰にも勝てなかった。
ちっぽけで弱い存在だった。
母さんを守ることもできず、朱梨の母親を認めることもできなかった。
父さんの幸せのために耐えることもできなかった。
父さんは無気力になった。鬱になって休職した。時々喋れば返ってくるのは「死にたい」の言葉だった。
……俺はどうしたらいい?
どうしようもない現実に、自分まで挫けそうになったときだった。
力が演劇部で舞台に立つから観てほしいなんて言ってきた。
内容は殆ど見ていなかった。ただ、普段の力と違うその顔を見ているとふとあの女の顔を思い出していた。
俺の方がうまく『宮古日奈』になれる。父さんを普通の人間に戻せる。
そう思い至ってからははやかった。すぐに力にお願いをして化粧を教わった。ついでに演技についても話を聞いた。
できる。
鏡に映った『宮古日奈』を見て俺は直感でそう思った。
俺は『ヒナ』になれる。
「え……日奈ちゃん?」
いつかと同じハンバーグを作った。
ご飯ができたよ、と声を掛け勝手に父の部屋のドアを開けた。父さんは『ヒナ』の顔を見て目をまん丸にした。
「日……いや、勝浬くん、何を、してるの?」
「……『私』に会いたかったんでしょう? ごめんね、まだ傷は消せないんだけど、今はこれが精一杯。でも、『私』、アナタの女でも娘にでもなれるよ?」
「……」
父さんはベッドから起き上がると俺の肩に触れた。それからじっと俺を見つめる。
日奈に汚いと言われた火傷の痕は消せない。でも、それでも俺は『ヒナ』になれる自信があった。いつだって俺を馬鹿にしていたようなあの女よりも、可愛くて、楽しくて、優しくて、いい子になれる。
「お願い。私と一緒に生きて」
「……勝浬くん……」
「『ヒナ』だよ。私は『ヒナ』。アナタの誰よりも特別な存在」
「ヒナ……ちゃん」
父さんが、俺を抱きしめる。俺は父親の肩に顔を埋めながら吐き気をツバと一緒に飲み込んだ。
気持ち悪い。こんな女の顔をしている自分が。
でも、これ以外に今の俺にできることはなかった。日奈に勝つ方法がなかった。
父さんはそれから俺を何度も何度も『ヒナちゃん』と呼んだ。俺は精一杯に作った甘ったるい声でそれに応えるのだった。
結果的に父さんは元気になった。
『ヒナ』に大変満足してくれて、父さんから高級なファンデーションをプレゼントされて、顔から痕が消えた。
周りからも可愛いと言われる顔を手に入れた。だが、それは家での『勝浬』の居場所をなくす行為だった。
父さんは『勝浬くん』と呼ばなくなった。『ヒナちゃん』と呼ばれる度に気持ち悪さが込み上げるが、俺はそれを隠す術を持っていた。
家に帰れば俺は『ヒナ』になる。『宮古日奈』よりも完璧で料理もできるし掃除だって綺麗に仕上げられるし、裁縫も楽々できる。父さんとグッズを集める趣味を一緒に楽しめるし、セックスだって日奈よりうまい自信がある。男同士でも冷めさせることもなく愛し合える。
……これで良かったんだっけ?
俺の人生って、こんなモンなんか?
『ヒナ』としてうまくできている自分は凄いと思う。自信を持って素晴らしい存在だと言える。
でも、『勝浬』はこれでよかったんかな。
わからない。もう、わからない。
父さんに勧められた動画配信を理由もなく進めていくウチに、世間にも『ヒナ』が浸透していくことが時々怖くなる。
これが俺だったんか。これって本当に『俺』だったんか。
本当に日奈に勝ったんだろうか。これが勝ち組の生き様なんだろうか。
そんな悶々とした時だった。
ファンを名乗るアカウントの自分語りのコメントを見つけた。
性もないコメントだと思った。それなのに、俺はそのコメントを忘れられなかったんだ。
