『子どもはどうして休日に限って早起きなのだろう』

 母が嘆いているのをよく聞いていた。
 春野(はるの)うみは、幼稚園を卒業したばかりの弟、春野みなとの横で正座しながら、テレビの画面を見つめていた。
 日曜日、春野家の母は手際よく朝食の片づけをし、父はいそいそと庭いじりに出ていく。シンクに水が弾ける音を聞きながら、うみとみなとはランドセルのコマーシャルが早く終わるようにと、テレビに呪いをかけた。

『闇の力に汚染された大地から産まれた、悪アニマル。平和を脅かさんとする彼らの存在を清浄化するため、遠い星々から流星の如く訪れた輝くヒーロー、その名も! 夜空戦隊スターブラザーズ!』

 力強い語り、続くキャッチーな音楽に、高校生の姉とその弟の瞳は釘付けになっていた。
「前さ、ホワイトムーン、スネークにやられてたよね?」
 みなとが、うみに視線を突き刺しながら問う。
 うみは前のめりになりながら「うん」と答えた。
「暴君スネーク、悪アニマル幹部で三番目に強いんだよ」
「でも、絶対負けないよ。お子ちゃま向けの戦隊ヒーローだもん」
 みなとの不安そうな瞳の中で、十歳も年上のうみは大人ぶる。
 そして先週放送された内容を思い出した。一番最後に仲間になったホワイトムーンが、暴君スネークの策略に嵌り全身を石にされ、致命傷を受けたところで終わったのだ。次回予告では仲間が駆けつけ共闘していたが、あまりの不穏さに鳥肌が立った。
 何を隠そううみの推しキャラクターはその『月国の王子、ホワイトムーン』なのだ。爽やかなマスクと甘い声色を持つ素顔の彼は、作品一の美青年という設定で、演じている俳優も抜群にかっこいい。
 洗い物が終わり静まったリビングに、暴君スネークのどすのきいた声が轟く。

『貴様らに、この世の破滅を見せてやろう!』

 みなとが息をのむ音が聞こえた。
 鞭を持った暴君スネークの激しい攻撃に、スターブラザーズは手も足も出せず、ついには変身状態が解除された。これはいよいよピンチだと汗で湿った掌を握ったとき、後ろで倒れていたホワイトムーンが、暴君スネークに向かって、弾かれたように走り出した。

『これしか方法が無いんでね。悪いけど道連れにさせてもらうよ』

 白い手袋をつけた手が、振り上げた短剣の鍔についたボタンを押す。
 はっとしたうみが悲鳴を上げる前に、ホワイトムーンと暴君スネークは爆音と火焔に包まれた。立ち上る煙のせいで、二人の様子は映らない。しかし他の仲間の悲壮に塗れたリアクションを見ると、ただでは済まない事態であることは察せられた。
 濁った煙が風に流れたその場所に、現れたのはべろりと下を出した暴君スネークだけだった。
「ああ!」
 うみが叫ぶと、みなとが案じるように姉の服の袖を握った。
 画面の中では仲間たちが、泣きそうな顔でホワイトムーンの名を呼び、その場に崩れ落ちている。
 窓から入る日差しが雲に遮られると、うみとみなとがいる室内も暗く沈んだ。
 無傷の暴君スネークは地面を震わせたような笑い声を上げながら亜空間に消える。スターブラザーズの面々は気を失い、場面は暗転した。目を覚ましたスターブラザーズは自陣に戻っており、やはりそのなかにホワイトムーンの姿は無かった。
 次回予告に推しキャラが映らないことに、うみは呆然とした。みなとが、「ムーン死んじゃったんじゃない?」と呟いたが、うみの耳には入らなかった。彼の姿を来週から見られないという事実に、激しいショックを受けていた。最近の少年漫画では、主要キャラが何でもないことのように戦線離脱していくことは知っていた。しかし幼い子ども向けの番組で、そんなことが起こるなんて予想もしていなかったのだ。
 暴君スネークの撫でつけた金髪。縦長の瞳孔と赤い瞳。薄情そうな紫の唇。丸太のような体。
 現実ではいるはずも無い存在に、まるで家族を殺されたような淀んだ感情を抱き、うみはその念に捕らわれたままその後の何日をも過ごした。
「おねえちゃんさあ、本当に落ち込んでるんだよ。ホワイトムーン死んじゃったから」
 気遣うように声を潜めるみなとに、包丁でリズミカルな音を立てていた母が手を止めた。
「よくあることだと思うけどねえ。かっこいいキャラって早くいなくなるものなのよ」
「可哀想だなあ。スターブラザーズ観なくなっちゃったらどうしよう」
「放っといても最後まで見るよ。途中でまた出てくるかもしれないんだから」
 手洗いのため二階から下りてきたうみに気付かないまま、お喋りを続ける二人には顔を見せず、再び自室に戻ったうみは、ホワイトムーンの素顔、白崎月斗(しろさきつきと)の姿を思い浮かべた。
 そして机の上で笑っている月斗のアクリルスタンドに視線を転じる。

『力を授けよ! シャイニングムーン! 変身!』

 あの張りのある声と流麗なポーズ、笑う時に垂れる優しげな目元がとても魅力的だった。
 うみはベッドに仰臥しながら、天井に向けて伸ばした腕を交差させ、ホワイトムーンの変身の真似をした。
「……力を授けよ」
 呟いた声が、自分をますます空しくさせた。
 そして、ホワイトムーンが吹き飛んだシーンを思い出す。室内に滲む夕日が、燃え盛る火柱を連想させた。同時に――。

『無様だな』

 暴君スネークの、プロレスのヒールレスラーに似た容貌が、カラス色のマントを翻す邪悪な仕草が、脳裏に蘇った。
 うみは耐えられず目を瞑る。それでも瞼の裏にいやらしい笑顔が浮かぶ。
 誰か暴君スネークを倒して、仇を打って!
 作品の対象年齢を優に超えたうみが、指を絡ませ祈っている間に、階下から名を呼ぶ声がした。
 うみは溜息をついて、暴君スネークへ呪いの言葉を垂れ流した。




 ぐずぐずと布団から出ないうみを揺さぶりながら、みなとは不満そうな声を上げる。
「おねえちゃんも一緒にスターブラザーズ観ようよー」
 んーとかおーとかはぐらかしていたうみがこっそり携帯の時計を確認すると、すでに番組が始まる二分前だった。このまま自分に構っていると、毎週楽しみ観ていたみなとまで見逃してしまうかもしれない。うみは億劫ながら、のろのろと布団を抜け出した。
「観るかあ」
 みなとの手を取り、部屋を出る。リビングではすでにテレビがついていて、うみとみなとはその真ん前に正座をした。
 主題歌が終わると、絶望を湛えた仲間たちの顔が映し出された。先週に続いて緊迫した状況である。
 ホワイトムーンの仇、暴君スネークを倒さなければと、スターブラザーズの面々は闘志を高めていた。
 みなとの少し後ろで、推しのいない画面を、うみは温度差を感じながら観ていた。
 番組の終盤になっても、暴君スネークは現れなかった。
 スターブラザーズは、三下の悪アニマルを打ち破り、番組を閉じた。次回も定番の展開であることが察せられ、スターブラザーズファンのみなとは、興奮に強張っていた体から力を抜いた。するとすぐに、ケンケンと犬のような咳をし始めた。
 落ち着いたと思えばまた始まり、不穏な咳は長いこと続いた。
 いつものことなので、うみは「大丈夫?」と声をかけながらも平静だった。みなとも、咳が収まった後はケロリとしていた。
 みなとは先天性の心臓病で、いずれ手術をする予定なのだった。
 まだ幼いので症状が軽く、行動制限などは無いが、走っていると他の友達より早く息切れをおこしたり、風邪をひきやすかったりする。両親は過剰に心配しているが、うみは弟をそういったものだと認識し、症状が出ても慣れてしまっていた。
 もっと幼なかった頃、風邪をこじらせるたび入院していたみなとの心の支えは、戦隊ヒーローだった。毎週流されるその番組を何となしに一緒に観始めて、うみもその沼に嵌ってしまい、これまで三作品を観続けてきた。部活でスタメンを外れたとき、テストで赤点を取ったとき、日曜日のスーパーヒーロータイムだけがうみを救ってくれた。いつも誰かがせわしなくしているリビングに、テレビの音だけが響く朝の清々しさにも癒されていた。
 しかし今、うみは幸福な気持ちではない。
 推しの死によって、うみのときめきと活力はごっそりと無くなってしまったのだった。




 うみにとって、冴えない日々が続く。
 暗く厚い雲がぶら下がっている放課後、下校途中にある公園でみなとが駆けているのを見つけた。その周りには数名の同級生が集まっており、鬼ごっこか何かの遊びにいそしんでいた。
 日が沈むにはまだ時間がある。
 放っておこうかと思ったが、弟を案じ公園の外から声を掛けた。
「みなと、遅くならないうちに帰って来るんだよ」
 近所に住んでいる友達も、遊びの中に入っていることを視界の隅で確認していた。
 きっと一緒に帰ってくるだろうという安心感はあった。
 うみに気付いたみなとは足を止め、表情を明るくして近づいて来た。あと何歩かで触れられる距離になったとき、みなとがダンゴムシのように体を丸め、うずくまった。
 うみが驚いて駆け寄ると、みなとは苦悶の表情をして胸を抑えていた。苦しそうに浅い呼吸を繰り返し、ごろんと土の上に転がる。
 異常事態に、うみは頭の中が真っ白になった。
 助けを求めるためにあちこちを見回すが、頼れるような大人がいない。みなとの友達が二人を見て、近寄るのを躊躇っている。
 その間にも弟の顔は青ざめていく。
 携帯で、救急車を……携帯、携帯……。
 うみは動転して、携帯をどこにやったのか分からなくなってしまった。制服のポケットを探っても無い。鞄のポケットにも無い。どこかにあるはずなのに!
 鞄をひっくり返しながら、震える声でみなとの名を呼ぶ。
「みなと! みなと! お願い、誰か!助けてくれる人を連れてきて!」
 張り付いた喉からはガラスを叩き鳴らすような声が出た。
 そわそわとしていたみなとの友達が、不安そうな表情で公園の中を彷徨い、そしてその囲いの外へ駆け出ていった。
 うみは祈るような気持ちで彼らを見送る。
 みなとの手が冷たい。弟の命の炎が弱くなっていることを感じ、恐ろしさに全身が震えた。
 涙が零れてしまいそうになったとき、道路のほうから喧騒が聞こえた。
 子どものよく通る声と、男の低い声が、近づいてくる。
「こっちこっち!」
「早く!」
 慌ただしい足音が公園に入り込んできて、うみが振り向くと、みなとの友達が丸太ののような体格の男の腕を捕まえていた。困惑している男を、うみとみなとのもとへぐいぐいと引っ張てくる。
 子どもたちがみなとを指差すと、男はすぐに気付いて駆け寄ってきた。
「どうした? 具合悪くなった?」
「助けて下さい! 弟は心臓病なんです!」
 男は叫ぶうみと同じ視線になるまでしゃがみ込んだ。
 驚いたように瞠目して、みなとの様子を見る。
 瞬時に「俺が病院に連れていく」と言った。
「近くに病院がある。ついてきて」
 不安で押し潰されそうだったうみは男を見ながら何度も頷いて、意識が無くなりぐったりと力の抜けたみなとの体を男に委ねた。男は剝き出しの太い腕でみなとを横抱きにし、まるで重みを感じていないような足取りで公園を出た。急ぎ足で進む男についていきながら、うみの空っぽの頭の中には見慣れた面影が浮かんでいた。
 前髪を真ん中で分けた金髪の、薄い唇、目じりの上がった切れ長の目の大男。
 激しい既視感に襲われ、眼球の奥が熱くなった。
 男が駆け込んだ先は、循環内科専門のクリニックだった。




 みなとが処置を受けている間に母が来た、
 真っ直ぐにうみの前を通り過ぎ、二人を助けた男に前のめりになりながら頭を下げた。
「息子を助けて下さってありがとうございます。ありがとうございます」
 母は涙を流しながらお礼の言葉を繰り返した。
 男はその様子に恐縮し、「僕は、ここまで連れてきただけですから」と居たたまれなさそうに視線をそらした。
「このお姉ちゃんが、病気があることを教えてくれたから迷わず判断出来ました。弟君のことよく見ていて、偉かったです」
 切れ長の目が向ける優しい視線に、うみの頬は熱くなった。
 そして、今度こそじっくりと男の顔を見つめた。
 髪型も、目も、唇の色も違うが、男はあの――憎き『暴君スネーク』と瓜二つだった。
「本当にありがとうございました。あの、お兄さんは――……」
 うみが真相を尋ねようと口を開いたとき、待合室には思わぬどよめきが起きた。
「おー、いたいた。一誠」
 自動ドアの前で手を上げていたのは、今をときめく若手俳優『丹波静流(たんばしずる)』だった。ホワイトムーン役で人気急上昇中の、見間違いようも無いうみの推しだ。
 うみは叫び声を上げそうな口を両手で塞ぎ、静流に「一誠」と呼ばれた男を恐々と見上げた。
「おいこらお前、静かにしろって。……ってもうばれてるよなあ」
 うみは全てを悟ってしまった。弟を助けてくれた男は『宍戸一誠(ししどいっせい)』。あの憎き暴君スネーク役の俳優だ。
「一誠、もう打ち合せ始まってるぞー」
 周囲の視線などお構い無しに、静流が一誠に手招きをする。
 診察を待つおばさまたちが小娘のようにきゃあきゃあとはしゃぎ始めた。
 一誠が爽やかに笑う。
「じゃあ、僕はこれで」
  再びお辞儀をする母の傍で、うみは瞠目したまま動けないでいた。スクールバッグのハンドルを握りしめ、状況を把握するのに精一杯になっていた。
 おもむろに、そのバッグに一誠が気付いて、笑みを深くした。
「スタブラ観てくれてありがとう」
 うみが肩から下げていたバッグのチャックに、白崎月斗のキーホルダーがぶら下がっていたのを見つけたのだ。
「ホワイトムーン推しなんだね」
 その言葉に動揺して、うみの目が泳ぐ。
 言いたいことが上手く出てこなくて、口を開けたり閉めたりした。もどかしさでいっぱいになっている間に、一誠は「これからも応援してね」と静流とともに行ってしまった。
 うみは興奮冷めやらぬおばさまたちの声に隠れて「ありがとう」とひとりごちた。




「流星の~、ごとく~、輝け~、スターブラザーズ!」
 前屈みで正座しながら歌うみなとを横目で見ながら、うみは膝に置いたアクリルスタンド見下ろし、そのキャラクターの逞しい体を撫でた。先日追加発売されたばかりの、悪アニマル幹部のアクリルスタンドの一つ、暴君スネークだ。太い鞭を構えたその堂々たる姿に見惚れ、桃色の溜息を吐く。

『きゃああ!』
 スターブラザーズのメンバーを映していたテレビの中が騒がしくなった。
 煙幕の中から現れたのは暴君スネーク。逃げ惑う人間を薙ぎ倒しながら画面に近づいてくる。悲鳴の嵐のなかからは先週パワーアップしたスターブラザーズが飛び出してきた。そして復活したホワイトムーンも満を持して登場。

「はあ……暴君スネーク様……素敵……!」

 うみは悩ましい声調で囁く。それをみなとは気味悪そうに見た。
「何でスネーク推しになったの? 悪いやつじゃん」
「みなとには分からない大人の魅力があるの!」
 みなとを助けたのが暴君スネークだということは、彼には打ち明けていない。混乱させないようにという配慮だった。
 あの日からうみは、この世界の花々が一斉に咲き、尚且つその全てを手に入れたような機嫌の良さで、録画していたスターブラザーズを一話から見直したのだった。そして暴君スネークの映るシーンになると、一時停止もしくはスロー再生にして繰り返し観る。その様子は傍から見てとても異様なものだったが、本人がとても幸せそうなので、父母は何も言わず見守っていた。
 ただ、スターブラザーズの物語も終盤。残る悪アニマル幹部は暴君スネークただ一人だ。
 彼女の幸福もいつまで続くのか、家族は密かに心配している。

『貴様らに、この世の破滅を見せてやろう!』

 日曜日の朝はますます騒がしい。