「……――続いてのニュースです――ええ、次は――……はい、そうですね。さて、続報です。これは――…悲惨な事件でした……――ここで、特集です。猫に関する隣人トラブルについて、です! 現在世論も注目している――」
アナウンサーはその後、深刻そうな表情に変わった。
そして画面には、インタビューを受けている、夕波崇の姿が映し出された。
肩が震えている。スーツ姿の青年は、痛ましそうな顔で、唇を右手で覆った。
「まさかこんなことになるなんて」
「猫に関する隣人トラブルが発端だったとの事ですが――」
「そうらしいんですが、詳しい事は……何より、今でも信じられません。妻は、妻は、俺の子供を妊娠していたのに……あんな、あんな殺され方をするなんて。バットで無残にも撲殺され……どんなに苦しかった事か……子供が産まれたら、三人で出かけようと朝話していたはずなのに……帰ったら、家は暗くて……」
そこで夕波崇が泣き崩れた。
その後映像は、近隣住民へのインタビューに切り替わった。
アナウンサーが、次々と取材していく。
「先谷被告は――近隣住民の皆様が、自分の噂をしていたと主張しています。悪意ある陰口を露骨に、誹謗中傷するようにと……」
取材を受けたゴミ集積場前にいた人々が、一斉にざわついた。
「そんなはずないじゃありませんか! 誰も噂なんかしていません! 幻聴です!」
「本当に、素敵な保育士さんだと思っていたのに!」
「怖いです。私の子供もあの保育所に通っていて……」
「身近にこんな恐怖があったなんて!」
それを見ながら、俺は吹き出して――動画の再生を止めた。
今見ていたのは、過去のニュース映像だ。まとめ記事にURLが記載されていた。
――過去のニュース。
過去の『殺人事件』のニュース映像である。俺が犯した、『過去』の。
俺は精神疾患と診断され、幻聴と妄想があると判断され、無罪判決が言い渡された。
その判決が出るまでの間も、俺はずっとナナハの声がするのだと主張し続けた。
結果として、近隣住民の悪口や、水帆さんに虐待されていた猫の声なども、全て真実では無かったと通告され、専門的な入院治療を受けた。
この入院に際して俺は、投薬終了予定日の頃、「もうナナハの声は聞こえなくなった」と周囲に伝えた。実際――ベッドの上でも、病室でも、ナナハの鳴き声がしない。
俺の身元引受人になってくれたのは、大家さん達で――本当に、碧依には世話になりっぱなしだ。現在俺は社会復帰調整官の指導のもと、PCなどを駆使して、自分が過去残した事件のニュースなどを振り返っている。俺は、反省している。
ちなみに、事件の記事のコメント欄には、このような事が書いてあった。
『猫好きが統合失調症になる確率、高すぎる』
『何か論文あったよな?』
『幼少期に飼ってるとやばいやつ? あれ、嘘じゃないの?』
『いや、この犯人のクズの場合、遺伝だろ』
『遺伝で百パーセントでは無いよ』
『どっちにしろ病気』
『病気だからって許すってどうなんだよ?』
『社会復帰って重要だよね』
『ニートにも社会復帰調整官をつけるべき』
――まったく、笑ってしまう。
と、まぁこのようにして――俺は、意識を入れ替えた。
嘗ての俺が、悪かったのだ。
長い時を経て、今日俺は、社会復帰調整官と一緒に、大家さんの所へと向かった。
隣接する県にもマンションを所有していたそうで、俺にひと部屋貸してくれるとの事だった。ここは――碧依が大家をしているマンションだと聞いた。前のマンションは既に手放す処理がなされていて、それも全て碧依やその家族が手配してくれたようである。
苦笑しながら出迎えてもらい、俺は中へと入った。そして思わず、笑顔を浮かべた。
――そこには、ナナハの姿があった。
俺を見ると恐る恐るナナハが近づいてきた。
前につけた時と同じ状態になっている少し太めの首輪に触れ、それから頭に触れ、体を撫でる。もう、俺よりも碧依との暮らしの方が長いだろうに、ナナハは大人しく俺に撫でられていた。
「碧依、首輪は変えなかったのか?」
「え? あ、ああ。あれ、お前、ダンボールに入れてナナハの事を俺に預けた時、首輪は思い出の品だからそのままにしてくれって言ってなかったか? 忘れた?」
「――そうだったな」
その後俺はリビングへと通された。そこには、碧依のご両親もいて、みんな俺を歓迎してくれた。ナナハの首輪を弄りながら、俺は膝の上の愛猫に時折視線を落としつつ、周囲と歓談した。犯罪者だからといって、病気だからといって、彼らは俺を怖がったりはしない。これは、事前に社会復帰調整官が周囲に説明し、この状況を打ち合わせしていたからなのかもしれないが、俺にとっては、ナナハの変わらない状態が何よりも精神を安定させてくれる気がした。
それから少しして、俺の新居から、碧依のご両親が帰っていった。
碧依も帰るらしい。ナナハは――俺とこれからまた一緒に暮らす事に決まった。
彼らを見送ってから、俺はナナハの首輪を外した。
そして用意してあったソファに座る。この新しいマンションは、ペット可だ。
そんな説明を思い出しながら、俺はナナハの首輪を外した。ハサミで紐部分を切った。テーブルにハサミをおいて、俺は首輪を手に取り、一度じっと眺めた。
本当に懐かしい品だ。
微苦笑してから、俺は――太い首輪の紐の内側に縫い込んで置いた小型のレコーダーを取り出した。目覚まし時計を購入したあの日、元々の目的物は、ストーカー対策用の防犯カメラとレコーダーの購入で、俺はどちらも手に入れていた。ただ、カメラは結局使用する機会が無かった。しかし、万が一に備え、犯人の狙いは俺とナナハ、あるいはホタルが一緒にいる時だと考えたから、ナナハの発情期が終わってすぐの、戻ってきた段階で、レコーダーだけ首輪に仕込んでおいたのである。そのために、あえて太めの首輪を選んだ。
これまでの間、取り出して再生する機会が無かったが、ようやく恵まれた。
俺は迷わず、再生した。幸い壊れてはいなかった。
――響いてきたのは、近隣住民による、悪口のオンパレードだった。
ナナハは、色々な所を、脱走して歩き回っていたようで、ゴミ集積場にも立ち寄る頻度が多かったのだろう。
『気持ち悪いよねぇ、先谷さんって』
『本当よねぇ。絶対ペド。私、あそこの保育所しか空いてなくて泣いた』
『少子化なのに待機児童過多……とはいえ、あんな変人がいる所には預けたくないわ。同情する』
『奥さんを亡くされて、拍車がかかったわよね。そこには同情するけど……例の猫動画、見た? ニヤニヤ気持ち悪く笑いながら、野良猫に餌付けしていて、吐き気がした』
『私も猫は好きだけど……仕事以外はひきこもってるか、買い物にちらっと行くだけって……最近の若い人ってそうなのかしらね?』
『ああいう人が犯罪を起こすのよね、絶対。うちの子は近寄らせない』
その他いくつもの嘲笑や揶揄が再生された後、少しすると、水帆さんの声が再生され始めた。彼女がケージを蹴っていた耳障りな音と共に、俺に対する罵詈雑言が響いてくる。
『何度言っても一度で美味しく作る事が出来ないんだから、相応に躾をしないとね。猫にも躾が必要かは知らないけど、躾けられていない様子のあなたに飼われるよりは、きちんと私に躾けられたあなたに飼われる方が、絶対に幸せね』
懐かしいそんな声がした所で、電池が切れたらしい。
嘆息しながら、俺はレコーダーをテーブルの上に置いた。
思わず微笑が浮かんでくる。俺の隣で丸くなったナナハを撫でながら、俺は天井を見上げた。目を伏せると、今でも思い出す。
――おそらくだが、水帆さんは、動揺していたから、あの時俺の部屋で、ナナハの声が聞こえなかったのだろう。
それとも、死んだと思っていた事が大きかったのだろうか。ナナハが帰ってきた翌日、俺はゴミ捨てに向かう時に、隣のご主人から聞いていた。
「猫がいい加減可哀想なので、昨夜外に出しました。妻には死んだ事にして」
俺は死ぬほど感謝したものである。ただ、死亡した胎児のDNA鑑定の結果は、紛れもなく俺の子供だったらしいから――俺の子供として産まれるよりは、あの場で死んで幸せだっただろう。夕波崇さんが本当に善人だったのか、内心は真っ黒で俺から巻き上げた金で風俗三昧だったのかは、どうでも良い。後者だったと俺は弁護士に聞いたが、興味は無い。ナナハを解放してくれたという一点でのみ、彼は今後も俺の記憶に残るだろう。
あの朝俺は、野球のボールが入ったダンボールと一緒に、ナナハを入れたダンボールを、碧依の所に持っていった。『短期なら預かる事も出来る』と、当初から話してくれていたから、信用して預ける事が出来た。
その後俺は、僅かな精神医学等の知識から、詐病で無罪となったわけだ。
案外、精神疾患を装うのは容易い。畏怖する対象を病気として理解する方が、楽な人間が多いのかもしれないと俺は考えている。
何にせよ、もう随分と時が経過したが、こうして再び俺には、ナナハと共に過ごす穏やかな時間が戻ってきた。これで――良いだろう。微笑したまま一人頷き、俺はレコーダーを操作して、音声を消去した。
――ガタンと音がしたのは、その時の事だった。
視線を向けると、少しだけ開いていたリビングの扉の前で、碧依が顔面蒼白になっていた。俺はテーブルにレコーダーを置き、ハサミを手に取りながら呟いた。
「碧依? 帰ったんじゃなかったのか?」
「忘れ物を……お、おい、今の……事実なのか? だ、だったら悪口も本当に言われて……お前、槇野、お前幻聴じゃ、お前は病気なんかじゃ……しかも夕波さんの奥さん……」
「――何か聞こえたのか?」
俺はハサミを一瞥してから、改めて碧依を見て微笑んだ。
すると少しの間沈黙してから、碧依が引きつった顔で笑った。
「――いや! 何も聞いてないよ! 俺、物覚えも悪いし!」
「そっか」
明るく言い切って、逃げるように後退った碧依に対し、俺は簡潔に堪えた。
なお……今はもう、俺は『意識を入れ替えた』ので、避妊去勢をしない事や、害獣をのさばらせておく事が、どんなに悪しき事か知っている。
碧依は現在、笑っている。一見普通の表情だが、これが作り笑いであり、実際には動揺している事が、何となく分かる。まぁ――罪を犯してしまったんだから、ただ手にハサミを持っているだけであっても、こういう対応をされる事にも慣れなきゃなぁ。
――もっとも今後は、二度とミスなんか、犯さないが。
逃げるように、碧依が踵を返したのは、俺が立ち上がった時だった。
玄関まで追いかけて、俺は扉を見ていた友人の首に向かって、ハサミを静かに振り下ろした。
碧依の遺体はとりあえず浴槽に置いてから、俺は改めてソファに座った。
そして、自分の使命について考える。
そう……今後の俺の使命は、去勢・避妊・堕胎を広く行い、不幸な子供を増やさない事だ。一連の事件で、俺ははっきりとそれを思い知らされたし、クズの血が消えていけば、クズな子が親になる日も減っていく。いつか、この国には、綺麗な心の持ち主以外、いなくなるはずだ。例えばそう、窓の外に訪れた猫に、そっと餌を差し出すような。
俺一人でその全てが達成できるとは思わないが、やらないよりは、やった方が良い。
翌日俺は、身支度をしてから電車に乗った。
浴室の遺体はそのままだが、別に構わないだろう。
さて俺は、嘗て毎日仕事をしていた保育所に向かった。
――既に生まれてきてしまった子供は、不幸だから、これ以上不幸にならないように、殺してあげないと。特に一番のクズ共が集中しているこの土地には、浄化が必要だ。
浄化し、再生する。勿論これが……俺を実際に突き動かしている感情とは相容れない考えだというのも分かる。俺は自分が一番のクズだともう知っているし、それであっても、俺に苦しみを与え、仔猫達の命を奪い、ホタルを死なせたこの世界が憎い。恐らく俺の動機は、本当はただの復讐だ。それが分かるから、この後捕まっても構わないし、すぐに捜索されて発見されるだろう碧依の遺体の置き場所について悩む必要も無かったのだ。碧依には罪は無いが――もう、俺はミスをしない。選択のミスを。
深呼吸をし、俺は意識を切り替え、脳裏を理想で満たした。
希望が溢れてくる。これから俺が、みんなにもたらす事が出来る幸せな光景が、リアリティを伴って、瞬きをする度に浮かんだ。
――安心してくれ、みんな!
――すぐに先生が、幸せにしてあげるから!
――だって、その方が幸せなんだろ?
俺は、水帆さんから教わった、一番大切な台詞を思い出した。
『生まれてこないのが一番幸せだったはずだけど、もう生まれてしまったし。殺すしかないでしょう』
【完】
アナウンサーはその後、深刻そうな表情に変わった。
そして画面には、インタビューを受けている、夕波崇の姿が映し出された。
肩が震えている。スーツ姿の青年は、痛ましそうな顔で、唇を右手で覆った。
「まさかこんなことになるなんて」
「猫に関する隣人トラブルが発端だったとの事ですが――」
「そうらしいんですが、詳しい事は……何より、今でも信じられません。妻は、妻は、俺の子供を妊娠していたのに……あんな、あんな殺され方をするなんて。バットで無残にも撲殺され……どんなに苦しかった事か……子供が産まれたら、三人で出かけようと朝話していたはずなのに……帰ったら、家は暗くて……」
そこで夕波崇が泣き崩れた。
その後映像は、近隣住民へのインタビューに切り替わった。
アナウンサーが、次々と取材していく。
「先谷被告は――近隣住民の皆様が、自分の噂をしていたと主張しています。悪意ある陰口を露骨に、誹謗中傷するようにと……」
取材を受けたゴミ集積場前にいた人々が、一斉にざわついた。
「そんなはずないじゃありませんか! 誰も噂なんかしていません! 幻聴です!」
「本当に、素敵な保育士さんだと思っていたのに!」
「怖いです。私の子供もあの保育所に通っていて……」
「身近にこんな恐怖があったなんて!」
それを見ながら、俺は吹き出して――動画の再生を止めた。
今見ていたのは、過去のニュース映像だ。まとめ記事にURLが記載されていた。
――過去のニュース。
過去の『殺人事件』のニュース映像である。俺が犯した、『過去』の。
俺は精神疾患と診断され、幻聴と妄想があると判断され、無罪判決が言い渡された。
その判決が出るまでの間も、俺はずっとナナハの声がするのだと主張し続けた。
結果として、近隣住民の悪口や、水帆さんに虐待されていた猫の声なども、全て真実では無かったと通告され、専門的な入院治療を受けた。
この入院に際して俺は、投薬終了予定日の頃、「もうナナハの声は聞こえなくなった」と周囲に伝えた。実際――ベッドの上でも、病室でも、ナナハの鳴き声がしない。
俺の身元引受人になってくれたのは、大家さん達で――本当に、碧依には世話になりっぱなしだ。現在俺は社会復帰調整官の指導のもと、PCなどを駆使して、自分が過去残した事件のニュースなどを振り返っている。俺は、反省している。
ちなみに、事件の記事のコメント欄には、このような事が書いてあった。
『猫好きが統合失調症になる確率、高すぎる』
『何か論文あったよな?』
『幼少期に飼ってるとやばいやつ? あれ、嘘じゃないの?』
『いや、この犯人のクズの場合、遺伝だろ』
『遺伝で百パーセントでは無いよ』
『どっちにしろ病気』
『病気だからって許すってどうなんだよ?』
『社会復帰って重要だよね』
『ニートにも社会復帰調整官をつけるべき』
――まったく、笑ってしまう。
と、まぁこのようにして――俺は、意識を入れ替えた。
嘗ての俺が、悪かったのだ。
長い時を経て、今日俺は、社会復帰調整官と一緒に、大家さんの所へと向かった。
隣接する県にもマンションを所有していたそうで、俺にひと部屋貸してくれるとの事だった。ここは――碧依が大家をしているマンションだと聞いた。前のマンションは既に手放す処理がなされていて、それも全て碧依やその家族が手配してくれたようである。
苦笑しながら出迎えてもらい、俺は中へと入った。そして思わず、笑顔を浮かべた。
――そこには、ナナハの姿があった。
俺を見ると恐る恐るナナハが近づいてきた。
前につけた時と同じ状態になっている少し太めの首輪に触れ、それから頭に触れ、体を撫でる。もう、俺よりも碧依との暮らしの方が長いだろうに、ナナハは大人しく俺に撫でられていた。
「碧依、首輪は変えなかったのか?」
「え? あ、ああ。あれ、お前、ダンボールに入れてナナハの事を俺に預けた時、首輪は思い出の品だからそのままにしてくれって言ってなかったか? 忘れた?」
「――そうだったな」
その後俺はリビングへと通された。そこには、碧依のご両親もいて、みんな俺を歓迎してくれた。ナナハの首輪を弄りながら、俺は膝の上の愛猫に時折視線を落としつつ、周囲と歓談した。犯罪者だからといって、病気だからといって、彼らは俺を怖がったりはしない。これは、事前に社会復帰調整官が周囲に説明し、この状況を打ち合わせしていたからなのかもしれないが、俺にとっては、ナナハの変わらない状態が何よりも精神を安定させてくれる気がした。
それから少しして、俺の新居から、碧依のご両親が帰っていった。
碧依も帰るらしい。ナナハは――俺とこれからまた一緒に暮らす事に決まった。
彼らを見送ってから、俺はナナハの首輪を外した。
そして用意してあったソファに座る。この新しいマンションは、ペット可だ。
そんな説明を思い出しながら、俺はナナハの首輪を外した。ハサミで紐部分を切った。テーブルにハサミをおいて、俺は首輪を手に取り、一度じっと眺めた。
本当に懐かしい品だ。
微苦笑してから、俺は――太い首輪の紐の内側に縫い込んで置いた小型のレコーダーを取り出した。目覚まし時計を購入したあの日、元々の目的物は、ストーカー対策用の防犯カメラとレコーダーの購入で、俺はどちらも手に入れていた。ただ、カメラは結局使用する機会が無かった。しかし、万が一に備え、犯人の狙いは俺とナナハ、あるいはホタルが一緒にいる時だと考えたから、ナナハの発情期が終わってすぐの、戻ってきた段階で、レコーダーだけ首輪に仕込んでおいたのである。そのために、あえて太めの首輪を選んだ。
これまでの間、取り出して再生する機会が無かったが、ようやく恵まれた。
俺は迷わず、再生した。幸い壊れてはいなかった。
――響いてきたのは、近隣住民による、悪口のオンパレードだった。
ナナハは、色々な所を、脱走して歩き回っていたようで、ゴミ集積場にも立ち寄る頻度が多かったのだろう。
『気持ち悪いよねぇ、先谷さんって』
『本当よねぇ。絶対ペド。私、あそこの保育所しか空いてなくて泣いた』
『少子化なのに待機児童過多……とはいえ、あんな変人がいる所には預けたくないわ。同情する』
『奥さんを亡くされて、拍車がかかったわよね。そこには同情するけど……例の猫動画、見た? ニヤニヤ気持ち悪く笑いながら、野良猫に餌付けしていて、吐き気がした』
『私も猫は好きだけど……仕事以外はひきこもってるか、買い物にちらっと行くだけって……最近の若い人ってそうなのかしらね?』
『ああいう人が犯罪を起こすのよね、絶対。うちの子は近寄らせない』
その他いくつもの嘲笑や揶揄が再生された後、少しすると、水帆さんの声が再生され始めた。彼女がケージを蹴っていた耳障りな音と共に、俺に対する罵詈雑言が響いてくる。
『何度言っても一度で美味しく作る事が出来ないんだから、相応に躾をしないとね。猫にも躾が必要かは知らないけど、躾けられていない様子のあなたに飼われるよりは、きちんと私に躾けられたあなたに飼われる方が、絶対に幸せね』
懐かしいそんな声がした所で、電池が切れたらしい。
嘆息しながら、俺はレコーダーをテーブルの上に置いた。
思わず微笑が浮かんでくる。俺の隣で丸くなったナナハを撫でながら、俺は天井を見上げた。目を伏せると、今でも思い出す。
――おそらくだが、水帆さんは、動揺していたから、あの時俺の部屋で、ナナハの声が聞こえなかったのだろう。
それとも、死んだと思っていた事が大きかったのだろうか。ナナハが帰ってきた翌日、俺はゴミ捨てに向かう時に、隣のご主人から聞いていた。
「猫がいい加減可哀想なので、昨夜外に出しました。妻には死んだ事にして」
俺は死ぬほど感謝したものである。ただ、死亡した胎児のDNA鑑定の結果は、紛れもなく俺の子供だったらしいから――俺の子供として産まれるよりは、あの場で死んで幸せだっただろう。夕波崇さんが本当に善人だったのか、内心は真っ黒で俺から巻き上げた金で風俗三昧だったのかは、どうでも良い。後者だったと俺は弁護士に聞いたが、興味は無い。ナナハを解放してくれたという一点でのみ、彼は今後も俺の記憶に残るだろう。
あの朝俺は、野球のボールが入ったダンボールと一緒に、ナナハを入れたダンボールを、碧依の所に持っていった。『短期なら預かる事も出来る』と、当初から話してくれていたから、信用して預ける事が出来た。
その後俺は、僅かな精神医学等の知識から、詐病で無罪となったわけだ。
案外、精神疾患を装うのは容易い。畏怖する対象を病気として理解する方が、楽な人間が多いのかもしれないと俺は考えている。
何にせよ、もう随分と時が経過したが、こうして再び俺には、ナナハと共に過ごす穏やかな時間が戻ってきた。これで――良いだろう。微笑したまま一人頷き、俺はレコーダーを操作して、音声を消去した。
――ガタンと音がしたのは、その時の事だった。
視線を向けると、少しだけ開いていたリビングの扉の前で、碧依が顔面蒼白になっていた。俺はテーブルにレコーダーを置き、ハサミを手に取りながら呟いた。
「碧依? 帰ったんじゃなかったのか?」
「忘れ物を……お、おい、今の……事実なのか? だ、だったら悪口も本当に言われて……お前、槇野、お前幻聴じゃ、お前は病気なんかじゃ……しかも夕波さんの奥さん……」
「――何か聞こえたのか?」
俺はハサミを一瞥してから、改めて碧依を見て微笑んだ。
すると少しの間沈黙してから、碧依が引きつった顔で笑った。
「――いや! 何も聞いてないよ! 俺、物覚えも悪いし!」
「そっか」
明るく言い切って、逃げるように後退った碧依に対し、俺は簡潔に堪えた。
なお……今はもう、俺は『意識を入れ替えた』ので、避妊去勢をしない事や、害獣をのさばらせておく事が、どんなに悪しき事か知っている。
碧依は現在、笑っている。一見普通の表情だが、これが作り笑いであり、実際には動揺している事が、何となく分かる。まぁ――罪を犯してしまったんだから、ただ手にハサミを持っているだけであっても、こういう対応をされる事にも慣れなきゃなぁ。
――もっとも今後は、二度とミスなんか、犯さないが。
逃げるように、碧依が踵を返したのは、俺が立ち上がった時だった。
玄関まで追いかけて、俺は扉を見ていた友人の首に向かって、ハサミを静かに振り下ろした。
碧依の遺体はとりあえず浴槽に置いてから、俺は改めてソファに座った。
そして、自分の使命について考える。
そう……今後の俺の使命は、去勢・避妊・堕胎を広く行い、不幸な子供を増やさない事だ。一連の事件で、俺ははっきりとそれを思い知らされたし、クズの血が消えていけば、クズな子が親になる日も減っていく。いつか、この国には、綺麗な心の持ち主以外、いなくなるはずだ。例えばそう、窓の外に訪れた猫に、そっと餌を差し出すような。
俺一人でその全てが達成できるとは思わないが、やらないよりは、やった方が良い。
翌日俺は、身支度をしてから電車に乗った。
浴室の遺体はそのままだが、別に構わないだろう。
さて俺は、嘗て毎日仕事をしていた保育所に向かった。
――既に生まれてきてしまった子供は、不幸だから、これ以上不幸にならないように、殺してあげないと。特に一番のクズ共が集中しているこの土地には、浄化が必要だ。
浄化し、再生する。勿論これが……俺を実際に突き動かしている感情とは相容れない考えだというのも分かる。俺は自分が一番のクズだともう知っているし、それであっても、俺に苦しみを与え、仔猫達の命を奪い、ホタルを死なせたこの世界が憎い。恐らく俺の動機は、本当はただの復讐だ。それが分かるから、この後捕まっても構わないし、すぐに捜索されて発見されるだろう碧依の遺体の置き場所について悩む必要も無かったのだ。碧依には罪は無いが――もう、俺はミスをしない。選択のミスを。
深呼吸をし、俺は意識を切り替え、脳裏を理想で満たした。
希望が溢れてくる。これから俺が、みんなにもたらす事が出来る幸せな光景が、リアリティを伴って、瞬きをする度に浮かんだ。
――安心してくれ、みんな!
――すぐに先生が、幸せにしてあげるから!
――だって、その方が幸せなんだろ?
俺は、水帆さんから教わった、一番大切な台詞を思い出した。
『生まれてこないのが一番幸せだったはずだけど、もう生まれてしまったし。殺すしかないでしょう』
【完】



