翌朝、俺は窓を開けた。清々しい外気が入ってくる。

 今日は、気分が良いからゴミを出そうと考えた。最近めっきりと自宅でゴミが出る機会が減ったから、袋の中には、昨日封を破った以前電気屋さんで購入したっきり忘れていた目覚まし時計の箱などしか入っていなくて、昔だったら出さない決意をしていたかもしれない。

 その後俺はエントランスで顔を合わせたお隣のご主人と話しつつ外へと出て、ゴミを出してから、相変わらず俺に視線を向ける近隣住民達に会釈をし、マンションに隣接する大家宅へと向かった。呼び鈴を押して待っていると、碧依がすぐに顔を出した。

「久しぶり、槇野。お前、最近帰りが遅いのか? 見かけなかった」
「――ちょっとな」

 久しぶりに顔を合わせた友人と、俺は少しの間雑談をしてから、碧依にダンボール箱を渡した。

「ああ。やっと持ってきたのか。槇野が忙しいのかと思って、あれ以来声をかけられなくてな」

 苦笑した碧依は、俺から箱を受け取った。野球の部活動が縁で親しくなったわけだが、まさか今尚野球での縁まで続くとは思っていなかった。小学生の頃は、実を言えばバスケに憧れていたのだが、背が伸びる気配が当時無かった俺は、何気なく野球部を選んだ――その事に、後悔は無いし、今でもバットは大切だ。碧依がボールを大切にする気持ちも分かる。すっかり返すのを忘れていた。

 仕事に出かけて、帰宅して、そして俺は――がらんとした室内を見た。
 朝から、ナナハはいない。
 しかし昨日の夜の温もりは、俺にとって確かに本物だった。

 だから……もう不安は無い。何も心配は無い。きっとこれからは、大丈夫だ。

 そう考えると一人でに笑顔が浮かんできて、俺は窓を見た。俺は朝、自分が窓を開けて出かけたのか、閉めて出かけたのかを思い出せなかったが、現在はしまっている。

 その後、いつもの通りに、隣室へと向かった。

 ――以後も、それは変化しなかった。

 俺は、ナナハはもう解放されたと考えている。水帆さんが言っていた「実家にあずけた」という声が本当だったのか嘘だったのかは分からないが、どちらにしろ既に隣家にはナナハはいないのだ。だからもう行く必要は無いのかもしれないが――彼女に呼び出されると、遅かったと怒鳴られると、何故なのか体が従ってしまう。学習性無力感とでも呼ばれるような状態なのかもしれないが、俺には専門時代にチラリと習った僅かな心理学知識しかない。むしろ、精神医学に関してならば、両親が死を決意した理由が、母が鬱病、父が統合失調症だったから、心理学よりは多少詳しい。

 隣室に入ると、シャワー上がりらしい水帆さんは、下着姿で煙草を吸いながら酒を飲んでいた。嘗てならば、隣人の奥さんのそのような姿を見たら、ドキリとする事もあったかもしれないが、今は特に何も感じない。

 そう思いながらキッチンへと向かおうとした時、水帆さんが発泡酒の缶を、音を立ててテーブルに置いた。

「ねぇ、先谷さん」
「?」
「――今日ねぇ、ナナハちゃんだったかしら? 見たの」

 明るく楽しそうな水帆さんの声に、俺は息を飲みそうになった。ナナハは、もう魔の手を逃れる事が出来た。そのはずだ。必死でそう考えるのに、嫌な動悸が止まらない。

「返して欲しい?」
「……ああ」

 俺はなるべく冷静になろうと努めながら、静かに頷いた。

「だったら、私を抱いて」
「……は?」
「旦那の同意も取ってるの。私達、レスで長くてね――というのも私の旦那、子供を作る能力が無いのよ。詐欺よね。私の体も限界」

 何を言われたのか分からず呆気に取られていた俺に、水帆さんが歩み寄ってきた。
 そして俺側にあった横長のソファに、俺を押し倒した。
 目を見開いていた俺は、水帆さんの手で外される自分のベルトの音を聞いていた。



 ――翌朝。

 気づくと俺は、自分の家にいた。目覚まし時計の音で起きた俺は、普段と全く同じように支度をして、外へと出た。昨日のことは、夢だったのだろうか?

 何度も繰り返し考える。脳裏に水帆さんの姿が過ぎり、俺の上で声を上げていた姿が浮かぶのだが、それらはまるで色褪せた写真のように、はっきりとしているのに不透明で、時には生々しく、だがその大半は見ようとしても上手く見えないような、曖昧な状態で消え去っていく。

 何度も考えながらその日を過ごし、仕事が終わってから、俺は隣へと向かった。そして――夢では無かったのだと確信した。入って早々、直接的に寝室へと招かれて、俺はシャツのボタンを外された。彼女の繊細な指と、艶かしい唇を目にした後、俺はこの日も彼女と体を重ねた。

 どうやら水帆さんの中に、俺を虐めるレパートリーの一つとして、新たにこの行為が加えられたらしい。彼女は俺の上に乗る事が、俺に苦痛を与える手段になり得ると考えているかのように、いつもぎらついた目で俺を見るようになった。獣のような彼女の声が気持ち悪い。そうは思うのだが、俺の体は数年ぶりに溺れた。


 ――それから、三ヶ月ほどが経過した。

「子供が出来たの」

 水帆さんがそう口にしたのは、俺が帰宅してすぐの事だった。
 俺の家の前にいた彼女が、それから口元に笑みを湛えた。

「たまには、あなたの家で、ゆっくりと話しましょう」

 頷いて、俺は自宅の扉を開けた。そして彼女を中へと促してから、キッチンに向かった。
 その後、不味いインスタントコーヒーを淹れて俺がリビングに戻ると、彼女はソファに座って窓の方を見ていた。俺がカップを置くと視線を戻した彼女が、腕を組んでニヤリと笑った。

「子供、産んであげる」
「……」
「ただ、養育費は用意してもらうから。通帳は今も預かっているけど、そういう事じゃなくって――もっと、公的に、永久的にね」
「……」
「旦那も同意しているから、私達で育ててあげる。私、崇と離婚する気はゼロだから。あなたと違って、子作り能力以外はパーフェクトだから」
「……」
「ちょっと、何とか言いなさいよ」

 黙って俺が聞いていると、水帆さんが少し焦ったような顔をした。

「な、なんならDNA鑑定する?」
「いや、いいよ」

 俺はすぐに答えて首を振った。カーテンを見ながら、俺は窓際へと歩み寄った。

 すると近くから、ナナハの鳴き声が聞こえた気がした。見渡す限り姿は無いし、あの夢だったかのような夜は一度きりで、翌日からはナナハの温もりを感じていないが――それでも確かに、俺の耳はナナハの声を捉えた気がした。

「物分りがよくて、良かった。そこだけは、あなたの取り柄かもね」

 窓の外を見ながら、俺は彼女の言葉を聞いていた。それから、壁に立てかけてあったバットを右手で持った。そうしながら振り返る。

「俺の子供なんて可哀想だから、産まない方が良い」
「――え?」
「隣から聞こえてくるあのナナハの――猫の鳴き声、聞けよ。ナナハがお前のせいで、どんなに苦しんで、それに仔猫達を失ったのか……可哀想に」
「待って、猫の声なんてしないわ!」
「するだろ!」

 俺はバットで床を殴りつけた。すると萎縮するように水帆さんが両腕で体を抱きしめ、その後泣き始めた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、事故だったの。急に声がしなくなって……大人しくなったと思ってたら、次の日の朝、た、崇が……死んだから庭に捨てたって……ごめんなさい、た、確かに私がケージを蹴った後だけど、わ、私だって、本当に殺すつもりなんて――」
「ナナハは生きてる」
「猫を殺して、ごめんなさい……」

 水帆さんが泣き始めた。震える睫毛を見て、俺は目を細めた。何度もチラチラと逃げるタイミングを窺うかのように、彼女はエントランスの方向に視線を向けている。しかし俺はそちら側に立って、バットの先端を床につき、彼女をじっと睨んだ。

 ――ナナハの声が聞こえない? ナナハが死んだ? 馬鹿げてる。有り得ない。俺は確かにこの目で、帰ってきたナナハを見たし、抱きしめて眠った。何より……今もどこからか、ナナハの鳴き声が聞こえるのだから、生きているのは間違いない。ああ、隣の家の方向だ。水帆さんは……このわけの分からない女は、恐慌していて上手く現実認識が出来ないのだろう。そうに違いない。教えてやらなければ。

「生きてるって言ってるだろ、今も声が聞こえるだろ!」

 叫ぶように俺はそう告げてから、彼女が座るソファの端を、これ見よがしにバットで殴りつけた。彼女が何か言おうとするように唇を震わせ始め、涙で頬を濡らしている。

「仔猫達より――この街で暮らす多くの猫達より、よっぽどお前のほうが世界にとって有害だ! 愚劣なクズだ!」

 その『真実』を口に出してから、俺はバットを振り上げた。