次の日、いつもの通り、俺は隣の部屋へと向かった。
 すると――ナナハの姿が無い。ケージも無かった。
 思わず俺は、ソファに座って煙草を吸っている水帆さんに向かい、声を上げた。

「ナナハは?」
「――別にいいじゃない」
「どこだ?」
「あなたに知る権利なんかないわ」
「ナナハは、どこなんだ?」

 俺が目を鋭くして声を低くすると、指で煙草を手に挟み、水帆さんが溜息混じりに煙を吐いた。

「……私の実家。母が昼に来て、一目惚れしちゃったのよ。いつまでもここにおいていくわけにもいかないし、母は猫好きだから。少なくともあなたに飼われるよりは、幸せね」
「……そっか」

 その言葉に、俺は全身の力が抜けた。そんな俺を暫くまじまじと見てから、面倒くさそうに水帆さんが口を開いた。

「それはそうと、お風呂洗っておいて。今日は、母が来ていたから、やる暇がなかったの」

 頷いて俺は、浴室へと向かった。そして洗剤類を取り出そうとすると、昨日までの品とは異なる洗剤が置いてあった。一昔前の種類の品が二本あり、俺がそう記憶していたのは、混ぜ合わせると硫化水素が発生すると知っていたからだ。

 俺が天涯孤独となった理由――両親が一家心中しようと用いた手段と同じだ。ただ、遺書によると子供の俺を巻き添えにするのは可哀想だとの事で、両親が心中する形になったらしい。俺は事件後に、事情聴取を受けた時に、洗剤について説明された。

 その時と全く同じ洗剤が二本と、以前はその場所には無かったように思えるガムテープが視界に入った。どうしてこんな昔の洗剤と、ガムテープが、風呂掃除用の道具と一緒にあるのだろうか?

 ――答えは簡単だ。俺は直感した。

 死ねという意味なのだ。やはり彼女は、俺の死を願っていたのだ。今回のお風呂掃除という『命令』は、実は『自殺しろ』という遠まわしの『命令』だったのだろう。直接的に言葉に出して、俺に死ねと言わないのは、水帆さんなりの優しさなのかもしれない。

 俺は早速浴室へと入り、洗剤を混ぜ合わせる準備をしてから、ガムテープを手にとった。扉や窓にガムテープを貼る理由は、水帆さんや外を通りかかるかもしれない誰かを巻き込まないためではない。発生した硫化水素が逃げてしまい、死ねなくなるのを防ぐためだ。俺がより確実に死ぬために、必要だというだけの話だ。

「何やってるのよ!?」

 その時、扉が激しく開いて、ビリビリと貼り付けていたガムテープが、音を立てて剥がれた。

「何って……?」
「変な音がするから見に来てみたら――ちょっと! ここがどこだと思ってるの!? 自己流の掃除方法なのかなんなのかは知らないけど、浴槽側の窓のガムテープなんか、誰かに見られておかしな噂を立てられたらどうしてくれるの!?」

 彼女がブツブツと早口で、俺に対する悪口を吐き出していく。
 上手く頭に入ってこないが、俺は一人で納得していた。

 ――ここで死なれるのは、迷惑という事なのだろう。

 他の場所で死ねという事らしい。あくまでも死ねというのは命令であり、実行場所は他が良いに違いない。だが、仔猫の命を奪った時、『目の前で確認する』という行為を、彼女は必要としていた。だから俺は、この部屋以外で、彼女といる時に、死んだら良いのだろう。

 次の日、俺が仕事から帰ると、水帆さんが丁度外に出てきた所だった。

「あら、タイミングが良い。買い物に行きたいの。車を出して」

 その言葉に、俺は頷いた。大家さん達の好意で、俺は駐車場を無料で借りている。自家用車を購入したのは、妻の病気のために、病院に行く際に、車の方が都合が良かったからだ。定期的に使う事は、現在ではほぼ無いのだが、今でも俺は、車を手放さずにいる。たまに、大家の息子の碧依が草野球関連の品を俺に運ばせる事もある。

 駐車場まで歩きながら、俺はふと水帆さんを見た。

 彼女に車を出すようにと頼まれるのは、実は下僕扱いされるようになってから、これで三度目である。しかし考えてみると――これは、『車道に飛び出して死ね』という、遠まわしの命令だった可能性が高い。そうか、俺は今まで、そんな簡単な事にすら気がつかなかったのか。どうりで彼女も、毎日苛立っていたわけだ。

 俺はマンションの総合エントランスを抜けてすぐ、駐車場に向かう方向ではなく、車道に向かった。遠目に、トラックが走ってくるのが見える。

「何やってるの!?」

 後ろから腕を強くひかれたのは、その時の事だった。仰け反った俺は、数歩後退り、そして腕を掴んでいる水帆さんを見た。首を傾げながら、通過していくトラックの音を聞いていた。

「崇と違って激務でもないくせに、ふらつくなんてバカみたい。そんな調子で車の運転をさせるのも不安だから――まぁ、良いか。電車で行きましょう。荷物持ちくらいは出来るでしょう?」

 どうやら、交通事故は、彼女のお気に召さなかったらしい。確かに、必ず死ぬとは限らない。だから――より確実に死ねる、線路への飛び降りを提案してくれたのだろう。多くの通勤・通学中などの人々に迷惑をかける可能性もあるが、彼女は猫の鳴き声の迷惑加減は許せなくても、電車の遅延は気にしないタイプなのだろう。

 それから駅へと向かい、俺達は電車を待った。各駅停車を待つ――素振りだ。俺は、実際には、もうじき通過する特急を待っている。その姿が視界に入った時、俺はホームから線路に身を乗り出そうとした。すると直前で、水帆さんに手首を掴まれた。

「フラフラしてるから見ていたら、何なの? 一体、どうしたの!? さっきから何をやってるの? おかしい!」

 小声ながらも不機嫌さを顕にしている彼女の声に、俺は素直に謝る事にした。

「上手く死ねなくてごめん」
「は?」
「この次は、ちゃんと死ぬから」

 俺は通過していく特急列車を一瞥してから、次の電車の到着時刻を確かめた。各駅停車が通過してから、次の特急電車がまた通過する。狙いはその時だ。そう考えながら上を見ていた俺の腕を、水帆さんが強く引いた。視線を彼女に戻すと、水帆さんが舌打ちした。

「ふざけないでよ! 自殺なんかされたら、私がなんて言われるかわからないわ! 人に迷惑をかけるのもいいかげんにして! 私の人生をボロボロにする気!?」

 その後、買い物は中止となり、俺達はマンションに戻る事になった。
 それ以来――俺の頭の中は、死に方で埋め尽くされた。

 仕事の最中だけは忘れているが、帰ってから、水帆さんと過ごし、次の朝出かけるまでの間は、死ぬ事ばかりを俺は考えるようになった。水帆さんに迷惑をかけずに、水帆さんの目の前で死ぬというのは、どうすれば可能となるのだろう。最近俺は、思考に霞がかかったようになり、上手く物事を判断出来ない。

 そんなある日、煙草を指に挟んで、ポツリと水帆さんが言った。

「完全に鬱ね。だけど……病院に連れていったりして、バレるわけにはいかないし……」

 もう俺には、彼女が何を言っているのか、上手く理解する事すら出来ない。

 ただただ言われた事の中で、具体的に分かるような家事の指示などにだけ従い、俺はそれが終わると自宅に戻る。夜は眠れず、最近は保育所でもたまに、体調が悪いのかと同僚や――時には、子供にまで尋ねられるしまつだ。

「ニャア」

 その時――響いてきた鳴き声に、俺は目を見開いた。
 咄嗟に窓を見ると、カーテンの隙間から、こちらを見ている猫の姿が見えた。

「ナナハ!」

 思わず立ち上がり、俺は勢いよくカーテンも窓も開けた。そこには、会いたくて会いたくて会いたくて会いたくて会いたくて仕方がなかった愛猫の姿があった。泣きながら抱きしめた俺は、ソファに座りながら号泣した。その間、ナナハはずっと俺の手を舐めてくれていた。

 ――これは夢かも知れない。けれどまた会えて、こうやって抱きしめられるなんて、夢かも知れない。嬉しい。温かい。幸せだ。

 ナナハの首につけてある太めの首輪に触れながら、俺はボロボロと泣いた。
 指に触れた紐の感触が優しい。
 その夜、俺はずっと泣いたままで、ナナハを抱きしめて寝台に横になった。

 久しぶりにナナハの温もりがある夜――俺は、ここの所の睡眠不足も手伝ったのだろうが、深く眠る事が出来た。