水帆さんはその日、ナナハを返してはくれなかった。

 ――既に月が変わり、冬の気配が近づいてきている。最近の俺は、仕事が終わるといち早く帰宅して、荷物だけ部屋に置き、料理レシピの更新一つせずに、真っ直ぐに左隣の夕波さん宅へと向かっている。

 全ては、俺が『選択』し、三つの幼い命を潰したあの日から始まった。
 彼女は言う。

「母猫を返して欲しいんなら、言葉通り、何でもしてもらわないとね」

 この一言を契機に、以来俺は、彼女に下僕のように扱われている。掃除・洗濯・夕食作り……その程度であれば、いくらでも親切心ですら行う事は易い。だが水帆さんは、いちいち俺にダメ出しをする。

「美味しくない」

 そう言って、目の前で無残にもゴミ箱に捨てられていく、俺の力作料理の数々。数時間かけて作り、一瞬で残飯と化す。同じ行為を自分でもしていたはずなのに、他人のために作って、他人にそうされると堪えるものがある。

 洗濯物をたたみながら顔を背けた俺の所に、水帆さんが歩み寄ってきた。そして傍らにあった、まだ熱いアイロンを手にとった。

「っ」

 直後その古めかしいアイロンを背中に押し付けられ、俺は息を詰めた。熱かった。すぐにはなれたが、それでもなおジンジンと熱が残した痛みが俺を苛んだ。

「何度言っても一度で美味しく作る事が出来ないんだから、相応に躾をしないとね。猫にも躾が必要かは知らないけど、躾けられていない様子のあなたに飼われるよりは、きちんと私に躾けられたあなたに飼われる方が、絶対に幸せね」

 その後彼女は、言葉の暴力から――殴る蹴るの暴行に及んだ。言葉に限らない暴力は、日増しに頻度を増していき、次第に激しくなっていった。人目につかない所、特に腰や尻を滅茶滅茶に蹴りつけられて、最初こそ俺は痛くて苦痛を堪える事に必死で止めて欲しいと懇願したが、今では、ひたすら早く苦痛の時間が終わってくれるよう、何も言わないようになった。ひとしきり俺を殴ると、彼女は満足するらしい。

 今日も満足したのか、あからさまに嘆息してから、水帆さんはそばのソファに座った。細い足を組んで、白く細長い煙草を銜える。オイルライターで火を点けながら、彼女は俺を改めて見た。

「本当に、今思い出しても気が狂いそう。猫の声がうるさかったから、それを少しでもかき消そうとして毎晩音楽をかけていたのに、何の効果も無かった」

 その言葉を聞きながら洗濯物の処理を再開した俺を、しばしの間、水帆さんはじっと見ていた。それからおもむろに立ち上がると、ナナハを彼女が閉じ込めているケージの前に立った。息を飲んで視線を向けた俺に微笑してから、水帆さんが今度は激しくケージを蹴り始めた。ガンガンと足で白いカゴを蹴りつけている。思わず俺は立ち上がった。

「止めてくれ、頼むから止めてくれ!」

 中から聞こえてくるナナハの鳴き声を聞きながら、俺は水帆さんに縋った。

「触らないで。もう良い、気が削がれた。出て行って」

 振り返りざまに俺の頬を平手で打ち、吐き捨てるように彼女が言った。
 幸い水帆さんの足が止まっていたので、俺は小さく頷き、これ以上刺激しないようにすべく、隣の自宅へと戻った。

 真っ暗な室内で、俺はカーテンを閉めるのを忘れて出かけた事に気がついた。月明かりが正面の大きな窓から入ってきている。それをぼんやりと眺めて視線を落とした時、そこに佇んでいるホタルの姿に気づいた。

 俺はすぐに窓まで向かい、鍵を開けた。そして寒空の下で俺を待つようにそこにいた猫を、そっと抱き上げた。ホタルは――少し痩せてきた。餌を与えたいが、俺の部屋にあった餌は全て水帆さんに没収され、かつ定期的に室内を確認されるため、今は何も無い。給料も通帳も全て管理されている。冷蔵庫の中にも、俺は料理中に隣で食べる事が増えたから、食材はほぼ何も無い。

 ホタルをギュッと抱っこしながら、俺はソファに座った。すると、ポロポロと涙がこぼれてきた。透明な雫が溢れてきて止まらない。

 ――猫に餌あげるってそんなに悪いことか?
 ――猫の子供みたいってそんなに悪いことか?
 ――悪いのか?

 腕に力を込め、ホタルの温度を感じながら、俺は自問自答した。

 ――俺が悪かったところなんて、ここがペット不可ってところだけだ。
 ――なんで俺は、こんな目に遭わなきゃならないんだ? 殴られてるんだ? それに、ナナハを、どうして、返してもらえないんだ? もう嫌だ、わけが分からない。

 その時、壁越しに夕波さんの家の方から、猫の悲鳴が聞こえたから、俺は震えながら目を見開いた。ナナハは恐らく、隣家で虐待されてる。それでも、俺が我慢して下僕を続けている間は、殺されはしないだろう。俺は、堪えないと……そうじゃないと、ナナハまで死んでしまうう……殺されてしまう。

 再び双眸を伏せ、俺はナナハの事を思った。



 それ以降も、俺は水帆さんからの虐めに堪え続けた。

 すっかり季節は冬になり、あまり雪が降らないこの土地にも、近々初雪が降るかも知れないと、保育所で子供達から聞いた。ニュースでやっていたのを見たお母さんから聞いたのだ――という、よくある情報だ。

 この日も荷物を置きに、仕事後は先に自宅に入った。

 すると僅かに開けてあったカーテンの向こうに、蹲る猫の体が見えたからだ。最初は寝ているのかと思った。見た目と大きさからすぐにホタルだと分かった。だが、ホタルは俺を待っている時、いつもはもっと離れた位置にいるから、不思議に思った。ホタルでも、このように部屋に近い場所で眠る事があるのか。ホタルは、まだ少し警戒心が強い部分があると勝手に思っていた俺は、静かに歩み寄って、驚かせないように静かにカーテンを開け、続いて窓に手をかけた。

「ホタル?」

 眠っているホタルに手を伸ばし――その冷たさに、俺は硬直した。

「ホタル!?」

 思わず声を上げ、揺すってみる。だが何の反応もなく、俺が餌を与えられなくなってから、どんどんやせ細っていったホタルの体には、肋骨が露骨に浮かんでいた。冬になると、窓を開けるのが寒いせいなのか、街猫に餌をやる家が減少するらしい。

「ホタル……」

 もう――どう見ても、ホタルの命の灯火は消え失せていた。まだ、凍死には早い。病気だったとも思えない。恐らくは、餓死だろう。そんな体で、最後に、最後に、最後に餌を求めて、あるいは俺に会いにここへと来てくれたホタル。

 俺は冷たく固い遺骸を抱き上げて、暫くの間一人で泣いた。
 だが、すぐに涙を拭って、俺はそのまま庭に出て、ホタルの体を土に埋めた。
 そして呆然としていると、隣の部屋の窓が開いた。

「帰ってるんなら、さっさと来なさいよ」

 不機嫌そうな水帆さんの声が響いてきた時、俺の中で、何か――気力のようなものが、プツンと途切れた。だが、上手く思考する事が出来ないまま、俺は一度部屋に戻ってから、隣家へと向かった。

「遅れた罰。あなたが遅れれば遅れるほど、悲惨な目に遭うんだから」

 そこでは水帆さんが、ナナハの入ったケージを蹴りつけていた。

 ついさきほど生々しい死に触れたばかりだった俺は、ナナハだけは失いたくないと思って、思わず水帆さんに手を伸ばした。すると打ち払われ、そのまま動きを止めた俺の首を――不意に水帆さんが締めた。どんどん両手に力が込められていく。俺よりも背が低い彼女は、背伸びをするようにして、歪んだ笑顔で俺の首を絞めている。

「許可なく私に触ったりしないで。あなたは私の言いつけ通りにしか、私に触れてはいけないの」

 怒ったような顔でそう口にした水帆さんは、俺の首から手を離した。俺が抵抗しようとした一歩手前で彼女が両手を離したため、俺は水帆さんを突き飛ばすかわりに、両手で自分の首を覆った。息が苦しくて、まだ上がっている。呼吸が荒い。一瞬の出来事だったが、死ぬかと思った。

 ――死?

 自分のその思考で、俺はようやく気がついた。

 ――もしかして水帆さんは、俺を殺したいのか?

 その衝撃的な事柄を理解した時、俺は何かに開眼した気持ちになった。そうか、そうだったのか、今までの嫌がらせも全て、遠まわしに、俺に対して、自殺を促していたに違いない。なるほど、最初から彼女は、理由は分からないが、俺を死ぬほど憎んでいたのだろう。俺が死ねば、全てが解決するのか。そうか、この日々も、終わりになるのか。

 小さく頷いた俺は、早く彼女のその願いを叶えるべきだと、一人確信した。



 翌日――俺は、首にまだ手で絞められた痕が残っていただめ、首まで隠すインナーの上に、上着、コートと身に纏い、更にマフラーもして外へと出た。

「おはようございます、先谷さん」

 すると丁度、隣からは夕波家の旦那さんが出てきた所だった。俺はいつも、ひとしきりの家事をやらされた後、彼の帰宅よりは早く、水帆さんに追い出されている。

「そのマフラー、おしゃれですね」

 和やかに夕波さんが言った。微笑している。そしてその表情のままで続けた。

「もしかして、痕が見えないように?」
「ええ、まぁ……」
「昨日は激しかったんですか? 羨ましいなぁ、俺も毎晩朝帰りしたいくらいです。我が家は鬼嫁なので、触らせてもくれなくて。激務薄給の上、水帆のATMがわりで、なのにレスじゃやってられないですよ」

 彼は嘆くようにそう口にした後、少しだけいつもよりニヤつくような顔で、俺を見ていた。俺は以前ならば笑って返答しただろうが、今はそういう気にはなれない。何せこの人は――水帆さんの行為を全部知っている上で、俺にこのようにして話しかけてくるのだから。何より、同じ室内にナナハを閉じ込めているケージがある事に、ご主人が気がつかなはずは無いのだ。

 だが俺は、夕波さんにナナハの事を一度も聞いた事は無い。理由は、水帆さんが、もし一言でも旦那の崇さんを始め周囲に俺が漏らしたら、即日でナナハを保健所に引き渡すと話して笑っていたからだ。崇さんもまた、素知らぬ顔で、俺が口に出すのを待ちわびて楽しんでいるに違いない。口止めされているせいで、俺は碧依にすらこの状態を相談できずにいる。

 その後マンションを出てから俺は彼と逆方向に進み、ゴミ集積場の前を通り過ぎた。

 相変わらず人々は俺を一斉に見てから、声を潜めてニヤニヤしている。

 ――こんな世界には、どこにも救いなんてありはしないのだ。