それから少しして――発情期が終わっただけだと考えていた俺は、異変に気づいた。つ、ついに、ナナハが妊娠したのである……!

 これまでにも、何度かそういう兆しがあった時期が存在したのだが、気が付くとお腹がペッタンコになっていて、子育てをする様子も無かったから、いつもは俺の気のせいだったらしいと落胆してきた。しかし、今回は違うだろう。

 毎日が、ルンルンワクワクだ。

 俺はスマホで動画を沢山撮りながら、日に日に大きくなっていくナナハのお腹を見ていた。もう発情期も終わった事だし、俺の家にナナハがいる事は、誰にも露見しないだろう。それに、このような状態で放り出すのは、とても可哀想だ。人間に置き換えて考えてみても、妊婦さんにホームレスを強いる奴なんてクズだ。

 仕事から帰宅する度に、俺は撮影した動画をブログに投稿した。

 ちなみに、俺は妻を亡くしてから料理が趣味となり、某料理のレシピサイトにもほぼ毎日写真付きで投稿している。

 だから週末の買い出しには気合が入る――が、飲み物にはこだわりが無いのと、段々投稿自体が趣味になってしまい、褒められるレシピを投稿したいがために、エンゲル係数が可哀想な事になっているのだが、実際にはそれほど食べないから、ゴミ箱に撮影後料理を直行させる日もある。

 元々は妻が料理、俺が皿洗いと洗濯と掃除とゴミ出しで分担していたため、今では俺の家事遂行能力は恐らくプロ級としても過言では無いだろう。

 こうして暫くしたある日の朝、久しぶりにホタルが顔を出した。出勤時間が迫っていた俺は、ホタルがまだ室内で食べていたものだから、悩んだ末に窓を開けて外に出た。ナナハには、最近専用の猫用の小屋を購入したから、大丈夫だろう。

 ――その考えが、甘かった。

 夕方になり帰宅した俺は、ホタルどころかナナハの姿まで部屋の光景に、愕然とした。一体、ナナハは身重の体でどこへ行ってしまったのだろう……!? もし、万が一、仮に、な、何かあったなら……!? 不安で胸が張り裂けそうになる。

 玄関の扉を激しくノックする音と、呼び鈴を連打する音が、重なって何度も同時に響いたのは、その直後の事だった。あまりにもの剣幕に、何事だろうかとインターホンを確認すると、画面には隣の奥さん――夕波水帆さんが映っていた。

 首を傾げながらエントランスへと向かい、チェーンを外して、俺は扉を開けた。
 すると激怒しているらしく、俺を睨めつけながら、真っ赤な顔で、一度唇をきつく引き結んでから、水帆さんが怒鳴った。

「お宅の猫が、うちの庭で子供産んだんですけど!」

 その言葉を聞いて、俺は目を見開いた。全身が震えた。

「え!? 生まれたんですか!?」
「ええ。私の大切なチョコレートコスモスの隣のレンガの下で!」
「母子ともに無事ですか!?」
「元気も元気、ニャーニャーニャーニャーと……」
「やったー!」

 俺は嬉しさのあまり感涙しそうになりながら、思いっきり声を上げた。

「は?」

 すると水帆さんが、虚を突かれたような声を上げた。

「え?」

 こんなに嬉しい事は他にないだろうと考えながら、笑顔で俺が首を捻ると、水帆さんの表情が険しくなった。

「あなた、まさかここで飼うつもりですか?」

 その一言に、思わず俺は声を失くした。動揺して冷や汗が浮かぶ。

「あ、いえ……」
「このマンション、禁止ですよね?」
「そ、それは……」
「すぐに保健所に連絡してください」
「え」
「私が代わりにしましょうか?」
「え、あ」

 俺が必死で何か反論しようと言葉を探していると、水帆さんが舌打ちした。これまでに見た事のある彼女のどの顔とも異なり、非常に冷たい眼差しをしている。

「大体――避妊去勢しないで飼うなんて頭がおかしいし、猫が可哀想。野良猫なんて、冬すら越せないしね」
「……」
「そもそもお宅から聞こえてくる、あのメス猫の発情期の声には気が狂いそうだったの。どれだけ苛々した事か。私もう、考えただけでも、あの騒音には二度と堪えられない」
「……」
「あのね、先谷さん。人の迷惑も考えて。猫のためにもならないし、あなたは常識が無さ過ぎる。しかもあの猫も、あなたが餌付けしている他の野良猫も、私の庭に糞害をもたらしていくんです。ああ、可哀想な花達! あなたのせいで、一体どれだけ、私の愛するお花達が蹂躙されたことか! あなたのせい、あなたのせいなの! わかる? あなたが悪いの! 配慮できないあなたが悪いの!」

 次第に語調が強くなり、早口になっていく水帆さんは、憤懣やるかたないといった様子で、瞳に怒りの色を滲ませていく。

「と、とりあえず、母猫と子猫を俺が、あ、あの……引き取りに行きます」

 ひとしきり罵倒されてから、俺は彼女がひと呼吸おいたのを見計らって、そう告げた。
 すると目を眇めてから、水帆さんが呆れたように吐息した。

「返しません」
「――え?」
「どうせそうすればまたここで飼うんでしょう?」
「……」
「それとも野良猫にするんですか?」
「里親を……これから……」
「保健所に連絡しますね」
「や、止め――なんでもします、だからそれだけは止めてくれ!」

 俺は思わず縋るように叫んでいた。我ながら必死だった。

 そんな俺に対して、水帆さんが向き直り、しげしげと顔を見上げた。それから俺の事を頭の上からつま先まで二度繰り返して見た後、小首を傾げて微笑した。

「――なんでも?」

 少し和らいだ彼女の声に、俺は大きく何度も頷く。

「はい!」
「だったら、子猫を殺して」
「え?」
「安心して、三匹だけだから。母猫は見逃してあげる」

 最初は、何を言われたのか理解できなかった。続いて俺は、その意味をじっくりと考えた。結果として、俺は言葉を失い、立ち尽くすしかなかった。そんな俺に対して、嘲笑するような瞳になり、水帆さんが続ける。

「これ以上、害獣を増やすわけにはいかない」
「……」
「それもあなたみたいな飼い主未満のクズのもとじゃ、猫が可哀想」
「……」
「生まれてこないのが一番幸せだったはずだけど、もう生まれてしまったし。殺すしかないでしょう」
「……」
「親猫も含めて、四匹全て、保健所の方が良いかしら?」
「……」
「私、子供って大っ嫌いなの。人でも、猫でも、なんでもね」
「……」
「どうする?」

 そう言って楽しそうに笑った水帆さんが、不意に俺の頬を撫でた。体を強ばらせた俺は、唇を噛んだ。ついさきほどまで嬉し泣きしそうだったというのに、こんなにすぐに別の意味で涙ぐむ事になるとは考えてもいなかった。

「どうするの? それとも、子猫を助ける? だとして、どの仔を? あなたは、一体どの命を選ぶの?」

 水帆さんがニヤニヤと笑っている。目の前が真っ暗になってきた俺は、右手で唇を覆った。次第に体が震え始めていた。一度長い瞬きをしてから、俺は無理に声を捻り出す。

「ナナハを……母猫を返してください……」

 生まれた命は勿論大切だ。けれど、蛍と一緒に世話をしたナナハは、俺にとって最早家族だ。まだ見ぬ新たな命よりも、俺は毎夜共に過ごしてきたナナハを――選択した。そんな自分の決断に、胸が苦しくなってくる。

「子猫三匹が死ぬのを見届けてからよ」

 水帆さんはそう言うと、スッと冷たい表情に戻り、一度家の中へと戻っていった。そして出てきた時、ティッシュボックスを持っていた。空き箱だったらしいその紙の箱の中からは、ニャアニャアと愛らしい声が複数聞こえてくる。

 手渡された俺は、想像よりも重たかったから、ドキリとした。そして中で動きながら、甘い声で鳴く仔猫達を、上部の切り取られている場所から目にした。三匹の生まれたばかりの仔猫達は、まだ目も開いていない。胸に何かが溢れてくる。

 ずっと見たかった、待望のナナハの子供達だ。気づくと俺は泣いていたが、その理由が何によるものなのかは分からない。

「踏み潰して」

 そこに、残酷な声が響いた。思わず俺は、息を飲んだ。

「川に流してくるみたいなこと、しないでね? ちゃんと、あなたが手にかけて。だってこの子達が死ぬのは、元を正せば、全部全部全部、あなたのせいなんだから」

 声を出さずにボロボロ涙をこぼしながら、俺はまぶたを伏せた。きつく閉じた。きっとこれは、悪い夢だ。俺は、悪夢を見ているのだろう。ああ、もっと深く、寝てしまおう。こんな現実があって良いはずがない。ティッシュボックスをマンション通路の床に置きながら、俺は胸の中でずっと、夢だ夢だ夢だと繰り返す。





 ――靴下の裏に感じたティッシュの箱が潰れた感触、そして、硬いのにぐにゃりとして、嫌な音を立てた何かの正体を、俺は考えないようにした。