――翌朝。
俺は、ナナハの鳴き声で目を覚ました。窓硝子が揺れる音も響いてきたから、瞼を開けてすぐに上半身を起こすと、ナナハがいつもとは全く異なる高い声で鳴いていた。出たがるように、窓をこじ開けようとするように、ひたすら外に向かって鳴いている。
普段が「ニャァ」だとすると「ナーオ」みたいな、一瞬だけ猫の声か疑うような声を出しているのだ。俺はすぐに理解した。
……ナナハの発情期が始まってしまったらしい。
その後俺が出勤準備をしている間も、ナナハは外へと出たがり、鳴き叫び狂うようにずっとナーオナーオナーオナーオと喚き散らしていた。普段、休日以外は、仕事に行く時は戸締りをしないと不安だから、ナナハは部屋に残していく。だが……発情期の時だけは、出たがるナナハがあんまりにも不憫だから……つい俺は、窓を開けてしまう。
するとナナハは、一目散に走っていった。多少の不安はあったが、俺は窓を僅かに開けた状態で出勤する事にした……。猫の世話というのも大変だ……。
靴を履いていると、ポストに回覧板が入っているのが見えた。
立ち上がり手に取って――俺はチラ見してすぐに顔を背けた。
『猫を放し飼いで、飼わないで下さい』
町内会からの通達が記載されていた。このマンションはペットを元々飼えないが、近隣の住宅街と同様に、一つの会に組み込まれている。
扉から外に出た俺は、回覧板を見なかった事に内心で決めて、隣のポストに入れようとした。丁度その時、左隣のエントランスの扉が開いた。
「――ああ、先谷さん、おはようございます」
顔を出した隣のご主人を見て、俺も咄嗟に笑顔を返した。回覧板を手渡すと、受け取った夕波さんが中にそれを置きに行った。隣人は夕波さんというご夫婦で、旦那さんが崇さん、奥さんが水帆さんいう名前だ。
ビシッとしたスーツをまとって再び出てきた夕波さんと共に、俺は総合エントランスへと向かう。真面目そうな風貌からは、夜中に一昔前の日本のレゲエを爆音で聞くタイプには全く見えないのだが、ただの俺の偏見かもしれない。けれど良い人だという印象は初対面時から変わらない。
夕波さんは、朝はいつも俺と同じくらいに外へと出かけるのだが、帰りは零時前後で非常に忙しそうだ。俺にはリーマン経験が無いため、終電帰りの残業なんてキャリア風で格好良いと思っていたのだが――もしかしたらブラック企業なのかもしれないと、過労死のニュースを目にする度に考えてしまう。
和やかに雑談をしながらマンションから出た俺達は、その後の進路は逆方向なので、正面の通路で別れた。俺は左手に坂を下った先にある保育所に勤めている。夕波さんは、右側の坂を上がった場所にある駅に向かうらしい。
一人で歩き出した俺は、少ししてゴミ集積場の前を通りかかった。
そこでは――毎朝の事であるが、近所の人々がゴミ出しがてらに集って、立ち話をしていた。ここは、この付近一体のマンションの共用集積場で、曜日を気にせず毎日ゴミ出しをして良い規則になっている。俺は週に一度しか出さないのだが。
――俺は、ここを通り過ぎる事が、心底嫌だし、本当は週に一度であっても近づきたくない。
俺が通ろうとした時、ピタリと一瞬雑談が止み、近隣住民が俺を一瞥した。それから表情こそ元通りの笑顔を取り繕ったものの、声を一気に潜めて、ヒソヒソと話し始めた。時折俺を見ては、ニヤつく人までいる。主婦、定年退職後の暇人、そう言った連中だ。
この場所を通過する度に、俺はいつも陰口を叩かれている気分になる。恐らく自意識過剰なのだろうし、誰が通っても、彼らは雑談コミュニティ外に属する人間に対しては、このような反応を示すのだろうが、正直な話、隣室の深夜の轟音よりも不快だ。
一度だけ、俺は率直に聞いてみた事がある。
「もしかして、俺の悪口ですか?」
我ながら直球だった。ただ、その日は確信があったから、尋ねる事が出来たのだ。マンション内部の隣とは異なり、別の家々の人々で名前すら知らない相手が多数だったから、率直に聞く事が出来たというのもある。すると彼らは、俺に言った。
「そんなわけがないじゃありませんか。私達は、今日は台風が来そうで嫌だという話をしていただけで――先谷さんの事なんて、何も話してませんよ」
俺はその時頷いて、笑顔を浮かべた。
「冗談です。いつも皆さんが楽しいそうだから、つい」
というような、心にも無い事を言って帰宅した記憶がある。
それでも、今でも悪口を言われていた確信がある。
意識して早く歩き、その場を通り過ぎてから、俺は大きく吐息した。
そうして暫く歩き――俺は、俺を先谷と呼ぶ人々の視界に入らない位置まで到着した。
予定通りに到着したバスに乗り、俺は保育所へと向かう。
こうして、俺は槇野先生と呼ばれる場所へと顔を出し、先谷から槇野となる。
保育所には、色々な子供がいる。
……思いのほか、親が話していた事柄をリピートする子供は多い。
だから子供達の声に耳を澄ませていると、聞きたくもない保護者の本音が聞こえてきてしまう場合がある。例えば、ゴミ集積場で語られている俺に対する罵詈雑言も、その内の一つだった。本当に、皮肉な職である。
日曜の夜は億劫になるものの、充実しているから、仕事の時間自体はあっという間に過ぎていく。気がついたら、子供達を保護者が迎えに来る時刻になっていた。どの保護者も、悪口を言っているなどとは感じさせない笑顔で、俺に和やかに接してくる。俺も笑顔を返すわけだが……はっきり言って、人間不信になりそうだ……!
俺も帰宅時間になったので、スーパーに立ち寄ってからマンションへと戻った。
すると扉の前に、右隣で暮らしている大家の息子――俺と同中・高だった、直江碧依が立っていた。碧依は大学に進学し、そちらでも野球を続けていたらしく、今も草野球をやっているから、時々俺も参加しないかと誘われる。断っているのだが……人手が足りないと、俺が帰宅する時間に、こうして扉の前で待機している事がある。
「次の試合はいつなんだ?」
てっきり用件はそれだろうと思って俺が尋ねると、碧依が腕を組んで両目を細めた。
「――近所から、苦情が来てる」
「苦情?」
しかし違ったらしく、いつになく険しい顔で碧依が続けた。
「このマンション、一応さ、ペット禁止なんだけど?」
その言葉に、俺の背筋が冷えた。あからさまに硬直した俺は、それから視線を逸らし、必死に言葉を探した。
「と、とりあえず、立ち話もなんだから、中に入ってくれ」
俺は、発情期になるとナナハが三日程度は帰ってこない事を知っていたし、現在自分の部屋からは声がしない事を確認し、碧依にそう告げた。頷いた碧依は、俺の後に続いて部屋に入ってくる。
中に入るとすぐに俺は、キッチンへと向かった。そして言い訳を探しながら、不味いインスタントコーヒーを淹れる作業をした。本当はもっと高級なコーヒーが好きだ。しかし猫の餌代もあるし、贅沢は言えない。
カップを二つ持ってリビングへと行き、テーブルを挟んで俺達は向き合った。
「槇野。改めて言うけど、ペットは禁止だ」
「……お、俺は知らない。だって今、ここにいないだろ?」
俺は周囲を見回してみせた。やはりナナハは帰っていなかった。幸いである。
だが碧依は溜息をついてから、コーヒーカップを片手に続けた。
「……槇野、証拠があるんだ」
「この部屋にペットがいない以上の証拠があるのか??」
「ある。それに証拠がなくても、壁見れば、猫がいるってわかる。完全に、爪を研いだ跡だ」
「……証拠って?」
「これ。大家宛に届いた」
確かに壁は言い逃れが厳しいかも知れないと思ったが、どうやらそれが証拠では無さそうだったから、俺は首を捻った。するとスマホを取り出した碧依が、動画の再生を始めた。
――そこには、マンションの窓からホタルを中へと迎えて、餌をあげている俺が映し出されていた。それも一度では無い。猫がナナハに代わる場合はあったが、いつもマンションの庭側から撮影されていたようで、いくつかの季節、俺が猫に笑顔で餌をあげている姿が動画として再生されている。隣室の庭の花の違いから、少なくとも一年以上に渡り、定期的に撮影されていたようだと分かった。必要場面だけを編集してあるのも判断出来る。
「わかったか?」
「……」
「今後は気をつけろよ」
「ああ……これ、盗撮だよな? 俺、身の危険を感じた。ストーカーだ……」
「気をつけろって、そっちじゃない! 盗撮じゃなくて、猫に気をつけろって言ってるんだ! どうにかしろよ? 最悪俺の実家で短期なら預かる事も出来るし、少し待ってやるから……この前草野球の助っ人をしてくれたよしみで……そういえば、あの時渡した野球のボール、暇な時で良いから返してくれ。ダンボールに入ってる奴。槇野の車に入れてもらってた、あれだ。忘れてた。暫く使わないんだけど、一応な。忘れる前に伝えておく」
そう口にすると碧依が帰っていった。
見送って玄関の扉を施錠してから、俺は俯いた。
――誰が、あんな動画を?
近所の人は、誰でもやりそうだからわからない。今後もありそうだから……非常に怖い。ここはひとつ、防犯用のカメラや、録音機でも用意して、ストーカーに対処した方が良いだろうか?
それから一週間、仕事を俺は頑張った。
そして土曜日、俺は買い物に出かけた。食材の買い足しは、普段の仕事帰りにもするのだが、まとめて購入するのは、いつも週末だ。赤いトマトを片手に、俺は今週の献立を少しの間考えていた。
その後、自動レジを抜けた時、俺はふと思い出した。そういえば、目覚まし時計が壊れてしまったのだった。あれも購入した方が良いだろう。幸いスーパーから電気屋さんは、近距離にある。
店外へと出て暫く歩いていき、俺は電気屋さんで、無事に目的物を購入した。
そして何気なく外へと向かおうとした時、不意に声がかかった。
「先谷さん」
顔を上げると、お隣のご夫婦が立っていた。二人が俺に向かって微笑した。会釈を返す。
「あ、すみません、ちょっとトイレに」
その時、旦那さんがそう言って、近くにあったトイレへと向かった。視線だけで見送っていると、奥さんが唐突に、小さく咳払いをした。視線を戻すと、奥さんが少し困ったような笑顔で、控えめな声を発した。
「あの……先谷さん……猫の声が……」
俺はすぐに、ナナハの発情期の声だと悟った。二日前に一度戻ってきて、今朝も顔を出したナナハは、その間も大体鳴いていた。
「……気をつけます」
素直に俺は、頭を下げた。だが内心で、隣室だって騒音が酷い事に、憤慨していたのだったりする。お互い様だ。しかし、やはり波風を立てない方が良いと感じてしまう。
それから旦那さんが戻ってきたタイミングで俺はその場を離れ、気を取り直すように近くのペットショップへと向かった。そして猫の遊び道具と、紐の幅が大きめの首輪を購入して帰宅した。
戻ると、ナナハが帰っていた。
発情期も終わっているようだった。
――その姿を見たら、どっと疲れが出てきた。今週も俺は頑張った。けれど、どんなに仕事が厳しくても、猫を見ると癒される。その夜は、久しぶりに一緒に眠った。
俺は、ナナハの鳴き声で目を覚ました。窓硝子が揺れる音も響いてきたから、瞼を開けてすぐに上半身を起こすと、ナナハがいつもとは全く異なる高い声で鳴いていた。出たがるように、窓をこじ開けようとするように、ひたすら外に向かって鳴いている。
普段が「ニャァ」だとすると「ナーオ」みたいな、一瞬だけ猫の声か疑うような声を出しているのだ。俺はすぐに理解した。
……ナナハの発情期が始まってしまったらしい。
その後俺が出勤準備をしている間も、ナナハは外へと出たがり、鳴き叫び狂うようにずっとナーオナーオナーオナーオと喚き散らしていた。普段、休日以外は、仕事に行く時は戸締りをしないと不安だから、ナナハは部屋に残していく。だが……発情期の時だけは、出たがるナナハがあんまりにも不憫だから……つい俺は、窓を開けてしまう。
するとナナハは、一目散に走っていった。多少の不安はあったが、俺は窓を僅かに開けた状態で出勤する事にした……。猫の世話というのも大変だ……。
靴を履いていると、ポストに回覧板が入っているのが見えた。
立ち上がり手に取って――俺はチラ見してすぐに顔を背けた。
『猫を放し飼いで、飼わないで下さい』
町内会からの通達が記載されていた。このマンションはペットを元々飼えないが、近隣の住宅街と同様に、一つの会に組み込まれている。
扉から外に出た俺は、回覧板を見なかった事に内心で決めて、隣のポストに入れようとした。丁度その時、左隣のエントランスの扉が開いた。
「――ああ、先谷さん、おはようございます」
顔を出した隣のご主人を見て、俺も咄嗟に笑顔を返した。回覧板を手渡すと、受け取った夕波さんが中にそれを置きに行った。隣人は夕波さんというご夫婦で、旦那さんが崇さん、奥さんが水帆さんいう名前だ。
ビシッとしたスーツをまとって再び出てきた夕波さんと共に、俺は総合エントランスへと向かう。真面目そうな風貌からは、夜中に一昔前の日本のレゲエを爆音で聞くタイプには全く見えないのだが、ただの俺の偏見かもしれない。けれど良い人だという印象は初対面時から変わらない。
夕波さんは、朝はいつも俺と同じくらいに外へと出かけるのだが、帰りは零時前後で非常に忙しそうだ。俺にはリーマン経験が無いため、終電帰りの残業なんてキャリア風で格好良いと思っていたのだが――もしかしたらブラック企業なのかもしれないと、過労死のニュースを目にする度に考えてしまう。
和やかに雑談をしながらマンションから出た俺達は、その後の進路は逆方向なので、正面の通路で別れた。俺は左手に坂を下った先にある保育所に勤めている。夕波さんは、右側の坂を上がった場所にある駅に向かうらしい。
一人で歩き出した俺は、少ししてゴミ集積場の前を通りかかった。
そこでは――毎朝の事であるが、近所の人々がゴミ出しがてらに集って、立ち話をしていた。ここは、この付近一体のマンションの共用集積場で、曜日を気にせず毎日ゴミ出しをして良い規則になっている。俺は週に一度しか出さないのだが。
――俺は、ここを通り過ぎる事が、心底嫌だし、本当は週に一度であっても近づきたくない。
俺が通ろうとした時、ピタリと一瞬雑談が止み、近隣住民が俺を一瞥した。それから表情こそ元通りの笑顔を取り繕ったものの、声を一気に潜めて、ヒソヒソと話し始めた。時折俺を見ては、ニヤつく人までいる。主婦、定年退職後の暇人、そう言った連中だ。
この場所を通過する度に、俺はいつも陰口を叩かれている気分になる。恐らく自意識過剰なのだろうし、誰が通っても、彼らは雑談コミュニティ外に属する人間に対しては、このような反応を示すのだろうが、正直な話、隣室の深夜の轟音よりも不快だ。
一度だけ、俺は率直に聞いてみた事がある。
「もしかして、俺の悪口ですか?」
我ながら直球だった。ただ、その日は確信があったから、尋ねる事が出来たのだ。マンション内部の隣とは異なり、別の家々の人々で名前すら知らない相手が多数だったから、率直に聞く事が出来たというのもある。すると彼らは、俺に言った。
「そんなわけがないじゃありませんか。私達は、今日は台風が来そうで嫌だという話をしていただけで――先谷さんの事なんて、何も話してませんよ」
俺はその時頷いて、笑顔を浮かべた。
「冗談です。いつも皆さんが楽しいそうだから、つい」
というような、心にも無い事を言って帰宅した記憶がある。
それでも、今でも悪口を言われていた確信がある。
意識して早く歩き、その場を通り過ぎてから、俺は大きく吐息した。
そうして暫く歩き――俺は、俺を先谷と呼ぶ人々の視界に入らない位置まで到着した。
予定通りに到着したバスに乗り、俺は保育所へと向かう。
こうして、俺は槇野先生と呼ばれる場所へと顔を出し、先谷から槇野となる。
保育所には、色々な子供がいる。
……思いのほか、親が話していた事柄をリピートする子供は多い。
だから子供達の声に耳を澄ませていると、聞きたくもない保護者の本音が聞こえてきてしまう場合がある。例えば、ゴミ集積場で語られている俺に対する罵詈雑言も、その内の一つだった。本当に、皮肉な職である。
日曜の夜は億劫になるものの、充実しているから、仕事の時間自体はあっという間に過ぎていく。気がついたら、子供達を保護者が迎えに来る時刻になっていた。どの保護者も、悪口を言っているなどとは感じさせない笑顔で、俺に和やかに接してくる。俺も笑顔を返すわけだが……はっきり言って、人間不信になりそうだ……!
俺も帰宅時間になったので、スーパーに立ち寄ってからマンションへと戻った。
すると扉の前に、右隣で暮らしている大家の息子――俺と同中・高だった、直江碧依が立っていた。碧依は大学に進学し、そちらでも野球を続けていたらしく、今も草野球をやっているから、時々俺も参加しないかと誘われる。断っているのだが……人手が足りないと、俺が帰宅する時間に、こうして扉の前で待機している事がある。
「次の試合はいつなんだ?」
てっきり用件はそれだろうと思って俺が尋ねると、碧依が腕を組んで両目を細めた。
「――近所から、苦情が来てる」
「苦情?」
しかし違ったらしく、いつになく険しい顔で碧依が続けた。
「このマンション、一応さ、ペット禁止なんだけど?」
その言葉に、俺の背筋が冷えた。あからさまに硬直した俺は、それから視線を逸らし、必死に言葉を探した。
「と、とりあえず、立ち話もなんだから、中に入ってくれ」
俺は、発情期になるとナナハが三日程度は帰ってこない事を知っていたし、現在自分の部屋からは声がしない事を確認し、碧依にそう告げた。頷いた碧依は、俺の後に続いて部屋に入ってくる。
中に入るとすぐに俺は、キッチンへと向かった。そして言い訳を探しながら、不味いインスタントコーヒーを淹れる作業をした。本当はもっと高級なコーヒーが好きだ。しかし猫の餌代もあるし、贅沢は言えない。
カップを二つ持ってリビングへと行き、テーブルを挟んで俺達は向き合った。
「槇野。改めて言うけど、ペットは禁止だ」
「……お、俺は知らない。だって今、ここにいないだろ?」
俺は周囲を見回してみせた。やはりナナハは帰っていなかった。幸いである。
だが碧依は溜息をついてから、コーヒーカップを片手に続けた。
「……槇野、証拠があるんだ」
「この部屋にペットがいない以上の証拠があるのか??」
「ある。それに証拠がなくても、壁見れば、猫がいるってわかる。完全に、爪を研いだ跡だ」
「……証拠って?」
「これ。大家宛に届いた」
確かに壁は言い逃れが厳しいかも知れないと思ったが、どうやらそれが証拠では無さそうだったから、俺は首を捻った。するとスマホを取り出した碧依が、動画の再生を始めた。
――そこには、マンションの窓からホタルを中へと迎えて、餌をあげている俺が映し出されていた。それも一度では無い。猫がナナハに代わる場合はあったが、いつもマンションの庭側から撮影されていたようで、いくつかの季節、俺が猫に笑顔で餌をあげている姿が動画として再生されている。隣室の庭の花の違いから、少なくとも一年以上に渡り、定期的に撮影されていたようだと分かった。必要場面だけを編集してあるのも判断出来る。
「わかったか?」
「……」
「今後は気をつけろよ」
「ああ……これ、盗撮だよな? 俺、身の危険を感じた。ストーカーだ……」
「気をつけろって、そっちじゃない! 盗撮じゃなくて、猫に気をつけろって言ってるんだ! どうにかしろよ? 最悪俺の実家で短期なら預かる事も出来るし、少し待ってやるから……この前草野球の助っ人をしてくれたよしみで……そういえば、あの時渡した野球のボール、暇な時で良いから返してくれ。ダンボールに入ってる奴。槇野の車に入れてもらってた、あれだ。忘れてた。暫く使わないんだけど、一応な。忘れる前に伝えておく」
そう口にすると碧依が帰っていった。
見送って玄関の扉を施錠してから、俺は俯いた。
――誰が、あんな動画を?
近所の人は、誰でもやりそうだからわからない。今後もありそうだから……非常に怖い。ここはひとつ、防犯用のカメラや、録音機でも用意して、ストーカーに対処した方が良いだろうか?
それから一週間、仕事を俺は頑張った。
そして土曜日、俺は買い物に出かけた。食材の買い足しは、普段の仕事帰りにもするのだが、まとめて購入するのは、いつも週末だ。赤いトマトを片手に、俺は今週の献立を少しの間考えていた。
その後、自動レジを抜けた時、俺はふと思い出した。そういえば、目覚まし時計が壊れてしまったのだった。あれも購入した方が良いだろう。幸いスーパーから電気屋さんは、近距離にある。
店外へと出て暫く歩いていき、俺は電気屋さんで、無事に目的物を購入した。
そして何気なく外へと向かおうとした時、不意に声がかかった。
「先谷さん」
顔を上げると、お隣のご夫婦が立っていた。二人が俺に向かって微笑した。会釈を返す。
「あ、すみません、ちょっとトイレに」
その時、旦那さんがそう言って、近くにあったトイレへと向かった。視線だけで見送っていると、奥さんが唐突に、小さく咳払いをした。視線を戻すと、奥さんが少し困ったような笑顔で、控えめな声を発した。
「あの……先谷さん……猫の声が……」
俺はすぐに、ナナハの発情期の声だと悟った。二日前に一度戻ってきて、今朝も顔を出したナナハは、その間も大体鳴いていた。
「……気をつけます」
素直に俺は、頭を下げた。だが内心で、隣室だって騒音が酷い事に、憤慨していたのだったりする。お互い様だ。しかし、やはり波風を立てない方が良いと感じてしまう。
それから旦那さんが戻ってきたタイミングで俺はその場を離れ、気を取り直すように近くのペットショップへと向かった。そして猫の遊び道具と、紐の幅が大きめの首輪を購入して帰宅した。
戻ると、ナナハが帰っていた。
発情期も終わっているようだった。
――その姿を見たら、どっと疲れが出てきた。今週も俺は頑張った。けれど、どんなに仕事が厳しくても、猫を見ると癒される。その夜は、久しぶりに一緒に眠った。



