Petals Left Behind


 私は昔から要領が悪くて、それなのに中途半端な努力しかできないせいでいつも損をした気分になっていた。高校の時は、みんなが隠れてスマホを使っていた。それを羨ましいな、バレないのかな、なんて思いながら見ていた私は、ある日の放課後、教室ではじめて、スマホを使ってみた。10秒にも満たないその時間に、運悪く先生が教室に入ってきて、目撃され、没収された。いつもスマホを使っている彼らは、私が怒られている間に、サッとスマホを隠していた。
 日常的に使っているからバレるんです、と厳しく叱られて、初犯です、とは言えなかった。ああなんて、馬鹿なんだろう、やらなきゃよかった、間が悪いんだから、と自分のことがまたひとつ嫌いになった。

 またある時は、課題のレポートを、提出締め切り前日まで自力でやって出した。友達は、AIに文章を作らせて、締め切りを過ぎてから出していた。ニッシーだから締め切りすぎても許してもらえるっしょ、いけるべ、と、担当教員をあだ名で呼びながら話している声を聞きながら、提出日を過ぎると自分の中でモヤモヤしてしまうから、夜遅くまで作業をした。おかげで寝不足になり、何日か休むハメになった。
 努力をした。けれど、レポート提出が遅れたAI作成友達と、私のレポートの評価は、どちらも同じA評価だった。ずるい、と思ってしまった。提出が過ぎているのに、もやもやしない性格も、自分の力でやらなくても罪悪感が生まれない性格も、猛烈に羨ましい、と思った。だって、私はそんな人間にはなれないから。
 自分の行いに誇りを持っていて、ずるいことをする人間を軽蔑している。それなのに、ずるいことを平気でできる要領の良い人間として生まれたかった、と黒い感情が渦巻く。実際、世渡り上手な人間は、友達のような人のことをいうんだろう、と悲しい予感がした。
 むしろ、数日寝不足で休んだ私の方が、成績的には不利になってしまうわけで、最小限の作業で済ませた彼らの方が、皆勤賞であたかも偉い優等生のように、教室の真ん中で笑っていた。

 ひとよりも、心が弱い作りをしていた。些細なことに傷ついてしまうから、家の外に出るのがこわかった。けれど、家からでなくなって、社会においていかれるほうが、よほどおそろしかった。
 外に出たくない、と感じる度合いは、日によって違っていた。大きい波がくるときもあれば、ハードルが極端に低い日もある。けれど、それを自分で調節することは、とても難しかった。

 涙が出そうになって、胸のあたりに不快感が渦巻いて、そういう日は、家にいたほうが身のためだから引きこもるようにしている。けれど、どうしても外にでなければいけない日というものもあって、新木琥尋と出会ったのは、そんな憂鬱な日だった。





 ──ひどい雨が降っていたのを、はっきりと覚えている。


 その日は学部で必須の実習日で、絶対に休んではいけない、と前々から意識はしていた。絶対に、という言葉に弱い私は、緊張感からうまく寝付くことができずに、寝不足のまま朝を迎えた。オールをしても元気に動けるような体力はなく、頭痛と倦怠感をわずらいながら朝食をとり、家を出ようと玄関の扉を開けたときにようやく、雨が降っていることに気がついた。ザー、と激しい音を前にして、どうして家の中で気が付かなかったのだろう、と憂鬱な気分になる。

 ああ、逃げたいな、と思った。なんとなく、悪いことが起きるのかもしれないな、と予感した。
 毎朝起きたときに「今日も良い日になりますように」と唱えるのがいいと、どこかで聞いたことがあるけれど、いい日になる予感など、これまでの人生で一度も感じたことはなかった。むしろ、悪いことが起きるかもしれない、というマイナスな予感だけはいつも頭のなかを満たしていて、そういう残念な予感は、きまってだいたい当たるのだ。


 体を引きずるようにして講座の教室に着くと、そこには誰もいなかった。あれ、と焦りともいえない感情が心を埋め尽くす。
 場所、間違えた?それとも、時間?

 確認しなければ、とあたりを見回してみても、情報がわかるようなものはなにひとつない。そうだスマホ、とカバンのなかを漁ってみても、そこにはペンケースとルーズリーフ、財布しか入っていなかった。
 家に忘れたのだ、と気がついて、なぜだか無性に目頭が熱くなる。悪いことというのは、どうしてこう、重なるのだろう。

「……水嶋さん?」

 突然後ろから飛んできた声に振り向く。そこには、同じ学部の高石さんが、目を丸くして立っていた。彼女はダンスサークルに所属していて、常に陽をはらんでいるような人間で、同じ学部にはいるけれど、接点はほとんどない。彼女のことを深くは知らないけれど、彼女が所属する、わちゃわちゃとした男女グループに私は苦手意識を持っていた。
 なにを考えて、どんな言葉で、突き刺してくるかわからないから。危険だから近づくな、と脳内で常に警鐘が鳴り響いている。

「あ、あの。今日の必修の、実習って」

 なんとか声を絞り出すと、「ああ」と声をあげた高石さんは、「教授の体調不良で休講だって、全体メールに送られてたはずだけど、見てない?」と首をかしげる。
 まずい、確認不足だった、と自分の不注意に情けなさが募る。けれど教授がメールを使うことなんてめったにないから、まさかそんなところから情報を拾わなくてはならないなんて、思いもしなかった。目立った通知がくるわけでもない、来たとしてもすぐに他通知にまぎれてしまうようなメールに、果たして私以外のみんなは気がついたのだろうか。
 そう思っていると、「あー」と眉を下げた高石さんが、申し訳ないというように目の前でパチンと手を合わせた。

「あたしも知らなくて、友達からきいて気づいたんだけどね。グルラ入ってる人には共有したけど、全員ってわけじゃないし、困るよねえこういうの。水嶋さんにも伝えてあげればよかっ……」
「高石ー、なにしてんの」

 続いて顔を出したのは、短髪の男性だった。ああ、知ってる、私の苦手なグループのひとだ。学部は違うけれど、高石さんと頻繁に絡んでいるのをよく見かける。

「今日講座休みになったのに、間違えて来ちゃったんだって」

 高石さんが、なんでもないように情報を共有する。
 関係のない人物に、そんなこと話さないでほしい。あまりの居心地の悪さに、視線が足元に落ちた。

 恥ずかしい、はずかしい。私の情けなくて、かわいそうな部分。さらさないでほしい、赤の他人なんかに。
 高石さんにとって、これはただの軽い失敗なのかもしれない。いや、失敗ですらないのかもしれない。けれど、今の私にとっては、涙が出そうになるほどしんどいことなのだ。

「うっそーどんまいじゃん、おつかれ」

 降ってきた言葉に、手足の先が、静かに冷えていく。
 ああ、やばい、と気付いたときには、カバンを持って教室を飛び出していた。窓の外では、打ち付けるような雨が降り続いている。

 もう帰ろう、ここにいては危険だ、はやく、安全な場所へ。早く、はやく。



 下ばかり見て走っていたせいで、いきなり現れた足に反応できず、ドンッという衝撃とともに体ごと吹き飛ぶ。
 ……ああ、最悪だ。「ごめんなさい、」と叫ぶように告げて立ち上がろうとする。けれど、思うように力が入らない。

 ほら、やっぱり悪いことだらけだった。ツイてない。ぼろぼろと涙が流れ出す。
 恥ずかしい。ああもう、消えたい。


 顔をあげることができずに、ただひたすら、早く立ち去ってくれないだろうか、と願う。どうか、知り合いではありませんように。泣いていることが、バレていませんように。





「……おちついて」





 落ちてきた声があまりに優しい色をしていて、動きが止まる。ゆっくりと影が動いて、きれいな瞳がかち合った。しゃがむようにして私を見つめていたのは、とてもきれいな顔をした男の人だった。絵画のようにうつくしくて、思わず息の仕方を忘れていた。遅れて、自分の顔が涙で濡れて、惨めであることを、猛烈に恥じた。

「……あ、」
「落ち着いて、息して。大丈夫だから」

 いや、嫌だ。離れたい。それなのに、体が動かない。助けてほしい。いかないで、おいていかないで。

「ここにいますから。泣いてもいいから、ゆっくり、息をして」

 繰り返し、大丈夫、と言われる。根拠のない大丈夫に、なぜだか救われた。
 薄い呼吸を繰り返すうちに、頭が冷静さを取り戻していく。途端に羞恥が押し寄せてきて、彼の顔をまともに見れなくなった。

 私がいくぶん落ち着いたことを確認した彼は、「足」と私の右足に視線を落とす。こんなところまで気づかれているなんて。

「気持ち落ち着いたら、医務室行きましょう」
「え、あの……」
「大丈夫です、俺が連れていくんで」

 そんなことまでしてもらわなくても平気だ。ただの捻挫だろう。

「捻挫は放置すると腫れたり、癖になったりするんで」
「え」

 捻挫を軽く捉えたことを、見透かされてしまったらしい。
 迷惑を、かけている。どうしていいかわからず首を振る私に、彼は少し苛立ったような顔をした。けれどすぐに柔らかな笑みに変わる。

「俺のエゴだと思って、ついてきて」
「……ご迷惑、おかけします」

 彼のまなざしが一瞬、何かを懐かしむように細くなる。じゃあ行こうか、という声に返事をした自分の声が、なんだか別の人のもののような気がした。