Petals Left Behind

【藤永紗凪 二十二歳 秋】


 長引いた夏がようやく終わって、夜の気温がぐんと下がったかと思えば、急にアウターが必要な季節になってしまった。


《会って話したいことがある》


 こーちゃん、と表示された通知を長押しして少し止め、指で払う。潮時か、と妙に納得して、よく続いたほうだなぁと我ながら感心した。



 思えば、好かれているという感じが薄い恋愛ではあった。愛情表現もスキンシップも多い方ではなかったし、医者志望の彼は時間にいつも追われているようだった。けれど月に二度は時間を作って会ってくれていたし、連絡もできる限りしてくれていたし、なにより縛るということをしないでいてくれたから、とても楽だった。

 好きと嫌いは天秤のようにぐらぐらと常に揺れ動いている。愛と重さは似ている。

 中学の時から今に至るまで、様々な恋愛をしてきた。中学の頃は一ヶ月に満たない期間で別れることなどしばしばあったし、高校でも長く続いたものは半年くらいだった。大学生になっても一年二年の頃は付き合ったり別れたりを繰り返してみたり、相手を作らずに色んな男性と関係を持ってみたりもした。

 そうして、大学三年の春の終わり、彼と出会った。正確には、もとから存在は知っていた。彼とは学部が違ったけれど、キャンパス内ですれ違うことが稀にあった。

 彫りの深い顔立ちが印象的だった。スラリと伸びた背丈と、美しい顔立ちがひとりだけ妙に浮いていた。わたしがそう思うということは、もちろん周囲の誰から見ても彼は魅力的に映るというわけで。入学当時から早くも噂になっていたけれど、同時に高校からの彼女がいる、という噂付きだったから容易に手を出せない雰囲気があった。


 高校からの彼女、それも数年続いている彼女。19、20でする恋愛は大恋愛というけれど、それよりもっと前の高校時代から一緒にいて、距離ができてもなお繋がっているという関係値の深さ。浅い恋愛ばかりしているわたしにとっては未知の領域で、同時にかすかな羨望すら覚えた。


『新木さん、ですよね』


 あの日、なぜカフェで声をかけたのか、自分でもわからないままだ。ただ、偶然見つけた姿になにかがはじまる予感がして、気づけば声をかけていた。
 冷たくあしらわれるかと思っていたけれど、意外にも彼は驚いたように目を見開いていて、『そうですけど』と返ってきた声に体中が反応したのを覚えている。ビリリ、と何かが走る感覚だった。


『すみません。なんとなく、声かけちゃって。なんていうか……元気ないように、見えたので』


 初対面。彼の普段も知らないくせに、おかしな話だ。勘違いだったのなら、いい。彼の目がすっと泳いで、それから深い息が落ちた。


『まあちょっと、落ち込むことがあって』


 指を組んだまま、目線を落とすその仕草すら美しくて、絵になるというのはこういうことなのだと、生まれて初めて実感した。


『別れたんですよね、彼女と』


 え、と声が洩れた。思っていたより私的な話題に驚く。親しい友達ならともかく、初対面の他人に打ち明けるには重すぎるような話をさらりとする彼の目を見つめる。綺麗な青色をしていた。
 何を考えているのか、まったく読めない。

 この人、案外人に対する感情がないのかもしれない。
 こうして話をするのも、偶然居合わせたのが私だったから、という理由なだけで、タイミングさえ合えば誰でもよかったのかもしれない。

 だからこそ、ほんの少しだけ、知りたくなった。



『話ききますよ。というか、嫌でなければ、聞かせてくれませんか』



 縁というのはこんなにも簡単に絡んでいって、

 ほどけるときだって、いつも簡単だ。




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「……このままじゃお互いにとってもよくないって思ってる」


 落とされた響きに、うん、と返事をした。振られるんだろう、という予感だけは今まで外れたことはなくて、だからこそこの痛みにも慣れるように耐性がついてしまった。そろそろだろう、というのをひとりで理解して飲み込んでいくのは、とてもしんどいことだ。
 ひとの気持ちは変わりゆくもので、恋愛には賞味期限がある。何度も何度も恋愛をしているのに、わたしにはその恋愛の続け方がわからない。
 好きでいてもらう努力、好きでいる努力、どうしたらうまくできるのか、わからない。


「わかった。いままでありがとうね」


 別れを決めた男性が簡単に揺らがないことくらい、過去の経験で知っている。それに新木琥尋という人間は、簡単に物事を終わらせようとせず、向き合う姿勢を見せる男だ。そんな彼が終わらせる選択を持ってきたとき、それは説得の余地などないことくらい、わかっていた。


「サナはさ、すごく自立してて、1人で立ってて、余裕もあるし、一緒にいてすごく楽だった。でも、ひとりでいろいろ解決しようとする節があって、そこもすごいなと思っていたけど、サナの気持ちが見えないのは俺的に寂しいなって思ってたよ」
「うん、ごめんね」
「……弱みとか、見せるの苦手?」


 どうでもいいじゃん別れるんだから、と思ってしまった。ずかずか入ってこないでよ、踏み込むなよもう他人なんだから、今更なんだよ、と心の中で小さいわたしが暴れている。
 人の弱みを見ることに抵抗はないけれど、自分のものを差し出すのには少々の嫌悪さえ覚える。けれどいちばん嫌なのは、それを見透かされて言葉で突かれることだ。


「別にそんなことないよ。こーちゃんに言う弱みも何もなかっただけ。言うほどのものじゃなかったからだよ」
「そっか」
「うん。今までありがと。ほんとに、こんなに長く付き合えると思ってなかった。っていっても、一年と少しだけど。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」


 寒いのに呼び出してごめん、というのが彼からもらった最後の言葉だった。

 大丈夫。元気でね、と身を翻す。こういう日がくるのだろうと、別れの痛みを最小限にするための準備をしてきてよかった、と思った。相手への好きが絶頂で振られた人は、この何十倍の痛みを経験するんだろう、と想像しただけで吐きそうになる。
 まあいっか、仕方ない、そろそろだろう。そういうふうに考えながら恋愛をするようになったのはいつからだろう。恋愛に全力を注ぐ人たちは、それがなくなったとき、なにを力にこの世を生きていくのだろうか。期待しない、縋らない、去るものは追わない、こういう生き方をする一方で、拒絶されても、実らなかったとしても、想いを伝えることすらできなくても、ひとりのひとを見続ける人だっている。
 こーちゃんは、わたしのことを『自立している』と評したけれど、わたしはただ、そんなに全力でぶつかる気がないだけだ。


 自分を曝け出して、感情を共有して、わかってもらえなかったらどうなるの。もし、困っていることを共有したとして、状況は何も変わらない。だったら、楽しい部分だけを摘んで、共有して、楽しい時間だけを一緒に過ごすほうがいいに決まっている。

 弱みも、本音も、言えた試しがない。不満も言えない。だから期待値を下げることにした。結果、楽しいのかもよくわからない、手抜きの恋愛だけが出来上がる。


 そもそも、恋人にはすべてを共有すべき、という考えが分からない。会っているうちは楽しくいたい。ふたりで背負うものはできるだけ軽くしていたい。片方の重みをもう片方に無理やり背負わせるのは、それはもう暴力だ。
 過去の傷なんて見せたくない。弱さを見せて、と言われるたびに、なんでお前なんかに、と心が牙を剥く。

 自己完結したい。他人の力なんて借りたくない。そんな弱い自分なんかでありたくない。