【新木琥尋 二十一歳】
「こーちゃんって普段なに考えてるか全然わかんないんだよね」
テレビをぼんやりと見つめながら呟いた彼女に視線を移す。秋らしいモカブラウンの髪色をした彼女──サナは、そう言って最後のチップスを口に放り込んだ。
「えー、どんなとこが」
眉を顰めて不満を示すと、「んー」とサナは同じように眉間に皺を寄せた。
「飄々としてる?」
「飄々」
「うん。なんか掴めなくて、不思議だなあって」
そういうところが結構好きなんだけどね、と決まり文句のように言ってのける彼女は、普段もわりとはっきりとした物言いをするし、喜怒哀楽が前面に出ることを俺は知っている。
彼女と付き合って半年が経とうとしている。
くるりと振り返ったサナが俺を見た。
「今度いつ会う?」
サナの声は少し低い。それでいて掠れているから本人は気にしているみたいだけれど、俺は案外その声が好みだったりする。
実習予定をぼんやり思い出しながら、「再来週かな」と告げるとサナは「はーい」と伸びやかな返事をして立ちあがった。
「もう帰んの?」
「うん。バイトあるから、そろそろ。行く前に寄りたいとこもあるし」
「そっか」
身支度を整え、玄関先で振り返った彼女に柔らかくキスを落とす。
「じゃ、またね。こーちゃん」
「うん、また」
にこ、と笑みを残して彼女はドアの向こうに消えていった。
サナがいなくなると、それだけで部屋はかなり静かになるし、心なしか暗くなったように感じる。
『こーちゃんって普段なに考えてるか全然わかんないんだよね』
サナの声が脳内で反芻する。
「……飄々、ね」
それはサナだって同じだ。いつもにこにこと笑っていて、時にはどう泣いたり怒ったりもするけれど、どこかに揺るがない芯があるように見える。その芯を揺らすことは俺にはできなくて、彼女の表面上をくるくると回っているような気さえしている。
実習でなかなか会えない日が続いても、彼女は文句ひとつ言わないし、寂しい、つらいという感情を出すことはない。いつも笑っている。
たまに会えた日だって、こうしてだらだらとサブスクでドラマを見て、同じ空気を吸うだけで、帰り際にキスをして、ただそれだけ。
大学生の半年ってこんなにゆるいものだったっけ、と思うけれど、割くほどの時間の余裕がない自分にはどうすることもできなくて申し訳なさだけが募っていく。
なんとなくだけれど、彼女はきっと俺よりも経験がある。行為や愛情の渡し方の慣れもあるけれど、いちばんに言えることは、距離感が完全に豊富な人のそれだった。
つかず離れず、心地よい距離感で、彼女はいつも俺のそばにいる。多くを求めず、遠慮しすぎず、束縛はしないのに会話のなかにわずかな嫉妬を滲ませるのが上手かった。嫌われたらどうしよう、とか当然ながら考えるようなタイプではなく、いつもうっすらと自信を身に纏っていて、けれどそれは自分を律するための自信のように感じた。
付き合って二ヶ月ほどで身体を重ねた。微睡のなかですきだよぉ、と繰り返す彼女がなんだか猫のようで、無性に抱きしめたい感情に駆られたのを覚えている。その感情が恋だったのか、愛だったのか、結局わからないままだ。
彼女は感情の処理がとても上手だ。基本寝たら忘れる、というスタンスらしく、翌朝起きても消化できていなかった気持ちは、いったいどうやって解消しているのかわからないけれど、とにかく苛立ちを俺にぶつけてくることも、消化できずにぼろぼろと涙を流すこともなかった。単純に、弱いところを隠すのが上手なだけかもしれない。けれど、容易に踏み込んではいけないような確かな領域が彼女にはあって、だからこそ俺はいつも躊躇ってしまう。
喧嘩や話し合いは得意ではない、と付き合ってすぐの時に彼女は言っていた。溜め込む前に自分の中で吐き出す、整理する、相手にぶつけない。そんなふうに問題と向き合う彼女の姿を、半年間で数回見てきた。
バ先での愚痴を言うときですら、彼女は俺にいっさいの介入を許してくれなかった。
うん、うん、そっか。相槌をしていたら彼女の中ですべて解決する。俺はその相槌要員として使われただけで、彼女の感情整理の見届け役として存在しているだけでよかった。けれどそれに特段不満を感じることもなく、ただ、いったいどういう仕組みでその技を身につけたのだろう、とぼんやり思った。
大人になって、経験を積めば積むほど恋愛には落ち着きが出てくるというけれど、それはあながち間違いではないと思う。彼女の過去を明確に聞いたことはないけれど、大学入学当初から彼女の名は男友達からちらほらと聞くことがあり、元彼がいるということはなんとなく知っていた。付き合う前に、どのくらいの交際経験があるのかについて話した際、「あってないようなものばかりだから」と薄く笑った彼女を見て、それ以上聞くことはやめた。
大学生にもなれば、小さな恋愛のひとつやふたつ経験しているのはなんら驚くことではなく、むしろ幼いながらにまっすぐぶつかった恋のほうが、学べることが多いような気もする。
中高の恋愛は純度が高い。経験からくる妥協も酒の混ざる汚さもない、ただ好きという気持ちだけで帰り道を変えて、少しでも長く一緒にいられるように、電車を一本逃してみる。恋愛至上主義とまではいかないけれど、そんな恋愛ができた人間とそうでない人間とでは、やはり何かが確かに違うと言えるような気がする。
それから2週間後、彼女の誕生日と半年記念を兼ねて、二泊三日の小旅行に行った。もともと彼女が行きたがっていた温泉旅館を予約していたけれど、「せっかくなら半年ってことで一緒にお祝いしちゃお」という彼女の提案により、ひとつの予定だったケーキがふたつになった。「食べられるかなー」と笑っていた彼女は、細身の身体で意外にも自分の分をぺろりと平らげ、生クリームの甘さに苦しむ俺の手助けまでしてくれた。
一日目の夜、紅葉を眺めながら温泉街を散歩したのを、ひどく鮮明に覚えている。ふふ、と笑みをこぼしながら歩くサナの細い指先が自分の手に触れた瞬間、絡めるようにして手を握っていた。彼女は動揺することなく「めずらしいね」と薄く微笑んで、そっと優しい力で握り返しただけだった。
半年付き合って、手を繋いだのはこれがはじめてかもしれない。だんだんと熱を帯びてくる彼女の手にぎゅっと力を込めると、同じように力が返ってくる。
ふいに足をとめると、少し目を見開いた彼女も足を止めた。不思議そうに見つめてくる猫目とまっすぐに向き合う。
「俺はね、いま、サナのことがすきだよ」
そう告げると、一瞬唖然とした表情を見せた彼女は、やがてゆっくりと瞬きをした。
「どうしたの、急に」
「ちゃんと、伝えておこうと思って」
迷わず、続けた。
「あまり伝わってないかもしれないけど、俺、サナのこと、大切にしたいっておもってる。いつもはうまく表現できてないかもだけど、これは、ほんとのことだから」
こうして面と向かって自分の想いを告げたのは、告白以来かもしれない。日常的な愛情表現が大切だ、というのは恋愛記事で腐るほど見てきたけれど、それが満足できるほどできていない自分でも、不安になったりせずにそばにいてくれるサナにはとても感謝している。
けれど日頃皆無のものをいきなり試みたせいで、途端に羞恥が襲ってくる。
はたして想いを伝えるのは、こんなに恥ずかしいものだったか。習慣の大切さを身にしみて痛感させられる。
顔に熱が集まるのを自覚しながら、俯いて歩き出そうとすると、「こーちゃん」と呼び止められた。くるりと振り返る前に、やわらかな身体が俺の身体にぶつかるようにして密着する。ふわりと花の香りがした。
「私も。ありがとう、こーちゃん」
肩に感じる重みがやけに愛おしく感じられた。そんな、夜。
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『新木さん、ですよね』
キャンパスから街へ行く逆方向にある穴場のカフェで、いきなり声をかけられた時は驚いた。
その時の彼女はたしか、今よりも暗い髪色をしていて、突然現れた猫目にとらわれて妙に言葉を失ったのを覚えている。
ゆらり、ゆらり。心の灯火が揺れる。
ぽっかりと空いた穴を、撫でられているような気がした。歯車が回るなんて、そんなわかりやすいものじゃない。
けれど、ふいに目の前に現れた彼女が、何らかの変化をもたらしてくれること、抱えた傷を埋めてくれる何かを持っていること、そんな柔い予感だけがずっと残り続けていた。
『すみません。なんとなく、声かけちゃって。なんていうか……元気ないように、見えたので』
────それが、サナとのはじまりだった。



