「お前さ、元カノと連絡とってる?」



 傷心中の再町(さいまち)を元気づけようと言い出したのは誰だったか。半年付き合った初彼女に振られ、食事も喉を通らないと嘆く大学時代の仲間を慰めるという名目で開かれた飲みも終盤に差し掛かり、ほってり顔を赤らめ、酔いの回った口調で訊ねてきたのは、花寺(はなでら)だ。彼女と二年目。いや、三年目だったかもしれない。


「ん?」
「元カノだよ、もーとーかーの。マフユちゃん」
「……ああ」


 ずいぶんと腑抜けた声が出てしまう。
 付き合う、という口約束を解消したのが半年前。それなのに、すぐに元カノとマフユが結び付かなかったのは、無理やり飲まされた酔いのせいなのかもしれない。


「ああ、って。それだけ? 茉冬(まふゆ)ちゃん、可愛かったじゃん。あんだけ美人捕まえといて、お前も罪な男だよなー」
「一年くらい付き合ってたじゃん。別れたらそんなもんなの?」

 おれ、半年でも死にたくなるくらいきついのにさ──と。横から割り込む形で声を上げた再町が、カシスオレンジをぐい、と飲む。普段酒は苦手だと言って飲まないやつなのに、酒で紛らわせないとやっていけないらしい。カシスオレンジ。そういう曲が、たしかあった。


「ま、お前は茉冬ちゃんの前にも一人いるし。一年半とかじゃん? えーと、名前は」
「……サラ? サワ? なんかそんな感じの」
「そーそー、サナちゃんだ。元カノのこと、たまに思い出すとか、そういうの、ないの」


 花寺と再町の会話を意識半分で聞きながら、グラスに唇を寄せ、サングリアをちびちびと飲む。鮮烈な赤がこちらを見ている。心のどこかを、針でぐにゃりと刺されているような気がした。



「……ないね。そういうのは、まったく」



 いい恋愛だったと思う。ふたりとも、ちゃんと好きだった。
 別れようと言ったのは俺から。サナは、価値観とか、性格とか、そういうものを擦り合わせるための話し合いをいつも(かわ)されて、そうしているうちに、気持ちが消えていった。茉冬は、大学卒業と同時に付き合いだしたが、社会人一年目の遠距離恋愛は上手くいかなかった。会えない寂しさの限界がきて、不安になった彼女の束縛がきつくなり、俺の方から、申し訳ないけれど、と頭を下げた。

 それから約二年、恋人と呼べる存在はいない。




「まーお前はモテるし。いいなあ、モテるやつはさ」
「フラれることなんてないんだろ、どうせ」
「二年いないけど」
「いないんじゃなくて、作んないだけだろ、おまえ」
「そーだよ馬鹿、おれの大失恋を慰めろよ。お前と違って千載一遇のチャンスだったんだよ」
「再町優しいし、また新しく出会えるとおもうよ」
「くっそー」



 最後の一滴も余すことなく飲み干した再町が、ふ、と息を吐いて目を伏せた。







「あー……会いたい、」






 言葉が落ちる。その声は、水分を含んでいて、ガラスペンの先が紙に染み込むように、心にじわりと薄れて広がっていく。

 そりゃそうだよな、と胸の中を侵食してゆく、同情とも共感とも呼べない、なにか。どんなに強がっていても、会いたい、その欲求にだけは、抗うことなどできないのだ。




「失恋ってこんな辛えの。やっば、これからおれ、何回乗り越えてくの、これ。てかまず乗り越えられんの。無理なんだけど。ふと抜ける瞬間なんてあんの、無理じゃね? むりじゃん」



 饒舌な再町の心を、やさしい何かが包めばいい、と思う。弱っているものに触れるのは、いつも少々躊躇う。繊細なそれに触れることができるのは、同じように繊細なものを持つ者だけだと思うのだ。



「新木はさ、フったことしかないんだろ。花寺は彼女と続いてるし。この歳で別れってさ、あるのかもしれないけど、やっぱ学生とは違う重みがあるわ。たとえ半年でもさ、おれ、ほんとに楽しかったんだよ。おれ、幸せだったんだよ。おれ、さ……」



 水滴が落ちたことに、気づかないふりをした。






「──……すきだったんだ、本当に」








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 再町と花寺と別れ、駅までの道をゆるりと歩く。鼻先に、ふと桜の香りがのった。


 ゆったりと視線を上げると、暗がりの夜に、ひらひらと、桜が舞っていた。



 落ちてくる。ひらりと、夜に踊るようにして、思わず伸ばした手のひらに着地した。





『元カノのこと、たまに思い出すとか、そういうの、ないの』









 誰にも言っていない、過去がある。


 大切にしまっていて、開くのが億劫で、記憶ごとなかったことにしたいけれど、決して消えてくれない弱い過去が、俺にもある。




 手繰り寄せるのに必死だった。

 付き合う前も、付き合ってからも、とにかく必死になって離れないように、消えないようにと細い糸を掴もうとしていた。それを彼女には悟られないように、いつも平気なフリをして、すんとして隣に並んでいた。


 舞い落ちる桜に面影を探してしまった自分にも、元カノという響きでまっさきに思い浮かべてしまったその存在にも、すべてに辟易する。

 






 きみは今頃、どんな場所で、どんな人と、どんな感情を抱えながら過ごしているだろうか。



 今はもう、死にたいなんて、思っていないだろうか。

 消えたくなる夜を、ともに越えてくれるひとがいるのだろうか。





 今のきみは、幸せでいてくれるだろうか。



 今年も、四月のきみは笑えているのだろうか。






 はらり、舞う。桜が、散る。




「──……ルコ」










 きみがいなくなって、五度目の春だ。