Petals Left Behind






 好きなひとがいた。



── 千秋と出会う前の話だ。




 わたしの19は、すべて捧げたと言っていいほどに。

 生涯忘れることはないであろう、片思いだった。








【木月瑠胡 19歳 春】



 大学に進学すると同時に、はじめて付き合った恋人と別れた。

 4度目の桜を一緒に見ることはできなかったけれど、わたしの高校時代は彼なしで語ることはできない。それくらい、心の大きな場所にいて、わたしを照らし続けてくれる存在だった。

 そんな彼と別れ、未練とも情ともとれない感情に、たまに心を揺れ動かされながら、わたしは大学二回生になった。



 自分で履修を組み、高校のころに比べて随分と融通がきくようになった毎日。毎日決まった時間に起きて、決まった服をまとって、狭い箱に閉じ込められていた高校時代の記憶は、もう彼方に消えようとしている。高校時代のいつかの青春に追憶することもあるけれど、不思議と戻りたいとは思わなかった。

 映画同好会に入り、月に二度、メンバーで鑑賞会をし、感想を共有して鑑賞ノートを作成する。とはいってもそんなに格式ばったものではなく、内容を忘れないためのメモ程度だ。










 同じ大学の心理学科コースに、彼はいた。とくに目立ったタイプではなかった。講義が始まるまでは着席してレポートを書いていて、授業がはじまるとぱたりとパソコンを閉じる。講義中に内職している学生も多い中で、彼はいちどもそんな姿を見せたことがなかった。そして、講義が終わるとすぐに荷物をまとめて席を立つ。周りと談笑することもないから、彼がどんな人間であるのかを知ることもできない。

 遠くから見るだけで終わりだと思っていたのに、転機は急に訪れた。


 フランス語の授業が同じで、偶然同じ班になったことをきっかけにして、彼の名前を知った。


──三澄涼。


 漢字から、とても透き通った印象を受ける。
 みすみ すずです、という声が耳を抜ける。りょう、と読むのだと思っていたから、男性で、すず、という珍しい名前に驚くと同時に、よく似合っていると思った。

 班が同じとはいえ、わたしたちの間に積極的なかかわりがあったわけではなかった。彼は班のなかで発言するタイプではなくて、いつも他の班員の意見を聞き、真面目に板書をしているような人間だった。だから、わたしから話しかけることはおろか、目が合うことすら、なかった。


 物語が動き始めたのは、梅雨のこと。


「……え」


 フランス語の講義室に入ったとき、その場にいたのは彼──三澄くんだけだった。外は曇っていて、どことなく暗い。そんな雰囲気の中でただ静かに席に座っている彼からは、どこかアンニュイさが漂っていた。
 三澄くんの視線がゆっくりと動いて、わたしの姿を捉える。普段動かない彼の表情が、ふいに、困ったような顔をつくった。

「休講らしいです。メールで言われてたみたいだけど、おれ、ちゃんと確認できてなくて」
「きゅ、休講……」
「この講義のためだけに来たの、なんだか損した気になりますよね」

 肩をすくめる彼。普段硬い顔をしているのに、こんなふうにフランクに話しかけてくれるのだと驚くと同時に、心臓の高鳴りを覚えた。

「すいません、おれ、名前とか知らなくて。あ、おれ三澄涼っていいます。名前、教えてほしいです」
「え、あ……木月です。木月瑠胡」

 名前を一方的に知っているのはわたしだけだ。彼は、わたしが名前を知っていることを予想もしないのだろう。


「じゃあ、瑠胡さん」


 いきなり名前を呼ばれて驚く。あまり距離を縮めたくないときに人は苗字呼びをする。彼もその類だと思っていたのに。

「昼、まだですよね」
「え」
「どうせこのまま帰るだけだし、食堂寄ろうと思うんですけど」


 がたりと席を立った彼が、背筋を伸ばす。いつもほんの少し猫背だったけれど、背筋を伸ばすと思っていた以上に身長が高い。不覚にも、きれいだ、と思った。


「一緒にどうですか」


 それが、彼とのはじまり。








 梅雨の時期から秋にかけて、わたしたちは定期的に連絡をとっていた。花火しましょうよ、という提案に応じて、彼の家の近くで手持ち花火をした。
 その頃にはとっくに、わたしは彼に落ちていたのかもしれない。
 脳内の元彼が占めていた割合を、三澄涼はあっという間に奪った。彼のことを考えることで、わたしのキズは自然に癒えていった。

 けれど彼はずっと読めない人間だった。遊びに誘えば案外ふらりとついてくるのに、よくわからないところで断ってみたり、急に連絡が1週間途絶える時もあった。付き合っていないのだから当たり前のことなのに、なぜだか彼が自分のものであるかのように錯覚していた。否、彼はそう錯覚させるのがこのうえなく上手かった。



「瑠胡さんのハタチ、おれが祝ってあげます」



 もうすぐ誕生日ですよね、と話題を振ってきたのは向こうから。しばらく連絡が途絶えていて、彼のそのアバウトさに、そろそろ諦めなければいけないのだろうかと考えていた時だった。
 授業が終わり、教室を出てすぐに二の腕を掴まれるて、囁かれた。彼と直接話すのは久々だったから、反応がワンテンポ遅れる。


「おれの家、来ませんか」
「え」
「せっかくの節目なんですから、お祝いしましょうよ」


 美貌がわたしとまっすぐに向き合っていた。まるで拒否権なんてないかのように、有無を言わせぬ圧がある。わたしに拒否などできないだろうと確信するような瞳だった。

 彼の思惑通り、その時のわたしは彼の申し出に二つ返事で応じてしまった。
 まるで呪いのようにじわじわと心が侵食されている。それを、わたし自身も分かっていた。





✩.*˚



「……おめでと、瑠胡さん」



 乾杯、と彼が缶ビールを持ちあげる。同じように持ち上げると、コツンと缶が当たった。
 ゆっくりと口を近づけて、液体を吸う。その瞬間、苦みが口内に広がり、思わず顔をしかめた。


「あはは……苦かった?」


 困り眉で彼が笑う。ちらりとのぞく八重歯。こんなふうに笑うなんて、見ていただけのあの時は、知らなかった。
 にがい、というと、彼は「ビールは大人の味だからね」なんて気取った風に片眉をあげた。飲み慣れているようすだ。もしかすると、律儀に二十歳を待っていたわたしを、心の中では笑っているのかもしれない。




「わたしもハタチかあ……」
「そうだよ。ハタチ、二十歳。やばくないですか、にじゅっさい。もうティーンじゃないんですって」
「はやすぎるー……この前高校卒業したのに」
「瑠胡さんの高校時代、見てみたいな」
「ぜったいやだ」
「なんで?」
「いまとぜんぜん違うから」


 へえ、とつぶやいて、彼がわたしの髪をすくう。


「いま、こんな鮮やかな金なのにね」
「もうすぐ黒染めだよ。一生に一度はやってみろに従ってはみたけど、ぜんぜんしっくりこないし」
「いいと思いますけどね、おれは」


 彼の指がわたしの髪をすべり落ちる。
 ビールを飲む。やっぱり苦い。顔をしかめると、「瑠胡さんは真面目だから、飲み慣れてなくて、かわいいね」とゆったりとした口調で告げられた。


 彼の喋り方はとても丁寧だ。一音一音がしっかりと発音されるから聞き取りやすい。
 かわいいね、と言われるのには、もう特段驚いたりはしない。彼の口癖みたいなものだ。


「なんでお祝いしてくれたの」
「んー、お祝いしたいからじゃない?」
「それ答えになってないよ」


 あはは、と笑った彼はビールを流し込む。細い指先がビール缶をつまんでいる。様になるな、と思った。
 彼は目立ってモテるようなタイプではないし、普段物静かだから近寄りがたい。だけど、近くで見てみるとどのパーツも整っていて、いい意味でクセのない顔だ。


「……なあに、瑠胡さん」
「いや、なんでもないです」
「なんで敬語」
「三澄くんだって、たまに敬語じゃん」
「まあ、そっか」


 綺麗な顔だなと思って見ていた、なんて言えなかった。わたし以外にも、彼の造形美に気づいている人はいるのだろうか。それとも、完全にわたしの好みの顔立ちなのか。




 ビールはまだあと半分残っている。
 彼はどうしてわたしを家に呼んだのか。そんな答えはわかりきっているはずなのに、認めることが怖かった。彼をじっと見つめると、ふたりのあいだにあいていた距離をぐっと詰められる。そのままベッドに流れるように押し倒された。


「据え膳食わぬは、ってやつなら……おれは乗りますけど」


 眼鏡の奥の瞳が静かにわたしを見下ろす。


「違うの?」


 彼が覆い被さってくる。驚いて声を出そうとすると、唇に熱が落とされた。
 軽く一度、二度、重なる。


「はじめてってわけじゃ、ないんですよね?」


 唇を離した彼が首を少し傾ける。


「……そういう問題じゃないよ」
「なんだ、やっぱ初めてじゃないんだ」


 からかうように言った三澄くんは、「ならおれが優しくしなくてもいいですよね」と呟く。次の瞬間、綺麗な顔で視界が埋まった。彼の冷えた指先が、わたしの首筋をなぞる。それを追うようにして落ちてきた熱に、体が緩んでいく。

 深く、口づけられる。

──いやだ。

 彼とこういう関係になるのは嫌だ、と思うのに、彼と交わすキスは嫌じゃない。蕩けるような熱が、心地いいとさえ思っている。


「いいんですか?」


 潤んだ視界のなかで、彼が意地悪く笑った。歪んでいるのにそれすら美しいから、もうどうしていいかわからなくなる。
 こんなはずじゃなかった。

 三澄くんがわたしの目をじっと見つめる。硝子玉みたいに澄んでいる瞳。この瞳に魅せられて、わたしは、この半年間、彼に囚われ続けている。

 三澄くんの顔がゆっくりと降りてくる。首筋に歯を立てられた瞬間、思わず声が洩れた。


「ごめ、三澄くん。やっぱり────」
「……なーんてね。冗談ですよ」


 彼の顔が首筋から離れてゆく。至近距離で、彼はわたしの首を見つめていた。ふいに鎖骨に指の感触がした。する、と撫でられた箇所がひどく熱を持っている。


「忘れて」


 低く声が響く。
 こういう時だけ敬語が外れるの、ずるい。息を呑んでいるわたしを見ながら、彼はゆっくりと体を起こした。


「二十歳祝えたんで、解散しますか。送りますよ」


 彼はまるで何事もなかったかのように、すんとして立っていた。
 その余裕な態度に、傷つく。自分だけが特別なわけないのに、分かっていたはずなのに、彼の態度を目の当たりにするとやはり心臓が抉られるような痛みを感じた。

 この日がまるで境になるように、彼からの連絡はぱたりと途絶えた。



 あの時、わたしがもうひとつの選択肢を選んでいたら、結末は違っていたのだろうか。
 そう、何度も何度も考えた。けれど、彼を選ぶ以上、わたしは誰の一番にもなることはできない。

 それでも、わたしの記憶にこびりついた声と、笑い方と、熱は、なかなか消えることはなかった。

 人は、手に入らなかったものに執着するようにできているらしい。

 わたしは、三澄涼という手に入らなかった人間のことを、これから先も、想い続けて生きていくのかもしれない。それは想像するだけでも苦しく、切ないことだった。


 そんななかで、差し込んだ一筋の光があった。

 三澄くんとの縁が切れたのと同時に、学生証が新たな縁を運んでくる。



「僕、瑠胡ちゃんのことが好きです。だから、今もし相手がいないなら、全力で、考えてほしい。で、前向きな返事をどうか、待ってます!!」


 まっすぐにぶつかってきてくれる彼のまばゆさに救われて、三澄くんの影を思い出す回数も、少しずつ減っていった。

 千秋との恋が始まった瞬間、わたしの片想いは幕を下ろした。





 そんな、昔の、痛くて大切な記憶。