【木月瑠胡 十八歳 秋】
真夜中に電話をかけてしまったことを、少しだけ後悔した。ついさきほどまで苦手な数学の問題を解いていて、ようやく一段落したところで電話をかけてみたはいいものの、受験生であるわたしの時間軸と大学生の彼の時間軸が違うものであることを忘れていた。
コール音が響く。もしかするとお風呂か、それかもう寝ているかもしれない。こんな時間に電話をかけるなんて、いままでしたことなかった。
時計の秒針が音を立てる。今日はもう勉強はしない。英単語の復習をして、寝るだけだ。
なかなか繋がらない電話。折り返しはしなくていいよと伝えることにして電話を切ろうとした時だった。
『……もしもし』
コール音が切れて、低い声が耳に届いた。
「もしもし、」
それきり何も言えずに黙っていると、
『おつかれさま。どうした?』
という言葉が耳を抜けた。ほんの少し声がかすれている気がする。口調がいつもよりも甘い。
酔っている、のだろうか。
「……少し話せる?」
スマホの向こうで彼が唾を飲む気配がした。
『話せるよ』
「ありがとう。いま、おうち?」
『いや、サークルの飲みで、ちょっと出てる』
「あ、そうだったんだ。ごめん、邪魔した?」
『大丈夫。もう終わるとこだし、外にいるから』
なぜ外にいるのだろう、という疑問符はそのままにすることにした。相手の言動からいちいち引っ掛かりを覚えて推測する癖をやめたい。
ゆっくりと、深呼吸をした。
「少し距離を置きたいって思うの」
その言葉は、部屋によく響いた。きっと、スマホ越しの彼にも真っ直ぐに伝わったと思う。静寂の中で、彼が息を吐く音が聞こえた。
『どうして』
「ごめん。模試の結果、実はあまり良くなくて。連絡返せる余裕がない。時間がないとかよりも、琥尋くんに当たっちゃいそうで、こわい。だから、受験が終わるまで話せない。自分勝手で、ごめん」
『当たってもいいよ。俺の受験の時、瑠胡支えてくれたじゃん。俺、瑠胡の応援が力になったし』
「……わたし、は。琥尋くんみたいに、器用にできない、から、連絡とか、応援を力に変えるとか。ちょっといっぱいいっぱいで、」
『そんなの、付き合ってるっていうの』
琥尋くんの声が変わる。思わず洩れた、そんな感じの声だった。
「琥尋くんが窮屈なら、別れてもいいと、思ってる」
体が熱くなる。意識がぼんやりとしてきて、本当に自分が喋っているのかわからなかった。相手の反応を伺う。極度な緊張状態で頭が真っ白になる感覚に近かった。
『マジで言ってんの』
声が低くなる。怒りが含まれているのだとすぐにわかった。
『瑠胡は別れてもいいと思ってんの。ここで終わって、別にいいってこと? 俺って瑠胡にとって、別に終わってもいい存在だったってことなのかよ』
失望と、悲しみ。表情が見えないのに、彼の声だけで伝わるものがある。
『好きだから乗り越えてきただろ。もう、乗り越えるだけの好きが残ってないってこと?』
「違う、琥尋くんのことは好き」
『じゃあ迷うことないだろ。別れの選択肢なんて出すなよ』
「……これ以上は、しんどいの」
彼が息を呑んだ。言葉が詰まる。
「今日、飲みだなんてきいてない。サッカー部ってことはあの綺麗なマネージャーさんもいるよね。どうして今そとにいるの? こんなふうに、たくさんたくさん考えて不安になるの、もう、しんどい」
『それは、瑠胡が受験生だから、邪魔したくなくて、報告とか、いちいちされてもだるいかなって思って』
「うん、だから距離を置こうって言ったの。わたし、今は琥尋くんのこと、何も知りたくない」
すべての情報をシャットアウトしたかった。わたしが必死に勉強をしている裏で、彼は女性の居る場所でお酒を飲んでいる。何も悪いことはしていないのに、それでも気にしてしまう自分が嫌だった。
『なんだよ、それ』
「……ごめん」
『距離は置くけど、別れないから』
「うん。わかった。……ごめんね」
通話が切れる。もう、わからなくなってしまった。会わないと、もう彼がどんな顔をしていたのかも、輪郭がぼやけはじめている。
夢を叶えるためには、何かを捨てないといけない時もある。わたしは彼のように頭がいいわけではないから、もっと努力しないといけない。
彼の努力で手に入れた医学部という称号はすばらしい。それなのに、もうすでに受験を終えているということが羨ましくてたまらない。
だから今は、幸せそうな姿でわたしの前に現れないで欲しい。そんな思いが恋人に牙を向く時点で、わたしはもうダメなのだと思う。
──────
それから数ヶ月が経ち、受験前日には彼から〈頑張れ〉と一言だけメッセージが入っていた。ピン留めのおかげでずっとトーク画面の上にいたけれど、会話は距離を置いた日で止まっていた。〈ありがとう〉というウサギのスタンプを返す。
次に連絡をしたのは、合格発表の日だった。
〈合格したよ〉
秒で既読がついて、すぐにスマホが震え出す。耳に当てると、ひどく懐かしい声がした。
『……おめでと』
「ありがとう。いろいろ、ごめん」
『受かって、よかった』
わたしのよく知る、柔らかい声だった。それなのに、わたしたちの間にある数ヶ月間の空白は、もう、取り戻せそうにない。
「ねえ、琥尋くん」
三年間、わたしはきみのとなりで過ごせて本当に楽しかったよ。好きすぎるというのは時に苦しみを生む。距離を置こうと言ってからも、彼のことを考えない日はなかった。距離を置いた意味がないくらいに、毎日毎日同じことを繰り返していた。
「たくさん傷つけてごめん。もう、終わりにしよう」
サクラは咲いた。けれど望んでいた春の形はしていなかった。
わたしはもう彼とはいられない。彼もまた、同じような沈黙を奏でた。
『……そっか』
ただ一言だけ。素直に受け入れるような返答だった。
──好きだから乗り越えてきただろ。もう、乗り越えるだけの好きが残ってないってこと?
彼の言葉を思い出す。この空白の期間で離れてしまった心の距離は、もう修復することはできないのだとお互いに悟っていた。
数秒の空白の後、彼が喋り始める。
『瑠胡はこれから、たくさん出会いがあると思うし、そのたびに傷ついたり泣いたりすることもあるかもしれない。けど、瑠胡はもうじゅうぶん強いから、しっかり自分の足で立てよ』
「……うん」
耳朶をうつ柔らかい声は、これが最後になるのかもしれない。そう思うと、なぜだか切なくなった。
『笑って過ごせよ、瑠胡』
「……うん。琥尋くんも」
『───…じゃあな』
ツーツーと無機質な音が鳴る。
わたしの三年間が、夜に溶けていく。ピン留めを解除した。トーク画面はまだ消せそうにない。
ぽろぽろと涙が溢れ出す。自分で選んだ最後なのに、どうしてこんなに鮮やかなのだろう。彼と過ごした時間はどこを切り取っても鮮明だ。初めてみた景色も、感情も、すべてが色濃く残っている。
桜はまだ咲いていない。
彼のいない、春が来た。



