Petals Left Behind

【新木琥尋 二十歳 秋】


 大学2回生。二十歳になってもあまり実感はわかないものなのだと、誕生日を過ぎてから気づいた。昔から二十歳という区切りに向かって、なにかを信じるように生きていたような気がする。
 けれど、二十歳になってみれば意外とあっさりしているもので、これから先、俺は何歳を目指して生きていけばいいのか、たまにわからなくなる。


「琥尋ぉ、飲んでるかあ」


 隣で飲んでいた先輩が、ガバッと肩を組んできた。酒の匂いが鼻をつく。何杯飲んだのか、もう本人も覚えていないのだろう。

 二十歳になって、酒を飲むようになった。中高時代の奴らは未成年飲酒だのタバコだのと盛り上がっていたけれど、俺は律儀に法律を守っていた。
 そばにいる存在の影響が大きいのかもしれない。彼女がそれを知った時に、どんな顔をするのか想像したら、法を破ってまで快楽に酔いたいとは思わなかった。


「こーひーろーーぅ」
「ダル絡みやめてくださいよ」
「ったく、つめてー男だなぁ」


 息を吐くたび酒くさい。眉を寄せると、甘えた声で冷たいと言われた。ぞわりと鳥肌が立つ。勘弁してほしい。


「そういう仏頂面しててもイケメンは絵になっていいよなあ。女に困ったことないんだろ、な?」


 呂律の回らないようすで赤くほてった顔を近づけられる。思わずのけぞった。


「近いって。ほら、新木くん困ってるでしょー」


 対面にいた女性が声を上げる。サッカー部マネージャーだ。ゆるく巻かれた髪が、さらりと彼女の肩をすべる。彼女の声かけに、先輩は肩に回していた手をおろしてくれた。
 突然の救済に心の中で感謝しつつ、グラスを手に取りちびちびと飲む。そろそろ腹も満たされてきた。


「ほんとに新木くんのこと好きよねー」
「ああ? ボクちんは美人が好きなんだよ、美人が」
「タイプなのね」
「ボクちんの恋愛対象は、おんなのこ」


 独特な一人称に変わっている。酔いすぎだ。同じサークルに反面教師がいるため、酒の飲み方には自ずと気をつけるようになった。

 おんなのこ、と言いながらうつろな目をぐるんと回した先輩は、そのまま机に突っ伏した。


「あーあ潰れた」


 マネージャーが呆れたように笑って肩をすくめる。テーブルの端に視線を向ける。まだ向こうは盛り上がっているみたいだった。

 角席を確保できたのが奇跡だ。隣で酔っ払いが潰れてはいるけれど、ここまでくるとむしろ都合がいい。スマホをちらりと確認する。通知は何もなかった。
 ロック画面の時刻だけが、むなしく時の進みを自覚させてくる。


「ねえ」


 その声に、思わず顔をあげた。


「新木くんって彼女いるんだよね。最近どうなの?」


 声の主はマネージャーだった。一重の瞳が、俺を見る。不思議な雰囲気を持つ人だ。じっと見つめられると、つい口が言葉を発してしまう。


「どう……んー、あまりいいとは、言えない……かもしれないです」
「そうなの?」


 伏し目がちだった双眸がまっすぐにこちらを見つめる。


「……まぁ向こう受験生なんで。会えないのは当たり前っていうか、こっちはいいんですけど。どうしてやったらいいのかも分からないし、最近はあまり話せてないです」
「意外と喋ってくれるんだね」
「どういう意味ですか」


 そんなにこわいかおしないでよ、と笑われた。そんな指摘をされるような顔をした覚えはないのだが、どうやら硬い表情になっていたらしい。彼女は「んー」と言葉を続けた。


「なんていうか、私からみた新木くんって、すごく寡黙でクールな感じだし、悪く捉えないでほしいんだけど、何にも興味がない感じがするの。変な意味じゃないよ」
「大丈夫ですよ」
「よかった。……だからね、彼女のこと話す時、そんなふうに喋るんだって思って、なんかすこし、びっくりしちゃった」


 肩をすくめた彼女が頬杖をつく。がやがやしていた店内も、徐々に静けさを取り戻しはじめていた。

「もしかしたらフラれるかもしんないです」

 言葉が口をついてから、しまった、と思った。弱音だ。本心だった。
 こういうとき、聞いてもらう相手は誰だってよかったりする。ただ、俺のつまらない吐露を聞き流してくれるなら、誰でも。
 顔を上げる前に、声が降ってくる。

「そしたら、どうするの? 引き止めるの?」

 視線を上げると、変わらない姿勢のままほんの少しだけ目を細めるマネージャーの姿があった。
 どうやら話に付き合ってくれるらしい。


「んー、気持ち的には引き止めたいんですけど、必ずしもそれが最善とは限らないから。……でも、その状況になってみないとわかんないです、正直」


 格好つけたことを言っておきながら、実際にその言葉を告げられたときに素直に飲み込めるとは到底思えない。見栄を張ろうとしている自分に辟易しつつ、スマホに視線を落とす。

 時刻は23時半。
 今はもう塾から帰っているはずだ。きっと家でも勉強しているのだろう。
 自分の受験期を思いだす。すべての娯楽と誘惑を捨てて一心に机に向かう日々だった。

 だんだん襲ってくる眠気をこらえつつ、視線を卓上へと移そうとしたときだった。ブーっとスマホが鳴る。


〈おつかれさま〉
〈連絡遅くなった ごめん〉


 通知が入る。


「連絡?」

 すかさずマネージャーが聞いてきた。肘をついて口角をあげている。


「なんで、ですか」
「あきらかにうれしそうだもん。顔にでてるよ、ぜんぶ」


 さら、と流れた髪が、料理のなくなった皿についてしまわないか心配になった。俺の視線に気がついたマネージャーは、長い髪を指先で後ろに払う。


「よかったね」
「よかった、すか」
「なに、よくないの?」
「……なんか俺、もうよくわかんなくなってます。2ヶ月くらい会ってないから」
「会ってないから?」
「……好かれてる自信がない」
「弱気だねぇ」


 俺も酔いが回りすぎたのかもしれない。こんな情けない吐露を。


「付き合って2年の時もあったんです。向こう、会わないと気持ちが離れる感じで」
「その時はどうやって乗り越えたの」
「会いにいきました、俺が。気持ちが離れてたかは分からないですけど、なんとなくまずい気がして、それで会って、顔見たら、元に戻って」
「倦怠期乗り越えて今があるってわけね」


 頷く。それと同じことが、今回も起きたら。それに、彼女にはこれから数ヶ月間、重圧がのしかかることになる。生きているだけなのにずっと何かに追われているような焦燥感。もし過去に戻れるとしても、受験期には二度と戻りたくない。
 やってもやっても伸びない成績、模試の結果、周囲の成長、家族の期待。あの、地獄。


「俺、もうどうしたらいいかわかんなくて。勝手に不安になってて。だけど、邪魔できないなーとか思うと会いにもいけない」
「……まあ、受験生には気を使うよねえ」


 マネージャーは頷きながら「私もさ」と言葉を続けた。


「浪人生と付き合ってたことあったけど、気の遣い方が半端じゃなかったし、ずっと焦ってるような顔見るのも嫌だったし、そもそも彼の親さんにもよく思われてなかったから、早々に別れちゃった。だから、受験生と付き合う難しさ、わかるよ」
「……先輩って、いま」
「いま? ああ、相手いないよ。ただ、新木くんの話を聞くだけで私は黙ってるっていうのはフェアじゃないなと思って話してみた。でもまあ、もう過去の話だよ」


 グラスに残っていたウーロンハイを飲み干したマネージャーは、そう笑った。


「やっぱ難しいと思いますか」
「そうだねー。受験期ってだけで、なんで生きてんのかわからなくなるし。朝から夜まで勉強して、土日が地獄に変わって、なのに結果が出る保証もない。本番体調崩す可能性だってあるし、推薦指定校論争もあるしね」


 この人も医学部だった、と思いだす。べろべろに酔って潰れている先輩も、このマネージャーも、一応みんな医学部なのだ。努力をするということに長けている。だから受験の苦しさをみな、知っている。


「俺……負担にはなりたくなくて。このまま春までそっとしておこうかなとか思うんですけど、それって、付き合ってるんですかね」
「彼女さんがなんて言うかだよねー。応援してって言われるなら、そばで応援して支えてあげればいいじゃない」
「……もし、別れた────」
「水っ!!!」


 いきなりがたんと机が揺れたかと思うと、酔い潰れたはずの先輩がむくりと起き上がって俺のほうを見つめていた。


「な、なんすか」
「あら、き。……みず」
「は?」
「みず、かってきて」


 それだけ言ってばたんとまた机に伏す。ゆすろうと肩を手をかける。けれど、ここまで酔っていれば、もう何を言っても無駄な気がした。


「もうお開きになりそうだし、いまさらお水頼むのも申し訳ないから、外で買ってくるね」
「……危ないですよ、夜に。俺が頼まれたことですし」
「大丈夫だよ、気にしないで。そこまでだし。それに、こういうのってマネージャーの仕事でしょ?」


 彼女持ちは過保護だなあ、と笑うマネージャーが立ち上がる。


「俺が気になるんで。すみません」


 男が隣にいるということだけで危険は減るし、女性側の気持ちも安心するはずだ。立ち上がると、呆れたように笑った彼女。


「じゃ、そこまで来てもらおっかな」
「はい」









 自販機は歩いて10分の場所にあった。予想よりも遠い。


「結構距離ありましたね。ついてきて正解でした」
「いやー、3分で着くと予想してたんだけどね。誤算だったなあ」


 道中、特に話をすることはなかった。どこからかキリギリスの鳴く声がする。
 随分と肌寒くなった。これから段々と気温が下がり、やがて冬が訪れるのだろう。

 雪解け、サクラサク。長い冬を超えた先に、それらはちゃんと、訪れるだろうか。


「あのさ、新木くん」
「はい」


 自販機を前にするマネージャーの後ろ姿を見る。チャリン、と小銭の音だけが夜に響いている。この人は、とても不思議な空気を持つ人だ。人の大切な何かを暴きだすような危険さを纏っている。
 それを色気というのだと、部員の誰かが話していた。


「こういうことを言うのは悪い女かもしれないけど」


 ガコン、と自販機が音を立てる。彼女が艶やかな仕草でかがむ。ペットボトルを取り出した彼女は、それをこちらに差し出した。
 月光が彼女の顔半分を照らす。


「私、新木くんのことずっと好きだったんだけど、さ。知ってた?」
「え」

 驚いて目を向けると、静かに笑われる。目を伏せて笑う仕草がひどく大人びて見えた。


「気づかなかったでしょ。だって、そうなるようにしてたから」
「……」
「これでもうまく隠してたつもり」


 ペットボトルを手に押し付けるように渡される。


「間違えて緑茶買っちゃった。暗くてよく見えないや」
「……」
「だからそれ、あげる」


 スマホのライトで自販機を照らし、今度こそ正しく水を買うマネージャーの後ろ姿を見つめる。


「勝算はね、まあ……知らないけど。でも新木くんを求めてるのは、彼女さんだけじゃないよっていうのだけは、知っておいてほしいと思って」
「あの、俺」
「別に返事がほしいとかじゃない。そりゃ、新木くんが今の彼女とうまくいけばそれがいちばんいいと思ってる。けど」
「……」
「けどもし、そういうときがきたら、そういやいたなって頭の片隅に浮かぶといいな、くらいのね。私のは、そういう、好き」


 何も言えなかった。
 手の中でスマホが震えているのに、電話を取ることができない。ただひたすら、彼女の髪を、肌を、瞳を見つめる。



「だからね、たぶん、この時間は新木くんと等しく澄んではいないよ。ほんの少し、好意が混ざってるから」

 ペットボトルを手にしたマネージャーはくるりと俺に背を向けた。


「ついてきてくれてありがとう。楽になったよ。ちょっとだけお酒の力に頼っちゃったけど」
「……っ」
「帰ろっか。それとも電話出てからにする?」
「え」
「さっきから、ずっと鳴ってるでしょ。私、ひとりで先に帰れるから、それ出なよ」


 言い終わる前に歩きだすマネージャーの後ろ姿が、どんどん小さくなっていき、暗闇に消えた。



 ゆっくりと、スマホの液晶画面に視線を落とす。








────着信相手は、瑠胡だった。










「……もしもし」


 声が震える。


『もしもし、』


 同じようにスマホ越しの瑠胡の声も震えていた。


「おつかれさま。どうした?」
『……少し話せる?』




 今思い返せば、それが、彼女との物語が終わる合図だったのかもしれない。